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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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3月23日、中井均先生ツアーの現地確認に松尾山と南宮山に行ってきました③

近年、山城の調査・研究の蓄積がなされ、ファンが増えています。
中井先生に直接会ってお話を聞いたり、講演やテレビ放映などで、山城の面白さに気付いた方は多いと思われます。



三宅 唯美・中井 均編「岐阜の山城ベスト50を歩く」に、三成は合戦からさかのぼること一カ月以上前、8月10日に、大垣城主の伊藤盛正に、長くつかわれていなかった松尾山を再整備するように指示し、城の守備にもあたらせていたと考えられる、とあります。


本当はどうなのか、現地に残る遺構を考えて推理してみましょう。
こうしたことがわかってきたのは、山城の研究が進んだ最近になってのことです。
関ケ原合戦の定説が、現地調査によって変わって行く可能性がまだまだ残っています。




関ケ原合戦 中井均先生ツアー 松尾山と南宮山
秀秋が登った平尾地区方面から登る林道。


次に南宮山に行きました。

車から降りると、同行した旅行会社のツアー担当の方は、リュックを背負っていました。
びっくりして聞くと、「現地確認してきま~す」と、元気にお一人で登って行かれます。



私は先約があるため、残念ながら一緒に登らないで笹尾山の事務所に引き返しました。

お疲れさまでした。
カッコーツアーのホームページには、その時に撮った写真が掲載されています。




毛利秀元跡は、合戦前の9月7日にこの地に着き、9月15日までの1週間、短期間に陣城を構築しました。
合戦前、陣城としては何も無かったようです。


上に登ると、素晴らしい眺めが得られます。
陣跡には、高性能な双眼鏡が置いてあって、利用することもできます。

大垣城をはじめ、岐阜城、清州城方面など、関ケ原合戦に由来がある城、濃尾平野が一望できます。
ぜひ体験してみてください。
秀元の身になって、気づくものもあります。

南宮山の陣跡まで登るに、少し骨が折れます。
みんなで登れば怖くない。



関ケ原合戦 中井均先生ツアー 松尾山と南宮山
秀元参戦を抑えた、吉川広家の陣跡の前。
この日は、近くの不破高校生がランニングをしていました。
左端に見えるのは、吉川広家の陣跡を示す案内板。



関ケ原合戦 中井均先生ツアー 松尾山と南宮山
以前に登った時に撮った、秀元の陣跡から見た写真。
右端にあるのは双眼鏡。カバーを外して無料で使うことができます。
使った後、みなさんカバーを戻されています。



秀元陣跡に登る途中、林に入る前に、安国寺恵瓊の陣跡を示す表示板があります。
実際の陣跡はここになく、東蛇溜池にそって歩き、ややけわしい道を上がった所にあります。
少しわかりづらい所です。
団体で行くには少し無理があるので、ここはツアーでは遠景とさせていただきました。

興味がある人は、中井先生作成の縄張図と解説が、『岐阜県中世城館跡総合調査報告書』の第1巻「西濃・本巣」P124にあります。
他にこの報告書には、関ケ原合戦の関係で長宗我部盛親、大谷吉継の陣跡も掲載されており参考になります。

関ケ原合戦 中井均先生ツアー 松尾山と南宮山 安国寺恵瓊陣跡
安国寺恵瓊陣跡の表示板

一日に山城を二つ登るツアーですので、体力がある方、ぜひご参加ください。
残る席、あとわずかと申し込み担当者に聞きました。

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3月23日、中井均先生ツアーの現地確認に松尾山と南宮山に行ってきました②

一般に松尾山は北側、関ケ原町の中心地方面から登りますが、平井からの方が距離は短くて楽です。
中井先生のツアーでは、こちらから登ることにしました。
実際に小早川秀秋も、こちらの方から登ったと思われます。



松尾山は登ると、東西400m、南北250mと、巨大な山城であることが分かります。
曲輪、堀切、土塁など、たくさん残されています。
一歩踏み込むと、その世界に圧倒され、当時を想像すると、わくわくします。

松尾山城は、三宅 唯美・中井 均編「岐阜の山城ベスト50を歩く」に「戦国時代後半の非常に発達した縄張り」と記述があります。
また『岐阜県中世城館跡総合調査報告書』には、西美濃最大級の山城であると書かれています。

