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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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千社札お知らせPartⅡ

先ほどの、再入荷した武将は
徳川家康
伊達政宗
竹中重門
大谷吉継

以上4名になります

更にシークレット千社札も1名追加されました

来年の大河ドラマのあの方です!!!!!

たあこでした

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千社札 再入荷

こんにちは 

お待たせしました♡♡♡
千社札再入荷しました!!\(^o^)/

___201310311450148a2.jpg


交流館は今日も、関ケ原ガメ虫大量発生中です(T_T)
まっつんさんがガメ虫退治頑張ってくれていますm(__)m
窓を閉めていても隙間から入って来るので、帰りの車の中怖いです・・・


ちなみに、関ヶ原方面ではカメ虫の事を、ガメ虫と呼びます笑

今日も残り2時間頑張りたいと思います

                                

たあこでした(๑´ڡ`๑)

元気なトマト

暑かった夏は過ぎ去り、冬の気配が漂ってきました。
皆様お風邪等お気をつけくださいませ

さて交流館前の花壇には昨年に引き続きミニトマトちゃんが鎮座していらっしゃいます
お日様をい~~~っぱい浴びてすくすく育ったトマトちゃん。

まだまだ元気です

DSC_0815[1]_R

見よこの鈴なり状態を
花まで咲いて

もう11月なんですけどーーーー

いつまで収穫できるかな~~~~

ドリフターズ原画展 ①

こんにちは
conaです

遅くなりましたが
ドリフターズ原画展
9日間、たくさんの方々にお越し頂き
ありがとうございました


私の個人的目線ですがドリフターズ原画展について
10月11日の準備からの様子を少しずつですが紹介したいと思います

まずは、準備風景です

ドリフ001

すごいです原画を触れるなんて
当たり前ですがちゃんと手袋着用
平野先生の原稿が、このような形で拝見出来るなんて思ってもみませんでした

がんばりました110枚の原画を1枚ずつ丁寧にフレームに装着
大変でしたが、楽しい時間でした

そして、すべての原画が会場に設置されました
5つのテーマ構成をし、壁4面に各1テーマずつと真ん中のショーケースに1テーマ

ドリフ002

ドリフ0003

ドリフ003

ドリフ005

ドリフ004

こんな感じ


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そしてついに
10月12日ドリフターズ原画展 初日です

ドリフ006


ドリフ007

びっくりですびっくりですよ~たくさんのお客さん

こんなにたくさんの方が来て下さって
嬉しいですね~
何とこの日の豊久ポストカードは、1時間半程で配布終了
ありがとうございます
『すごく良かったです。また来ます!』
と言って下さる方がたくさんみえました


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10月13日
何と2日目も朝からたくさんの方々が来て下さいました
良い天気~
原画展日和です
12日と13日は天気が良かったので、豊久が外で構えておりました

ドリフ008

入る前の注意事項です
ドリフ009



そして、入って目の前にエセ紫

ドリフ0004
ドリフ010

原画展を出るとグッズコーナー

ドリフ011


入場始まって、数分で売れてしまう物も
本日分売り切れの表示が
すごいですね~

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10月14日
私、お休みだったのですが…

並びましたグッズのためにスタッフも並ばないと、グッズ買えないのです…

ドリフ012

ドリフ013

この日は、1時間ほどして帰ってしまったので
この後は分らないですが…
たくさんの方が、この日も来て下さったようで

私目線のため、片寄ってしまっていますが…


さてさて、続きは…

ドリフターズ原画展②へ

はっぴぃ うぇでぃんぐ

皆様 こんにちはヽ(^0^)ノ みぃです

わたくし 晴れて 妻となりました


IMG_153756274796296_R.jpg


結婚式するぞ~!!と決めてから約6ヶ月…
あっっっという間だったーーーーー


台風予報に諦めていたお天気も気づけば青空になって
とても素敵な一日でした

楽しすぎて大口開けて笑っている写真ばかりですが
新婦なのに 新婦なのに・・・


これからお料理がんばりまーーーす

おはようございます

おはようございます (๑´ڡ`๑)
今日の関ヶ原はこんな感じです
どーーーーーーん\(^o^)/
___2013102910381275a.jpg


いかにも雨が降りそうなお天気です
結構寒いので関ヶ原に来られる方は、温かい格好をオススメします www



こんにちは

こんにちは(」・ω・) たあこです!!

 久しぶりにリレーエッセイ更新致します(´・ω・`)

自己紹介で終わっていたので、最近のハマリを書きたいと思います
最近はモンハンにハマってます
狩りにでるのたのしーです

ゲーム大好きなんで、面白いゲームあれば教えて下さい(´∀`)www

こないだ1泊2日で大阪に遊びに行きました!!!!
串カツとたこ焼き食べまくりました ビール呑みまくりました
人が多すぎて関ヶ原に住んでる私には刺激的でしたwww
新世界めっちゃハマりました

__ (2)

では、また更新します(´Д` )




めっちゃいい天気♡

こんにちは (」・ω・) 

今日はめっちゃいい天気です
sasaoyama
ぜひ笹尾山に遊びに来てください
夕日も綺麗ですよー
__ (3)

[悲報]カマキリ

こんばんは
先週、笹尾山交流館に卵を産んでくれたカマキリちゃん・・・
__.jpg
お亡くなりになりました

これからは、お母さんカマキリの代わりに私達が見守っていきます~

島津豊久の生き方①

関ケ原合戦には、大将として島津義弘、先鋒として島津豊久(とよひさ)が参加しています。
当時の島津の実質的な当主は、義弘の兄の義久でしたが関ケ原には来ませんでした。
家康と三成、それぞれ率いる戦に、島津として一線を引こうと考えていたようです。
在京していた義弘は、成り行きで義弘らしい考え方で、島津のことを思って西軍に参加しました。

豊久は父亡きあと、伯父の義弘を慕っていました。
義弘のことを真っ正直に信じ、関ケ原合戦までついてきたように思います。



豊久の父は島津家久(いえひさ)、家久は義弘の弟で四男です。
上から、義久、義弘、歳久(としひさ)、家久の4兄弟は、それぞれ得意分野で武功をあげます。
家久は数々の戦で兄の義弘を助け、特に軍事面で才能があり、秀吉も恐れていたぐらいでした。


豊久は天正12(1584)年3月、15歳の時に父に従い初陣を飾り、後見は新納忠元(にいろ ただもと)で、一人討ち取っています。
同年4月に元服し、天正15(1587)年4月、豊久18歳で秀吉の九州攻めの時、父に従って先鋒をつとめています。


同年5月、家久は島津兄弟の中ではいち早く、豊臣秀長に降参します。
家久は秀長に降伏し、お礼言上(ごんじょう、上のものに申し述べるの意味)に上がり、響応(きょうのう、酒や食事を出してもてなすこと)を受けて自分の城に帰った後、同年6月に急に亡くなっています。
もともと体調もわるかったと言われ、別の史料には思いがけない猛毒で重病になり、そのまま亡くなったというように書いてあります。
家久41歳、豊久18歳の時でした。

