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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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小関地区の陣跡 薩摩池と史料をめぐって9

前回のブログの続きです。
義弘が居たとされる薩摩池から、現在残る道で西方の関ケ原町玉地区に、歩くと700mぐらい離れています。
大垣城から関ケ原に来るのに、藤古川を渡ったというのは、地図を見ると不自然に思われます。わざわざ、遠回りをしているようです。
このことは合戦史の本などであまり知られていないし、初めてこのルートを聞いたとき、地図でこのルートを考え、何かの冗談、誇大妄想でないかと思いましたが、そういう説があるというのでひとまず受け入れて進めていきたいと思います。
どの地点で島津隊、また西軍は藤古川をわたったのでしょうか。またなぜ、この道を通ったのでしょうか。





いくつかの史料で、西軍は三成隊を先頭に、島津、小西、宇喜多の順番で大垣城を出ます。
島津側の史料によると、大雨の中、牧田の抜け道を通り、午前4時ごろに島津隊は関ケ原合戦につきました。
具体的にどのルートを通ったか、可能性として以下、書いてみます。
関ケ原町の公式見解ではもちろんなく、お話の一つとして読んで頂けたら幸いです。

関ケ原町に山中という大字が、近江に抜ける最重要な街道、東山道(中山道)沿いにあります。
西軍の大谷吉継は、山中村の小字、了願寺という所に陣地を作っています。
了願寺とは、地名として寺の名前で残ってますが、現在はありません。
この山中の北嶺、大字で玉村に通じる間に、石原峠というところがあります。

合戦の時、西軍はこの山中に屯留(とんりゅう、「寄り集まって留まった」の意味)し、さらに出でて陣地に就いたといわれています。
(「増補 大日本地名辞書第5巻(明治35年初版、昭和46年増補)」P397の「石原峠」の項目参照)
石原峠を通ったという記述が、「関原合戦図志(神谷道一著)」にもあります。


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地図は吉継の陣跡があった付近。神社の上の方なので吉継の陣地場所を、「宮上」とも言います。


吉継は9月3日より、この山中の地にいました。
吉継は、守りの要衝である中山道を守るため、陣地の構築をしたり、付近の地形など、情報を収集していたと考えられます。

「大日本地名辞書」の記述によると、諸将が合戦の戦いについて事前の打ち合わせをしたあと、各々の陣地に就いたということです。
石原峠にいったん集結して、陣地に行ったとすれば、藤古川を通って義弘は陣地に入る記述と整合性が合います。
なぜこのようなことをしたかと言えば、大谷吉継が事前に入手していた情報を共有するためであったのかもしれません。



さらに島津関係で、島津の退却ルートについてですが、陣取っていた小関から、伊勢街道を目指して退却しました。その伊瀬街道について、関ケ原町に残る字名から、違った可能性について触れます。

伊瀬街道は江戸時代、中山道の関ケ原宿から、大垣市上石津の烏頭坂、二又と、牧田方面に通っていたと言われています。



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この地点は、中山道から伊勢街道へ入る所


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豊久が奮戦したと伝わっている烏頭坂。
大正9年に作られた、豊久を顕彰する碑がある。



関ケ原町には小字名で、伊勢街道という字が、松尾地区(村)の方に残っています。
昭和15年発行の関ケ原町土地宝典にも、字名はあります。
井上神社のすぐ北です。

この地名からも、関ケ原町では江戸時代以前、古くは鎌倉時代(奈良時代とも言われています)にあったとされますが、いつ頃に東方の方に移ったかはわかりませんが、この地に伊勢街道があったと言われています。
江戸時代のルートと比べると、最も離れているところで、1キロほど西方になります。


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伊勢街道の字名が残っている場所

この道は、関ケ原町歴史を語る会の細見昌男様に御案内いただいて教えてもらいました。
細見様には、町の有志の会に所属している方ならではの内容で、壬申の乱の関係の史跡をたくさん教えてもらいました。
大変ありががとうございました。
力不足から、壬申の乱の史跡のご紹介ができなかったことをこのブログを借りてお詫びします。



