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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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奥平貞治の墓 その2

貞治が、長篠の合戦に参加したという話があります。

昨日のブログでは、碑に書いてある歳より考えた、貞治の生まれたことについて書きました。
この説に立つと年齢的に、長篠の戦いには参加はできなくなります。

引き続き、調べてみたいと思います。


その後の貞治ですが、秀吉に取り立てられ、馬廻衆(うままわりしゅう)、つまり秀吉の側近になったと言われます。





慶長5(1600)年、天下統一を成し遂げた秀吉が亡くなって2年、家康は着々と秀吉恩顧(おんこ)の大名を味方に取り込んでいました。
家康は石田三成との合戦が避けられないようになると、黒田長政(くろだながまさ)らを通じ、小早川秀秋(こばやかわひであき)に東軍に付くように約束をさせていました。
家康は秀秋が年若く、本当に約束通り東軍として戦ってくれるかどうか、疑いの目でみていました。

そこで家康は奥平貞治(おくだいらさだのぶ)に、秀秋を監視させます。
東軍西軍の均衡する軍勢を考えると、この役割は非常に大きなものでした。


合戦が始まってしばらく動かなかった秀秋が動くと、秀秋の近くにいた貞治は、先頭をきって大谷吉継の隊に向かっていきました。

大谷隊は、朝から戦闘に加わっていたので勢いは衰えていましたが士気は高く、押し寄せてくる小早川隊に対し頑強に抵抗し、松尾山まで押し返したとも言われています。
対する貞治は小早川隊を鼓舞して戦い、自らは討ち死にします。

小早川隊にとって、揺るぎない気持ちで参戦した貞治は、大きな力となったと考えられます。
碑の裏には、「秀秋軍監ノ死ヲ見テ諸将ト共二力戦シ遂二大ニ西軍ヲ破ル」とあります。

小早川隊が戦闘に加わったことで、さらに脇坂隊らも加わり、東軍は勝機をつかんだのです。


合戦後、家康は貞治の功績を認め、跡継ぎがいなかった貞治の母親に、200石を与えます。
家康が賞罰を与えた武将の中で、貞治のような例は他にありません。
秀秋を動かしたことを、恩義に感じたのかしれません。


関ケ原合戦 奥平貞治の墓 奥平家の軍旗
夏の青空の下、奥平家の軍旗

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あかねで~す★

こんにちは(*´ω`*)

今回の担当は、あかねで~す♪♪

最近涼しくなってきましたね(^^)

この季節好きなようで、嫌いです(^_^;)

なぜならば、食べても食べても食欲が止まらないからですww

こりゃ~ヤバイですねww

でも、ポジティブあかねは気にしません(^O^)

ジム通いつつ、美味しい物いっぱい食べたいと思います☆彡

でわ、次の担当はconaさんです♫




奥平貞治の墓 その1

奥平貞治(おくだいらさだはる)の墓は、元治元(1864)年に、子孫の奥平新左衛門源貞昭(さだあき)が北国街道沿いの地、関ケ原町内玉地区に建てました。
その後岐阜県不破古跡保存会により、その横に碑が建てられています。



関ケ原合戦の有名な東軍武将で、関ケ原町内に子孫の方が墓を建てられているのはここだけです。
貞治はどんな人か興味を持って、少し調べました。
貞治についてあまり資料がないため、奥平氏としての動向から補いたいと思います。

    

奥平氏は戦国時代、駿河(静岡県)の今川氏、三河(愛知県)の松平(徳川)氏、甲斐(山梨県)の武田(たけだ)氏と主君を変えます。

元亀3年(1572年)信玄は京都をめざすため、その道途中の遠江(とおとうみ)を攻めます。
信玄は巧みな戦術で家康を追い詰め、三方原の戦いでは家康は大敗北しています。


元亀4年(1573年)、武田信玄(たけだしんげん)死去を確信した奥平家当主、貞治の兄である奥平貞能(さだよし)は、武田氏から再び家康に付くことを決断し、一族を連れて亀山城を出て、家康の家臣になりました。
貞能は家康の命で対武田氏の最前線、長篠(ながしの)城(愛知県新城市鳳来町)の守備を担います。

2年後の天正3年(1575年)、1万5千の大軍を率いる武田勝頼(かつより)は、長篠城の再奪還のため、奥平隊500名が守る城を攻めます。
勝頼の猛攻と備蓄食糧が焼かれたため、落城寸前になりましたが、貞能と嫡子の貞昌(後の信昌)父子率いる奥平隊は、何とか持ちこたえます。

  

いよいよ城が落ちそうになると、家康に救援を求め、信玄亡き後も戦国最強と言われた武田軍に対し、戦力不足の家康は、織田信長に援軍を要請します。
信長家康の連合軍は家康8千と合わせ、3万8千の戦力で設楽原(したらがはら/愛知県新城市)にて、勝頼と戦いました。

これが有名な長篠の戦いで、勝頼は敗走し、以後次第に、武田氏は衰退していきます。
長篠城の籠城は、戦略的にとても意義があったので、信長は奥平家の功績をほめ称えます。


最大の敵、武田氏を退けた信長は、天下統一に向けて大きく弾みをつけ、戦国大名の勢力地図は大きく変わっていきます。
一方この戦いで家康は、三河を安心して治めることができるようになり、疲弊した領内を立て直す時間を得ました。



この当時の貞治ですが、大正8(1919)年3月建之(けんし)の貞治の碑の裏に「奮戦シテ死ス時二二十八」と刻んであることから、慶長5(1600)年関ケ原合戦時は28歳です。

計算すると貞治が生まれたのは元亀4・天正元(1573)年。
この年、武田信玄が作戦途中、病にて亡くなっています。

兄の貞能が長篠城に籠城していた時、貞治は3歳と推測されます。
満で言うと貞治は2歳なので大変厳しかった城の戦いも、ほとんど記憶にないかもしれません。
しかし父兄や家臣は、その戦いの様子をくりかえし話したのではないでしょうか。


関ケ原合戦 奥平貞治の墓
関ケ原町玉(旧玉村宿)地内を通る旧北国街道(北国脇往還)を少し入った所に、墓と碑がひっそりとあります。

ミッチーです!!!

