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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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ルポ⑨番外編 3月23日に次回、中井均先生と行く!「関ケ原合戦ツアー 松尾山と南宮山編」を開催

関ケ原合戦ツアー、島津の退き口編を終え、笹尾山交流館では城郭研究で第一人者の、中井均先生(滋賀県立大学教授)同行による「関ケ原合戦ツアー 松尾山と南宮山編」を準備しています。

松尾山城は小早川秀秋が入った陣跡で、主郭入口の枡形虎口や複雑に配置された曲輪、堀切、土塁など、見どころ満載です。

また南宮山は毛利秀元が入った陣跡で、登山道に沿って土塁や曲輪、堀切などの遺構が見られ、西軍の拠点であった大垣城を捉えることもできます。

関ケ原合戦の行方を決めた二つの陣跡、1日でその二つの山城に行くという、内容豊富であると共に、開催まで体力をつける準備が多少とも必要になってこようかと思われます。

開催は、2014年3月23日(日)を予定しております。
詳細は後ほど、ホームページなどでご案内しますので、今少しお待ちくださいませ。

関ケ原合戦ツアー 中井均先生 小早川秀秋陣跡 松尾山
松尾山頂上より関ケ原盆地への眺望

関ケ原合戦ツアー 中井均先生 松尾山
小早川秀秋陣跡 松尾山の枡形虎口

関ケ原合戦ツアー 中井均先生 小早川秀秋陣跡 松尾山
松尾山頂上の土塁

関ケ原合戦ツアー 中井均先生 毛利秀元陣跡 南宮山
毛利秀元陣跡から、石田三成達西軍の本拠地があった大垣城などがある濃尾平野を望む

関ケ原合戦ツアー 中井均先生 毛利秀元陣跡 南宮山
毛利秀元陣跡の土塁

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ルポ⑧駒野を通って治水神社へ

今回のツアーが予定より早く進んだので、島津藩が江戸時代に行った治水工事、宝暦治水を称えて作った治水神社(岐阜県海津市)に行きました。

出発してすぐ、雨がぽつぽつと降って参ります。
無事に、今回ツアーの目的地を雨が降ることなしに通過できたこと、スタッフ一同で感謝しました。


上石津町の上多良から治水神社への道ですが、国道365号を関ケ原方面に、牧田川近くまで戻ります。
国道365号の牧田川を渡る橋、和田橋を渡る手前で右の方へ、県道227号を2キロ弱短い区間を走ります。
やがて県道56号を道なり、この県道は別名、薩摩カイコウズ街道と呼ばれる道を南下します。



バスでなく、義弘たちの退き口でたどったルートですが、関ケ原から牧田川左岸を行き、どのあたりで牧田川の右岸へ渡ったかはわかりませんが、東伊瀬街道(九里半街道)を通って行ったとすると、大垣市上石津町乙坂にある八幡神社あたりで牧田川方面に右折、牧田川を沢田と言うところでわたった可能性があります。


牧田川を渡ると現在の県道56号に入り、さらに養老山地沿いに南下したと思われます。
ただし県道56号に近いルートで行ったということで、県道の上を行ったかどうかはわかりません。

義弘たちは養老山地を右手に見ながら南下し、駒野付近まで来ます。
「駒野」とい地名は、島津に残る貴重な史料集、「旧記雑録」の中に義弘の退陣を示す記述の中で何度か現れています。



養老山地は標高が北の方は8~900 mぐらいで、南の方は400mともっと低くなります。
東方面が険しく、西はなだらかな斜面です。


バスは、県道56号沿いの養老公園東を通過し、庭田(岐阜県海津市)という交差点から県道25号で、西の方に行くと駒野峠方面ですが、県道25号には行かず、県道56号をそのまま行きます。



駒野峠への道は、標高はそれほどでなく普通車で峠を越えることができます。
行ってみると体験できますが、かなり険しい山道です。
この付近を養老山地を超えるべく山道を義弘たちは行ったと考えられます。

島津から毎年来ている関ケ原戦跡踏破隊は、駒野峠を通る時にマムシが出るとも言われているので、注意します。
この道は冬になると、通過ができなくなります。



駒野という地名は、駅名とともに付近に残っていますが、現在、駒野峠と言う地名は残っていません。
義弘が通った正確な道は実はわかりませんが、養老山地を越え、山地を超える途中まで県道25号付近にあった道を行ったと思われます。
現在の地図で、二之瀬越えと書かれている峠があります。