島津の話に戻ります。

島津が退いた時、一つの可能性として、この昔の伊勢街道ルートを通ったことが考えられます。
このルートは、福島隊が陣取った春日神社のすぐ横を通ります。

島津側の記録「旧記雑録」では、関ケ原宿口付近で豊久の馬を見つけ、また後世の記録「本藩人物誌」では、豊久は13騎で東軍の大軍に討ち入り、戦死したと言われています。

敵は福島正之(正則の養子)で、首級をあげたのは福島の手の、小田原浪人、笠原藤左衛門とあります。
(桐野作人著「関ケ原 島津退き口(学研M文庫)」P156、224参照)
最後は東軍の各隊が加わった大混戦となっているので、豊久が福島方に討ち取られたとしても偶然に思われます。
しかしこのルートは、この史実と照らし合わせても不自然ではありません。


関ケ原合戦 小関 島津豊久 島津義弘 旧伊勢街道
江戸時代以前、伊勢街道があったとされている道。
この道は壬申の乱を契機として作った、不破関(大関)の東限にあたります。
この道の先右側には、不破関鍛冶工房跡が発掘されています。



関ケ原合戦 不破関 鍛冶工房 伊勢街道
工房跡のある所

もう二つ、義弘や三成の陣所について関ケ原の伝承を書いて、今年度の陣跡ブログは終わりにしたいと思います。

伝承の一つは、小関にあった関の場所を教えて頂きました。
小関の方は、関ヶ原合戦にあまり関係ないと思われるかもしれませんが、小関は北国街道を押さえるための関でありました。
現在私達が北国街道を考えるとき、江戸時代のルートで考えているので、ひょっとして、合戦当時は北国街道、また小関の場所が違っていたという可能性があるという伝承が関ケ原にあるので、紹介してみたいと思います。


小関は、壬申の乱の後に造られた関所、東山道(中山道)をおさえる大関とともに、北国街道をおさえるために作られました。

小関については、以前のこのブログの中で「関ケ原町史 通史編別巻」P251から引用した、小関の関の記述を参考にして下さい。


先のブログで小池地区を案内いただいた小林昻様に聞いた話です。
小関に常夜燈があり、この常夜燈の南に関があったのでないかということでした。
正確な方向で言うと、常夜燈の南南西です。

関ケ原合戦 小関 小池 島津義弘 陣跡 北国街道
旧北国街道沿いにある現在の小関の常夜燈。

関ケ原合戦 小関 小池 島津義弘 陣跡
常夜燈付近の伊勢街道


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常夜燈のある場所


なお関ケ原町では他にもうひとつ、関のあった場所として伝わっている所があります。
伊勢街道沿いに常夜燈の南、およそ100メートルの場所です。


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この場所が、関があるとされている、もう一つの場所です。


関ケ原合戦 小関 小池 島津義弘 陣跡 北国街道
小関の関所があったと伝えられている場所付近の写真。

関がどこにあったのかを推定することは、壬申の乱、また関ヶ原合戦の陣地を考えるのに、とても重要なポイントになると思われます。





二つ目の伝承は、北国街道の小関を抜けるルートについてです。
江戸時代の北国街道のルートは、常夜燈がある前の道です。
北国街道沿いに常夜燈のさらに西北西、100メートルの所には、馬をつないだ場所と言われる、馬頭観音が残っています。


関ケ原合戦 小関 陣跡 北国街道
小関の馬頭観音

関ケ原合戦 小関 陣跡 北国街道
現在の馬頭観音付近。
道は江戸時代の北国街道。
左に少し馬頭観音が見える。



江戸時代のさらに昔、小関の地区で北国街道があったと伝わっているのは、さらに南へ100メートル以上の細い道です。
薩摩池のすぐ北側を通る道です。
江戸時代は馬頭観音の前の道に違いないのですが、ひょっとすると合戦当時、薩摩池の北側の道が北国街道であったのかもしれないということです。

この伝承は、関ケ原歴史を語る会の坂東紀喜様に聞きました。
以前のブログで薩摩池のことについて聞いた、池付近に住んでいる方にこの伝承について聞きました。
そんな話は聞いたことはないと言われました。
江戸時代から北国街道は、馬頭観音の前の道と言われています。

ところが薩摩池のすぐ北側の道を、合戦当時に北国街道だとすると、島津側の史料「旧記雑録 新納忠元勲功記」の義弘の陣所についての記述で、義弘と豊久が北国街道を挟んで陣取ったと書いているので、この説で陣形を考えると説明がつく部分があります。
「旧記雑録 新納忠元勲功記」には、「中書忠豊冨隅衆杯召列、街道之南二當而御先二被相備、其次 松齢様(義弘)壱町計街道より北に当」とあり、「豊久は北国街道の南側、義弘は北国街道の北側一町(109m)」と書いてあるのです。

