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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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脇坂安治陣跡

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大谷吉継陣跡と松尾山(小早川秀秋陣跡)の中間に立つ脇坂安治陣跡碑。

                             

脇坂安治(わきざかやすはる)は、朽木元綱(くつきもとつな)・小川祐忠(おがわすけただ)・赤座直保(あかざなおやす)らとともに、東軍に通じていることが疑われていた小早川秀秋に対する備えとして、秀秋が陣する松尾山の北麓に布陣していました。
しかし、小早川隊が反応すると、それに応じるように、脇坂隊をはじめとする四隊も相次いで東軍に寝返りました。この反応によって、本合戦の東軍の勝利が決定的になったことは広く知られるところです。
安治は本心では徳川方に味方したかったようです。しかし、石田方に妨害されてやむを得ず西軍についたとされ、家康もそのいきさつは了解していました。その場で日和見的に寝返った他の三将が改易等の厳しい処分を受けたのに対し、安治は所領を安堵されたばかりか、後日、相当の加増を受けています。
一方、後年に勃発した大坂の陣では中立を保ち、徳川幕府からその本意を疑われたりしています。
賤ヶ岳の合戦では「七本槍」のひとりと言われたほどの安治です。上述した大坂の陣をめぐるエピソードも含めて考えると、戦国武将らしい気骨のある、一本筋の通った人物だったのではないかと想像します。

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平塚為広の碑

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平塚為広の碑。大谷吉継陣跡や大谷吉継墓がある藤川台の東麓に立っています。

                             

平塚為広は、関ケ原とはごく近い美濃垂井1万2千石の領主でした。家康追討のため挙兵する決意を打ち明けた石田三成に対し、大谷吉継とともにその無謀を説いて思い止まるよう説得したことはよく知られています。このとき、三者の関係性がどのようなものだったか、正確なところは分かりませんが、石高の多寡や官位の上下とは別に、ある種の友情のようなもので結ばれていたような気がしてなりません。
こうして為広は、西軍決起の最初の段階からその渦中に飛び込むこととなりました。恐らく彼はこの時点で、類まれな知略を有しながら病のため視力の衰えていた吉継の手足となって働くことを決意したのでしょう。それから関ケ原合戦当日まで、彼と吉継がともに過ごした時間は実に濃密なものだったと思われます。
最後に、為広が吉継に送った辞世の歌と吉継の返歌を紹介します。
・名のために捨つる命は惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば    為広 
・契りあれば六つの巷に待てしばし 遅れ先だつことはありとも    吉継

島津義弘の陣跡7  勝つために戦う 

伏見城での戦いで島津隊は果敢に戦い、22人を失った他、負傷者もたくさん出しました。
義弘は忠恒への書状で、「いよいよ無人共なかなか申すべきようもこれなく候」と、さらに兵が少なくなってどうしようもない、というように言っています。
(桐野作人著「関ケ原 島津退き口」P100引用、以下参照)


太閤検地などで三成に御恩を感じている義弘は、西軍に付くと決め、義久に増援を求める書状を送っています。
豊臣政権は義弘を通じて検地などを進めてきました。
三成は豊臣政権下で島津との取次役を務め、豊臣配下の大名としての指南を様々に行ってきました。
義弘は義久と違い、豊臣政権配下で島津が安堵したことに、感謝の気持を持っていました。
それでも義弘は最後は義久をたて、その気持ちを察していたこともあって、7月2日から17日までに何度か、三成からの誘いを固辞しました。(山本博文著「島津義弘の賭け(中公文庫)」P263より引用「惟新公関原御合戦記」)



残っている書状を見ると、7月14日から、9月7日までに11通、薩摩に増援を求める書状を送っています。
東軍、西軍に関わらず、一度参戦を決めたら、勝つために何が必要かを考え、積極的に行動しています。
熱い思いは遠く薩摩に、なかなか伝わらなかった面もありましたが、義弘の人柄を感じます。



関ケ原合戦前の前、会津征伐に際して家康は、各大名に兵の割り当て(軍役)を課します。(「関ケ原の役」P299)
軍役は、領地の石高に応じました。
会津征伐の場合は100石に三人になりますが、上方(京都、大坂方面)の留守を守る大名は、100石に一人の軍役でした。

西軍はどのような軍役があったのかはわからないのですが、関ケ原関係の書籍を見ると東軍にならって考えられるようです。
島津氏は石高でいうと62万(55万とも言われる)石ですが、軍役を課せられない部分を差し引くと、約41万石です。
これを当てはめると、島津氏は4000人ほどの軍役になります。
(桐野作人著「関ケ原 島津退き)」P93引用)
義弘は書状で、長宗我部盛親が本来2000人の軍役で5000人であること、立花宗茂が本来1300人の軍役で4000人であることを引き合いに出し、嫡男の忠恒に、3500人ほど上京させるように指示をしています。



実際に関ケ原合戦で義弘の隣に布陣した小西行長(こにしゆきなが)は石高20万石ですので軍役は2000人ですが、実際には6000の兵を備えました。
会津征伐で言うと、会津行きの軍役に準ずる兵を用意したと考えられます。
義弘隊が、いかに少ないのがわかります。

書状からは、他隊と比べ兵が少なく恥ずかしく思う気持ち、武将としての任がまっとうできそうもない、悔しさが伝わります。


義久からの増援はなりませんでしたが、義弘を朝鮮の役の時から敬っていた甥の豊久が、すでに同年5月に京に来ていました。
なぜこの時に上京していたのかはわかっていませんが、義弘が呼び寄せたのか、庄内の乱の件で家康へのお礼のためなのかもしれません。




豊久は城持ちなので、直接動かせる兵がいます。
豊久の2万8千石の領地から考えると、兵は300ぐらいだと考えられます。




豊久は西軍挙兵がなければ、薩摩に帰国する予定でいました。
大坂滞在中、挙兵によって義弘につき従って行動するようになり、その後、阿多長寿院盛淳(あたちょうじゅいんせいじゅん、一般にはもりあつ)、山田有栄(やまだありなが)など、義弘を慕うものが少しづつ、薩摩から加わっていきます。
盛淳は義弘の家老でしたが、有栄は義久に信頼された老中でした。
それにも関わらず、義弘のもとに馳せ参じたのです。



盛淳は70強の兵を率い、合戦直前の9月13日に大垣城に着きました。
13日朝、三成は兵1000を派遣し、盛淳を出迎えに来ています。
緊迫した情勢下での増援に、喜びを隠せないぐらい感激したのでしょうか。
また13日昼、義弘は盛淳の到着を知ると、門外に出て招き入れました。(桐野作人著「関ケ原 島津退き口」P239引用、以下参照)

島津隊が西軍参加を決めたときには兵200名ぐらいでした。
8月20日頃には1000人に増え、さらに少しづつ増えて、合戦時には1500名近くになりました。
それでも義弘が考える戦をするには、少なすぎました。
しかし集まった兵は一人一人、自らすすんで義弘のために命をかけるつもりでやってきたのです。



合戦前日の夜、大垣城の西軍諸将は、守備隊を残し関ケ原に向かいます。
隊列の順番は、一番目が三成隊、二番目が島津隊、三番目が小西隊、四番目が宇喜多隊でした。
(「関ヶ原の役」参照)
旧暦の9月14日は、新暦では10月20日。
冷たい雨がひどく降る中を、進軍しました。