こんにちは!

笹尾山交流館のハリソン・フォードことミッチーです(*´ω`*)

関ケ原で働き始めて約3ヶ月、もともと歴史好きもありまして毎日が充実しております。

もうすぐ三十路の私ですが関ケ原に来てから未だに慣れない物があります

ズバリ・・・・です(;´∀`)

草むらに行くと、体が痒くなります(笑)

ビビりではないですが、虫だけは好きにはなれません。

関ケ原には、未知の虫が多すぎです。基本サイズがでかいので余計に恐ろしく感じます

ちなみにカマキリは超カッコイイと思います。

まあそんなことはどうでもいいですが(笑)

なんやかんやでなんやかんやなんで、次は関ケ原のおすすめを紹介します

まず、関ケ原はのどかな風景が広がっています

それを感じながら『平和だなぁ~』と言ってみてください。

心が洗われていきます。

そしてヤギ乳アイスを片手に夏の関ケ原を満喫してみてはいかがでしょうか?

では、次回はあかねちゃんの登場です!!!


第4回関ケ原笹尾山交流広場レポート

8月18日(日)第4回笹尾山交流広場を開催しました。

ゲストは元祖歴ドル(歴史系アイドル)の美甘子さんと小日向えりさん。
夏らしく浴衣で登場!カワユス!
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美甘子IMG_2368_R.jpg
小日向えりIMG_2316_R.jpg

まず最初は「戦国トーク」
歴史家の坂本雅央先生をコーディネーターとして迎え「私の好きな戦国武将」という
お題で、歴ドル2人のベスト3を挙げて頂き
その武将にまつわるお話などを1時間に亘り展開。
IMG_2356_R.jpg坂本雅央先生

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さすが歴ドル!武将の知識や人物像もアツ~ク語って下さいました。

続いて特設ステージでは「関ケ原もののふコンテスト」が行われました。
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この日も暑い関ケ原で甲冑武者たちが熱く思いの丈を発していました。
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関ケ原クイズバトルでは笹尾山を舞台に「バラマキクイズ」が繰り広げられました。
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クイズの入った封筒を笹尾山中腹まで拾いに行き、答えます。
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不正解やハズレを引いてしまった場合はまた封筒を取りにいきます。
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何度も往復した参加者には相当堪えたみたいで
参加者は肩で大きく息をしていました。
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「歴ドルと行く!笹尾山ミニウォーキング」では歴ドル2人と笹尾山山頂の見晴台に向かい
参加者とゆる~いフリートークが行われました。
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歴ドルファンには堪らないイベントだったのではないのでしょうか…。

笹尾山交流広場恒例「ジャンケンバトル」
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そして「歴ドル餅まき」
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「餅まき」の餅の中には当たりが入っており、当たった人には歴ドルのサイン色紙がプレゼントされました。
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しかし笹尾山交流広場の餅まき、餅の数が違います。
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総数1600個…
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投げる側も取る側も死力を尽くした攻防。まさに合戦。

今夏の笹尾山交流広場はこれにて終了ですが、今秋の笹尾山交流広場もぜひお楽しみ下さい。
次回は9/29(日)開催です。


こんにちは!!!!
売店の紹介をします
最近は暑いので、うちわとタオルがよく売れています
私のおすすめは、クリアファイルです
長野剛先生が書いた、イラストでとってもカッコイイです。
※長野剛先生は信長の野望のキャラクターなど書かれた有名な先生です
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このファイルは、関ケ原笹尾山交流館でしか手に入りません。
値段も300円ととってもお得です。 ぜひお土産にいかがですか?

こんにちはイクゾーです。

こんにちは。

先日、全国2位の暑さを記録した酷暑の関ケ原において、屋外でやぎ乳アイスを売っていた、笹尾山交流館スタッフのイクゾーです。

実はカメラマンです。

笹尾山交流広場でカメラ持ち歩いて写真撮りまくっているのが、イクゾーです。
関ケ原町に通い始めて4年になります。

きっかけは410年祭の関ケ原合戦絵巻の撮影に来てからになります。
合戦絵巻の陣に混ざって撮影をしておりました。
こんな格好で(笑)
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気が付けば、歴史が好きになり歴史モノの本やマンガを読むようになり、関ケ原が好きになってしまった、自称「古戦場カメラマン」ですww
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そんな私イクゾーの趣味はやはり写真撮影なのです。
で、どういう被写体が好きかというと…
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夜空と景色を撮影した「星景写真」を撮るのが趣味です。
そして水中も…
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色んな星空や水の中で撮影するのが好きなのです。

で、最近、個人的に気に入ってる写真があります。
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関ケ原で多くのことを感じて学んで、多くの笑顔が溢れますように。

イクゾーは関ケ原での勤務が9月末までですが、それまで関ケ原に訪れる皆さまに笑顔で過ごすことが出来ますように、しっかり案内などしていきたいと思います。

どうぞお越しくださいませ!