あまりにも急な死のため、当初、領地の引き渡しを拒んだために毒殺されたという説もあります。
参考に、秀長から豊久へお悔やみとして送った手紙を引用します。

「誠に中務(父の家久の)不慮の仕合(めぐり合わせは)是非に及ばず(やむおえない)、然れども生死の習あると(人の生き死にはよくあることなので)よく分別し(よく考えて)、藤堂(高虎)と諸事談合(いろいろなことを相談)せよ、その方覚悟しだいで向後(今後)引立(特に目をかけると)申すべし、子細は委しく(細かいことはまかせなさいと)藤堂が申す」
この文意をどう取るかですが、人生において先輩であり秀吉を№2として支えた人格者であったと言われる48歳の秀長です。
若い豊久に早急な行動を取ることを慎むようにたしなめているようにも受け止められる内容です。



豊久はこの後、翌年夏に家久の遺領の目録を秀吉に送る使者を出し、8月には無事目録に朱印を頂いています。
19歳で日向佐土原(ひゅうがさどわら)城(宮崎市佐土原町)、父の領地、2万8千石の当主になりました。

さらにその後、母とともに数年間、京に居ます。
天正18(1590)年、秀吉の小田原攻めにも参加し、大いに働いているので、父の死は納得していたのではないでしょうか。


その後秀吉のもとで文禄・慶長の朝鮮出兵で7年間働き、数々の戦功をあげました。
その功績を大きく評価した豊臣政権により、慶長4(1599)年に中務大輔(なかつかさたいふ)並びに侍従(じじゅう)に任じられました。





日本に帰国後は伏見に居ます。
慶長4(1599)年に庄内の乱が起きると家康に、「乱をどうするか義久に相談せよ」と言われ佐土原に帰国し、義久と会ったあと、乱を治めるために出陣します。
この乱は、義弘の娘の夫、伊集院忠真(いじゅういんただざね)が起こしたもので、豊久からすると義理のいとこにあたり、いわば島津家の内紛ですが、豊久は山田城攻めで功績をあげ、褒美を受けます。



この乱は関ケ原合戦の直前、慶長5(1600)年3月15日、忠真が降参することで治まります。
なおこの時、軍功で太守公(義久のこと)より伊集院氏の城があった野々美谷(城のことか)を下さるよう言われますが、辞退しています。
野々美谷は戦った相手、伊集院氏の城があったところで、武将であれば、あげると言われれば喜んで受け取るはずだと思われるのですが、何か受け取りたくない理由があったのかもしれません。


またこの乱のとき、食糧が尽きて、妻子ともども城を出ていくものがいるものがいました。
豊久はそれを見て、「打ち取れ」と命令します。
家臣は「今日は崩日(合戦に不利な悪日)」と、動こうとしません。
豊久は「崩日なら(なおさら)、さらに敵を打ち崩せ」と言い放ちます。
結局間に合わなかったのですが、豊久は迷信にこだわらない、勝ちにこだわった性格なのでしょう。

島津豊久 烏頭坂 関ケ原合戦 大垣市
烏頭坂の島津豊久の碑

家康の修正力

慶長5(1600)年9月15日、天下分け目の決戦となった関ケ原合戦は、半日で終わりました。
後世の私たちから見ると東軍完勝で、大将の家康は、楽に勝てた戦いのように見えます。
しかし家康は、いくつか見込み違いをしていました。
一つ一つは大きなことでなくても、相乗効果で西軍が勝利する可能性はあったように思われます。
たとえば以下のものが、考えられます。



1.7月15日、家康が上杉征伐に出かけた後、家康に従ってきた諸将の妻子を、三成らは大坂で人質にしました。
※諸将は妻子の行方を心配し、三成側につくことが考えられた。
※家康は大老の一人一人を順次、配下に入れることを考えていて、その手始めに上杉征伐をし、一説にはその間、三成が挙兵することを予想していなかったとも言われます。


1.7月17日に3人の奉行により、豊臣政権に対するこれまでの家康の罪を連ねた「内府ちがいの条々」の書状が全国の諸将へと送付されました。
※書状は家康を弾劾する内容で、「秀頼に忠節をつくすため」に大坂方が決起するという、家康への宣戦布告でした。
家康側と思っていた3奉行が三成側についたため、家康は三成と戦う正当性を大きく失いました。


1.毛利輝元は家康がそれまで居た大坂城西の丸に入り、西軍の総大将となります。
※すでに家康は輝元と、兄弟の契りを交わしていましたが、それにもかかわらず大老の輝元は三成側につきました。大老である毛利は、秀頼に忠節をつくすという意味で大きな大義を持ち得ます。


1.7月後半、西方の大名がたくさんの兵を大坂に集積させ、輝元、三成らが大坂、京都を支配下に置いたこと。
※大坂の軍勢は9万4千人ほどになりました。その頃家康側が東方で集めていた兵力と比べると、大きな兵力差がありました。


1.味方にしたいと思っていた島津が西軍につきました。
※島津の力を恐れていた家康は、以前より義弘を味方につけようと様々なアプローチをしていました。
その結果義弘に、伏見城の守りを担う約束をすることができました。
ところが家康の家老、鳥居元忠(とりいもとただ)は任務に忠実にあろうとするあまりか、義弘のみならず小早川秀秋の入城を断ったため、東軍につくつもりでいた島津は西軍につきました。


1.信州経由で上洛予定の、家康の嫡男、秀忠率いる隊の西行きが遅れたこと。
※信州上田の真田隊が予想以上に強かったために足止めを食わされたこと、天候が悪いために秀頼への使者が遅れたこと、また秀頼隊の進軍も悪天候のために遅れました。


1.関ケ原合戦の日、実動戦力を考えると優勢なことは必至と予想していたにかかわらず、午後になっても西軍が思いのほか頑張っていたこと。
※理由の一つに、朝から霧で視界が悪く、特に笹尾山から関ケ原宿方面はなだらかな傾斜があり、高低差で三成の方が優位に立っていたことがわからなかったことが考えられます。
また大谷吉継が9月3日に関ケ原の山中村に布陣すると、松尾山をはじめ、中山道や北国街道まで陣地づくりをすすめていたという説もあります。




あまりにたくさんの諸将が関わり、多くは自分の思惑、利害関係のために戦った合戦でえした。
そのためにこの他にも、たくさん予想だにしなかったことがあったと考えられます。
そうした家康の見込み違いを考えてみるのは、興味深い所です。


家康は関ケ原合戦の前から、情報収集と先読み、根回しに力を入れ、きめ細かい修正を怠らずに続けました。
家康が合戦に関係して、180通ほどの書状を出しているのはその一つです。
時には自分の判断違いを認め、家臣の意見を素直に聞き、戦いの渦中で瞬時に修正できる力を家康が持っていたと考えられます。

