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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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ルポ⑦ 白拍子谷

いよいよ本日最後の目的地、白拍子谷です。
白拍子谷は現在、合併により大垣市となっていますが、上石津町上多良地区です。

史跡として白拍子谷はあまり紹介されていない所で、きちんとした案内板はありません。


豊久の墓から、およそ800mぐらいを歩きます。 
下記の写真の竹林を抜けると、日吉神社があってその境内を抜けます。
関ケ原合戦 島津の退き口 島津豊久 上石津町 白拍子谷



関ケ原合戦 島津の退き口 島津豊久 上石津町 白拍子谷
上の写真のように境内を抜けて道路をわたり、旧名及((なぎう)と読む、奈幾宇とも書く)村の、堂木(どうき)川(※堂木谷川とも言います)という川に向かいます。
※「上石津における関ケ原合戦と島津軍の背進 総集編(辻下榮一編者)」P35参照


伝承では豊久は、この地より関ケ原に近い伊勢街道で命を張った殿戦のために傷つき、大垣市上石津上野の方から西伊勢街道沿いに退却、険しい勝地(かちじ)峠を家臣らに助けられながらようやく超え、多良郷、さらに南下し、上多良の方まで落ち逃れてきます。


地元に残る伝承はいくつかあり、その中の一つでは、かくまってくれるように村に入ってあたりますが、断られ続け、傷が深いため、最終的に案内をしてもらって白拍子谷まできて、そして自刃しました。



豊久の亡骸は、地元の三輪内助入道方斉というものがお寺にて丁重に荼毘(だび)に付し(火葬のこと)ます。
当時はまだ瑠璃光寺があった地に、正覚山薬師寺という寺があり、そこに葬られました。
この経緯について、島津側に残る史料、「倭文麻環(しずのおだまき)」に記述があります。
※合戦当時の慶長年間は、瑠璃光寺はなく、正覚山薬師寺であったと「養老郡史」にあります。
正覚山薬師寺が廃寺になったあと再興され(天明6(1786)年、安永7(1778)年とも言われています)て、高輪山瑠璃光寺として改称されました。

関ケ原合戦 島津の退き口 島津豊久 上石津町 白拍子谷
上の写真は、堂木川の左岸を上流の方に歩いているところ。
ススキが、季節を感じさせます。  


関ケ原合戦 島津の退き口 島津豊久 上石津町 白拍子谷
さらに200mほど、小さなコンクリート橋を左に見ながら、二つ越えて進みます。
写真のように三つ目の橋を渡って、何もなさそうな所を谷の奥の方に進むと、白拍子谷と書いた石柱が見えます。

詳しい行き方はこちらをどうぞ。

関ケ原合戦 島津の退き口 島津豊久 上石津町 白拍子谷
石柱です。

関ケ原合戦 島津の退き口 島津豊久 上石津町 白拍子谷



関ケ原合戦 島津の退き口 島津豊久 上石津町 白拍子谷
上の写真は、戦国時代のような風景に囲まれながら、参加者全員で、桐野先生に豊久と白拍子谷について、解説を聞いているところです。
白拍子谷の「白拍子」は、「しらびょうし」とも読み、江戸時代は遊女のことを意味していた言葉だそうで、どうしてこの名がつけられたのかはわかりません。
いろいろな伝承が、他にもありそうです。


バスが停車している堂木橋付近まで、歩きます。   
夕方近くになってきましたが、時間的にまだ取れそうなので江戸時代の宝暦治水に由来する、治水神社(岐阜県海津市)まで行くことにしました。
治水神社は今も、薩摩、今の鹿児島県と、とても深い絆を持ち続けています。

史実では、義弘が退却するときに南下したと言われる、東伊勢街道をバスで行きます。
これまで雨が降らずもってきましたが、いよいよ天気が、あやしくなってきました。 

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ルポ⑥ 豊久の菩提寺、瑠璃光寺

琳光寺から国道365号に入りトンネルをくぐってすぐに、細い旧西伊勢街道(裏伊勢街道とも言います)に入ります。
距離にしておよそ9㎞の瑠璃光寺まで、バスでおよそ20分。

国道でずっと行くルートの方が大型バスでは行きやすいのですが、退路と言われる西伊勢街道を通って行くことを考えました。

西伊勢街道は、実は大型バスが通れるかどうかわからず、現地を見たところ、大垣駅前へ行く名阪近鉄バスの路線バス(大垣多良線)が通っていることがわかりました。
今回の旅行会社、名阪近鉄旅行から名阪近鉄バスの担当者様に問い合わせをお願いしたところ、大型観光バスが通行可能だと確認できました。