…次はミッチーです。

松尾山・小早川秀秋の陣跡

関ケ原合戦 松尾山・小早川秀秋の陣跡

小早川秀秋(こばやかわひであき)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の正室、北の政所(きたのまんどころ/高台院(こうだいいん))の兄の子ども、秀吉にとっては義理の甥になります。

秀吉と北の政所の間に子どもがいなかったことで、小さい頃に秀吉の養子となり、北政所によって大切に育てられます。
元服して木下秀俊(きのしたひでとし)、また羽柴秀俊(はしばひでとし)、豊臣秀俊(とよとみひでとし)と名が変わり、周りからは豊臣秀次(ひでつぐ)の次に、豊臣家を継いでいくものと見られていました。



しかし文禄2年(1593)年、秀吉に秀頼(ひでより)が生まれ、運命は急転します。
翌文禄3年(1594年)13歳で、秀吉により小早川家に養子に出され、秀次は自刃、さらに秀秋は城を没収させられます。
見かねた養父の小早川隆景(たかかげ)は、30万石の所領を家督(かとく)相続させます。

16歳の時に参加した慶長の役(1597~8年)では、秀吉の命を受けて釜山(ぷさん)へ、総大将として参戦します。
この戦いで秀秋は味方を救おうとし、自ら先頭に立って行動するのですが、総大将としてあらざるべき、軽率な行動をしたととがめられ、転封(てんぽう)させられます。
秀吉の死後、家康らにより転封は破棄され、以前の所領に復帰することができます。
秀秋はその地で、農民を保護し、農村復興に努めました。



慶長5年(1600)年関ケ原合戦では、秀秋はもともと東軍側にて伏見城入りするつもりでしたが、籠城(ろうじょう)していた鳥居元忠(とりいもとただ)に疑われて拒否され、成り行きで西軍側となりました。
7月21日から、西軍の伏見城攻めに副将として加わります。
8月1日に伏見城が陥落した後、大坂に戻り、8月17日に出陣した後は近江付近を移動し、9月13日頃には柏原にいたと言われます。
秀秋はこの間、何度か家康に、内通の意思を伝える使者を送っています。

9月14日午後、松尾山を守っていた伊藤盛正(いとうもりまさ)を追い出し、1万5千(一説では8千)の隊で着陣します。
実は石田三成(いしだみつなり)は、松尾山に大坂方、毛利輝元(もうりてるもと)、さらに秀頼を入れたいと考えていました。
そこで大垣城主であった盛正に、廃城になっていた山を再整備させ、盛正にその守備を任せていた矢先の出来事でした。

家康と三成は、秀秋がどちらにつくかを疑っていました。
約束を守らせるために家康は、忠義心が厚い奥平貞治(おくだいらさだはる)を軍監として、小早川陣地に入れるなどしていました。
一方で三成は、「秀頼が成人になるまで関白職にする」など、魅力的な条件を出していました。
同日、秀秋の去就は合戦の勝敗を左右させるため、東西両方から勧誘の使者が秀秋に来ています。
秀秋には、稲葉正成(いなばまさなり)、平岡頼勝(ひらおかよりかつ)など、東軍側と通じていた家臣が多く、最初から東軍として出陣する時機をうかがっていたのではないかとも考えられます。

合戦がはじまって秀秋はしばらく、じっと山上から戦いの行方を見ていました。
東軍の形勢は、予想したより思わしくない。
秀秋隊は、しびれをきらした家康隊による鉄砲発砲をきっかけに、大谷吉継の隊へとなだれこんだと言われています。
秀秋の参戦で東軍は一気に勢いを盛り返し、勝敗の動向は決定的になりました。

秀秋は合戦後、その功績により宇喜多秀家(うきたひでいえ)の所領、備前(びぜん)岡山51万国に加増移封(いほう)されます。
しかし2年後、21歳の若さで病死し、家は断絶します。

小早川秀秋陣地跡から、関ケ原盆地を望む
小早川秀秋陣地跡から、石田三成の陣地を望む

関ケ原合戦 松尾山・小早川秀秋の陣跡
実際に登るとかなりの規模の山城であることがわかる。縄張図をもって歩かれることをお勧めしたい。松尾側の駐車場から登ると1時間、反対側の平井の集落からは50分ほどで登ることができる。


関ケ原合戦 松尾山・小早川秀秋の陣跡
この写真は、関ケ原盆地側の松尾からではなく、反対側の平井から登って撮ったもの。正面の土の壁はまっすぐに攻めて来る敵を、方向を曲げさせて勢いを殺すためのもので虎口(こぐち)と言います。


小早川秀秋陣地跡から、石田三成の陣地を望む
松尾山の山頂から麓を見下ろす。現在は木が多く生えているが、当時は今より少なかったと考えられます。また秀秋は山頂にいましたが、大多数の兵は山の麓の方に布陣していたと考えられます。


第4回関ケ原笹尾山交流広場が開催されました!

8月18日の日曜日、第4回関ケ原笹尾山交流広場が開催されました。


お暑い中、多くの皆さまにご来場いただき、誠にありがとうございました。

当日は、美甘子さんと小日向えりさんという元祖・二大歴ドルが登場!
熱い歴史トークを繰り広げていただきました。
歴ドルのおふたりや甲冑武者も参加しての餅まきも盛り上がりましたよ。

くわしいご報告は、また後日!

              

まだまだ暑い日が続きます。皆さま、体調に気をつけて。
関ケ原にも、また足をお運びくださいね。

山内一豊の陣跡

山内一豊は一般には「やまうちかずとよ」と呼んでいますが、「かつとよ」とも呼びます。
信長、秀吉、家康の3人に仕えた、数少ない武将の一人です。
一豊と言えば、妻の千代(ちよ)の、内助(ないじょ)の功が有名です。



一豊が15歳の時、父が仕えていた岩倉織田(いわくらおだ)家が、織田信長(おだのぶなが)との戦いに破れ、父は亡くなります。
その後、母や弟妹とともに転々と流浪し、苦労をしています。
そのため一豊は、機敏に立ち回る術を身につけたのではないかと思われます。

天正18(1590)年、もともと秀吉の信頼が厚かった一豊は、秀吉の最初の城でもあった長浜城から、東海道の要所、掛川(かけがわ)城に転封(てんぽう)します。
役目は、江戸の徳川家康(とくがわいえやす)に対する、監視と守備でした。

その後一豊は次第に家康に近づき、慶長5(1600)年6月、上杉景勝(うえすぎかげかつ)討伐の時には、東海道を下る家康に、自分の領地掛川にて接待をします。
一豊は生き残りのため、積極的に家康側につくことをしたと思われます。