神谷道一氏が考察した陣所が現在の場所の元となっていますが、薩摩側に残る「旧記雑録」の記録などから、陣所の場所をもう一度確認してみることも必要かもしれません。

何度か島津池付近に通って風景を見ているうちに、薩摩池の西側の林に豊久、豊久から北西100メートル付近に義弘がいたのでないか。そんな姿が頭の中に浮かんできました。


他にも関ケ原歴史を語る会の方などに聞くことが出来た伝承などあるのですが、ここでブログは終わりにしたいと思います。
ブログを書く機会を与えていただいて、誠にありがとうございました。
お話をこれまで聞いてきて感じたことは、さらに詳細な史料踏査、聞き取り調査など行い、小関の関があったとされる場所付近を発掘調査するなら、大関と小関の地理的関係、壬申の乱の928年後の関ケ原合戦の布陣について、様々なことがわかってくる可能性があるのではないしょうか。

関ケ原合戦 小関 陣跡 北国街道 薩摩池
雪が降った後の薩摩池に隣接する道

関ケ原合戦 小関 陣跡 北国街道 
吹雪いている薩摩池付近。

関ケ原合戦 小関 陣跡 北国街道 薩摩池
上の写真とほぼ同じ場所。

関ケ原合戦 小関 陣跡 北国街道 薩摩池
小関から三成らが陣取った方を見る。


関ケ原合戦 小関 島津豊久 島津義弘 今寺池
薩摩池の西方にある、今は平和な池寺池。
宇喜多隊、小西隊が敗退する時、島津の陣所に紛れ込もうとしました。
島津は他の隊が陣に入ってくることを拒んだので、兵が逃れようとして多数池でおぼれ死にました。
この池は、薩摩池の西方にある池寺池です。

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小関地区の陣跡 薩摩池と史料をめぐって8

有栄ですが、義弘に従うため、合戦の2日前に、ようやく関ケ原に到着します。
この時有栄は23歳、合戦の時、豊久の右隣にいました。
合戦には他にも、若い戦士がずいぶんと参加しています。



有栄は、豊久を見ながら戦っていましたが、途中で豊久を見失いました。
家来が止めるのも聞かず、元居た所にもどろうとすると、赤崎丹後と出会います。
さらに二人は関ケ原宿口付近で、豊久の馬がいるのを見つけます。
馬には豊久はいなく、鞍(くら)つぼに大量の血が付いていました。
二人は、豊久は討ち取られたに違いないと思って、討ち入りました。


その後有栄は生き延び、義弘の退却に最後まで従いました。
合戦後、その功績で200石の加増を受け、関ケ原合戦での体験を、覚書として残しました。


江戸時代には薩摩藩きっての精鋭を育成するなど、多大な貢献をします。
有栄は合戦50年たっても生き続け、生き証人として退き口のことを語り続けていたようです。
合戦後70年近く、1668年まで生きました。
こうした経歴から、覚書は信用がおけると思われます。
((桐野作人著「関ケ原 島津退き口(学研M文庫)」P149、251他参照))





「関原合戦図志」の発刊後、いろいろな史料や見解が発見、発表がなされています。
たとえば薩摩側に残る「旧記雑録」は、薩摩に残っていた史料を年代別に編纂し、特に合戦関係は「旧記雑録 後篇三」(昭和57(1982)年発刊)が参考になります。
神谷道一は、島津側の史料も参考にしていますが、「旧記雑録」のような体系的な資料は見ていないと思われます。



義弘の陣地場所として参考となるのは、「旧記雑録 後篇三」の「新納忠元勲功記」です。

「……暮時分より大垣御進撥、夜中之大雨降に牧田之間道被為通、寅剋計関ケ原二御到着、街道之北二被備居候石田陣所を御尋付、自其右之方壱町半程も可有之所二、未明より夜明迄御備被為配、中書忠豊冨隅衆杯召列、街道之南二當而御先二被相備、其次 松齢様(義弘)壱町計街道より北に当、藤川越し小関之南巽向二被為備、其次 四五町計傭前中納言秀家・小西行長等小高き岡二相備、四方霧深ニて……」
とあります。

以上は、関ケ原歴史を語る会の曽我治太郎氏提供の補足資料を引用にしました。



上記によれば、義弘陣地は三成の右、1町半(163m)、豊久は北国街道の南側、義弘は北国街道の北側一町(109m)、小関の南南東(巽は南東のことで、その前に南がつくので南南東の意味か)、ということになります。