関ケ原合戦 桃配山 徳川家康 最初陣跡
家康が関ケ原で最初に陣した所に登る階段で、国道21号線に面している。陣跡には家康が合戦方策について討議した時、テーブルとした岩、座った岩もある。

家康の苦労

江戸幕府の基礎を作った徳川家康ですが、幼い頃に苦労を重ねたことはよく知られています。

家康は天文11(1542)年に、三河の領主松平広忠(ひろただ)の嫡男として生まれました。
幼い頃に駿河国と遠江国の大名であった今川家の人質となり、やがて信長に従うようになりました。
家康の所領であった三河は、今川家と織田家、さらに武田家と織田家と、いずれも天下を狙う武将に挟まれていました。
生き残るため、どちらかに依存せざるをえませんでした。



家康は天文24(1555)年に14歳で元服し、16歳で今川義元の姪、築山(つきやま)殿と結婚します。
築山殿は家康より、3、4歳上だとも、また同じ歳だという説もありますが、家康は今川一族となりました。
永禄2(1559)年、18歳の時に家康の嫡男、信康(のぶやす)は生まれます。
永禄5(1562)年、21歳で家康は信長と同盟関係を結び、翌年信長の娘と、5歳の信康の結婚の約束をします。



信康の正妻になった徳姫は、父の織田信長に夫の信康が舅の築山殿と共に武田氏と通じていると、手紙を出します。
この手紙がきっかけとなって、天正7(1579)年信長は家康に、信康を切腹させるように命じます。
一説に信長は、自分の嫡子を上回る信康の能力を恐れたことや、家康の忠義心を試そうとしたとも言われます。
家康は信長の命には逆らうことができず、築山殿を殺し、信康を自害に追い込みました。
家康は父として後悔し、また信康の才能を惜しみました。
後年関ケ原合戦の時、秀忠が美濃に到着が遅れ、「長男の信康が生きていたら」と言ったといわれます。





家康32歳の時、三方川原(みかたがはら)の戦いで武田信玄と対陣し、負け戦となります。
命からがらようやく城に帰ることができ、大事な家臣を多数失ってしまいました。
この戦いは、三河だけの戦いであったのではなく、同盟関係であった信長への忠義心も試された戦いでした。
家康は信玄にさんざんやられた経験から、大いに戦の仕方を信玄に学びます。
関ケ原合戦では、信玄と戦った教訓が大いに活かされたにちがいありません。
信玄が亡くなって武田氏が滅ばされると、家康は家臣をたくさん採用しています。
ただし戦国時代、滅ばされた相手の家臣になるということ自体は、それほど不思議なことではありません。



上の二つの出来事は、家康にとってとても大きな犠牲を伴いました。
家康とすればそうせざるをえない、苦渋の選択でした。

自分に力が無いから、信長に従わざるをえなかった、肉親に手をかけざるを得なかった。
二度とこうした思いをしたくない、そのためにはだれの命にも従う必要がないほど強くなろう、そんな気持ちがわき起こってきたのではないでしょうか。





家康は有能であった家臣、本多正信のように、一度自分を裏切ったものも、再び迎え入れています。
戦国時代、裏切りや寝返りは当たり前で、力のあるものが上をやっつけて、のし上がっていきました。
大将であっても、力の無いものは殺され、淘汰されていきました。

この時代、いつ誰に、足元をすくわれるかわかりません。
求められていたのは相手を裏切らない律義さや、寛容さであったように思われます。
家康は幼い頃の苦労により、戦国時代が持っていた問題性を、いち早く見抜いたと思われます。


なお関ケ原町で、2013年10月19日(土)と20日(日)の二日間、関ケ原合戦祭り2013が開催されます。
徳川家康を初代とする徳川宗家の現当主、徳川恒孝氏のトークショーが、静岡県立大学名誉教授の小和田哲男氏を聞き手にしてなされます。

関ケ原合戦 桃配山 徳川家康 最初陣跡
家康が関ケ原に来た9月15日朝、最初に陣を構えた桃配山。家康は3万の兵を連れてきた。


石田三成の民政

関ケ原における石田三成は、あくまでも西軍の実質的な大将としてのイメージが強く、彼を彩るさまざまなエピソードも、最終的には「武将石田三成」に収束してくるようです。

しかし、文官として突出した力量を発揮した三成の真骨頂は、戦時より平時にこそ見られたはずです。
幸いにして、三成が領した地域は、関ケ原と隣接する湖北地方であり、当該地域の図書館等を訪ねれば、多くの情報を得ることができます。





石田三成といえば、徳川時代のネガティブキャンペーンの影響から、ごく最近まで悪評ばかりが幅を利かせていたと思われがちですが、地元の郷土資料(『近江伊香郡志』・『東浅井郡誌』など)を読んでみると、決してそんなことはありません。
当地のひとびとは、三成の民政を実証的に振り返った上で高く評価し、その清廉潔白な人柄を深く愛していることがわかります。


 
『近江伊香郡志』には、当郡の各村に通達した掟書が引用されています。
その本文は、平仮名を多用して一般の領民にも理解しやすいよう工夫されています。
参考までに、二カ条ほど書き出してみると、
「百姓は総て迷惑を感ずる所あらば、直訴する事を得、但し軽率不法の直訴は之を謹むべし。」
「年貢を納むるには、一石につき二升の口米たるべし、二重袋に入れ、五里以内は百姓親ら運搬し、五里以外は百姓の暇を見はからひ、役米を遣はして運搬せしむべき事。」
とあります。

領民が訴え出ることを認め、年貢の納め方についても具体的に分かりやすく述べた上で、遠隔地については役所の方から取りに行くよう配慮していることが分かります。



石田三成の定めた年貢率は、その3分の2を貢納するのが基本でした。
これをもって苛政(かせい)とする見方もありますが、この年貢率は戦国時代当時の平均的なものであり、また、年貢率が低いことで知られる北条氏も、年貢以外のところで課税したりしていました。

現代においても、所得税率だけを見て税の高低を論じるのがナンセンスであるように、年貢率のみから苛政であったと断じることはできないでしょう。

私としては、むしろ、三成が私腹を肥やすことを潔癖なまでに嫌っていたことを重くみたいと考えます。
自分の利益を優先するなら、今、まさに絞り取れるだけ取ってやろうとするでしょうが、豊臣政権の永続を願うのであれば、領民を疲弊し去ってはいけないことなど、賢い三成のこと、とうの昔に見通していたに違いないのです。

悪政の根源は、政治家がその権力を私利私欲のために使うことです。
三成は、それを自制するどころか、心底嫌っていました。
三成の民政は、その肝心な部分がしっかり押さえられていたのではないでしょうか。