実は本当に通行可能か不安な部分、また古い街並みが残る細い道を通っていいのかな、という気持ちもあったのですが、バス運転手様の見事な運転で走りきりました。
また幸いにも、対向車はありませんでした。
誠にありがとうございました。


当日写真が撮れませんでしたが、下記は別の日、その日は雨でしたが、現地に行った時の写真です。
写真は路線バスで、「多良・時」と書いてあります。
「時」は、島津が退いた時に通ったと言われている方面です。

関ケ原合戦 島津の退き口 瑠璃光寺 西伊勢街道 上石津町

当時の街道の雰囲気が、現在も残っています。
街道の道は通行車が少ない所ではありますが、国道を通れば快適に瑠璃光寺まで行けます。
関ケ原合戦 島津の退き口 瑠璃光寺 西伊勢街道 上石津町


写真下は瑠璃光寺に着いて、階段を上がる所。
関ケ原合戦 島津の退き口 瑠璃光寺 島津豊久の菩提寺

瑠璃光寺は、旧上多良(かみたら)樫原(柏原(かしわら))村にあります。
寺に上がる階段で、まずは記念写真。
関ケ原合戦 島津の退き口 瑠璃光寺 島津豊久の菩提寺


寺の正面には、大きく「島津豊久公菩提寺」と書かれている新しい石碑です。
「公」がついているのは、豊久は31歳と若くして亡くなりますが佐土原2万8600石(出典「関ヶ原の役」)の領主であるからです。
関ケ原合戦 島津の退き口 瑠璃光寺 島津豊久の菩提寺

関ケ原合戦 島津の退き口 瑠璃光寺 島津豊久の菩提寺 上石津町

戦前、金属類回収令で鐘が供出され、昭和25(1950)年に再び作られた鐘が、現在のものです。
関ケ原合戦 島津の退き口 瑠璃光寺 島津豊久の菩提寺

この鐘に、「慶長年中当国関ヶ原陣之砌(の時)、薩州島津中啓公於此所(ここにおいて)戦死。於二當(とう)寺葬」と刻まれています。

慶長の間に行われた関ケ原合戦で、薩州の島津中啓公(豊久のこと、「中啓」は「中務」のことでないかと桐野先生より御指摘ありました)がここで戦死した。この寺で埋葬されたと、書いてあります。
関ケ原合戦 島津の退き口 瑠璃光寺 島津豊久の菩提寺



豊久の位牌の写真をご用意させて頂きました。
江戸時代の位牌ですので、字が読みづらくなっていますが、位牌には「嶋光院殿忠道源津大居士神儀」と書かれています。
この字の中に、「嶋」「津」の二文字があり、つなげると島津になると、参加者の方より御指摘ありました。
江戸時代から今に至るまで、瑠璃光寺にて大切に弔われています。

豊久が亡くなった所を見たものが、島津側には誰もいません。
そこで江戸時代になって、豊久がなくなった場所を探しに、薩摩の方が来たという記録が、上石津に、また島津にもあります。

別の機会に紹介します。
関ケ原合戦 島津の退き口 瑠璃光寺 島津豊久の菩提寺 上石津町



瑠璃光寺には、豊久の顕彰会会長、その関係者などたくさんの関係者が豊久の菩提寺ということで来られています。
島津の現当主、島津修久氏も一緒に来られています。
町の中には、上多良地区の児童が作ったと思われる関ケ原戦跡踏破隊の歓迎の看板があります。

関ケ原合戦 島津の退き口 瑠璃光寺 島津豊久の菩提寺 上石津町

瑠璃光寺の住職様には、御挨拶にうかがったときに豊久の伝承を興味深くお話して頂きました。
今回残念なことに日があわないため、また豊久の位牌は撮影させて頂いたものを、参加者にご紹介をさせて頂きました。


続いて、地元では島津塚(通称でカンリヤブ、カンリンヤブとも言われています)または薩摩塚と言われている、島津豊久の墓に行きます。

最近、広域農道のきれいな道が、島津塚に入る所にできました。
桐野先生によると、豊久の墓は以前来た時は草原の中に入っていく感じであったようです。
関ケ原合戦 島津の退き口 瑠璃光寺 島津豊久の菩提寺 上石津町


これから、中に入っていきます。
関ケ原合戦 島津の退き口 島津塚 薩摩塚 島津豊久の墓


下の写真が豊久の墓です。
今年の夏に撮ったものです。
当日は、瑠璃光寺の方が掃除して新しいお花をお供えしていただいていたはずなのですが、うっかりして確認をしていません。
ごめんなさい。