関ケ原合戦 決戦地
雨の関ケ原決戦地から周辺の山を望む。決戦地は、最も激しい戦が行われたと思われる地。

大谷吉継陣跡

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大谷吉継(おおたによしつぐ)の陣跡碑。名は「吉隆」と彫られています。
碑の北方には大谷吉継の墓、東方には松尾山眺望地があります。

                           

大谷吉継は、合戦に先立って山中(やまなか)の地に入り、陣地の構築に着手しています。東山道(中山道)の押さえることが目的だったと考えられます。また、合戦前日、かねてから内応を疑われていた小早川秀秋(こばやかわひであき)が松尾山に着陣したため、小早川隊への備えとしての使命も兼ねることになりました。
大谷隊は、少人数ながら本合戦中屈指の精鋭部隊として、東軍の猛攻を再三に亘(わた)ってはねのけました。しかし、小早川隊に加え、脇坂安治(わきざかやすはる)ら四将が裏切ったことで、戦況は一気に東軍に傾き、大谷隊は壊滅。吉継も自刃(じじん)して果てました。
あまり知られていませんが、大谷吉継陣跡碑のすぐ後ろには、東西数十メートルにわたって空堀の遺構がみられます。
また、当陣跡碑から東に数分歩いた先には、「松尾山眺望地」と名付けられた広場があり、山頂に小早川隊の幟がはためく松尾山を遠望することができます。

大谷吉継の墓

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藤川台の木立の中にひっそりと建つ吉継の墓(五輪塔)。訪れるファンが後を絶ちません。
右後方は明治39年碑。写真には写っていませんが、左手には湯浅五助の墓があります。

                            

大谷吉継は、藤川台(藤古川西岸の台地)に陣を構え、東軍の攻撃に備えました。家臣である湯浅五助の介錯により自刃したのも、この付近であったと思われます。吉継の遺言により、彼の首は家臣の手によって土中深く埋められたと伝えられます(異説あり)。
吉継の墓は、関ケ原合戦の際、大谷軍と直接に干戈(かんか)を交えた藤堂高虎によって建てられました。寡兵をものともしない大谷勢の鬼気迫る戦いぶりに「敵ながら天晴(あっぱ)れ!」の感を抱いたとも言われますが、最後に出会った主君家康への忠心を終生守り通した高虎の面目躍如ともいえるエピソードです。また、吉継の墓の隣には、上述の湯浅五助の墓も建っています。
大谷吉継というのは不思議なひとで、彼を巡っては、現代に生きるわれわれの胸を揺さぶるヒューマンなエピソードがたくさん残されています。何か人間性の最も深いところに、時代の価値観に左右されない大切なものを持っていたひとなのかも知れません。

島津義弘の陣跡6  亀寿を守る 

義弘には、自分の身より大切にしなければいけない人がいました。
これが西軍につかざるをえない、もう一つの大きな理由でした。


義弘は義久に7月14日の書状で「かミさま(亀寿(かめじゅ))御進退、何方(いずかた)へ移し申すべき哉(や)と談合最中に候」と送っています。
(桐野作人著『関ケ原 島津退き口』P84より引用、以下も参照)


亀寿は義弘の嫡男、忠恒(ただつね)の正妻で、天正15(1587)年以来、豊臣政権の人質として最初は聚楽第、その後は伏見城下の島津家屋敷にいました。
義弘の正室も人質として京に居て、同じ伏見城下の島津屋敷にいました。


7月14日頃より、西軍は東軍側に付いている諸将の妻を人質に取ることを始めたので、義弘は亀寿の身に、危険が及ぶかもしれないと心配しました。





亀寿は、義久の嫡女(ちゃくじょ)で、嫡女とは家督を継ぐべき女子、正室が生んだ、通常は長女のことです。
義久に男子ができなかったので、跡継ぎとなる嫡子は女子となり、長女、二女は外に嫁いでいったために、亀寿は三女でしたが嫡女、跡継ぎになりました。


義久は亀寿のことを、とても可愛がっていました。
どれぐらいかというと、慶長5(1600)年8月中旬、義弘が大坂の危険な状況を知らせる中で、にわかに心配になってきたからと思われますが、亀寿の替わりに島津の主君である自分が、人質として替わりになると、忠恒を通じて義弘に申し出ているぐらいです。
君主が自ら人質になるとは、通常考えられないので、義久とすれば、それぐらい亀寿を大事にしろと、圧力をかける意図もあったのかもしれません。


もともと自分の世継ぎとして義弘の嫡男、久保(ひさやす)と、嫡女である亀寿を結婚させるのですが、朝鮮の役で、不幸(享年21)にも久保は病没しました。
将来を期待していた久保であっただけに、義弘も深い悲しみに襲われました。



久保の死後、文禄3(1594)年9月、豊臣側は久保の弟、忠恒を島津の次の当主とするように命じ、義久は忠恒を亀寿と結婚させることで、世継ぎとしました。
二人は同年9月から11月2日までの間に、結婚したと考えられます。
亀寿は忠恒の五歳年上、亀寿は兄の久保の妻であったので、忠恒とは再婚になりました。
この後、忠恒は父の義弘と一緒に、朝鮮の役に5年ほど参戦しています。
形式上結婚はしたものの、実質的な夫婦生活は時間的に少なかったように考えられます。



忠恒が朝鮮より帰国した後の慶長4(1599)年2月、義久は島津本宗家(ほんそうけ)の家督を忠恒に譲ります。
家督となってすぐの3月9日、忠恒は家臣筆頭を殺害し、その事件の責任を負って蟄居(ちっきょ)します。
この事件は、豊臣政権に対する反逆行為に等しいものでした。
当然、三成は激怒しますが、家康は忠恒に対し、三成の反対を押しのけて蟄居を解くなどしたと言われています。


その後、この筆頭家臣の嫡男は籠城して内乱を起こし、島津は対応に追われます。
庄内の乱と名付けられたこの乱はなかなか治まらず、その終息は関ケ原合戦の4ヶ月前でした。
家康はその鎮圧のため、さまざまな支援を忠恒に行っています。
義久はこの内乱を治めることで、再び家臣を自分の元に掌握したと言われます。
義久、また忠恒は、この乱の顛末(てんまつ)で、家康に御恩を感じるようになったと思われます。予想外の戦費は、島津の財政をさらに圧迫し、関ケ原合戦参加に不利な状況に追い込みました。


 


亀寿と忠恒ですが、あまり仲がよくなかったとも言われ、亀寿と忠恒の間にはなかなか子ができませんでした。
義弘はまた、武将としての能力も、疑っていました。
そこで義久は忠恒の替りに、外孫であるが、自分の二女の子を嫡男としてはどうか、とも考えていました。
忠恒の世継ぎとしての地位は、かなり不安定なものだったのです。



義久、忠恒と遠く離れた京で、亀寿はずっと人質となっていました。
もしもその身に何かがあったとするなら、義久は怒って、忠恒の家督(かとく)権を奪う恐れがありました。
亀寿の近くに居た義弘は、亀寿の身を守らなければいけない責任もあったように思われます。
このような理由から、義弘は亀寿を、自分の正妻より上に見ていたぐらいでした。