関ケ原合戦 中井均先生ツアー 松尾山と南宮山
木が立っているのと、写真では立体感がつかめないので、その壮大さを伝えるのは難しいです。

関ケ原合戦 中井均先生ツアー 松尾山と南宮山
ツアーでは、中井先生のガイドで山城をたっぷりと堪能できます。



個人で登る方にご案内をすると、平井側は公の駐車場がないです。

平井の反対側、関ケ原方面からは、登り口に乗用車数台が停まれる駐車場があり、さらに便利な杖も置いてあります。
関ヶ原を愛する方の心づかいを感じます。

こちらは、字の松尾地区方面から登るためか、松尾口とも言っています。
平井から登るより10分ほど余裕をみれば登ることができます。
健脚な方も、杖を使うと重宝します。

縄張図を持っていくと、さらに楽しめます。
参考文献は二つあり、中井先生作成の縄張図があります。
1.三宅 唯美・中井 均編「岐阜の山城ベスト50を歩く」サンライズ出版P23
2.岐阜県教育委員会『岐阜県中世城館跡総合調査報告書』第 1~4 集で、この第1巻「西濃・本巣」P126


松尾山は東海自然歩道として整備され、案内板があります。
標高293mで、実際に登るのは180m、1時間とかからず、すぐに登ることができる山です。
しかし油断は禁物で、水分補給はぜひ気を付けてください。
また今の季節、ヒルやハチなどはいませんが、季節によっては注意が必要です。

関ケ原合戦 中井均先生ツアー 松尾山と南宮山 松尾口
写真は松尾口に置いてある杖。使い終わったら、元に戻します。


3月23日のツアーでは、下りは関ケ原町中心方面に降ります。
頂上に陣取っていた小早川秀秋が、大谷隊をめがけて降りた方向です。
なお合戦の時、大多数の兵は頂上でなく、ずっと下の方に居たと推測されます。
山に登り、家康が命じた秀秋への発砲が本当にあったかどうか想像するのもいいです。

下記はGoogleマップによる、松尾山を降りる道のルート。

大きな地図で見る

関ケ原合戦 中井均先生ツアー 松尾山と南宮山 黒血川
松尾口近くを流れる黒血川。
川の名前は、672年の壬申の乱の時、死傷者の血で川の底の石が黒くなったことに由来しています。



3月23日、中井均先生ツアーの現地確認に松尾山と南宮山に行ってきました①

下の写真は、今日の朝、笹尾山交流館前の運動場から、決戦地方面を望んだ風景です。
うっすらと雪があります。



関ケ原合戦 笹尾山 決戦地 雪
雪だるまを作る程はつもっていません。


関ケ原合戦 笹尾山 決戦地 雪
笹尾山方面を見ます。



昨日、「中井均先生と行く!関ケ原合戦ツアー」(3月23日開催)の事前確認で、カッコーツアーの担当者の方と一緒に松尾山と南宮山に行ってきました。

一昨日より寒かったのですが、雪もなく快適に登ることができました。



松尾山を登ったルートは、関ケ原町中心地に面した方でなく、山の裏側、関ケ原町内平井地区からです。
なお平井の地名は、この近く、大垣市上石津町内にもあります。


大きな地図で見る
関ケ原町から平井まで、Googleマップにて。


道途中、平井にある聖蓮寺というお寺に寄りました。
「しょうれんじ」と読みます。

この寺は天然記念物の冬も咲いている桜と、また天然記念物の八房ウメがあります。
学術的にも、貴重な桜だそうです。
いつ行っても、きれいに清掃なさっておられます。


関ケ原合戦 中井先生ツアー 松尾山と南宮山
咲いているかわいい桜。
ツアーでは時間の都合で、ここには寄れません。
ツアーでは、山頂を目指してすぐ近くを歩きます。



関ケ原合戦 中井先生ツアー 松尾山と南宮山
上の写真は、松尾山山頂近くの林道。
ここは山城の中です。



関ケ原合戦 中井先生ツアー 松尾山と南宮山 
山頂から、笹尾山や決戦地を見る。手前は土塁(どるい)。
空気がきれいなので、今の季節は遠くがよく見えます。









島津義弘の陣跡11 島津の退き口伝説

島津には、井伊隊、松平隊、本多隊らが追撃します。
追撃する兵と島津の間で、凄まじい戦がありました。


義弘は退く時、北国街道(北国脇往還)を南東に下り、関ケ原宿付近を通り、伊勢街道に入って烏頭坂を抜け、牧田川沿いの東伊勢街道から一路、大垣をめざし、籠城するつもりであったようです。※異説あります。
ところがすでに大垣城は炎上していたので行くのをあきらめ、大坂を目指します。
大坂に行って再起を考えていたとも言われ、退却すれども今だあきらない、義弘の心意気を感じます。