ところで、豊臣政権中枢で活躍する奉行であった三成が所領の統治に割ける時間はごく僅かでした。
したがって、実際に領内の政治を主導したのは、三成の父、正継(まさつぐ)と三成の兄、正澄(まさずみ)でした。
三成の活躍は、彼の父や兄の支えがあってこそ生まれたものだったと言えましょう。

慶長5年 合戦当時の関ケ原

関ケ原合戦が行われた慶長5(1600)年頃の関ケ原は、どんな様子をしていたのでしょうか。
一般に大河ドラマなどテレビで見る関ケ原合戦は、一面が草原の中で戦が行われていますが、本当にそうであったのでしょうか。

静岡大学名誉教授の小和田哲男先生監修の下、町内有志の皆さんが調査した結果をまとめた『慶長五年の関ケ原 -合戦当時の村の様子-』(関ケ原ふれあいセンター所蔵)を参考に描き出してみましょう。
この報告書は、関ケ原町立のふれあい図書館にもあります。



慶長5年当時、現在の関ヶ原町にあたる地域は、関原・松尾・藤下・山中・野上・大高・玉・今須の8村(大高は正式な村ではなかったようですが)に分かれていました。

合戦後、徳川家康が出した禁制の文書(兵士たちの乱暴狼藉を禁じる触書)の宛名が「関ヶ原町衆中」になっていることから、関ケ原は当時すでに町場化していたと考えられます。
また、当時の検地帳から判断して、関ケ原古戦場一帯にはすでに、広く田畑が広がっていたことは間違いないようです。
関ケ原合戦の舞台が、地元住民の生活・生産の場であったことは忘れられるべきではありません。



本戦前、住民に対して、特に西軍の陣地構築(松尾山城・大谷吉継陣地など)にあたって労役が課せられたことは想像に難くありません。
また、軍事上の目的から、家を焼かれたり、食料を奪われたりしたこともあったのではないでしょうか。


関ケ原合戦は旧暦9月15日(新暦10月21日頃)、上掲書では合戦当日、稲刈りが終わっていたか否かについて検討しています。

そして、合戦が終わっても戦禍を避けて逃げ込んでいた山(相川山か)から、なかなか下りてこない住民に対して御触れ(おふれ)が出ています。


当麦作早速仕付可申候 油断付而者可曲事者也
尚以苅田之跡敷半候間、仕付可申候 以上
慶長五年 十月十九日 間宮彦次郎黒印
せきがはら村庄屋百姓中
(「関ケ原町歴史民俗資料館所蔵・関ケ原合戦史料集」より)

主な内容は「もう危険はないから、早く下りてきて麦(裏作)を作るように」です。
この御触れからは、すでに稲刈りは済んでいたであろうと推測されます。
合戦から既に一カ月になりますが、まだ山奥に潜んでいる住民がいたのかもしれません。
終わってもまだ、よほど戦が恐かったのかもしれません。




いずれにしても、戦場となった村々の住民たちが被った迷惑は並大抵のものではなかったと思われます。
関ケ原合戦を考える、別の角度からの視座として、関ケ原町民の皆さんによるこうした調査・研究はきわめて貴重なものだと考えられます。

笹尾山 石田三成陣地
決戦地付近の田から、石田三成の陣地があった笹尾山を望む

軍旗・背旗・馬印

旗には、古来より、現実的にも象徴的にも、それを使用する人や集団の存在を自他に知らしめる役割がありました。
そうしたタイプの旗は、ただ目立つだけではなく、その使用者の「人となり」を端的かつ理想的に表現するデザインを備えています。
国旗・五輪旗などがその代表です。



戦国時代に各武将が用いた軍旗にも同様の意味がありました。
関ケ原合戦に参戦した武将としても、徳川家康の「三つ葉葵」や石田三成の「大一大万大吉」など、それぞれに由緒ある意匠が使われています。

旗というものがいつ頃から用いられるようになったか、その起源はさだかではありませんが、わが国においても、すでに『万葉集』に、美しくたなびく雲を旗に譬(たと)えた「わたつみの豊旗雲(とよはたぐも)に入り日差し今夜(こよい)の月夜さやけかりこそ(中大兄皇子)」※訓読みには諸説あり という歌が見られます。



軍旗(ぐんき)とは、社寺等で宗教的な意味合いをもって使用する旗に対し、軍隊において用いる旗を指す言葉です。
また背旗(せばた)は、その名の通り各人が意匠を凝らして具足の背部に取りつけて用いました。
一方、馬印には、大将の本陣に立てる大馬印、配下の武将が用いる小馬印があり、それぞれ従者の馬印持ちに持たせて進軍したといいます。


軍旗は源平合戦の時代から用いられていましたが、背旗や馬印は戦国時代も末になってから登場したといいます。これらの軍旗・背旗・馬印は、いずれも全軍の結束を強め、士気を高める役割を担っていました。




関ケ原町歴史民俗資料館所蔵の「関ケ原合戦図屏風」にも、多くの背旗や馬印が描かれています。
特に、赤備えの井伊直政勢が、真紅の背旗や馬印をたなびかせて一直線に進撃する姿は印象的です。
当館の甲冑体験コーナーには「関ケ原合戦図屏風」を拡大して写したものがあります。
お寄りの時は、ぜひご覧ください。


関ケ原町内の陣跡碑には、その地に布陣した各武将の軍旗が立てられています。
※風の強い日など、一時的に撤去している場合もあります。

例えば、笹尾山の石田三成陣地からは、松尾山山頂の小早川秀秋の軍旗を見ることができます
皆さんも目をこらして探してみて下さいね。

関ケ原合戦 笹尾山 黒田長政軍旗 福島正則
笹尾山の細川忠興の軍旗。その後ろは福島正則の軍旗。

関ケ原合戦 笹尾山 石田三成軍旗
笹尾山の石田三成陣地の軍旗。「大一大万大吉」の意味は「一人は万人のために、万人は一人のために」と言われています。
                                    

首実検と首塚

「首実検」とは、討ち取った敵方の首を大将が検分することです。
正確には、大将格は「対面」、奉行クラスが「首実検」、雑兵らは「見知」と言い、首の身分の上下によって作法にも違いがありました。
しかし、基本的に敵の戦死者は丁寧に扱われたようです。
戦死者の墳墓である「首塚」や供養塔も敵味方双方のために造られるのが通例のようで、この辺りからも、敵の死者に対する表敬の意を感じ取ることができます。



関ケ原合戦においては、勝利した東軍の大将徳川家康が、陣場野の床几場(家康最後陣地)で首実検を行っています(首実検を行った場所は、藤川台=藤古川西岸の台地とも言われます)。
ひとの心を根っこから掴んでしまう家康のことですから、礼を尽くし、しっかりと作法に則って、執り行ったに違いありません。