この時点で、大きな三成の誤算といえる事件が起きました。
ガラシャの自害事件で、人質として取ることが、まさかこんな事件になるとは思っていなかったと思われます。
西軍は人質策で、悪い影響が起こることを警戒したので、この後、人質に取るという命令をしなくなり、大坂の城下も静まりました。(「関ケ原の役」P342より引用)
家の周りに柵をつけ、監視をしていたようです。

大坂は静まったとはいえ、依然として西軍支配下にありましたので、義弘は亀寿のことが気がかりでした。
伏見城での一件もあり、いよいよ西軍参戦の意志を固めたと考えられます。



7月18日、西軍総帥毛利輝元の名で、伏見城明け渡しの要求が突きつけられます。
元忠は当然のように明け渡しを拒否し、翌19日から伏見城攻めがはじまりました。
西軍4万の大軍が、わずか1800の兵で防備する伏見城を包囲します。
義弘率いる島津隊は、その中にいました。

関ケ原の合戦 薩摩藩・島津義弘の陣跡
小池地区にある島津義弘陣跡

オジの私的山城案内

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石田三成の居城だった佐和山城跡の山頂(主郭跡)直下に残る石垣の一部です。


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上平寺城跡から見た弥高寺跡。坊跡が階段状に並んでいるのが分かります。
草原状になっているのは、長く地元のひとびとの草刈り場になっていたためです。


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弥高寺跡からの琵琶湖方面の眺望。
西軍の敗走路となった中山道(東山道)はもちろん、
彦根や安土、湖西の山なみまではっきりと眺められます。


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小谷山最高地点にある大嶽丸(おおづくまる)跡。小雪のちらつく中、静かな山歩きを堪能しました。

                             

オジです。昨年の秋から関ケ原でお仕事をさせていただくようになりました。
もともと山歩き(特に藪山歩きや沢登り)は好きだったのですが、この仕事に携わるようになってから、プライベートでも山城巡りを楽しむようになりました。

関ケ原ファンにはお馴染みの松尾山城(小早川秀秋が布陣した山城)や竹中半兵衛の居城だった菩提山城はもちろん、上平寺城(じょうへいじじょう=京極氏の本拠地)、小谷城(おだにじょう=織田信長に滅ぼされた浅井氏の居城)、虎御前山城(とらごぜんやまじょう=小谷城攻めの際の織田方の陣城)、言わずと知れた石田三成の佐和山城など、近場の城から順番に回っています。

お勧めは、何と言っても松尾山城です。戦国時代の初頭から境目の城として使われていたこともあり、山頂の主郭を中心に、複雑な縄張(なわばり)が今もはっきりと残っています。

眺望という点では、上平寺城から西隣りの弥高(やたか)寺跡を回るコースもお勧めです。
弥高寺は、伊吹山を巡る山岳寺院の一つでしたが、京極氏がこの地を支配していた頃は、上平寺城とともに、京極氏の軍事拠点として使われていたようです。

この弥高寺跡からの眺望が素晴らしい。
東を見れば、関ケ原古戦場、眼下には北国脇往還、その向こうには中山道(東山道)、西方に目を転じれば、うっすらと光る琵琶湖東岸の彼方に佐和山城跡を望むこともできます。
関ケ原合戦当日、ここに立っていたひとは、合戦の火蓋が切られてから、西軍の兵たちが西へ西へと雪崩を打って敗走するまでの一部始終をすっかり見届けることができたに違いありません。

小谷城は、城の遠近(おちこち)に支城を従えた浅井氏の名城です。浅井氏が滅んで廃城となりましたが、大石垣や大堀切、逆茂木(さかもぎ)の跡など、興味深い遺構を数多く見ることができます。また、丁野(ようの)城や中島城、山本山城などの支城や、織田方の陣城だった虎御前山城を目のあたりにすると、小谷城の落城に先んじて愛する妻子(お市の方と浅井三姉妹)を避難させた長政の思いもなおのこと胸に迫ってくるようです。

意外と知られていないのが、南宮山の毛利秀元陣跡(陣城)です。もちろん、そこに毛利秀元陣跡があることは、ほとんどの皆さんがご存じだと思います。しかし、当地に曲輪や土塁、空堀などの遺構が残っていることを意識して観察された方は、それほど多くおられないのではないでしょうか。

松尾山城跡の縄張り図は一般書でもよく紹介されていますが、毛利秀元陣跡の縄張り図はほとんど見ることがありません。興味のある方は、岐阜県教育委員会発行の『岐阜県中世城館跡総合調査報告書(全4巻)』をご覧ください。岐阜県図書館をはじめ、岐阜県内の図書館の多くに所蔵されていると思います(関ケ原町図書館にも所蔵されています)。

関ケ原周辺の山城のことをつらつらと書き連ねてまいりました。今後はさらに足を延(のば)して、北近江や東濃の山城を探索してみたいと思っています。もしかしたら、城跡までの山道で皆さんとすれ違うことがあるかも知れません。そのときは、にっこり笑って挨拶しますので、どうかよろしくお願いします。

リレーエッセイもこれで一巡。
それでは、改めて、イクゾーさんにバトンタッチです。

島津義弘の陣跡5  約束は守る

西軍が挙兵したことで、これより三成側を西軍、家康側を東軍と言います。

義弘は7月17日、東軍の元忠が籠城する伏見城に、入城を目的に兵を引き連れて来ました。
義弘はすでに、西軍が大坂で挙兵したことを知っています。
東西どちらに付くかで、島津の未来、家の存亡に関わることもありえます。
遠く離れた薩摩と比べ、情報をたくさん持ち、判断をもっとも的確にできる位置にいるのが義弘でした。



これまで義弘は性格もあるのか、独自の判断で行動することが多かったようです。
今回伏見城に来たのも、私が知る限りですが、本来なら主君で兄の義久に相談する必要があるのにかかわらず、自分の判断で行動をしているようです。
ここに、島津の複雑な事情も見え隠れしています。

義弘の関ケ原合戦の一連の対応を見ると、本国より遠く離れているためか、義弘が判断して動いている所がかなりあります。
現代と違って連絡をすぐに取ることが出来ないことがあるかと思いますが、それにしても兄の義久は、義弘の行動を見逃しているように見えます。

この頃、義久は家督を忠恒(義弘の嫡男)に譲ったとはいえ、実力では義久、義弘、忠恒という順番の「三殿」体制でした。(桐野作人著『島津の退き口』P32参照、以下同様)
豊臣政権の意向が反映されたこの体制が、島津の不安定さにつながっていました。
ここにきて、家康と三成が相争うことになり、さらに島津の基盤は揺れます。


義弘は、豊臣政権(以下、豊臣)に引き立てられ、豊臣に近い形でこれまできました。
天正15(1587)年、秀吉は島津を配下の大名にしてから、島津の強大な力を少しでも弱めるため、露骨に義久の権利を奪って他に与えたりします。
豊臣はさらに、義久に替えて義弘を当主とみなし、その後は義弘の長男の久保(ひさやす)、久保が若死にした後は、久保の弟の忠恒(ただつね)を当主とするなど、義久外しの内政干渉を継続してやってきました。
秀吉の死後は三成が、そのやり方を踏襲します。
こうした中で義久は豊臣とますます離れ、家康が近づいてきたことで、家康と親密になりました。