その後も一難去ってまた一難で、島津隊は多大な犠牲者を出しながら退きます。
義弘が故郷の島津領に着いたのは、10月1日のことでした。



島津が退いた時に残したものは、400年以上経った今も私達に何かを語りかけてきます。
関ケ原町や大垣市内の烏頭坂、牧田地区、上多良地区などで語り継がれ、その逸話は今も、大きく想像力をかき立てられます。
それは「島津の退(の)き口(ぐち)」と言われる、千数百キロにも及ぶ壮絶な退却戦、負け戦を吹き飛ばす伝説です。



江戸時代中期、敵方であった黒田家の家譜には、
「其(そ)の合戦の形勢(ありさま)すぐれてはげしかりしにや。其の時京童(きょうわらべ)の諺(ことわざ)に、物のはげしき事をば、嶋津(島津)の退口のごとしぞ云(い)いける」(桐野作人著「関ケ原 島津退き口」P4より引用)
と書かれているぐらいです。


負け戦であったにもかかわらず、当時国内で、この出来事は強烈な印象でもって語られたと思われます。
当笹尾山交流館の甲冑体験コーナーにある関ヶ原合戦図屏風(本物は関ケ原町歴史民俗資料館に所蔵)でも、島津の退き口は中心に位置し、目立って書かれています。





この退却戦は義久のフォローにより島津の領地安堵、また生き残った義弘は島津氏の行く末に大きな影響を及ぼすようになっていきます。
義弘は兄の義久との関係の中で、義弘嫡男の忠恒(後の家久)が薩摩の初代藩主となり、総本家としての地盤を固めます。
また島津藩士の末裔は、江戸時代の宝暦治水や明治維新など、日本の歴史を変える大きな役割を果たしています。


昭和35(1960)年からは毎年、退き口のルートをたどる鹿児島の青少年達による踏破隊が、岐阜に来ています。
この踏破隊は「チェスト行け関ヶ原」の幟(のぼり)をたて、島津義弘陣所跡より大坂城まで、一部を除き数日間で120キロを歩いて踏破するものです。

開催は50回以上を数え、参加者の名前は石に彫られて島津義弘の陣跡にあります。
鹿児島と岐阜の間で結ばれた絆が、教育や行政分野での人材交流として、今も生きています。





もしもはないのですが、特に島津の関係は想像できることがたくさんあります。
たとえば三成以上の戦経験をもつ義弘が、島津が薩摩に残している兵力を出して西軍参戦したならば、関ケ原合戦の勝敗はどうなったかわからなかったと言われます。
合戦中に義弘は何度も、「薩州勢5千召し列ね候わば」勝つことができたと言っています。
(桐野作人著「関ケ原 島津退き口」P130引用、以下参照)
義弘の戦歴からすると、あながちに否定はできません。



三成は敗退した後も、家康打倒で再起するつもりであったと言われています。
「関ケ原町史 通史編上巻」P367には、三成が退却中、それまで付き添ってきた3人の家来に最後の別れを告げた所があります。

「我は暫(しばら)く此(この)辺に身を隠し、其(の)後密かに大坂へ赴(行くの意味)き、薩摩へ下向して島津義弘と語らい、重ねて大軍を起こすべし」

三成の退いたルートは確定されていないぐらいなので、この話の真偽はわからない面がありますが、三成は最後まで秀頼のために忠義を尽くそうとし、その中心人物として義弘を頼りにしていたことがうかがわれる話です。



当笹尾山交流館の近くの笹尾山会場=笹尾山駐車場では、このブログで毎回のように参考や引用をさせて頂いた書籍、「関ケ原 島津退き口-敵中突破300里(学研新書)」の著者、桐野作人氏によるお話が直接聞けるステージが10月20日11:00~12:00にあります。

また同じく桐野先生が一日同行する、島津の退き口をたどるツアーを11月3日(日)に開催します。
このブログでは紹介できなかった興味深い内容を、桐野先生から直接お話しが聞けるツアーです。



関ケ原合戦 島津義弘 島津の退き口 踏破隊
退き口のルートをたどる鹿児島の青少年達による踏破隊の参加者。
この義弘陣地より大坂城まで一部を除き数日間で120キロを歩いて踏破します。

関ケ原合戦 島津義弘 島津の退き口 踏破隊
退き口のルートをたどる踏破隊は、これまで50回以上開催されています。

島津義弘の陣跡10  島津打って出る

押されて周りがばらばらになって敗走する中、逃げたい気持ちをおさえて陣地に居続けることは、なかなかできるものではありません。
統率が取れている島津隊では、それが可能でした。