家康はまた関ケ原を去るにあたり、当地の領主である竹中重門(たけなかしげかど)に、本合戦で死亡した兵士を埋葬することを命じました。
東首塚と西首塚がその墳墓です。


家康は、長篠合戦の際にも、壊滅的な敗北を喫した武田軍の戦死者を弔うため、塚(=信玄塚)を築いていますが、これは、家康が特別なのではなく、戦国時代の武士に共通する価値観のようです。
敵方に対する配慮といえば、籠城戦などでも、大将が切腹することを条件に、他の多くの将兵の命を保証するケースが見られます(三木城攻め・高松城攻めなど)。



世界的にみると、特に宗教の異なる異民族との戦いにおいては、敵を皆殺しにするか、さもなくば奴隷にでもするのが当然であり、戦死した敵を悼んで供養するなどといった発想はほとんど見られなかったと思われます。
その点、わが国の戦国時代の武士たちには、ある種のヒューマニズムが浸透していたとも言えそうです。



ちなみに、東首塚は、JR関ヶ原駅西の跨線橋(その名も「古戦橋」)の北詰、松平忠吉・井伊直政陣跡碑に隣接する位置にあります。
一方、西首塚は、関ヶ原駅前から国道21号線を更に西進し、国道365号線との交差点を越えて少し行った右側にあります。
東首塚には椎(シイ)、西首塚には欅(ケヤキ)の大木がそびえ、戦死した兵(つわもの)たちを悼むにふさわしい気配を漂わせています。

関ケ原合戦 東首塚 西首塚
東首塚の石碑と大木

壬申の乱と関ケ原

大化の改新(645年)によって権力を掌握した中大兄皇子(天智天皇)は、天皇に即位すると直ちに同母弟の大海人皇子を皇太子に指名し、天皇中心の政治を強力に推し進めました。
大海人皇子は臣下の人望も厚く、兄である天智天皇をよく助けたと言われます。



しかし、天智天皇に男の子(大友皇子)が生まれると、天皇はわが子に皇位を継がせたいと考えはじめ、そんな兄の心変わりを弟の大海人皇子も感じ取って、ふたりの関係に溝ができてしまいます。
やがて、天智天皇は病に伏します。天皇の本意を知る大海人皇子は、大友皇子を皇太子として推挙すると、自らは出家して吉野宮(奈良県南部)に逃れました。
その後間もなく天智天皇が亡くなると、大海人皇子と大友皇子(弘文天皇)の間で、皇位をめぐる内乱が勃発します。これが壬申の乱(672年)です。



大海人皇子は、先手を打って、不破道(ふわみち=都と東国とを結ぶ街道。「不破」は現在の岐阜県不破郡付近の地名で関ケ原も含まれる)を押さえ、東国の兵を手に入れることに成功します。
大海人皇子自身、吉野宮から当地に移り、行宮(あんぐう=かりみや)をつくって、全軍を指揮したのです。



結局、東国の勢力を手中にした大海人軍が勝利し、敗れた大友皇子は自害。
大海人皇子が天皇として即位します(天武天皇)。天武天皇は、兄天智天皇が推し進めた天皇中心の政治体制をさらに確固たるものにしていきました。
『万葉集』をひもとくと、当時の天皇の威光を表すこんな言葉を見つけることができます。

「大君は神しませば…」
天武天皇は、臣下の者たちから、神にも等しい存在として崇められるようになっていたのです。


※関ケ原町内で、壬申の乱を偲ぶ場所を挙げるなら、     
野上行宮跡、自害峯の三本杉、黒血川、矢尻の池(井(い))、
井上神社、若宮八幡神社本殿(藤下・山中)、
沓脱石と兜掛石、桃配山などがあります。
関ケ原町観光ガイドブック「せきがはら巡歴手帖」に
案内が掲載されています(7ページ)。

関ケ原合戦 壬申の乱 大友皇子自害峯
迫力がある大友皇子自害峯の三本杉

気になるなる!食べモノ①

2013年合戦祭りのポスターカッコイイですね~
私が大好きな、平野耕太先生の「ドリフターズ」ですよ~


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そこで
島津絡みで
気になってました鹿児島のお菓子を作ってみました☆

皆さんは
『かるかん』
ご存知でしょうか

私、かるかんと聞いて 猫のご飯 かと思いました
申し訳ないですぅ
岐阜にはかるかんを扱っているお店が少ないようでして、今回
私 人生初かるかんです

かるかんとは何
漢字は 軽羹 と書くようです 軽い羹
鹿児島県の名菓で、長いも又はヤマイモを使用したお菓子です。
10月~4月までの季節菓子だそうで、これからの時期の御菓子なのですね~

材料
・長いも(今回は長いも)
・上新粉
・砂糖
・卵白
・水
・酢(少々)   以上6種を使いました

蒸しケーキに若干作り方が似ているように感じました

作ったのが


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後ろにあります、白いのが本当の かるかん です
手前のつぶつぶが入ってるのは、紅茶です♪
勝手に紅茶味にしました

かるかんには、2種類あるようでして
簡単に言うと、あんこが中に入ってるのと入ってないの
軽羹饅頭は中にあんこが入ってます。

今回は無しのを作りました
あんこは後のせで

もちもちした食感で、美味しかったです

次は、どの武将関連のを作ろうか…
お楽しみに~~

大谷吉継墓と五輪塔

藤古川西岸の雑木林の中に、大谷吉継の墓がひっそりと建っています。
隣りには、吉継が自害した折に介錯したといわれる湯浅五助(ゆあさごすけ)の墓もあります。
湯浅五助の墓は、大正時代に彼の子孫が建てたもので、我々もよく見慣れた縦長直方体の作りです。



一方、関ケ原合戦後の早い時期に建てられたとされる大谷吉継の墓は五輪塔になっています。
大谷吉継の墓は、合戦当時敵方であった藤堂高虎(とうどうたかとら)の造立とされ、高虎の人柄をも彷彿(ほうふつ)させる美談として伝えられています。
五輪塔は、平安時代から作られるようになった墓・供養塔です。
重ねられた形は、下から方形・円形・三角・半円・宝珠で、それぞれ地・水・火・風・空の五大(古代インドで考えられた宇宙の構成要素)を表しています。



五輪塔については、亡くなってから50年経ってから建てる慣習のあることも知られています。
吉継の五輪塔が、仮にその慣習に従って造られたとしたら、その造立年は1650年となり、高虎の没後20年が経っていることになります。
一部の文献に、高虎と明記せず、藤堂家の造立としてあるのは、その辺りの可能性を考えてのことなのかもしれません。
ただし、そこに高虎の遺志が働いていることは間違いないところでしょう。
だとしたら、むしろ、亡き吉継への畏敬の念を長年にわたって保ち続けたことにこそ、高虎の真骨頂があるとも言えましょう。
それはまた、高虎の遺志をしっかりと形にした藤堂家のひとびとにも言えることでしょう。