同年7月24日、千代からの手紙で、開封しないで家康に届けるように書いてあった、文箱を受け取ります。
中には、増田長盛(ましたながもり)と長束正家(なつかまさいえ)連名による、諸将に西軍への加勢を促す文と、大坂の詳しい状況を書き記した文が入っていて、これにより家康は西軍の動向を逸早く知ることができました。
また一豊は7月25日の小山評定(おやまひょうじょう)では、自分の城を明け渡し、家康に提供すること、二心(にしん)がないことを明らかにするために、人質を出すことを、諸将に先がけて申し出ます。
聞いていた東海道沿いの諸将は誘われて、いずれも内府(家康)に城を差し出すことを誓います。
この気配りを、家康は大いに喜びます。

一豊は合戦では、家康が最初に布陣した桃配山(ももくばりやま)の近く、中山道沿いの野上(のがみ)に布陣します。毛利秀元(もうりひでもと)、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)らによる、背後からの攻めに備えていました。
毛利らが動かないことがわかると、家康は一豊を前線に移動させます。
関ケ原では目立った活躍はありませんでしたが、家康の一豊への信頼は深まり、合戦後は6万国から土佐(現在の高知県)国20万石の大名になります。

関が原の合戦 山内一豊の陣跡

山内一豊陣跡付近の中山道と松並木。
保存のため、関ケ原町では中山道沿いの松並木を、天然記念物に指定しています。



関ケ原の合戦 山内一豊の陣跡 中山道

本多忠勝の陣跡

兜(かぶと)に鹿の角のような装飾をほどこし、豪胆で名をはせた本多忠勝(ほんだただかつ)。
生涯、50以上の戦いに出陣、一度も負傷しなかったと言われます。

  

長く徳川家に仕え、関ケ原合戦では500名に満たない小隊にて参加します。
本多隊の主力は、徳川家康の嫡男(ちゃくなん)、徳川秀忠(ひでただ)に率いられ、西美濃には到着していませんでした。

秀忠率いる隊は、先陣を務めることができる精鋭部隊であり、家康側に結集している諸将の現状は、豊臣恩顧の武将がほとんどであったのです。
そのために家康は、秀忠を待っていたのです。

ところが9月14日になっても、中山道の信州本山宿(長野県塩尻市)付近を関ケ原に向け、急ぎ進軍中でした。
家康は忠勝、井伊直政(いいなおまさ)と相談します。

すると忠勝は、秀忠隊を待つことを主張し、直政は、即時決戦を主張します。
家康は結局、秀忠を待たずに決戦に挑むことを決めました。

秀忠到着を待っていると、大坂の毛利輝元(もうりてるもと)が豊臣秀頼(とよとみひでより)をいただき、出陣する恐れがありました。
そうなると、勝機を逃がす恐れがあったからです。



こうして9月15日、決戦日。
忠勝、直政率いる隊は、家康直属の部隊として活躍をします。
忠勝は味方の危機を、率いる十数人で救ったり、井伊直政とともに突撃を繰り返し、首級を90以上あげるなどします。
合戦が終わった直後、福島正則(ふくしままさのり)は忠勝の戦いぶりを家康に、「ききしにまされり」と評しました。
忠勝は武功だけでなく、合戦前後、直政とともに輝元、吉川広家(きっかわひろいえ)など、諸大名に誓紙(せいし)を多数送って、寝返り工作もしています。

これらの功績で家康は忠勝を、もともと伊勢国桑名藩(三重県桑名市)10万石に移封であったのに加えて、5万石を加増しようとしました。
しかし忠勝はこれを固辞(こじ)したため、忠勝の次男、本多忠朝(ほんだただとも)に5万石を与えます。

忠勝の陣跡は、住宅の脇から少し入った公民館の裏にあります。 
車の通り道から陣跡はわかりづらいので、忠勝の軍旗が外からの目印になります。
関ケ原合戦 本多忠勝の陣跡


藤堂高虎・京極高知陣の陣跡

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関ケ原中学校内にある高虎・高知の陣跡碑。校門を入ってすぐ右手の緑地に立っています。



藤堂高虎(とうどうたかとら)と京極高知(きょうごくたかとも)の隊は、東軍の第二陣として、知将として名を馳(は)せる大谷吉継(おおたによしつぐ)の隊と闘いました。

最初は大谷隊に押されぎみでしたが、小早川(こばやかわ)隊、さらに大谷隊に付いていたはずの、脇坂安治(わきざかやすはる)・小川裕忠(おがわすけただ)・朽木元綱(くつきもとつな)・赤座直保(あかざなおやす)の隊が加わり、大谷隊を殲滅(せんめつ)に追い込んでいきました。

藤堂高虎は生涯の間に幾度も主(あるじ)を替えていますが、秀吉の死後はすぐに、次の天下人となるであろうと考えた、徳川家康につきます。
戦国時代当時、武将の価値観は「いかに家名を生き残らせるか」で、その当時はもっともな行動でした。

関ケ原合戦の三週間ほど前、織田秀信(おだひでのぶ)が居た岐阜城を攻略し終わった池田輝政(いけだてるまさ)、福島正則(ふくしままさのり)ら東軍の先陣は、続いて三成がいた大垣城を攻めようとしました。
この時はまだ江戸にいた家康を、到着まで待とうと諸将を説得したのは高虎でした。
その結果、家康は関ケ原合戦参戦に間に合いました。
これらの行動によって高虎は、さらに家康の高い信頼を得ました。


高知の京極家は近江の名門で、兄の京極高次(たかつぐ)も、行動は別ですが東軍に参加します。
高知は、大津城で籠城(ろうじょう)する兄に対し、東軍の情勢を逐一報告します。
それに励まされ、高次は、西軍の立花宗茂(たちばなむねしげ)らの猛攻を耐え抜きます。
その結果、宗茂らの関ケ原への到着が遅れ、東軍の勝利に貢献しました。