義弘は「お家」である島津のため、秀吉死後は三成に従順に従いながらも、最後は兄である義久をできうる限りたてます。
後の8月頃、嫡男の忠恒にその胸中を明かした書状があります。
「秀頼様御奉公と申し、御家御為と申し、拙者(せっしゃ)は一命を捨てる覚悟である。だから、恥辱(ちじょく)を顧みず御奉公の御下知(ごげち、命令のこと)に任せてきた」(桐野作人著『島津の退き口』P74参照、以下同様)
この本心は、伏見城に来たときも同じであったと考えられます。
格下の元忠に入城を頼むことすら、義弘にとっては本当は屈辱的であったはずなのです。





伏見城に来ると、家臣の新納旅庵(にいろりょあん)が使いとなって、元忠に入城を申し出ています。
前述の「覚」に書いてあったように、すでに2度にわたり入城を申し入れて、断られたあとです。
義弘の豪胆な性格から見ると、元忠の出方次第でどちらにつくかを変えるような優柔不断な態度であったとは考えられません。(桐野作人著『島津の退き口』P67参照、以下同様)


記録が残っていないので想像ですが、義弘が西軍に加わる理由として以下があります。
・「内府ちがいの条々」の書状を見ると、言うまでもなく「大義」は西側にある。
・島津は亡き秀吉公や三成の、これまでの御恩に報いなければならない。
さらに後ほど触れますが、島津の問題として、どうしても守らなければならない人がいました。


しかし義弘としては、
・家康と男と男の約束をした限りには、約束を守る。
・島津家の将来、義久の考えを尊重すると、家康につくべきである。
さらに、
・豊久など信頼できる家臣から、家康につくことを具申された。
これらから判断すると、義弘の本心は東軍の方に傾いていたと思われます。


東軍西軍のどちらか、元忠に断られたが、本当にどうしようもないのか、確かめに来たのではないでしょうか。


ところが城の守備隊は、家臣の旅庵に向けて発砲しました。
どうも元忠は、かなり頑固な性格であったようで、一度思い込むと人の意見には耳を貸さない人であったのかもしれません。
徳川だけで固めて籠城するつもりで、そんな性格だからこそ、家康も留守を頼むことが出来たのでしょう。
小早川秀秋による入城の申し出も、断っています。
なお先に守備を任されていた小早川秀秋の兄、木下勝俊(きのしたかつとし)は伏見城攻撃が始まる前に城を出ている。
西軍につながる可能性があると、元忠が追い出したとも言われます。
勝俊は、秀吉の正室、北政所の兄の子どもです。



命をかけてこの城を守り通す。
どちらにつくかわからない島津など、入城させることはできない。
それが元忠の、断る理由でした。


数々の武功を挙げた、戦国武将としてのプライドが、義弘にはあります。
なさけない気持ちと、怒り心頭になったのと、両方が想像できますが、自分の感情だけで島津の行方を左右させることはできません。


自分のすることは、島津の運命に関わってくる。
義弘はここで、ぐっとこらえて引き下がりました。

ひょっとしたら「おのれ」と、対戦しようとする家臣達に「ここは戦うときではない」と押さえる、そんな場面があったのかもしれません。


しかしこの一件により、東軍で参戦する機会を完全に失ったのです。

関ケ原の合戦 薩摩池 島津義弘の陣跡
薩摩池は小さな池ですが、水が枯れたことがないと言われています。
今年の夏は真夏日が記録的に続き、夕立はほとんど無く、さすがに水が枯れそうな状況でしたが、ようやく雨が降りました。

島津義弘の陣跡4  届かない手紙、輝元支配下の大坂

家康が急に、島津と親密な連絡を取るべく行動を開始したのは、秀吉が慶長3(1598)年8月18日に亡くなってからです。
人を介して連絡を取り、義久は11月12日に家康邸を訪問します。
それから後、義久、また義弘は、家康と親密に行き来をしています。


秀吉の死後、秀吉の遺志により秀頼は大坂に入り、またかなりの諸将は大坂に移動していました。
義弘は伏見に残り、伏見城内は寂しくなってましたが、依然として京と大坂を抑える要であり、秀吉が築いた守るに強固、豪勢なお城でした。
義弘は家康より守備の依頼を受け、即答は避けましたが、城に先に入っている将に従う気持ちで、家康からの正式な文を待っていました。


なおこの頃の情勢ですが、4月24、25日頃、家康は会津征伐の先鋒(せんぽう)として、福島正則、細川忠興、加藤嘉明などに内々に命令しています。
さらに5月3日、直江兼続(なおえかねつぐ)の返事を受け、諸将へ出陣命令を出しています。



伏見城の守将は、家康の古くからの家臣、鳥居元忠(とりいもとただ)でした。
元忠は、家康が大坂から会津征伐に行く途中、最後の別れをすませ、伏見城での討死(うちじに)も覚悟の上、城にいました。
義弘は待てども、家康直筆の伏見城入りを告げる書状は、なかなか届きませんでした。


まず最初の可能性として、家康がどこかで島津を見限ったことが考えられます。
しかしもし見限ったとすれば、秀頼の大老、前田利長や上杉景勝のように、何かの理屈を付けて行動を起こしています。
秀吉亡き後の家康の島津に対する行動を見ると、急に義弘を見限るとは考えられません。
なぜなら家康は、島津の力を警戒していたのです。


家康の心情になってみると考えられるのが、伏見城で家康が元忠と、今生の別れをしたことです。
家康は義弘と会ったおよそ2ヶ月後の6月17日、伏見城に寄ります。
その夜に元忠と会い、翌日は会津攻めのために江戸に向かいます。(「関ケ原の役」P327他、参照)


元忠は、家康が10歳になった頃から奉公しています。
家康の性格を、一番わかってくれていると言っても過言かも知れません。
元忠に加え、内藤家長、松平家忠と、すべて徳川で守ることができるので、どんなことがあっても命がけで、敵を足止めしてくれるだろうと安心してしまったのです。


家康は元忠と会ったとき、元忠が話の流れであまりに長く座っていたため、立つことが出来ないのを見て「手を引いてやれ」と言い、今宵の別れになるかもしれないと、涙を流したと言われます。(「関ケ原の役」P329他、参照)
素直に家康の行動を理解すると、徳川側の兵に加え、信頼する義弘も一緒に城を守ってくれると、信じていたことが想像できます。

他にもいろいろな理由が考えられるのですが、一つはこの時期、大変な混乱が続いていたことがあります。
家康側、三成側、あらゆることを想定して行動しようとしているのですが、やはり人間、ミスを犯すこともあります。
あまりに多忙であったのと、これまで島津とは良好な関係であったので、文を出すことを油断していたのかもしれません。
しかしこれについては、緻密で気配りができる家康なので、考えづらいです。
当時、義弘の手勢はわずか200でした。
島津にお金を貸して、島津の財政事情や義弘の立場を理解している家康は、留守を頼んでみたものの、正直の所は戦力として期待すると気の毒だと思ったのかもしれません。

家康は伏見城を、「おとり」にしたと言われます。(小和田哲男著「関ケ原から大坂の陣へ」P78参照)
おとりとは、三成の挙兵をさそうためであり、三成側の兵を足止めさせるための「捨て石」でもありました。
そうだとすれば、そんな城に義弘を置くのはどうかと考えたかもしれません。

他にも理由が考えられます。
家康は、三成がこれほど早く、しかもたくさんの兵をまとめあげ、急ぎ伏見城を攻めてくるとは考えていなかったので、情勢を見つつ、義弘には違う役割を与えようと考えていたのです。