ツアー行程を検討している段階で、実際に通ったルートに近い県道25号を通って上石津に入るルートを検討しました。
普通車では通行可能ですが、バスはとても無理でした。
残念ながら、バスから眺めるだけにしました。

当日は、バスをゆっくり走らせることもできなかったので交差点をあっと言う間に通り過ぎただけで終わりました。
ごめんなさい。



島津の退き口で、義弘が退いたルートに大きく三つの説があります。
一つ目に①、主に薩摩、島津側に残る史料より推論されるルート。
桐野作人先生は、この説に立っておられます。

二つ目に②、主に上石津に残る伝承や史料によるルートです。

①と②の共通点は、関ケ原から伊勢街道を行き、牧田、上野から南東方面、牧田川沿いに東伊瀬街道へ行って、東伊瀬街道からはずれて南進します。駒野付近で西進し、駒野峠を通って養老山地を超えます。
①と②の違いは、駒野峠を越えた後、①は西(裏)伊勢街道に出て南下します。その後、鈴鹿峠の方を通りすぎて土山まで行くが、京都方面に行くことが無理とわかると、元に少し戻り、伊賀の国、甲賀の国を経て、信楽まで来ます。
これまでブログで紹介してきたのは、主に①と②の説によっています。

②は、養老山地を越えた後に伊勢街道に入ると、南へ行かないで街道を外れ、西方面に行きます。
時、時山、五僧峠(島津越えとも言われる)を経て、近江に出ます。
その後南下して、①と同じ信楽まで来ます。



ほかに三つ目に③としますが、これも伝承や2次史料による説で、関ケ原を抜けて牧田、ここからが①、②の説と違うところですが、牧田あたりで南下し、牧田川を渡り、標高はそれほどではないですが険しい勝地峠を越えて多良、時、時山、五僧峠を経て近江に出るコースの説です。
②と③が、現在の通説となっています。


桐野先生からすれば、三つの説全部を楽しもうということになるでしょう。
私の中では、どちらが真実か判断できないことで、すっきりしない気持が残っていたことも確かです。
①と②の二つを、史実としてありうるように結びつけようと考えたこともありますが、無理もあります。

そんな中で次第に、②と③は合戦のときの出来事に加え、合戦以後、様々な人の行為の中でできていった部分も多いので、これもまた大切な史実として受け止めることができうる、そんな気がするようになってきました。




治水神社に着くと、雨がかなり降っていました。
神社は、薩摩藩が治水工事をしたことで、岐阜、愛知、三重の人たちが安心して暮らせるようになり、たいへん感謝して作ったものです。

島津退き口 治水神社 

戦が少ない江戸時代になって、薩摩藩に違った戦いが持ち込まれます。
自然との闘いでした。

あまりに無理が多かった難工事のため、薩摩では自刃した人が多数出ました。
自刃した事実を江戸幕府に知られてはならないと、公にはできませんでした。
工事により薩摩藩の財政はさらに悪化し、こうしたこともあって、次第に工事が忘れ去られる中で神社が創建されました。


桐野先生は車中、治水工事に関わるエピソード、また今日のツアーのまとめとして、島津退き口の意味についてなどサービス満点でお話しいただきました。

参加者に配布した史料も、一次資料中心にたくさんご用意いただき、先生が史実であることを大切に論を組み立てておられることが伝わってきます。
治水工事で意外であったのは薩摩だけでなく、たくさんの諸藩が関わっていたこと、治水工事に関わった島津の家臣の死に関するエピソードなどです。



合戦に14歳で参戦し、無事行き残った松岡千熊という兵士についても、解説いただきました。
詳しくは先生が2013年11月に発刊した、文庫版の「関ケ原 島津退き口(学研M文庫)」をご覧頂ければよいのですが、千熊は「島津の退き口」に関する史料の宝庫、「旧記雑録」にたくさんの手記を残しています。

合戦で14歳にて参加し、史料によれば合戦の64年後、寛文4(1664)年に生きていたことが確認できています。
4代将軍家綱の時代、78歳を超えて生きていたと推察されます。
語られ続けなければ忘れ去られていく中で、語り部としての役割を果たしていたようです。