「新納忠元勲功記」では、義弘は北国街道の北側に陣地を設けたとあり、薩摩池は現在北国街道とされる南側にあるので、薩摩池に義弘が陣地をつくったとする今の見解と整合性がありません。



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北国街道の場所を元に、「新納忠元勲功記」の記述とあわせて考えると、義弘が実際に居た場所はここらあたりになります。


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「新納忠元勲功記」の記述を元に考えられる義弘の陣地は、空撮ではここらあたりになります。

現在の現地の状況を見ると、立地的に納得できないように思われるかもしれません。
現在の国道の道は山を切りひらいて作ったため、ここに陣地を作ることは地の利にかなっています。
この国道は、かつて「関ケ原~長浜」までの国鉄の汽車が走っていたルートです。1900年に廃線になっています。


他に「島津家譜」(引用は「関ケ原合戦史料集(藤井治左衛門編著)」に、
「惟新は藤川を越(え)、小関の南巽に向ひ(かって)、備え(陣地)を立(て)申(し)候(なされた))」
とあります。
この「島津家譜」の記述は内容的に、上の「新納忠元勲功記」を参照していると思われます。



藤川は、現在は藤古川のことです。
藤古川は多くの歌詞で「関の藤川」と呼ばれ、また土俗では今藤子川、とも呼ばれていたとあります。
(「増補 大日本地名辞書第5巻(明治35年初版、昭和46年増補)」P400参照)
玉藤川とも呼ばれていたようです。



義弘が居たとされるところからもっとも近い藤川の場所は、字で玉の方、現在、藤古川ダムがある近くになります。
島津は、三成隊、小西隊、宇喜隊と同じ道を進軍したはずです。
西軍はわざわざ少し遠回りして、小関に入ったのでしょうか。
どのような理由があったのか、また西軍が進軍したルートを、地図の中にどのように落とし込むか、難しいところです。
まだまだ島津、また合戦について、わからないことが多いです。



関ケ原町内の歴史研究の会、関ケ原歴史を語る会では、様々な関ケ原に関する提案を毎月、第三火曜日に関ケ原町役場中央公民会の会場で行っています。
この会は、歴史を楽しく語り、関ケ原に親しむ広場つくりをめざす文化団体です。
事務局を、関ケ原町中央公民館に置いています。

2014年4月15日(火)の例会では、西軍の進軍ルートの関係の提案で、石原峠についてなされる予定です。
毎回、研究熱心な方が集まる、熱い会ですので参加なされればいかがでしょうか。

関ケ原合戦 小関 小池 島津義弘 陣跡
島津義弘陣所跡近くから薩摩池方向を見る。


関ケ原合戦 小関 小池 島津義弘 陣跡
霧の中、石田三成陣地の近くから決戦地方向を見ます。

小関地区の陣跡 薩摩池と史料をめぐって7

現在の関ケ原合戦の陣跡地の場所は、神谷道一氏著による「関原合戦図志」(明治25(1892)年5月)を参考に、岐阜県の役人たちが参加し、現地事情を様々に考慮しながら決めたそうです。

平成24年9月に発行された「慶長五年の関ケ原 -合戦当時の村の様子-」の調査で、当時の様子がいろいろとわかってきました。
関ケ原は、江戸時代はそれほど田畑は増えていなかったが、明治になると田畑は増えていたこと。
合戦当時、今より人口は少なかったが人も大分住んでいたこと。
合戦のときは、戦いから避難するために近くの山に行っていたこと。
非難はすぐに終わったわけでなく、場合によっては一カ月以上いたこと。
などです。



陣跡地を決める時、多くが私有地であること、かつて陣地があった野原や林に宅地ができたことなど、場所の選定は苦労したと思われます。


「関原合戦図志」から、島津の陣地の考察の部分を引用します。
「御手配留ニ[小池村ニ島津兵庫頭義弘、島津中務小輔右ニ陣ハ(、)辰巳(南東)ニ向テ備フ](。)

山田有栄(「ありしげ」または「ありなが」とも読む)覚書ニ
[義弘ノ陣ハ三成ノ右方一町余(約109m)後ロニアリ(。)
義弘姪豊久之ガ前隊タリ]進退秘訣ニ[山田有栄年二十歳雖(「といえども」の意味)○若年○勇士ノ誉レアリ(。)
故ニ己ガ手勢ヲ一隊ニシ豊久ノ右備ニ相并(「並」の簡体字)ビ(、)共ニ剣先ニ相備フ(。)
富之隅衆福(福の旧字)山衆有栄ニ相従フ(。)
此等ハ公ノ旗本ヲ去ル(離れること)○一町半(約163m)計是ヨリ惟新公御備也
(中略)
御陣ヨリ(、)一町半ヲ隔テ豊久陣也]