いずれにしても家康は、義弘に指示を出していなかったことを、後に後悔したのではないでしょうか。





7月12日、佐和山城で石田三成、大谷吉継(おおたによしつぐ)、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)らが密談し、総大将として毛利輝元(もうりてるもと)を迎え入れることを決め、その書状を毛利に送ります。
※一説には、三成と恵瓊は以前より密談を進め、輝元を巻き込んでいたとも言います。



島津の「旧記雑録」に、興味ある史料が「覚」として残っています。
書いた人、日付は不明ですが、内容から推測すると義弘近くの家臣かだれかが7月12日に覚え書きとして書かれたともので、「義弘が伏見城の本丸か西の丸に入ろうと2度にわたって申し出をしたが納得をしてもらえなかった」とあります。
さらにこの「覚」の記述の中に、義弘は三成が決起したことを、まだ知らされていなかったことがわかる所があります。(桐野作人著「関ケ原島 津退き口」P69参照)





同月13日、細川ガラシャの元に「三成が東軍(この時はまだ家康側)についた大名衆の人質を取る噂だが」という情報が入りました。
会津征伐のため、残っているもので、その対応策を考えています。

さらに三日後の16日に、三成側から正式の使者が来ています。(「細川家記霜女覚書」参照)
この日、ガラシャは「ほんとうに押し入って来たときは、そのままご自害」すると決心し、その段取りを留守をあずかる家来と示し合わせています。(「関ヶ原の役」P334~343)
この頃、諸将の家では、妻子を密かに脱出させたり、柵を作り外出しないようにしたりと、相当に混乱しています。


書状を受けて輝元は広島を出発し、16日夜に大坂に到着、大坂城西の丸に入ります。
西の丸は、直前まで秀頼の後見人、家康が居た所です。

留守であるのをいいことに、輝元は留守を守っていたものを追い出し、そこに入ったのです。
さらに輝元は、子の秀就(ひでなり)を豊臣秀頼(ひでより)がいる本丸に送り、そばに仕えさせます。
公儀(民を支配するもの)は秀頼であることに変わりは無いのですが、父子で豊臣家を丸抱えしたことで、大坂はもとより、京都を含む、近畿や山陽道一帯は、家康でなく毛利輝元が掌握します。



17日に送った「内府ちがいの条々」の書状により、数日間の内にぞくぞくと大阪に諸将は集まり出しました。
近畿や山陽道を中心に、兵9万4千(「関ケ原の役」参照)であったと言われます。
大坂はたくさんの兵が集結し、主要な道での行き来は監視され、家康側についた諸将の妻子が人質にされるなど、ものものしい騒然とした雰囲気になります。

まさに臨戦状態で、現代の我々に理解しやすい言葉を使うと、クーデターが起こったような状態と言い替えられるかもしれません。
この頃の京や大坂における流れは、完全に三成側にあり、秀頼様の御為(おんため)と、その士気は高まっていました。


藤堂高虎の家臣が書いた「平尾氏箚記」に、この頃家康は「御成敗」「徳川様今度滅亡」と、世間のうわさがあったと伝えられています。
今回のことで、家康が滅亡するとまで言われたということですから、家康がかなり劣勢におかれたと一般には受け取られたようです。

ここまでは三成のほぼ思惑通りに、進んでいるように見えます。
義弘と島津の兵は、この大きな流れのまっただ中にいました。
関ケ原の合戦 北国街道 島津義弘の陣跡
陣地近くに通っていた旧街道の北国脇往還



こんにちは。 スタッフの阿茶(あちゃ)です。

皆さま、こんにちは。
スタッフの阿茶(あちゃ)です。

笹尾山交流館では主に、関ケ原の特産品関連と昨年度に関ケ原魅力アップ事務局で開発した「関ケ原陣中食」を引き続き担当しています。

昨年12月の馬防柵イベントの陣中食

陣中食


そして、3月の関ケ原合戦交流広場で振る舞いをさせていただいた

「関ケ原戦国汁」

なべ

「家康の鷹狩むすび」&「チェスト!めし」

おにぎり


今年度は、「関ケ原の名物食」となるように武将ゆかりの味を開発中!!

陣中食については、改めてご紹介したいと思います。
どんな名物食となるか、お楽しみに!!



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さて、リレーエッセイということですので、わたくし「阿茶」について♪

「阿茶」というのは徳川家康の側室で、奥向きの諸事一切を家康より任されており、
大坂冬の陣では徳川方の和議の使者を努めた方とのこと。
      (歴史は苦手なので間違っていたらスミマセン^^;)

前事業で命名されたときに「凄い方の名前を付けられたもんだなぁ」と思っていました。

NHKの「葵 徳川三代」では三林京子さんがふくよかな「阿茶局」を演じておられ、
津川雅彦さん演じる家康が若い側室を可愛がると
「阿茶も可愛がって下さいまし」と焼きもちを焼くんですね・・・(^_^;)

ぽっちゃり体型なところと、拗ねてイジケル阿茶局に親近感が一気に湧き、
それ以来、仕事関係のHNは「阿茶」を使わせて貰っています。

最近になり、ひょんな事から他の方が阿茶局を演じておられるのを知りまして、
30数年前にTBSで放送された「関ヶ原」で、京塚昌子さんが演じておられるそうです。

映像は見ることが出来なかったのですが、京塚昌子さんといえば「肝っ玉母さん」ですね。

若い方は誰??と思われるかもしれませんが、少しおっちょこちょいなのにしっかり者、
恰幅が良くて白い割烹着姿がよく似合う日本のお母さん。
ドラマの母親役では欠かせない存在の方でした。

私に「阿茶みたいだね」と言った方が、どちらの「阿茶」をイメージしたのかはわかりませんが(これを機会に聞いてみたい・・・最近、ハボクックと言われています)

関ケ原のお母さんとして、優しくてホッとできるような陣中食を作りたいと思う阿茶です。


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秋からは、笹尾山交流広場に加えて、関ケ原合戦まつりに陣跡制覇ウォーキングなどなど、
関ケ原を楽しんでいただけるイベントがたくさんあります。

「このまち まるごと 古戦場」の関ケ原。

皆様のお越しを心よりおまちしております。


それでは、次は「おじ」にバトンタッチ。

関ヶ原合戦祭り2013のお知らせ

こんにちは!!

夏もすっかり終わり涼しい日々が続いています

と言うことは・・・・・・・・

甲冑日和になってきたことになりますね


さすがに今年の夏は暑すぎましたね

関ヶ原が日本2位の暑さを記録したとかしないとか


はい、前置きは置いといて、皆様にお知らせがあります!!

関ヶ原合戦祭り2013のチラシが出来ました

チラシ外_R

こちらの表紙には、当日の予定が詳しく載っています


見開きには、なんと・・・・・

チラシ中2_R


!?


見覚えがある絵が!!