午後2時過ぎと思われますが、義弘と豊久、盛淳との間で、残る兵全員でどうするか協議しました。



島津は最初からすぐに退くことを考えていたわけでなく、家老の阿多盛淳(あたもりあつ)や何人かの家臣は、居残って本陣を死守しようと言います。


義弘も、「せいいっぱい戦って、いさぎよく死のう」と言うのですが、豊久に「まことに御家の安危(安全か危険か)に関わる大切な御身であられるので、なるべくお退きになることがよろしい」と諌(いさ)められました。

義弘は退くことに決めると、どこが猛勢かと家来に聞き、その猛勢の中へ進むように命令しました。


家臣の考えを聞いて義弘は、自分の使命に立ち返り、豊臣家の御恩に奉公するために、二つに島津家の存続をかけ、次回のチャンスを狙うと、頭を切り替えたことのではなかったでしょうか。
こうして島津は、前代未聞、残る兵100名余(異説では200名とも300名以上とも言われています)による全軍一丸となって東軍を突き抜ける、敵中突破を始めることにしました。



打って出る前、少ない兵で戦うため、豊久はひきつけるだけ引きつけて鉄砲を放ち、一挙に出るように命令を出しました。
発砲を禁ずる軍令が出され、陣中は一糸乱れず静まりかえっていたようです。(桐野作人著「関ケ原 島津退き口」P140引用、以下参照)
やがて宇喜多隊、石田隊がくずれ、残る島津に襲いかかってきます。



ところがあまりに押し寄せる勢いが強く、鉄砲を放ってもバタバタと倒れる屍(しかばね)を乗り越えてやってきます。
次の弾を撃つ間もなく、敵味方が入り乱れ、鉄砲が役に立たなくなり、刀を抜いて打って出るほかありません。

3、400mほど進むと、東軍は三成や秀家などの主将の首取りに意識がいっているためか、島津勢に向かってくる敵が少なくなり、退く道が開けました。




島津隊が、松平忠吉、井伊直政らと緊迫した状態で戦った記述が関ケ原町史(上巻P355)にあります。
史料を読み比べてみるとおそらく退却後であり、参謀本部編纂「関ケ原の役」によると、島津が退いて牧田川を越えようとする頃のようです。

「敵味方が備(ここでは各隊の意味?)を立寄せて(近くに寄ると)、鉄砲を迫合(撃ち合うなど激しい戦いの意味?)始まったが、中に(なかで)も下野守忠吉(松平忠吉)は、羽柴(島津)義弘の手(支配下のもの)へ馳(せ)向(か)い、義弘の軍士(兵の)松浦三郎兵衛を(に)駆寄(走り寄)せて一太刀(刀を振りおろして)切ると、三郎兵衛が請流して(さけると)忠吉の左の臂(ひじ)と手の外れを切った。

忠吉は事ともせず(切られたのを気にもしないで)、(三郎兵衛と忠吉が)馬上より組んで落ちたのを、忠吉の家人(家臣、家来)の加藤孫太郎が松浦を引伏せて其(そ)の首を取る。

下野守(忠吉は)、立上って、又敵兵と太刀打した。
近臣(家来が)四人・中間(馬を引く下人のこと)一人なので、甚だ(はなはだ)危く(危険な状態で)懸けられ(殺されそうになっ)たが、井伊兵部少輔(井伊直政)は手(味方のこと)の物を(に)下知(命令)して突懸るに(つっかかろうとし)、木俣右京・鈴木平兵衛・属兵を勵(はげま)して力戦した。
木俣が(の)手(部下)で、小畑勘兵衛(というもの)が母衣武者(鎧(よろい)の背に母衣(ほろ)をつけた武者のこと)を突伏して首を取る。

直政とともに忠吉も合戦で負傷したといわれているので、おそらくこの場面であったと思われます。



手柄をあげたい武将からすれば、退く島津は武勲をあげる、かっこうの相手であったと思われます。
忠吉は家康の四男、この時21歳でした。
直政はもっとも信頼できる家康の側近の一人で、この合戦では軍の経験がない忠吉の、後見役を仰せつかっていました。
忠吉と直政は、本日の戦いは徳川の戦いであるとして、先手と決まっていた福島正則を差し置き、合戦の火ぶたを切っています。
戦意はたいへん高かったと想像できます。

島津隊の去った戦場には、多量の戦死者と負傷兵が残り、4時ごろから降り出した雨により小川に血がそそぎ、その川で米をといだところ真っ赤に染まったと言われています。(白水正編「図説 関ヶ原の合戦P94岐阜新聞社発行より引用)

関ケ原合戦 島津義弘 島津の退き口

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