なお文庫版は、2010年6月に新書で発刊した内容に加筆・増補、修正もなされてますので、新書が絶版となっている現在、お勧めの本となっています。



宝暦治水(宝暦4(1754)年~宝暦5(1755)年)の普請で1000人近いたくさんの兵士が、島津から濃州に来ます。
徳川幕府は、強大な島津藩の勢力を弱めるために普請を命じたと言われていますが、家臣の平田靱負(ひらたゆきえ)は、「同じ日本国の人が、とても困っているのだから助けてあげよう」と言って、難工事を引き受けます。

島津は幕府に命じられたとはいえ、はるか遠く、まったく知らない人のために命を尽くし、立派に工事を完遂させました。




島津退き口 治水神社

島津退き口 治水神社

島津退き口 治水神社
島津の工事責任者、平田靱負。

島津退き口 治水神社

すでに真っ暗でしたが、予定より早く、帰還地の名古屋駅前につきました。
雨の中、桐野先生は参加者のみなさんの記念写真の要望に、応えておられました。

ルポ⑦ 白拍子谷

いよいよ本日最後の目的地、白拍子谷です。
白拍子谷は現在、合併により大垣市となっていますが、上石津町上多良地区です。

史跡として白拍子谷はあまり紹介されていない所で、きちんとした案内板はありません。


豊久の墓から、およそ800mぐらいを歩きます。 
下記の写真の竹林を抜けると、日吉神社があってその境内を抜けます。
関ケ原合戦 島津の退き口 島津豊久 上石津町 白拍子谷



関ケ原合戦 島津の退き口 島津豊久 上石津町 白拍子谷
上の写真のように境内を抜けて道路をわたり、旧名及((なぎう)と読む、奈幾宇とも書く)村の、堂木(どうき)川(※堂木谷川とも言います)という川に向かいます。
※「上石津における関ケ原合戦と島津軍の背進 総集編(辻下榮一編者)」P35参照


伝承では豊久は、この地より関ケ原に近い伊勢街道で命を張った殿戦のために傷つき、大垣市上石津上野の方から西伊勢街道沿いに退却、険しい勝地(かちじ)峠を家臣らに助けられながらようやく超え、多良郷、さらに南下し、上多良の方まで落ち逃れてきます。


地元に残る伝承はいくつかあり、その中の一つでは、かくまってくれるように村に入ってあたりますが、断られ続け、傷が深いため、最終的に案内をしてもらって白拍子谷まできて、そして自刃しました。



豊久の亡骸は、地元の三輪内助入道方斉というものがお寺にて丁重に荼毘(だび)に付し(火葬のこと)ます。
当時はまだ瑠璃光寺があった地に、正覚山薬師寺という寺があり、そこに葬られました。
この経緯について、島津側に残る史料、「倭文麻環(しずのおだまき)」に記述があります。
※合戦当時の慶長年間は、瑠璃光寺はなく、正覚山薬師寺であったと「養老郡史」にあります。
正覚山薬師寺が廃寺になったあと再興され(天明6(1786)年、安永7(1778)年とも言われています)て、高輪山瑠璃光寺として改称されました。

関ケ原合戦 島津の退き口 島津豊久 上石津町 白拍子谷
上の写真は、堂木川の左岸を上流の方に歩いているところ。
ススキが、季節を感じさせます。  


関ケ原合戦 島津の退き口 島津豊久 上石津町 白拍子谷
さらに200mほど、小さなコンクリート橋を左に見ながら、二つ越えて進みます。
写真のように三つ目の橋を渡って、何もなさそうな所を谷の奥の方に進むと、白拍子谷と書いた石柱が見えます。

詳しい行き方はこちらをどうぞ。

関ケ原合戦 島津の退き口 島津豊久 上石津町 白拍子谷
石柱です。

関ケ原合戦 島津の退き口 島津豊久 上石津町 白拍子谷



関ケ原合戦 島津の退き口 島津豊久 上石津町 白拍子谷
上の写真は、戦国時代のような風景に囲まれながら、参加者全員で、桐野先生に豊久と白拍子谷について、解説を聞いているところです。
白拍子谷の「白拍子」は、「しらびょうし」とも読み、江戸時代は遊女のことを意味していた言葉だそうで、どうしてこの名がつけられたのかはわかりません。
いろいろな伝承が、他にもありそうです。