チラシ中_R


はい、ポスターの横長の絵が顔を出しました

しかも、よく見ていただくとわかると思いますが、若干ポスターとは違う所があり

一度手にとって見て頂けたらと思います。


ちなみに、このチラシの配布日は、9月19日からとなっておりますのでよろしくお願いします

島津義弘の陣跡3  島津の台所事情

島津の関ケ原合戦での行動を見ると、なかなか外からはわかりにくいことがあります。
島津が関ケ原に来るに至った背景、義弘の参戦動機をもうすこし見てみます。



島津の財政状況について、興味ある記録があります。
慶長4(1599)年、義弘または家老が、家康から黄金200枚(2000両)を借りて、利息の返済に充てている記録が、「鹿児島県史料 旧記雑録後編(以下、「旧記雑録」と略)」に残っています。
(桐野作人著「関ケ原 島津退き口-敵中突破300里(学研新書)(以下「島津の退き口」と略)」から引用、以下も同書参考)

また同年3月2日に、家康より義弘・忠恒(ただつね、義弘の嫡男)あてに、「疎略(そりゃく)毛頭これあるまじき事、付(つけたり)、抜手(ぬきて)表裏(ひょうり)これあるまじき候事」と、血判(けっぱん)付で書状を送っています。
粗末に扱うことをしないことや、さらに、表裏がないことを、この書状では義弘、忠恒に誓っています。
家康はたくさんの書状を、特に関ヶ原合戦前に送っていますが、誰にもこのような書状を出しているわけではないので、特別に島津に気を使っていることがわかります。



2000両は今の貨幣価値に換算して、少なく見ても億は越えています。
借りる目的が利息返済というと、かなり財政的に危機状態にあることが想像されます。
秀吉は朝鮮出兵で、無理な軍役を諸将に課します。
この役で島津は、少ない兵力で大軍を退ける数々の奇跡的戦果を上げてきましたが、秀吉に屈服し、朝鮮出兵を強いられ、南九州に押し込められたことが、財政危機の原因でした。

やむにやまれない事情があったにしても、家康と島津の間にお金の貸し借りがあったことは、親しい間柄であったのでしょう。
ひょっとしたら家康の借金は、関ケ原合戦の時もまだ返済してなかったのかもしれません。

また島津は江戸時代になって参勤交代が始まると、福島正則にお金の都合をしてもらって江戸に向かうということもありました。
島津と中央との果てしなく遠い距離が、島津にとって重い負担でした。



この二つのエピソード以外に、秀吉亡き後、家康は義久、義弘、忠恒、それぞれの立場を考えながら、微に入り細に入り、機敏な対応をしています。
その結果、頼り、頼られる関係を築いていました。


 なお8月晦日(みそか、月の最終日のこと)付けで、西軍の毛利輝元(もうりひでもと)と宇喜多秀家(うきたひでいえ)連署で、忠恒に島津の財政を考慮した書状を送っています。
すでにこの時期、義弘は西軍として行動し、岐阜城は落城、急遽三成は8月26日に大坂の輝元に援軍を要請します。東軍は大垣城の目の前、美濃赤坂に布陣していました。
困った西軍はまだ兵力を出し切っていない島津を見逃さず、義弘に相談した上で、頼りになる島津兵を呼ぶべく画策したと思われます。

書状は「玉薬御兵粮(ひょうろう)の儀は、公儀(民を支配するもの、豊臣家)より仰せつけられ候条、御人数有次第、御馳走この時に候」とあり、内容は「弾薬や食糧など支給されるから、あるだけの人を送ってくれ、(ご恩返しで)兵を動員する時は今である」とありました。(二木謙一著「関ケ原合戦」P169参考)
関ケ原の合戦 薩摩池 島津義弘の陣跡
義弘の陣地近くにあったと言われる薩摩池

島津義弘の陣跡2  家康と義弘

合戦があった慶長5(1600)年9月15日。
陣跡のある小池地区は、実際には義弘の甥、島津豊久(とよひさ)が島津の先陣として、布陣したと言われます。
一方義弘の本陣は、陣跡よりおよそ100m西北の薩摩池付近(小関地区)にあったようです。
義弘は66歳、豊久は31歳の時で、二人は親子ほどの歳の違いがありました。

 

西軍全体で兵力はおよそ8万で、島津は通説では、兵力1500だったと言われます。(参謀本部編纂(へんさん)「関ケ原の役(以下、「関ケ原の役」と略)」など参考)
残っている記録を元にして加算すると、もう少し少なく1300弱でなかったか、とも言われます。
なぜこのような少数兵力で参加するようになったのかというと、本国の援助がなかなか得られなかったことがあります。


日本全国、東西別れての決戦が、ほとんどの武将の頭の中になかった慶長5(1600)年4月27日、義弘は薩摩から大坂に上り、家康と会います。
庄内の乱で、世話になったお礼をするためでした。
家康はこの日、上杉景勝の返事次第で会津征伐に出陣する可能性を伝えます。
その場合、兵を連れて行くので城の守りが手薄になる。
義弘に伏見城の留守番をして欲しいと、申し出たのです。


義弘は申し出を受けました。
巨大な伏見城の守りの一端を、しっかりと務めるつもりでした。
しかし手勢わずか200ぐらいなので、兄の義久(よしひさ)に兵の増強を希望しました。
増強は、かないませんでした。


島津は長く続いている戦のため、財政状況が逼迫してこともありました。
京都、大坂と、遠く離れた薩摩の間の距離感が、緊急性の温度差をもたらせていたのでないでしょうか。
義久は義弘が言うように、それほど家康に力を貸す必要性を感じなかったのです。
京や大坂がいかになろうと、島津は島津でやっていくという自負心もあったのではないでしょうか。




義弘はその頃、家康に従おうとしていました。
家康もまた、自分から義弘に会ったりするなど、積極的に義弘、また島津を取り込もうとしていました。
朝鮮での泗川(サチョン)の役で、兵力10万と言われる明・朝鮮の連合軍に対し、島津ははるかに少ない兵力で勝利します。
その実力を恐るべしと評価し、敵にまわしたくないと思っていたからでした。
義弘側も冷静に見て、諸将の中で、勢いは家康にきていると、政治的な判断もあったように思われます。





そうしている間に、三成らが家康に対し挙兵し、西軍が大坂を占拠したことで風向きが変わりました。

7月15日、前田玄似(まえだげんに)・増田長盛(ましたながもり)・長束正家(なつかまさいえ)の3人は、大坂に居る諸将に交代で哨兵(しょうへい)を出させ、主な道を守備するように命じ、大坂に出入りする人間を監視させ、特に大名の妻子で帰国しようとするものを、留め置きました。(「関ケ原の役」参照)

翌16日、細側ガラシャの元に使者が来たので、この日と考えられますが、三成は以前から計画していたとおり、大坂城下や伏見城にいる、家康に従って会津征伐に行った諸将の妻を人質にしました。
家康側につこうとするものを、見方にするためでした。



7月17日、西軍は公然と、諸将に挙兵を宣言すべく行動に移しました。
玄似・長盛・正家の3人は、西軍決起の大義名分を書いた西軍への誘いかけの文書を送ったのです。

家康は秀吉の死後、秀吉の違令(いれい)に反し、大坂城西の丸に天守閣を建てるなどをします。
こうした行いを「罪状」として13箇条にわたり列挙します。
「内府ちがひの条々」という有名な書状です。

こうした中でこの日、人質になることを拒否し、自害する事件が起こりました。
細川忠興(ただおき)の正妻、玉(ガラシャ)です。

IMG_2948_R.jpg
小関地区にある薩摩池。義弘がこの付近に布陣し、軍用に使われたと言われています。

まっつんです(*^_^*)

はじめまして 
まっつんです(*^_^*)