ちなみに、関ケ原町内には、当地で戦死した無名兵士の遺族たちがひっそりと運びこんだ一石五輪塔(いっせきごりんとう=持ち運びできるよう一つの石を五輪塔の形に刻んだもの)が遺されている可能性もあるようです。
自然石とも見まがう路傍の小さな石標にも、古(いにしえ)のひとびとの深い思いが込められているのかもしれません。

関ケ原合戦 大谷吉継、湯浅五助の墓
大谷吉継墓(右)・湯浅五助墓(左)

島津義弘の陣跡11 島津の退き口伝説

島津には、井伊隊、松平隊、本多隊らが追撃します。
追撃する兵と島津の間で、凄まじい戦がありました。


義弘は退く時、北国街道(北国脇往還)を南東に下り、関ケ原宿付近を通り、伊勢街道に入って烏頭坂を抜け、牧田川沿いの東伊勢街道から一路、大垣をめざし、籠城するつもりであったようです。※異説あります。
ところがすでに大垣城は炎上していたので行くのをあきらめ、大坂を目指します。
大坂に行って再起を考えていたとも言われ、退却すれども今だあきらない、義弘の心意気を感じます。

その後も一難去ってまた一難で、島津隊は多大な犠牲者を出しながら退きます。
義弘が故郷の島津領に着いたのは、10月1日のことでした。



島津が退いた時に残したものは、400年以上経った今も私達に何かを語りかけてきます。
関ケ原町や大垣市内の烏頭坂、牧田地区、上多良地区などで語り継がれ、その逸話は今も、大きく想像力をかき立てられます。
それは「島津の退(の)き口(ぐち)」と言われる、千数百キロにも及ぶ壮絶な退却戦、負け戦を吹き飛ばす伝説です。



江戸時代中期、敵方であった黒田家の家譜には、
「其(そ)の合戦の形勢(ありさま)すぐれてはげしかりしにや。其の時京童(きょうわらべ)の諺(ことわざ)に、物のはげしき事をば、嶋津(島津)の退口のごとしぞ云(い)いける」(桐野作人著「関ケ原 島津退き口」P4より引用)
と書かれているぐらいです。


負け戦であったにもかかわらず、当時国内で、この出来事は強烈な印象でもって語られたと思われます。
当笹尾山交流館の甲冑体験コーナーにある関ヶ原合戦図屏風(本物は関ケ原町歴史民俗資料館に所蔵)でも、島津の退き口は中心に位置し、目立って書かれています。





この退却戦は義久のフォローにより島津の領地安堵、また生き残った義弘は島津氏の行く末に大きな影響を及ぼすようになっていきます。
義弘は兄の義久との関係の中で、義弘嫡男の忠恒(後の家久)が薩摩の初代藩主となり、総本家としての地盤を固めます。
また島津藩士の末裔は、江戸時代の宝暦治水や明治維新など、日本の歴史を変える大きな役割を果たしています。


昭和35(1960)年からは毎年、退き口のルートをたどる鹿児島の青少年達による踏破隊が、岐阜に来ています。
この踏破隊は「チェスト行け関ヶ原」の幟(のぼり)をたて、島津義弘陣所跡より大坂城まで、一部を除き数日間で120キロを歩いて踏破するものです。

開催は50回以上を数え、参加者の名前は石に彫られて島津義弘の陣跡にあります。
鹿児島と岐阜の間で結ばれた絆が、教育や行政分野での人材交流として、今も生きています。





もしもはないのですが、特に島津の関係は想像できることがたくさんあります。
たとえば三成以上の戦経験をもつ義弘が、島津が薩摩に残している兵力を出して西軍参戦したならば、関ケ原合戦の勝敗はどうなったかわからなかったと言われます。
合戦中に義弘は何度も、「薩州勢5千召し列ね候わば」勝つことができたと言っています。
(桐野作人著「関ケ原 島津退き口」P130引用、以下参照)
義弘の戦歴からすると、あながちに否定はできません。



三成は敗退した後も、家康打倒で再起するつもりであったと言われています。
「関ケ原町史 通史編上巻」P367には、三成が退却中、それまで付き添ってきた3人の家来に最後の別れを告げた所があります。

「我は暫(しばら)く此(この)辺に身を隠し、其(の)後密かに大坂へ赴(行くの意味)き、薩摩へ下向して島津義弘と語らい、重ねて大軍を起こすべし」

三成の退いたルートは確定されていないぐらいなので、この話の真偽はわからない面がありますが、三成は最後まで秀頼のために忠義を尽くそうとし、その中心人物として義弘を頼りにしていたことがうかがわれる話です。



当笹尾山交流館の近くの笹尾山会場=笹尾山駐車場では、このブログで毎回のように参考や引用をさせて頂いた書籍、「関ケ原 島津退き口-敵中突破300里(学研新書)」の著者、桐野作人氏によるお話が直接聞けるステージが10月20日11:00~12:00にあります。

また同じく桐野先生が一日同行する、島津の退き口をたどるツアーを11月3日(日)に開催します。
このブログでは紹介できなかった興味深い内容を、桐野先生から直接お話しが聞けるツアーです。



関ケ原合戦 島津義弘 島津の退き口 踏破隊
退き口のルートをたどる鹿児島の青少年達による踏破隊の参加者。
この義弘陣地より大坂城まで一部を除き数日間で120キロを歩いて踏破します。

関ケ原合戦 島津義弘 島津の退き口 踏破隊
退き口のルートをたどる踏破隊は、これまで50回以上開催されています。

関ケ原に残る山城

関ケ原町内の山城というと、まず思い浮かぶのは松尾山城でしょう。
松尾山城は、東山道(のちの中山道)を扼する位置にあり、織田信長の侵攻に備える浅井氏の境目の城として機能していました(実際は織田方の調略により戦わずして開城しています)。



松尾山城はその後、境目の城としての役割を終え、廃城となっていましたが、関ケ原合戦に先立って、西軍の総大将毛利輝元の陣地とすることを想定して修復・拡大されました。
結局、輝元は大坂城から動かず、代わりに陣取ったのは、東軍への内応を疑われていた小早川秀秋でした。



松尾山城には、曲輪や土塁、堀切などの遺構がよく遺されていますが、中でも圧巻なのは、主郭の入口に築かれた枡形虎口(ますがたこぐち)です。
突進してくる敵兵を土塁で防いで立ち往生させ、一斉に攻撃する仕組みになっています(下写真参照)。

下剋上の時代が終わりを告げることによって、城の持つ機能は大きく変化しましたが、ここに紹介した松尾山城をはじめ、戦国時代の山城にいわく言い難い魅力を感じるひとは、決して少なくないようです。

関ケ原合戦 松尾山 枡形虎口
松尾山城跡の枡形虎口

島津義弘の陣跡10  島津打って出る

押されて周りがばらばらになって敗走する中、逃げたい気持ちをおさえて陣地に居続けることは、なかなかできるものではありません。
統率が取れている島津隊では、それが可能でした。