トアルニ據(よ)リ(、)陣地ヲ実測スルニ(、)小池ノ内北国街道ヨリ南ヘ入ル○凡ソ三十間(約55m)許小高キ地アリ(。)
字神田ト云フ(。)
林樹業生シ中ニ(、)秋葉神社アリ(。)
此林地一町五段五畝(ほ)六歩(約15,400㎡)アリ(。)
先鋒豊久ノ陣セシ所迄一町三十間(約144.4m)(。)
(有栄が書いた)進退秘訣ニ記スル所ト違ハズ(。)
又天満山北小西ガ陣所迄直徑一町二十四間(約173.3m)(、)岡地十五間(約17.7m)田地及ビ(、)寺谷川迄ヲ加ヘ一町九間(約119.6m)(。)」
※( )は付け加えています。


神谷道一氏が本を書いた当時、参考となる史料も今と比べると格段に少なかったと思われます。
氏の業績はとても大きく、現在もなお、合戦を巡る諸説の元となっています。
本から、氏は島津側など史料に忠実に、実際に現地で距離をはかるなどしながら、場所の特定をしたことがうかがえます。

「御手配留」という文書の内容はよくわからないのですが、この文書には小池村とあります。
「小池村」とありますが、合戦当時は小池は人家がなく、字も、また村もありませんでした。
後に家が立ち、島津義弘陣所跡がある付近一帯の場所を小池というようになりました。

「慶長五年の関ケ原 -合戦当時の村の様子-」では、関原村の慶長5年の様子を慶長2(1598)年の「関原村検地帳」により、分析を進めています。
現在の字、細田の集落の中に「ミやノまへ」という小字の名前があり、「ミやノまへ」の集落に、田畑の他に4軒の家がありました。
慶長2年の検地帳によると、小関と現在言われる地域に、ほかに家はありません。
「ミやノまへ」という当時の字名は、かつて神社(若宮八幡神社)があったために出来た名前と考えられます。宮、つまり神社の前、「宮前(みやまえ)」にある小字、であることを示していることと思われます。

また合戦当時に小池という地名はありません。
合戦後、家が伊瀬街道沿いに何軒か建つようになり、島津が使った池があったとつたわっているので、小池という字名ができたと思われます。
義弘陣所跡の昭和15年にできた石碑に、小池と刻んだのは、池を島津が使ったという伝承を、より強調したいということがあったのかもしれません。

なお義弘自身は、小関の薩摩池付近に居たとしています。
義弘は豊久を率いているので、「御手配留」に小池と書いてあっても間違いではありません。


上記に「林樹業生シ中ニ(、)秋葉神社アリ」とある、秋葉神社のことですが、字名は神田に、秋葉神社があると町史にもあります(「町史 通史編別巻」P48)。
しかし現在、周辺をいくらみても秋葉神社という神社が見あたりません。
あまりに不思議であったので小林様に聞いたところ、現在は神明神社と合祀され、一緒の敷地内に祀られているそうです。



関ケ原合戦 小池 島津義弘 陣跡 秋葉神社
写真で柵の向こう、真ん中やや右に見えるのが秋葉神社。秋葉神社は、関ケ原全村が火事になったあと、幕末に出来ました。関ケ原はかつて、大火がよくあり、その対策が大きな悩みの種でした。

小関地区の陣跡 薩摩池と史料をめぐって6

義弘陣所の石碑の南側に、名前が記してある石が並んでいます。
この石は、これまで毎年行われている、鹿児島県の伊集院(日置市)から来られる「関ケ原戦跡踏破隊」の参加者のお名前です。
この石は並行して並び、石が指し示す方向は、江戸時代に薩摩藩が行った宝暦治水に由来がある、千本松原の方角です。

この石の近くに、膝ぐらいの高さの目立たない石があります。
ここには下記の通り書かれています。

「此の地より堺の港に至る 
島津勢退路200粁突破せんとす
チェスト行け
昭和35年8月17日」

石碑に、「薩摩国 窪田廣治」他6名と人の名前が書いてあります。
踏破隊を実現するため、力を注がれた方と思われます。
昭和の時代に、「薩摩国」と書いたことに誇りに思う気持ちが伝わってきます。
町史(上巻P417)に、踏破隊が生まれた経緯が書かれています。