バスが停車している堂木橋付近まで、歩きます。   
夕方近くになってきましたが、時間的にまだ取れそうなので江戸時代の宝暦治水に由来する、治水神社(岐阜県海津市)まで行くことにしました。
治水神社は今も、薩摩、今の鹿児島県と、とても深い絆を持ち続けています。

史実では、義弘が退却するときに南下したと言われる、東伊勢街道をバスで行きます。
これまで雨が降らずもってきましたが、いよいよ天気が、あやしくなってきました。 

ルポ⑥ 豊久の菩提寺、瑠璃光寺

琳光寺から国道365号に入りトンネルをくぐってすぐに、細い旧西伊勢街道(裏伊勢街道とも言います)に入ります。
距離にしておよそ9㎞の瑠璃光寺まで、バスでおよそ20分。

国道でずっと行くルートの方が大型バスでは行きやすいのですが、退路と言われる西伊勢街道を通って行くことを考えました。

西伊勢街道は、実は大型バスが通れるかどうかわからず、現地を見たところ、大垣駅前へ行く名阪近鉄バスの路線バス(大垣多良線)が通っていることがわかりました。
今回の旅行会社、名阪近鉄旅行から名阪近鉄バスの担当者様に問い合わせをお願いしたところ、大型観光バスが通行可能だと確認できました。

実は本当に通行可能か不安な部分、また古い街並みが残る細い道を通っていいのかな、という気持ちもあったのですが、バス運転手様の見事な運転で走りきりました。
また幸いにも、対向車はありませんでした。
誠にありがとうございました。


当日写真が撮れませんでしたが、下記は別の日、その日は雨でしたが、現地に行った時の写真です。
写真は路線バスで、「多良・時」と書いてあります。
「時」は、島津が退いた時に通ったと言われている方面です。

関ケ原合戦 島津の退き口 瑠璃光寺 西伊勢街道 上石津町

当時の街道の雰囲気が、現在も残っています。
街道の道は通行車が少ない所ではありますが、国道を通れば快適に瑠璃光寺まで行けます。
関ケ原合戦 島津の退き口 瑠璃光寺 西伊勢街道 上石津町


写真下は瑠璃光寺に着いて、階段を上がる所。
関ケ原合戦 島津の退き口 瑠璃光寺 島津豊久の菩提寺

瑠璃光寺は、旧上多良(かみたら)樫原(柏原(かしわら))村にあります。
寺に上がる階段で、まずは記念写真。
関ケ原合戦 島津の退き口 瑠璃光寺 島津豊久の菩提寺


寺の正面には、大きく「島津豊久公菩提寺」と書かれている新しい石碑です。
「公」がついているのは、豊久は31歳と若くして亡くなりますが佐土原2万8600石(出典「関ヶ原の役」)の領主であるからです。
関ケ原合戦 島津の退き口 瑠璃光寺 島津豊久の菩提寺

関ケ原合戦 島津の退き口 瑠璃光寺 島津豊久の菩提寺 上石津町

戦前、金属類回収令で鐘が供出され、昭和25(1950)年に再び作られた鐘が、現在のものです。
関ケ原合戦 島津の退き口 瑠璃光寺 島津豊久の菩提寺

この鐘に、「慶長年中当国関ヶ原陣之砌(の時)、薩州島津中啓公於此所(ここにおいて)戦死。於二當(とう)寺葬」と刻まれています。

慶長の間に行われた関ケ原合戦で、薩州の島津中啓公(豊久のこと、「中啓」は「中務」のことでないかと桐野先生より御指摘ありました)がここで戦死した。この寺で埋葬されたと、書いてあります。
関ケ原合戦 島津の退き口 瑠璃光寺 島津豊久の菩提寺



豊久の位牌の写真をご用意させて頂きました。
江戸時代の位牌ですので、字が読みづらくなっていますが、位牌には「嶋光院殿忠道源津大居士神儀」と書かれています。
この字の中に、「嶋」「津」の二文字があり、つなげると島津になると、参加者の方より御指摘ありました。
江戸時代から今に至るまで、瑠璃光寺にて大切に弔われています。

豊久が亡くなった所を見たものが、島津側には誰もいません。
そこで江戸時代になって、豊久がなくなった場所を探しに、薩摩の方が来たという記録が、上石津に、また島津にもあります。