午後2時過ぎと思われますが、義弘と豊久、盛淳との間で、残る兵全員でどうするか協議しました。



島津は最初からすぐに退くことを考えていたわけでなく、家老の阿多盛淳(あたもりあつ)や何人かの家臣は、居残って本陣を死守しようと言います。


義弘も、「せいいっぱい戦って、いさぎよく死のう」と言うのですが、豊久に「まことに御家の安危(安全か危険か)に関わる大切な御身であられるので、なるべくお退きになることがよろしい」と諌(いさ)められました。

義弘は退くことに決めると、どこが猛勢かと家来に聞き、その猛勢の中へ進むように命令しました。


家臣の考えを聞いて義弘は、自分の使命に立ち返り、豊臣家の御恩に奉公するために、二つに島津家の存続をかけ、次回のチャンスを狙うと、頭を切り替えたことのではなかったでしょうか。
こうして島津は、前代未聞、残る兵100名余(異説では200名とも300名以上とも言われています)による全軍一丸となって東軍を突き抜ける、敵中突破を始めることにしました。



打って出る前、少ない兵で戦うため、豊久はひきつけるだけ引きつけて鉄砲を放ち、一挙に出るように命令を出しました。
発砲を禁ずる軍令が出され、陣中は一糸乱れず静まりかえっていたようです。(桐野作人著「関ケ原 島津退き口」P140引用、以下参照)
やがて宇喜多隊、石田隊がくずれ、残る島津に襲いかかってきます。



ところがあまりに押し寄せる勢いが強く、鉄砲を放ってもバタバタと倒れる屍(しかばね)を乗り越えてやってきます。
次の弾を撃つ間もなく、敵味方が入り乱れ、鉄砲が役に立たなくなり、刀を抜いて打って出るほかありません。

3、400mほど進むと、東軍は三成や秀家などの主将の首取りに意識がいっているためか、島津勢に向かってくる敵が少なくなり、退く道が開けました。




島津隊が、松平忠吉、井伊直政らと緊迫した状態で戦った記述が関ケ原町史(上巻P355)にあります。
史料を読み比べてみるとおそらく退却後であり、参謀本部編纂「関ケ原の役」によると、島津が退いて牧田川を越えようとする頃のようです。

「敵味方が備(ここでは各隊の意味?)を立寄せて(近くに寄ると)、鉄砲を迫合(撃ち合うなど激しい戦いの意味?)始まったが、中に(なかで)も下野守忠吉(松平忠吉)は、羽柴(島津)義弘の手(支配下のもの)へ馳(せ)向(か)い、義弘の軍士(兵の)松浦三郎兵衛を(に)駆寄(走り寄)せて一太刀(刀を振りおろして)切ると、三郎兵衛が請流して(さけると)忠吉の左の臂(ひじ)と手の外れを切った。

忠吉は事ともせず(切られたのを気にもしないで)、(三郎兵衛と忠吉が)馬上より組んで落ちたのを、忠吉の家人(家臣、家来)の加藤孫太郎が松浦を引伏せて其(そ)の首を取る。

下野守(忠吉は)、立上って、又敵兵と太刀打した。
近臣(家来が)四人・中間(馬を引く下人のこと)一人なので、甚だ(はなはだ)危く(危険な状態で)懸けられ(殺されそうになっ)たが、井伊兵部少輔(井伊直政)は手(味方のこと)の物を(に)下知(命令)して突懸るに(つっかかろうとし)、木俣右京・鈴木平兵衛・属兵を勵(はげま)して力戦した。
木俣が(の)手(部下)で、小畑勘兵衛(というもの)が母衣武者(鎧(よろい)の背に母衣(ほろ)をつけた武者のこと)を突伏して首を取る。

直政とともに忠吉も合戦で負傷したといわれているので、おそらくこの場面であったと思われます。



手柄をあげたい武将からすれば、退く島津は武勲をあげる、かっこうの相手であったと思われます。
忠吉は家康の四男、この時21歳でした。
直政はもっとも信頼できる家康の側近の一人で、この合戦では軍の経験がない忠吉の、後見役を仰せつかっていました。
忠吉と直政は、本日の戦いは徳川の戦いであるとして、先手と決まっていた福島正則を差し置き、合戦の火ぶたを切っています。
戦意はたいへん高かったと想像できます。

島津隊の去った戦場には、多量の戦死者と負傷兵が残り、4時ごろから降り出した雨により小川に血がそそぎ、その川で米をといだところ真っ赤に染まったと言われています。(白水正編「図説 関ヶ原の合戦P94岐阜新聞社発行より引用)

関ケ原合戦 島津義弘 島津の退き口

関ケ原合戦と街道

関ケ原は、中山道六十九次58番目の宿場でした。
中山道がいわゆる五街道のひとつとして整備されたのは関ケ原合戦直後、江戸時代になってからですが、このルートは、都と東国とを結ぶ幹線道路として、古代から使われていました。

特に、関ケ原宿は、伊勢街道(伊勢西街道・伊勢東街道)および北国街道(北国脇往還)の起点ともなっており、太平洋側と日本海側をつなぐ中継点でもありました。
上述した三街道は、関ケ原合戦においても重要な役割を担いました。
中山道および伊勢街道はそれぞれ東軍・西軍の進軍ルートになりました。
また、西軍が中山道および北国街道を押さえるのに力を注いだことは、中山道に大谷勢、北国街道に島津勢を置いたことからも明らかです。



これら3つの街道は、西軍の中心的な敗走ルートにもなりました。
宇喜多秀家・小西行長ら名のある武将はともかく、足軽クラスの兵の多くが、これらの街道をたどって逃走したことは間違いありません。
『時村史』(「時」は現在の大垣市上石津町時)をみると、少なからぬ数の西軍の兵士たちが落ちてきただけでなく、当地に隠れ住んだ者もいたことが記されています。



中でも伊勢街道は、島津軍の敵中突破(島津退き口)ルートとしてよく知られています。
伊勢街道沿いには、烏頭坂(うとうざか、島津豊久奮戦の地)や琳光寺(りんこうじ、阿多盛淳の墓)など、島津ゆかりの史跡が点在しています。

関ケ原合戦 玉地区に残る旧北国街道(北国脇往還)
関ケ原町玉地区に残る旧北国街道(北国脇往還)

関ケ原合戦 玉地区に残る旧北国街道(北国脇往還)<br />

島津義弘の陣跡9  残る島津

その後、三成自らが催促にやってきました。
三成は戦いがうまくいっていないことを訴えますが、豊久はもともと、家康側への参戦を主張していたと言われます。

「今日の戦闘は各隊がそれぞれに戦い、力を尽くそうではないか」と冷たく断わられました。
三成は気を落とし、帰っていきました。

三成からすれば、島津の戦力に最後の望みをかける所があったのかもしれません。
島津からすれば、二番備として機会をうかがっていたものの、「もはや勝敗は決してしまった。島津の出番はもうない」と、義弘、そして豊久も判断したのではないでしょうか。