なお、本陣跡碑は関ケ原中学校の敷地内にありますので、
見学にあたってはご配慮のほどをお願い申し上げます。
藤堂高虎・京極高知陣の陣跡
陣跡碑の左は高知の軍旗、右の黒字に白丸は高虎の軍旗。

田中吉政の陣跡

関ケ原合戦 田中吉政の陣跡
田中吉政(たなかよしまさ)は関ケ原合戦当時、三河国(現在の愛知県)岡崎10万石の武将でした。
吉政と、西軍の総大将の役割を担う石田三成(いしだみつなり)は、同じ近江(おうみ)(現在の滋賀県)の出身で、近くに住んでいたと言われています。
二人の家系は、ともに浅井(あざい)家の家臣であり、また仲が良かったとも言われ、そのため家康は、吉政は三成側に付いているのではないかと、警戒しました。



吉政は合戦で東軍の最前線、家康が最後に陣取った陣場野(じんばの)のすぐ近くに陣をかまえました。
9月15日朝からはじまった合戦は、午後2時ごろには勝敗が決まりました。

その日の夕方、家康は藤古(ふじこ)川の台地に本陣を移します。
この地で家康は、吉政や小早川秀秋(こばやかわひであき)、脇坂安治(わきざかやすはる)らに、三成の家族が籠城(ろうじょう)している「佐和山(さわやま)城を攻めよ」と命じます。
17日に城を落としたあと、「三成をつかまえたい」と吉政は家康に訴え、北近江の地理に明るい吉政は三成を探索することになります。

吉政の家来は9月21日、古橋村(現在の長浜市)で三成をとらえています。

三成は吉政に会ったとき吉政に、「田兵(たひょう)」と親しげに声をかけたと言われ、とらえられたときに強い腹痛をおこしていたので、三成の身を案じた吉政は、にらがゆでもてなしました。
にらがゆは、にらが入っているおかゆで、お腹にくる風邪に良いためでした。
三成はお礼に、秀吉から授かっていた「今日まで身を離さず秘蔵(ひぞう)せし」、大切な短刀を授(さず)けました。

吉政は三成を生け捕りにしたことで、その功績により家康の疑念をはらしました。
合戦後に吉政は、筑後柳川(ちくごやながわ/現在の佐賀県)32万石へと、大きく加増移封(いほう)されます。
吉政は移封先で柳川の掘割を整備したり、干拓を進めるなど、まちおこしを積極的に行います。

道を挟んで北西に徳川家康最後陣地があります。
また近くの関ケ原町歴史民俗資料館にトイレ、駐車場があります。
関ケ原合戦 田中吉政の陣跡
陣跡には田中吉政の左三つ巴の軍旗があります。

第4回関ケ原笹尾山交流広場の詳細決定!

8月18日(日)に行われる
第4回関ケ原笹尾山交流広場の詳細が決まりました!

                   

元祖二大歴ドルの美甘子さんと小日向えりさんによる戦国トークに加え、
(1)歴ドルと行く!笹尾山ミニウォーキング
(2)歴ドルと戦う!チーム対抗ジャンケンバトル
(3)サイン色紙が当たる!歴ドル餅まき
という歴ドルとの楽しい交流イベントを開催!

皆さま、お誘い合わせのうえ、ぜひ関ケ原まで足をお運びください。

                   

※関ケ原も夏真っ盛りです。
 野外でのイベントになりますので、熱中症等には万全の対策を!
 
※※詳細は関ケ原観光ウェブをご覧ください。

徳川家康最後陣地

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陣場野公園に立つ徳川家康最後陣地の碑。
奥に見える竹垣に囲まれた土壇は、徳川幕府の命により当地の領主である竹中(たけなか)氏によって築かれたもので、中央に立つ石碑には、「床几場 徳川家康進旗驗馘處」と刻まれています。


                              


9月14日夜半、美濃赤坂(みのあかさか)の岡山(おかやま)の本陣を出発した徳川家康(とくがわいえやす)は、関ケ原東端の桃配山(ももくばりやま)に陣を張りました。

午前8時頃、合戦の火ぶたが切られましたが、戦況(せんきょう)は西軍優位のうちに進んでいきます。劣勢(れっせい)を挽回(ばんかい)すべく、家康は思い切った行動に出ます。
桃配山に置いていた本陣を、戦いの最前線近くまで移動させたのです。それが後に陣場野(じんばの)と呼ばれるようになるこの場所です。

総大将の積極的な姿勢に、東軍の士気(しき)はいやが上にも高まりました。西軍の総大将毛利輝元(もうりてるもと)が大坂城にこもって動かなかったのとは大きな違いです。本合戦で勝利を収めた家康が東軍諸将をねぎらい、敵方の首実検(くびじっけん)を行ったのもこの場所と言われています。

小西行長陣跡

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小西行長(こにしゆきなが)(以下、行長)率いる約6千の兵が北天満山(きたてんまやま)に陣取りました。陣跡碑がある場所は山の麓(ふもと)にあります。

続いて行長について簡単に紹介していきたいと思います。

1558年京都の薬屋の次男として生まれる。その後宇喜多直家(うきたなおいえ)に才能を見出され、武士として家臣となる。その後、秀吉のもとに使者として訪れた際、その才気を買われ、秀吉の臣下になる。キリシタンとしても有名です。

行長の主な活躍といえば、朝鮮出兵(ちょうせんしゅっぺい)ではないでしょうか。

秀吉から先陣を任され数々の戦果をあげました。この活躍からもうかがえるように文治派(ぶんちは)といわれながらも、加藤清正(かとうきよまさ)等と功績を競うなど武断派(ぶだんは)に勝るとも劣らない武力を持っていたのではないでしょうか。

関ケ原の戦いにおいては開戦地の近くということもあり、激戦を繰り広げる形になりました。小早川の裏切りを皮切りに、大谷吉継(おおたによしつぐ)、宇喜多秀家(うきたひでいえ)と総崩れになり、それに続くように行長も退却しました。