別の機会に紹介します。
関ケ原合戦 島津の退き口 瑠璃光寺 島津豊久の菩提寺 上石津町



瑠璃光寺には、豊久の顕彰会会長、その関係者などたくさんの関係者が豊久の菩提寺ということで来られています。
島津の現当主、島津修久氏も一緒に来られています。
町の中には、上多良地区の児童が作ったと思われる関ケ原戦跡踏破隊の歓迎の看板があります。

関ケ原合戦 島津の退き口 瑠璃光寺 島津豊久の菩提寺 上石津町

瑠璃光寺の住職様には、御挨拶にうかがったときに豊久の伝承を興味深くお話して頂きました。
今回残念なことに日があわないため、また豊久の位牌は撮影させて頂いたものを、参加者にご紹介をさせて頂きました。


続いて、地元では島津塚(通称でカンリヤブ、カンリンヤブとも言われています)または薩摩塚と言われている、島津豊久の墓に行きます。

最近、広域農道のきれいな道が、島津塚に入る所にできました。
桐野先生によると、豊久の墓は以前来た時は草原の中に入っていく感じであったようです。
関ケ原合戦 島津の退き口 瑠璃光寺 島津豊久の菩提寺 上石津町


これから、中に入っていきます。
関ケ原合戦 島津の退き口 島津塚 薩摩塚 島津豊久の墓


下の写真が豊久の墓です。
今年の夏に撮ったものです。
当日は、瑠璃光寺の方が掃除して新しいお花をお供えしていただいていたはずなのですが、うっかりして確認をしていません。
ごめんなさい。

薩摩に伝わっている話などをまとめた「倭文麻環」には、「墓表に大なる山茶樹(つばき)を植えたり。是豊久の墓とぞ、土人の説に当時三輪内助入道方斉といふ者豊久の死骸を拾(ひろ)ひ此地(このち)に葬り」とあります。

墓の前に大きくはありませんでしたが、参加者らでみるとつばきはありました。


関ケ原合戦 島津の退き口 瑠璃光寺 島津塚 島津豊久 上石津町


合戦後400年後につくられた、豊久を顕彰する碑。
関ケ原合戦 島津の退き口 瑠璃光寺 島津塚 島津豊久 上石津町

続いて近くの、豊久が自刃したとの伝承がある白拍子谷まで行きます。
まだ雨が降らないで、何とかもっています。

ルポ⑤ 伊勢街道(九里半街道)で阿多盛淳の墓のある琳光寺へ

関ケ原合戦 島津の退き口 伊勢街道 九里半街道 阿多長寿院盛淳 琳光寺
写真は伊勢街道にて琳光寺に入っていく道。
上野と書いてあるバス停。
伊勢街道は、この角で左に曲がります。


関ケ原合戦 島津の退き口 伊勢街道 九里半街道 阿多長寿院盛淳 琳光寺
九里半歴史文化回廊の方が作られた、九里半街道の案内板が立っています。
琳光寺は大垣市上石津町牧田の上野にあります。



関ケ原合戦 島津の退き口 伊勢街道 九里半街道 阿多長寿院盛淳 琳光寺
琳光寺に着くと、バスの運転手さんが弁当の搬入を手伝っていました。
左端に小さく見える方です。
ありがとうございました。

待ちに待った昼食ですが、その前に、阿多長寿院盛淳の石碑と、お墓を見ます。

関ケ原合戦 島津の退き口 伊勢街道 九里半街道 阿多長寿院盛淳 琳光寺
上の写真は盛淳の石碑。
敷地は元中学校で(表示板には小学校と書いてあります)、現在は大垣市就業改善センター、大垣市上石津地域事務所牧田支所があります。


関ケ原合戦 島津の退き口 伊勢街道 九里半街道 阿多長寿院盛淳 琳光寺
石碑の裏の文章は、豊久と同じ小牧昌業の作ったものです。

内容は、畠山頼国の子孫であること、義弘の陣場織りを着て、われは義弘なりと奮戦し、身代わりとなって亡くなる。時は53歳、部下の10余人が一緒に亡くなったこと、などです。

盛淳の合戦での功績は、非常に大きなものでした。
盛淳が盾(たて)となって防いだのは、時間としては短かったかもしれませんが、この時間が義弘を生き残らせる、決定的な時間稼ぎになったことは明らかです。