笹尾山交流館では最年長なので、落ち着いて書こうと思っています

最近、ブログで関ケ原古戦場史跡散歩を書いている関係などで、関ケ原町内の山に登ったり、史跡に行ったりする機会が多いです。

もともと濃い顔つきですが、外歩きと、イベント準備、駐車場でのアイスクリーム売りなどで、さらに濃い顔つきになっています。(^_-)-☆

家族が私の写真を友人に見せると、日本人には見えないと言われます。
私は暑さに比較的強い方なので、南方から移り住んで来たと信じています。
それでも今年は、そうとうバテました……^_^;

関ケ原 笹尾山交流館 かかし
水鉄砲のイベントでつくった「かかし」です。(=^・・^=)


山を歩いていると、蚊に刺されたり、ダニも……います。 

今の季節、ヒルも山には居ます。 

歩いている途中はたくさんの発見があって、夢中で、帰ってから気づくことも多いです。
関ケ原には、虫対策をすれば軽装で登れる山がたくさんあります。
もちろん、笹尾山や松尾山、また大谷吉継の墓はおすすめです。



ブログについては、歴史関係となると難しい(私にとって)漢字が多いので、資料を見ても意味がわからないことがよくあります。(T_T)
恥ずかしいです。
さらに時々書き間違えがあって、直しをしなければいけないことがあります。
日頃の日本語の不勉強が、日々、露呈していますm(__)m
今後も間違いがなく書けるかどうか。
きっと、何とかなるでしょう(-_-;)


これまでたくさんの研究者が、関ケ原合戦について研究しています。
ブログで史跡について、何か書くことがあるのかしらと、毎回そんなことを自問自答しながら書いています。

一つだけ確かなことは、笹尾山交流館がある地は、もっとも激しい戦いがあった地です。
そんな所だから、ここにいることで、何かを教えてくれるのでないかなーと、思っています。
 (最後は神頼み?)

関ケ原町には、400年以上昔の情感に浸れるところが、まだまだたくさん残っていることが自慢です。
そんな歴史的な地で働けることが、ほんとによかったなーと思っています。

そして毎日、妄想しています。
妄想って楽しいです。


また関ケ原盆地は、天気、時間によって、見せる表情は様々です。
出勤日に、決戦地がどんな景観になっているか、楽しみです。

史跡に、花が添えられたり、掃除をなされたりしているのを見ると、今も町の方々が歴史を大切になさっておられるのだなと、ほっとする気持になります。

北国街道や中山道、伊勢街道、九里半街道など、関ケ原町にはたくさんの街道があって、歩いていると旧街道は起伏があり、緑が多い落ち着いた町並みと、変化していく景観が、楽しいですよ。


次回はケーキやお菓子など、差し入れがうれしい、笹尾山交流館の母上でもあります阿茶さんです。
よろしくお願いします。

画像 010-1 (6)_R
決戦地の夕焼け



島津義弘の陣跡1 昭和15(1940)年、碑が建つ

関ケ原の合戦 薩摩藩・島津義弘の陣跡
薩摩(鹿児島県と宮崎県南西部)の島津義弘(よしひろ)の陣跡は、笹尾山の石田三成(みつなり)の陣より、ほぼ南500~600メートルほど離れた所にあります。
神明神社のすぐ裏、木に囲まれた所です。

関ケ原の合戦 薩摩藩・島津義弘の陣跡


陣跡の中心に、「小池島津義弘陣跡」と書かれた碑がそびえています。
立派で威厳があるように見えます。
先祖を大事にしている、強い思いを感じます。
鹿児島県(宮崎県南西部を含むと考えられる)の有志により、建てられました。

  

碑の表に、「公爵島津忠重書」とあります。
島津忠重氏は、現在の島津家第32代当主、修久(のぶひさ)氏の祖父です。
忠重氏は海軍少将や貴族院議員、華族会館長の経歴を持たれ、島津家の歴史を展示する尚古集成館(しょうこしゅうせいかん)を開設するなどの功績があった方です。
小池と書いてあるのは小池地区に建てたことを示しています。



碑の裏に、下記のように書かれています。
「島津部隊ノ関ヶ原ニ於(お)ケル奮闘ハ正(まさ)二武士道ノ精華タリ其(そ)ノ陣屋跡修築ノ議(意見の意味)は福田武吉先生二余(よ)リテ提唱セラルヽヤ三州(旧薩摩国・大隅国・日向国を合わせた意味か)人士(地位や教養のある人の意味)忽(たちま)チ之(これ)ニ賛(賛成して)シ其ノ事業ヲ本町ニ寄託(処置を頼むの意味)セラル乃(すなわち)チ本陣ニ接シテ(ひとつづきにつなげるの意味)土地ヲトシ(ここでは土地を購入するの意味)碑ヲ建テ永ク其偉績(いせき/偉大な功績の意味)ヲ顕彰ス   
紀元二千六百(西暦1940)年九月十五日 関ヶ原町長 川崎好一識」
(関ヶ原町編集「関ヶ原町史上巻」参照)


碑に書かれている「三州」は旧日向(宮城県の一部)の国を含み、島津として、また住民にとっても、歴史的な一体感がある地域で、特別な意味を持つ言葉です。
旧日向国の地域では、今でも鹿児島弁を話しています。


碑の裏に、関ケ原町長の名前があり、互いにつながりを大切にしていることがうかがわれます。





碑に書いてある「紀元二千六百年」の年には、紀元2600年祭、また関ケ原合戦340年祭がおこなわれたようです。
神武天皇即位から2600年に当たる年と言われ、日本に長い歴史があることを、国の内外にアピールするため、たくさんの催しが開催されました。
「紀元二千六百年」と表示されていることから、この碑がつくられた一つの背景にあったように思われます。

  

最近、島津への注目が高まっています。
幕末・明治維新の時期に、推進力となった人材を生み出す薩摩藩。
関ケ原合戦で、前代未聞の、後世に強烈な記憶が残る戦をした島津隊。

島津は、平和な時代に生きる私たちをも、ひきつけてやまない何かがあります。

関ケ原の合戦 薩摩藩・島津義弘の陣跡


駐車場は神明神社の方にあります。

初めまして、たあこです(^^)v

皆さんこんにちは はじめまして、たあこです
今年の夏ももう終わりですね(ToT)/
今年の夏は、イケメンの彼氏ができ、BBQ花火でとても充実
した夏を過ごす事ができまぴたwwwww
IMG_6039_R.jpg

SOSITE、、、仕事終わりのビールを楽しみに毎日呑んでいたら
3キロ太っていましたなので9月からあかねちゃんとジムに通うことに
したのですが、初日でバテました。笑
趣味は、呑む、食う、寝る、遊ぶ、ミッチーいじりです( ..)φメモメモ
こんな私ですが、これからも宜しくお願いします
次はバームクーヘンを差し入れしてくれた
優しいまっつんさんです(^o^)丿

みぃでございます。

はじめましての方も、お久しぶりの方も、皆さまこんにちは
みぃです


突然ですが! ワタクシ 嫁に行きまーーーす

とういことでせっせとアイテムを手作っている日々です。ハイ。

不器用かつアイデアを出すのが苦手な私の強い味方は ズバリ


教えて! Google先生


いや~~~~便利な世の中になったものですね!
先輩花嫁さんのブログを読みあさって自分に出来るものを チョイス! チョイス!! チョイス!!!