行長は逃亡の際、キリストの教えにより自害は禁止されていることを踏まえ自首する形になりました。

最終的には石田三成(いしだみつなり)、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)らと共に京都の六条河原(ろくじょうがわら)で斬首されました。

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陣跡の周りは、ほのぼのとしたのどかな風景がひろがっていますよ

決戦地碑

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決戦地碑近景。強い西風に大幟がはためいています。


R0033490_R.jpg決戦地碑遠景。背後の右手に見える丘が石田三成陣地のあった笹尾山です。


                             


小早川秀秋(こばやかわひであき)とそれに続く脇坂安治(わきざかやすはる)ら四将の裏切りによって、それまで善戦していた西軍諸隊は相次いで敗走していきました。

三成の首を討ちとろうと押し寄せる東軍に対し、生き残った石田隊の将兵たちも、最後の力をふりしぼって応戦します。石田隊の雄(ゆう)、蒲生郷舎(がもうさといえ)が、織田有楽(おだうらく)の降伏を勧(すす)める言に逆上(ぎゃくじょう)して斬りかかり、有楽の家臣らに討ち取られたのも、決戦地碑の立つこの辺りだったかも知れません(異説あり)。

関ケ原町有志の皆さんが、当時(実際は多少年代が下がる)の検地帳(けんちちょう)等によって調査した結果、決戦地周辺には当時から田畑が広がっていたことが分かってきました。また、残された文書(もんじょ)から、農民たちが戦禍(せんか)を避(さ)けて山中に逃れていたことも明らかになっています。

天下分け目の関ケ原合戦は、ここ決戦地碑付近での激闘を最後に幕を下ろしましたが、この戦いの影響は長くこの地に残ったに違いありません。

夏の関ケ原へ、ようこそ!

暑い日が続いていますが、皆さま、いかがお過ごしですか?
ここ関ケ原も夏まっさかり
交流館前の田んぼの稲も青々と育って、気持ちのよい風景が広がっています。
皆さまにも、是非、当地まで足を運んでいただけたら、と思います。

とはいえ、熱中症には要注意
特に、ウオーキング中心の観光をお考えの方は、水分補給にご配慮いただくようお願い申しあげます。
体調に気をつけて、関ケ原古戦場の夏を満喫してくださいね

家康最初陣地(桃配山)

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家康最初陣地(桃配山=ももくばりやま)の駐車場は国道21号線を挟んだ北側にあります。横断の際には、車に注意してください。

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家康最初陣地へと向かう階段状の小道。
400年前、開戦直前の緊迫した状況に思いを馳せながら辿(たど)ります。

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家康最初陣地。手前に写っているのが明治39年碑。
後方に見えるのが、昭和12年建立の国史跡碑です。


                        


1600年9月14日夜半、赤坂(あかさか)本陣の寝所で、西軍の大垣城出立の報を受けた徳川家康(とくがわいえやす)は、ただちに行動を開始しました。池田輝政(いけだてるまさ)・浅野幸長(あさのよしなが)らを南宮山(なんぐうさん)に拠(よ)る毛利勢などの備えとして残しつつ、東軍諸隊を関ケ原方面に西進させ、自らも3万の兵を率いて桃配山(ももくばりやま)に着陣します。

桃配山は、壬申(じんしん)の乱の際、大海人皇子(おおあまのみこ=後の天武天皇)が必勝を期し、配下の兵たちに山桃を配った場所と伝えられています。その後、大海人皇子は見事に勝利を収めて即位。天皇親政の政治を力強く推し進めていくことになります。

家康もまた、壬申の乱という古代史に残る大乱に勝利した大海人皇子にあやかって、この地に陣を敷いたのかも知れません。しかし、緒戦(しょせん)において劣勢に立たされた東軍諸隊を鼓舞(こぶ)するため、家康は早々に戦いの最前線近くまで陣を進めることを決意したのでした。

細川忠興の陣跡碑

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上掲の写真は、細川忠興(ほそかわただおき)の陣跡碑です。関ケ原町内の陣跡碑としては最も新しく、今年3月に建立されたばかりです。背後に、黒田長政と竹中重門が布陣した岡山(丸山)が写っています。


                             


忠興は、古今伝授(こきんでんじゅ)の歌人としても知られる細川藤孝(ほそかわふじたか=細川幽斎(ゆうさい))の嫡男(ちゃくなん)です。忠興本人も、激しい気性を持つ武闘派でありながら、利休七哲(りきゅうしちてつ)のひとりに数えられるほどの茶人であり、甲冑(かっちゅう)や刀の拵(こしらえ)に造詣(ぞうけい)の深い文化人でもありました。細川家は父子二代にわたって織田信長に仕えた格式ある家柄で、強者(つわもの)ぞろいの豊臣恩顧(おんこ)の武将たちも、そんな忠興の言には素直に従うところがあったようです。

忠興の妻は明智光秀(あけちみつひで)の娘の玉子(たまこ)です。敬虔(けいけん)なクリスチャンであった玉子は、細川ガラシャの名でよく知られていますが、石田三成(いしだみつなり)挙兵の際、三成ら西軍の人質になるのを拒み、家臣に胸を突かせて亡くなりました。自刃(じじん)しなかったのは、キリスト教が厳しく自殺を禁じていたからだと言われています。

一方、忠興の父の幽斎も東軍支持を鮮明に打ち出し、領国である丹後(たんご)の田辺(たなべ)城に籠城(ろうじょう)しました。田辺城は西軍の軍勢に囲まれましたが、城はなかなか落ちません。
幽斎の死によって古今伝授の絶えることを憂えた後陽成(ごようぜい)天皇の勅命(ちょくめい)によって、幽斎はようやく城を明け渡すことに同意しましたが、西軍諸隊を長く丹後に釘づけにした彼の戦いぶりは、東軍にとって隠れたファインプレーであったと言えそうです。