三成が来た時間は特定できないのですが、史料を突き合わせると三成が来た頃はかなり西軍の旗色は悪く、三成が陣地に戻った頃には「はらはらと敗軍候事」((桐野作人著「関ケ原 島津退き口」P124「山田晏斎覚書」引用、以下参照))と敗軍が決まったようです。



旧参謀本部編纂(へんさん)「関ヶ原の役-日本の戦史(P226より引用)」によると、宇喜多・小西の両隊が破れると、その隊の兵たちは、島津隊の前・後隊にまぎれこもうとするので、「わが隊を乱そうとする者は、たとえわが党の士といえども斬(き)れ」と義弘は命令し、陣中に向かってくる他隊は、敵味方にかかわらず排撃するように指示を出しました。



なお義弘は三成と以前より仲が良く、恩義に感じていたから、三成が豊久でなく義弘の元に催促に来たとすれば、断ることはなかったいう考え方もあります。
しかし、豊久が国に戻れば城主とはいえ、義弘の考えを尊重しないで自分の考えを述べたとは考えにくいのです。
義弘の行動を見ると、最後は島津の行方を優先して考えています。
この合戦で三成のために戦うということは、これ以上必要ないと判断したのではないでしょうか。


島津は、やむなく西軍に参加したという経緯がありました。
これまでも何度か、三成の誘いを断ってもいます。
義弘は、三成とのこれまで関係もあって西軍に参加したのです。
十二分に三成への義理は果たしたとも、考えたのではないでしょうか。





すでに味方は、大谷隊は全滅し、小西隊、宇喜多隊、そして三成隊も次々に敗走をはじめ、首級を上げようとする東軍がなだれかかるように西軍に襲い掛かっています。
乱戦状態で、敵味方も分からないぐらいでした。
家康の周りを固める旗本衆も、家康を守る役割はもはやなく、最後の攻撃に加わっていました。

味方がどんどん減り、わずかに三成が敗走した後、踏みとどまってなおも戦うものと、島津だけが隊の形を残していたと言われます。
島津はまだ、敵味方問わず陣地に入ろうとするものを退けながら、動かずにいました。
敗走する兵の中には、島津を避けて逃げ、島津の陣地の裏にある池寺池に入りおぼれたものが、数十人いたと言われています。

関ケ原合戦 島津義弘 池寺池
現在の池寺池。池の向こうに見える林が薩摩池がある所。


島津の兵は見る間に減っていました。
すでに半ば以上が死傷し、このままでは全滅が目に見えていました。(旧参謀本部編纂「関ヶ原の役」P227参照)

関ケ原合戦 島津義弘 薩摩池 
島津義弘が布陣したと言われる小池地区の薩摩池に至る細道

島津義弘の陣跡8  二番備え

島津隊が大垣を出るときですが、用心深いことにそれまで居た陣地に、竹を植えて火縄を挟み、火をつけて、多数の兵が群がっているように装っています。(旧参謀本部編纂「関ヶ原の役」P206引用)
さりげないことかもしれませんが、島津が歴戦の部隊であることがわかります。


午前4時ごろ、島津隊は関ケ原小池地区の小高い地に着陣したと思われます。
美濃から近江に抜ける、北国街道(北国脇往還)を抑える要所に位置します。
三成隊の側面を守り、島津隊と三成隊が北国街道をはさみます。
同じく15日朝に布陣した三成隊は柵を急きょ作ったようですが、義弘は柵を作ることはしませんでした。


三成は、墨俣など関ケ原合戦の前哨戦で、島津の力を借ります。
義弘は戦歴において、西軍はおろか東軍の大将の中でも並ぶものがないほどであったので、いざという時に頼りにしていたのではないでしょうか。
明らかに三成は義弘に、西軍の諸将と違う気遣い、敬う気持ちで接しています。





島津隊は合戦に関する島津側の資料で最も信頼性が高い「旧記雑録後篇三」によると、「二備」「二番備」とあります。
島津隊は最初から、先頭を切って相手に挑んで打撃を与える、先手備えではなかったようです。
東軍側に残る史料にも、「後備」「脇備」「石田が(三成の陣の)後ろに」という言葉が使われています。

一般に島津は、勝敗が決するまで傍観していたと言われます。
島津はあらかじめ協議のうえ、二番手として出陣の機会を待っていました。

合戦は実質的に三成が主導していたので、三成が中心となって当日の戦い方を決めました。
黒田長政の伝記「長政記」によると(桐野作人著「関ケ原 島津退き口」P116参照、以下同様)、三成は最初、島津隊を先手として考えていました。
しかし島左近(しまさこん)の忠告を聞き入れ、左近を先手とし、島津を横撃(脇備えのこと)にしたと言われています。
決死の覚悟の左近の気持ちを察すると、「我こそが是が非でも先手を勤める」というものであったと思われます。


なお「義弘譜」によると、開戦していくらか経過後、義弘は三成に使いを出し、あらためて戦の進め方の確認も行っていますが、行き来する中で思いがけず、秀秋の大谷隊への攻めがはじまったと史料にあります。



戦場で勝つためには、先手備え、二番備え、後陣の役割を、それぞれがきちんと担うことが大切であり、統率を取れた行動をすることが大切です。(桐野作人著「関ケ原 島津退き口」P117引用、以下参照)
たとえば二番備えの隊が、形勢が悪いからと、自分の判断で勝手に動いてはいけないというのが、戦での決まりごとです。

先手備えも、戦う間に疲労して戦力も落ちてきます。
二番備えの役割は戦いの仕方でいろいろあると考えられますが、一般には戦力が落ちた時に次の出るべきタイミングで討って出るのが、その役割です。
そのために二番備えは、兵力の温存をします。





西軍は数では劣っていたのですが、午後に至るまで東軍を押していました。
ところが三成の使者、八十島助左衛門が島津陣の先手、豊久の陣地にやって来て、戦いに加わるよう催促しました。
残っている史料から推測すると、使者がやってきた頃はすでに小早川秀秋が寝返った後と推測され、1度目ならず、2度来ましたが、断ると使者は帰りました。



島津が断る理由に、ひょっとしたらこの時、形勢が急転する中でいかなる戦いをするか、まだ義弘に、判断がついていなかったのかもしれません。
二番備えとはいえ、この時あまりにも西軍の形勢が悪かったとすれば、これから島津隊が参戦しても局面打開できるかどうかわかりません。
この時、三成のために戦うのでなく、島津のために戦うと切り替えたのかもしれません。

関ケ原合戦 島津義弘の陣跡
島津義弘の陣跡を後ろから見る。ここには豊久が、島津隊の先手として備えていました。


臨時休館のお知らせ

平野耕太「ドリフターズ」原画展

準備、撤収のため

10/11(金)、10/21(月)の2日間

臨時休館致します。

お越しの際にはご注意くださいませ。

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