琳光寺は、島津家の現当主、島津修久(しまづのぶひさ)氏が今年の夏に来られました。50回以上を数える関ケ原戦跡踏破隊は毎年、また盛淳の子孫の方なども来られています。


関ケ原合戦 島津の退き口 伊勢街道 九里半街道 阿多長寿院盛淳 琳光寺
境内に入ったところ。

関ケ原合戦 島津の退き口 伊勢街道 九里半街道 阿多長寿院盛淳 琳光寺

関ケ原合戦 島津の退き口 伊勢街道 九里半街道 阿多長寿院盛淳 琳光寺
盛淳の墓の前にある石碑です。
琳光寺様、お花をありがとうございました。

石碑を書かれたのは、大正12(1923)年、侯爵の島津忠重氏です。
忠重氏は、島津30代当主の方です。
明治、大正、昭和と三つの時代に、たくさんの功績を残されている方です。


関ケ原合戦 島津の退き口 伊勢街道 九里半街道 阿多長寿院盛淳 琳光寺
桐野先生の笑顔。

関ケ原合戦 島津の退き口 伊勢街道 九里半街道 阿多長寿院盛淳 琳光寺
琳光寺の本殿に入る所です。
琳光寺の住職の方は当日ご不在でしたが、昼食の場所としてお許し頂きました。
誠にありがたいことでした。


関ケ原合戦 島津の退き口 島津弁当 阿多長寿院盛淳 琳光寺
本日の最大のサプライズ!!
弁当を外から撮った写真。
弁当の隣は、鹿児島などの名物和菓子の「かるかん」。


関ケ原合戦 島津の退き口 島津弁当 阿多長寿院盛淳 琳光寺
スタッフにより、「あくまき」が一つ一つに切って配られます。
あくまきは鹿児島特有の「もち」の和菓子で、関ケ原合戦の時、若い兵士のための日持ちする食糧として作ったと言われています。


関ケ原合戦 島津の退き口 伊勢街道 九里半街道 阿多長寿院盛淳 琳光寺
小さくて見づらいですが、入って正面奥に阿多長寿院盛淳の位牌を置いていただきました。
位牌の写真は、琳光寺の方に特別に撮影許可頂きました。



弁当箱をひろげると……。 


関ケ原合戦 島津の退き口 島津弁当 長寿院盛淳 琳光寺




関ケ原合戦 島津の退き口 島津弁当 長寿院盛淳 琳光寺
皆様、食べ始めた所です。
魚しげ様、日比野光敏先生をはじめ、たくさんの方のご協力を得て、弁当を作ることができました。

ほとんどの方がうれしいことに……
記念に弁当箱を持って帰られました。


関ケ原合戦 島津の退き口 島津弁当 長寿院盛淳 琳光寺
上の写真で、石碑の左に、小さいですが五輪塔が見えます。
この街道沿いで、島津のたくさんの兵が亡くなりました。
江戸時代の宝暦治水(宝暦4(1754)年~宝暦5(1755)年)で薩摩藩士は、街道沿いなどに戦死者を弔うためにたくさんの五輪塔を置いていったとも言われています。
「この工事に参加していた藩士数人が、牧田の戦死地を訪れ、自然石の貧弱な墓印を見て哀れを感じ、昼間の激しい労働の疲れもいとわず、こつこつと五輪石を刻み供養したものであると伝えている」と、蒲生町史(辻下榮一編著「上石津における関ケ原合戦と島津軍の背進 総集編」P20)にあります。
すでに150年以上経ち、合戦の生き残りはほとんどのこっていなかったと思われますが、合戦の経験は薩摩藩の中で語り継ぐべきものとされていました。


五輪塔はもともと戦死地にありましたが、後に琳光寺に集められたそうです。
琳光寺様に今は守られています。


関ケ原合戦 島津の退き口 島津弁当 長寿院盛淳 琳光寺
今年の夏に撮った写真です。
中央は盛淳のお墓です。
周囲は家臣のお墓でしょうか。



関ケ原合戦 島津の退き口 島津弁当 長寿院盛淳 琳光寺
さらに奥にも、五輪塔などがあります。
上の写真は、無名の戦死者のために作ったものでしょうか。
琳光寺の方が、いつもきれいになされております。
同じ今年の夏の写真ですが、夕方なので右上からの太陽、写真左下が赤くなっています。


次は、豊久の墓がある瑠璃光寺までバスで行きます。

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