関ケ原合戦当日、忠興は、黒田長政(くろだながまさ)らとともに、石田三成本隊と激しく戦い、多くの戦功をあげたといいます。戦後も順調に加増を重ね、その子忠利(ただとし)の時代には熊本54万石の大大名となりました。

なお、上掲の細川忠興の陣跡碑には、忠興が愛用したといわれる越中頭形兜(えっちゅうずなりかぶと=関ケ原町歴史民俗資料館所蔵の「関ケ原合戦図屏風」の中でも着用しています)と歌仙拵(かせんごしらえ)の名刀兼定(かねさだ)が描かれています。

第3回笹尾山交流広場レポ♪

皆様、毎日毎日お暑うございますねぇ。。。。。
バテにはご注意くださいませ

さてさて、第3回笹尾山交流広場のレポートを始めまっす

今回は『第1回関ケ原水鉄砲合戦』と題しまして

5人の武者が
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スタッフお手製水鉄砲で武装し
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頭に装着された的を狙い打つ
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現代版関ケ原合戦が行われました



チーム団結が勝利への鍵となるのか・・・・
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はたまた綿密な準備なのか・・・・
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果たして 勝敗の行方はいかに
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   勢い余って逆噴射してしまう竹水鉄砲。。

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年齢も性別も関係なし


見事合戦を制した上位3チームの皆さんはこちら
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見事な頭脳プレーで優勝した『白衣’s』の皆さん
おめでとうございます
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ハーフタイムショーでは
戦国KidsDance 
神桜舞-shinobi-のお二人が素敵なダンスで会場を盛り上げてくださいました

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暑い中、ご参加くださった皆様、応援くださった皆様ありがとうございました。


次回、笹尾山交流広場もお楽しみに
詳細はこちら

第4回関ケ原笹尾山交流広場のお知らせ

来る8月18日(日)、第4回関ケ原笹尾山交流広場が開催されます。

笹尾山特設ステージ・笹尾山無料駐車場を舞台として、
元祖二大歴ドルの美甘子さんと小日向えりさんが登場。
熱い戦国トークが交わされます。

交流イベントでは、歴ドルご本人が主宰する一般参加イベントを企画。
恒例の関ケ原もののふコンテスト、関ケ原クイズバトルも開催。

笹尾山陣中楽市には、戦国グッズマーケットや飲食物販横丁が出店します。
8月18日は、皆さまお誘いあわせのうえ、
ぜひ、第4回笹尾山交流広場に足をお運びください

※イベントの詳細につきましては、関ケ原観光Webをご覧ください。

岡山(丸山)烽火(ほうか)場、黒田長政・竹中重門の陣跡

岡山(丸山)烽火場、黒田長政・竹中重門の陣跡
 慶長5(1600)年9月15日(現在の暦では10月21日)午前8時頃。
 福島正則(ふくしままさのり)が宇喜多秀家(うきたひでいえ)と交戦をはじめると、関ケ原の盆地を見下ろす岡山(丸山)という山に、狼煙(のろし)があがりました。
 この小さな山は標高は高くないですが、関が原盆地を見渡すことができ、また盆地内の陣地から見て目立つ場所にあります。



 ここに黒田長政(くろだながまさ)隊と竹中重門(たけなかしげかど)隊が陣を張り、石田三成(いしだみつなり)率いる西軍本隊と戦いました。
 長政は黒田如水(くろだじょすい)の子どもで、重門は竹中重治(たけなかしげはる)の子と、偶然にも戦国時代の名参謀として有名な二人の子が、並び陣を構えます。
 如水は一般には勘兵衛(かんべえ)、重治は半兵衛(はんべえ)と呼ばれています。
黒田長政・竹中重門の陣跡

 長政は「今度こそは三成を」と、石田隊に向いました。
「今度こそ」とは、豊臣秀吉に恩を感じている武将の中で、三成に憎しみを持っていた7人が、慶長(けいちょう)4年(1599年)閏(うるう)3月に討ち取ろうと三成を襲(おそ)った事件のことで、長政もその武将の一人であったからです。
 長政は、鉄砲隊を島隊の左側、小高い丘にのぼらせて撃たせます。不意をつかれた島隊はバタバタと倒れ、左近も撃たれて陣内に退却します。

 合戦が始まってまもなくの左近の負傷で、西軍の士気は大きく下がりました。
 しかし石田隊は奮戦し、午後になっても勝敗はつきませんでした。



 国道21号バイパスより入った岡山の麓(ふもと)に駐車場があり、そこから数分ほど坂を登った所に陣跡があります。

黒田長政・竹中重門の陣跡
立派な石碑があります。両隣の旗は黒田長政の軍旗です。

岡山(丸山)烽火場、黒田長政・竹中重門の陣跡への竹林
陣跡に登る途中、竹林があります。

松尾山眺望地

 大谷吉継(おおたによしつぐ)陣跡から少し東に入ったところに、「松尾山眺望地」が完成しました。



 松尾山(まつおやま)は、関ケ原合戦の際、小早川秀秋(こばやかわひであき)が布陣したことでよく知られています。
 吉継および秀秋にまつわるエピソードについては、後日改めてご紹介させていただきますが、今回は、この「松尾山眺望地」について、簡単にご案内させていただきます。



 大谷吉継陣跡から東に向かって付けられた小道を数分たどったところにあります。
 山中(やまなか)集落を見下ろす高台で、南に向かって視界が開けています。
 正面の小山の向こうに松尾山を望み、山頂に立つ小早川秀秋の軍旗(ぐんき)も確認することができます。
 眺望地には木製のテーブルとベンチが置かれ、案内板も立っています。
 関ケ原古戦場を歩いて巡る際には、よい休憩地になると思います。
 また、眺望地に向かう小道の北側には、関ケ原合戦直前に大谷軍が築いたと思われる空堀(からぼり)の跡が並行して続いています。
 当時を偲(しの)ぶ遺構として、併せてご見学ください。