いや~~コレがなかなか大変なんですよ
イメージが湧いてもイメージに近い情報を探し出す困難さと言ったらまぁ


そんなこんなで手作り第一弾はこちら

DSC_0109_R.jpg

自信作
和装用ボールブーケちゃん
可愛いでしょ?ねっ?!ねっっ?!!
とてもホームセンターでゲッチュした造花には見えないわ~~



やれば出来る


次は たあこ さんの登場ですよ~

合戦祭りポスター

本日、交流館内に来月開催される合戦祭りのポスターを貼りました。

image_R_20130906170919859.jpg


とても迫力があり、熱気が伝わってきます。

また店内のカウンターの後ろにも飾り、入るとポスターがまず目にはいってくると思います

カウンターポスター_R


ちなみにこのポスターは、平野耕太先生の「ドリフターズ」のシーンが使われております。

是非みなさん交流館にお越しくださいますようお願い致します。

奥平貞治の墓 その3

奥平家の系譜より、もう一度貞治を見てみます。


貞能(貞治の兄)の嫡男、信昌(のぶまさ)は、関ケ原合戦では南宮山の麓に陣し、徳川本隊への背後からの攻めに備えていました。
信昌は、貞治の甥になります。

信昌の正妻は家康の長女、亀姫(かめひめ)で、亀姫は家康の正室、築山殿(つきやまどの)の娘です。
長篠の戦いの翌年、天正4(1576)年に嫁入りし、この結婚は三河の防備上、奥平家の力がどうしても欲しかった、家康からの申し出によりなったものです。


信昌は合戦後の慶長6(1601)年、中山道を西から守る拠点、美濃加納(岐阜市)10万石へと、加増させられます。
次々と主君を変えた奥平氏ですが、家康の信頼はとても厚かったと考えられます。


たとえば信昌の長男は家康の目前で元服し、家の字をあたえられた後、家昌(いえまさ)を名乗ります。
関ケ原合戦の時は徳川秀忠の配下にいて、信州上田城(長野県)を攻めていました。
合戦後は、下野宇都宮10万石を領し38歳で亡くなります。

次男は家康の養子となり、家康より家の字をあたえられて家治(いえはる)を名乗り、上野国多胡(たこ)郡(群馬県高崎市、藤岡市の一部)に領地を与えられますが、14歳にて亡くなります。

三男の忠政(ただまさ)は松平姓をあたえられ、美濃加納2代藩主(加納藩主松平家としては初代)になります。

四男の忠明(ただあきら)は家康の養子となり、大阪の陣の後、大坂城主となり、さらに姫路藩松平(奥平)家初代藩主になります。
大坂の陣が終った後に、大坂を復興させる都市づくりを行っています。


奥平家は後に、正成(家昌から5代目)の代より豊前国中津(大分県中津市)に移り、徳川御連枝(ごれんし)として中津の地で、明治維新まで存続します。
御連枝とは天皇家でいうと、宮家に当たる家系を指す言葉で、ここでは江戸時代、徳川御三家から分家した大名家、徳川の血を引く名門であることを示しています。


子孫が関ケ原に、墓を建てたのはなぜだろうかと考えました。

元治元(1864)年というと幕末です。
徳川幕府の下で、大きな争いごとが少なかった時代が終わりつつありました。
元治という年号が1年強しか続かなかったぐらい、再び乱世になり、前年には薩英戦争や、新選組が結成されるという出来事がありました。



信長に敗れるまでは、天下を取るかもしれないと言われた今川氏、また戦国最強といわれた武田氏、後に天下を取ることになった松平(徳川)氏。
三氏の狭間で、主君を変えながら奥平一族は、必死に生き延びようとしました。
家康の下で出世し、大名の家臣から城持衆、譜代大名となって明治時代まで続きます。


この時代、奥平家に数々の犠牲者が出ました。
天正元(1573)年に武田家から徳川家に寝返ったことで、勝頼の怒りを買い、貞治の甥の仙丸、従姉妹ら人質3人が、磔(はりつけ)にされたこともありました。(「新訂寛政重修諸家譜」より)


実は家康は、貞治の従姉妹が磔になったことを憐れみ、その妹を松平隠岐久松の嫁にと嫁がせています。(「新訂寛政重修諸家譜」より)
犠牲になった話は、家康の義理の息子である、信昌より聞いたのでした。


松平隠岐久松は松平定勝(さだかつ)のことで、家康の異父兄弟です。
家康は最初は疎んじていたのですが、18歳も離れていたので、やがて定勝のことを可愛がるようになったと言います。


松平定勝は後に久松松平家、伊勢桑名藩主(三重県桑名市)として明治維新まで存続します。
子孫の方で、アナウンサーの松平定知(さだとも)さんがおられます。





貞治は三男であったためか、記録はあまり残っていません。
ひょっとしたら関ヶ原合戦まで、めだった働きがなかったのかもしれません。


貞治は関ケ原合戦の日、秀秋の近くで東軍が不利な状況を見ながら、重要な役目を授かったことを誇りに、ここぞとばかり、自分が与えられた仕事を全うしようとしたと思われます。


奥平家のために尽くしてくれた、家康の期待に応えようと、たとえ死んでもと、思うようになっていたのかもしれません。


この時、若くしてなくなった甥(14)や従姉妹のことが、脳裏に浮かんだのかもしれません。



たしかに、政略的な結婚や養子縁組を、家康は幅広く行っていました。

とりわけ奥平家とたくさんの結婚や養子縁組を行ったのは、奥平家に今後も重要な役目をまかせようという気持ちがあったからでしょう。
同時に、勝頼との争いで三河の安定に大きな役割を果たした奥平家に、感謝の気持ちもあったと考えられます。



墓を建てた奥平新左衛門源貞昭という子孫の方ですが、この方についてはよくわかりません。
江戸時代なので、この地に墓を作るのは容易でなかったと思われます。

これから奥平家がどうなっていくかわからないという、社会不安な情勢が背景にあったと思われます。
貞治を供養し、家共々無事なことを願い、264年前の忘れ去られようとしていた貞治の一世一代の大仕事を、今一度振り返ろうとしたのかもしれません。


引き続き、貞治のことを調べてみたいと思います。
なお旧街道は道が狭く、近くには駐車場はありませんので、ご注意下さいませ。

  

関ケ原合戦 奥平貞治の墓 北国街道
関ケ原宿の次の宿、玉村宿が江戸時代までありました。
この写真の右側に、国道356号線が並行してあります。


関ケ原合戦 奥平貞治の墓 北国街道
旧街道沿いに設置してある案内板。


関ケ原合戦 奥平貞治の墓 北国街道
沿線には、街道らしい風景が今も続いています。北国街道は、太平洋と日本海を結ぶ街道の一つでした。関ケ原合戦でも、重要な役割を果たしています。


はじめましてconaです☆

はじめましてこんにちは

conaです。よろしくお願いします。

私という人間をちょっとだけ、皆さんにお教えしようかと思いま~す

小さな頃から絵を描いたり…
手芸したり…
インドア中心な人生をおくり
妄想をこよなく愛し、生きております

好きなのは犬猫と車車はRX-7のみ好きですw
でも、大好きな車は去年手放し…
今は軽でのんびり~

人生ゆる~く過ごしてます
そんな私ですがよろしくお願いします

次は みぃ さんでぇ~す

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