関ケ原合戦 小関 島津豊久 島津義弘 陣跡
雨に濡れていたので、彫ってある字が読みやすかったです。


昭和35(1960)年の初夏、伊集院町在住の鹿児島県の教育委員長、有馬俊郎氏が文部省(東京都)に行った帰りに関ケ原古戦場に見学に来て、町史編集委員長を後につとめた不破幹雄氏と合戦の話をしました。
それから10日余りたち、伊集院町の窪田広治(廣治)氏から「有馬俊郎先生の御指導で、(略)薩摩勢の退路を徒歩で突破したいから、その行程を地図で指示して欲しい」という手紙がきました。

不破氏はさっそく240キロのコースを作成し、8月18日には窪田隊長以下、十数名がやってきました。
この踏破隊は、コースや行程は変わりましたが今も続いています。

関ケ原合戦 小関 島津豊久 島津義弘 陣跡



小関地区の陣跡 薩摩池と史料をめぐって5

島津義弘陣所跡は、2回の移動を経て、現在地に来ました。
昭和59(1984)年2月12日に、町指定の指定文化財になっています。
「関ケ原町史 通史編別巻」P10に、場所は大字関ヶ原字神田、「現在の地は南方へ約200m移動している」とあります。
小林様の話を裏付けています。



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Googleマップで2番目の場所です。



現在地は、2番目の場所から道を挟んだ向こう側に移されました。
上のGoogleマップで、島津惟新陣跡とある場所です。


現在の義弘陣所跡は、昭和15(1940)年に移設されました。
小林様はその時、22歳(満歴)でした。

立派な自然石が、鹿児島から国鉄東海道線関ヶ原駅まで来ました。
駅からひっぱられ、陣跡地まで運ばれていくのを小林様は見たそうです。
石の文字を刻んだのは関ケ原の方で、刻んだ方の名前までしっかりと小林様は記憶しておられます。
その石が、「小池 島津義弘陣所跡」と書かれているものです。

石碑の字は、島津忠重(ただしげ)氏が書いています。
この年が日本紀元2600年にあたり、奉祝祝賀会が催されたと町史(下巻P430参照)にあります。
氏は侯爵で、長年貴族院議員を勤められています。
昭和天皇の皇后陛下が、島津家のご出身であったことで、大変な歓迎を受け、運ばれてきたと思われます。

碑は、鹿児島の青年が寄付金を集め、運ばれてきたそうです。
この時植樹された楠が、今は素晴らしい大木になっています。

陣跡を新しく作るにあたり、陣跡地一帯の林は、当時一人の地主が持ち主でしたが、町が陣跡の用地を買い取りました。
碑の裏に、町の協力で出来たことが書かれています。

関ケ原合戦 小関 島津豊久 島津義弘
島津義弘の陣跡の石碑


史蹟指定地になると、開発ができなくなるので、開発か保存か、町民やまた行政にとって大変悩ましいです。
決戦地、開戦地付近は私有地の農地がほとんどで、生活も大事です。
日常生活が行われることで、景観が維持されていく部分も多いです。
1年近く関ケ原プロデュース事業にかかわってきて、町や町民の多くの善意で、史蹟観光がなりたってきたことを知ることができました。

関ケ原という名前は全国的に知られ、観光地でなりたっているように見られがちですが、滞在型観光でないので、観光立地に向けて課題も多いようです。




町の史跡保存については、平成22年度に史跡関ケ原古戦場保存管理計画策定報告書が出され、町の図書館にて、保存・閲覧することができます。
報告書は資料的にも充実しています。
合戦後の400年間、どんなことが古戦場をめぐってあったかを知ることもできます。


例えばP82の年表で、明治39(1906)年に関ケ原村(当時は関原村)合戦300年祭を記念して、古戦場の主な陣跡に石碑が建てられました。
同年には陸軍大学校参謀演習旅行が行われ、皇太子(後の大正天皇陛下)様も来られています。
戦争に向かっていた、特に昭和5(1930)年から昭和15(1940)年の間、様々な動きがありました。

追伸;
義弘陣所跡の移動について触れましたが、関ケ原合戦の関係で他に、小西行長の陣跡の東にある開戦地の石碑は、以前は現在地より南へ300m程の所にありました。
耕地整理のためです。
また松平忠吉・井伊直政陣跡も、場所は移動しています。

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