松尾山眺望地 若宮神社の参道口
山中地内にある若宮神社への参道をたどって、
大谷吉継陣跡碑の東にある松尾山眺望地に向かいます。

松尾山眺望地 大谷吉継陣跡碑から松尾山眺望地に向かう小道
大谷吉継陣跡碑から松尾山眺望地に向かう小道。
杉木立の間をぬって数分行くと眺望地に到着します。

松尾山眺望地 眺望地から望む松尾山遠景 小早川秀秋の軍旗
眺望地から望む松尾山。
山頂付近に、小早川秀秋の軍旗が翻っています。

笹尾山の石田三成陣地

MG_6539_R.jpg石田三成が布陣した笹尾山の夏景色。「大一大万大吉」の幟(のぼり)の後ろに馬防柵が並びます。


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笹尾山の小道を5分ほど登ると、石田三成陣地です。
国史跡であることを示す大きな石碑が立っています。


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石田三成陣地からは関ケ原古戦場が一望できます。
中央やや左手の稲田の中に立つのが決戦地碑。
さらにその奥、黒い影になった山のふもとに家康最初陣地(桃配山)が遠望できます。

                        

9月14日の夕刻、徳川家康(とくがわいえやす)率いる東軍が、西軍の集結する大垣(おおがき)城を素通りして、大坂に攻めのぼろうという動きを見せると、西軍もまた、それを阻止(そし)するため、激しい雨の中を関ケ原に向かって出発しました。

明けて15日の午前1時頃、まずは石田三成の隊が関ケ原に到着し、ここ笹尾山(ささおやま)に布陣しました。その目的のひとつは、北近江へ抜ける要路である北国街道(ほっこくかいどう=明治時代以降、北国脇往還(ほっこくわきおうかん)と呼ばれる)を押さえることにあったと考えられます。 

笹尾山の石田三成陣地に登ると、西進してくる東軍を取り囲むように布陣した西軍諸隊の様子が手に取るように分かります。但し、合戦当日の関ケ原は昨夜来の雨の影響もあって深い霧に覆(おお)われ、視界はほとんどきかなかったようです。

午前8時、井伊直政(いいなおまさ)が福島正則(ふくしままさのり)の隊を出し抜いて先陣を切ると、いよいよ天下分け目の決戦が幕を開けました。
当初は互角以上の戦いをしていた西軍でしたが、次第に押され、小早川秀秋(こばやかわひであき)らの裏切りによって、大谷隊は壊滅(かいめつ)。宇喜多秀家(うきたひでいえ)、小西行長(こにしゆきなが)の諸隊も次々に敗走していきました。

午後2時頃でしょうか。それまで懸命に戦っていた石田隊もついに崩れはじめ、三成は再起を期して笹尾山後方の伊吹山(いぶきやま)の山中へと落ちていったのです。

関ケ原の夏! 竹水鉄砲でお楽しみください!!

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麦わら帽子で作った兜(かぶと)をかぶった大将案山子。左手に足軽案山子の黒い陣笠が見えてます。
手にしているのは竹水鉄砲。7月末に開催された第1回関ケ原水鉄砲合戦でも活躍した逸品です。

                    

関ケ原笹尾山交流館前の芝生に、二本の案山子(かかし)が立っています。
先日、開催された第1回関ケ原水鉄砲合戦にも登場した大将案山子と足軽案山子です。
ふたりがかぶる兜(かぶと)と陣笠(じんがさ)には、水鉄砲で狙(ねら)える(まと)的も付いています。
もちろん、竹水鉄砲も、水を張った盥(たらい)ともどもご用意してあります。

当交流館にお寄りの際には、ぜひ水鉄砲を手にとって、ひとときの涼(りょう)をお楽しみください。

開戦地碑

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7月下旬の開戦地遠景。背後に見えているのは北天満山の山裾(すそ)です。

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緑陰の開戦地碑(昭和13年建立)。
開戦時、真っ先に剣を交(まじ)えた武将たちの幟旗(のぼりばた)が立ち並んでいます。


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開戦地付近に広がるのどかな田園風景。
北天満山東麓の放牧地では、やぎたちがのんびりと草を食(は)んでいました。

                       

関ケ原合戦の行われた1600年9月15日、当地は、朝から濃い霧に覆(おお)われていました。その霧も晴れやらぬ午前8時頃、東軍の先鋒(せんぽう)である福島正則(ふくしまなさのり)の隊の脇をすり抜けて最前線に躍り出た井伊直政(いいなおまさ)と松平忠吉(まつだいらただよし)の小隊は、そのまま宇喜多秀家(うきたひでいえ)率いる1万7千の軍勢に挑(いど)みかかりました。それを見た福島正則もすぐさま攻撃を開始。天下分け目の決戦の火ぶたはこうして切られたのです。

開戦地碑の前に立つと、小西行長(こにしゆきなが)や島津義弘(しまづよしひろ)の軍勢が踵(きびす)を接して陣を敷いていたことが分かります。果敢(かかん)に攻撃をしかける東軍と迎え撃つ西軍諸隊。開戦当初はむしろ西軍の方が押し気味に戦いを進めていたとも言われますが、いずれにしても、この比較的狭いエリアで数万の将兵たちが激闘を演じたことは間違いありません。

現在、開戦地碑の周辺に広がる田畑や山羊(やぎ)の放牧地は、当時の激しい戦闘の跡を留(とど)めることなく、四季折々、懐(なつ)かしい里山の風景を見せてくれています。

新商品の紹介

新商品の紹介です
関ケ原謹製 浅漬け素 味合戦が入荷しました♡♡
パッケージは三成バージョンと家康バージョンがあり、
味はどちらともバジル赤じそ白ごまの3種類(小袋3つずつ)入ってます

浅漬の素 味合戦


嬉しい武将カード付き
お値段も630とお手軽です

ちなみに、こちらの商品は、全国で笹尾山交流館のみの販売となっております。


是非お土産にいかがですか(*´ω`*)

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