薩摩に伝わっている話などをまとめた「倭文麻環」には、「墓表に大なる山茶樹(つばき)を植えたり。是豊久の墓とぞ、土人の説に当時三輪内助入道方斉といふ者豊久の死骸を拾(ひろ)ひ此地(このち)に葬り」とあります。

墓の前に大きくはありませんでしたが、参加者らでみるとつばきはありました。


関ケ原合戦 島津の退き口 瑠璃光寺 島津塚 島津豊久 上石津町


合戦後400年後につくられた、豊久を顕彰する碑。
関ケ原合戦 島津の退き口 瑠璃光寺 島津塚 島津豊久 上石津町

続いて近くの、豊久が自刃したとの伝承がある白拍子谷まで行きます。
まだ雨が降らないで、何とかもっています。

ルポ⑤ 伊勢街道(九里半街道)で阿多盛淳の墓のある琳光寺へ

関ケ原合戦 島津の退き口 伊勢街道 九里半街道 阿多長寿院盛淳 琳光寺
写真は伊勢街道にて琳光寺に入っていく道。
上野と書いてあるバス停。
伊勢街道は、この角で左に曲がります。


関ケ原合戦 島津の退き口 伊勢街道 九里半街道 阿多長寿院盛淳 琳光寺
九里半歴史文化回廊の方が作られた、九里半街道の案内板が立っています。
琳光寺は大垣市上石津町牧田の上野にあります。



関ケ原合戦 島津の退き口 伊勢街道 九里半街道 阿多長寿院盛淳 琳光寺
琳光寺に着くと、バスの運転手さんが弁当の搬入を手伝っていました。
左端に小さく見える方です。
ありがとうございました。

待ちに待った昼食ですが、その前に、阿多長寿院盛淳の石碑と、お墓を見ます。

関ケ原合戦 島津の退き口 伊勢街道 九里半街道 阿多長寿院盛淳 琳光寺
上の写真は盛淳の石碑。
敷地は元中学校で(表示板には小学校と書いてあります)、現在は大垣市就業改善センター、大垣市上石津地域事務所牧田支所があります。


関ケ原合戦 島津の退き口 伊勢街道 九里半街道 阿多長寿院盛淳 琳光寺
石碑の裏の文章は、豊久と同じ小牧昌業の作ったものです。

内容は、畠山頼国の子孫であること、義弘の陣場織りを着て、われは義弘なりと奮戦し、身代わりとなって亡くなる。時は53歳、部下の10余人が一緒に亡くなったこと、などです。

盛淳の合戦での功績は、非常に大きなものでした。
盛淳が盾(たて)となって防いだのは、時間としては短かったかもしれませんが、この時間が義弘を生き残らせる、決定的な時間稼ぎになったことは明らかです。


琳光寺は、島津家の現当主、島津修久(しまづのぶひさ)氏が今年の夏に来られました。50回以上を数える関ケ原戦跡踏破隊は毎年、また盛淳の子孫の方なども来られています。


関ケ原合戦 島津の退き口 伊勢街道 九里半街道 阿多長寿院盛淳 琳光寺
境内に入ったところ。

関ケ原合戦 島津の退き口 伊勢街道 九里半街道 阿多長寿院盛淳 琳光寺

関ケ原合戦 島津の退き口 伊勢街道 九里半街道 阿多長寿院盛淳 琳光寺
盛淳の墓の前にある石碑です。
琳光寺様、お花をありがとうございました。

石碑を書かれたのは、大正12(1923)年、侯爵の島津忠重氏です。
忠重氏は、島津30代当主の方です。
明治、大正、昭和と三つの時代に、たくさんの功績を残されている方です。


関ケ原合戦 島津の退き口 伊勢街道 九里半街道 阿多長寿院盛淳 琳光寺
桐野先生の笑顔。

関ケ原合戦 島津の退き口 伊勢街道 九里半街道 阿多長寿院盛淳 琳光寺
琳光寺の本殿に入る所です。
琳光寺の住職の方は当日ご不在でしたが、昼食の場所としてお許し頂きました。
誠にありがたいことでした。


関ケ原合戦 島津の退き口 島津弁当 阿多長寿院盛淳 琳光寺
本日の最大のサプライズ!!
弁当を外から撮った写真。
弁当の隣は、鹿児島などの名物和菓子の「かるかん」。


関ケ原合戦 島津の退き口 島津弁当 阿多長寿院盛淳 琳光寺
スタッフにより、「あくまき」が一つ一つに切って配られます。
あくまきは鹿児島特有の「もち」の和菓子で、関ケ原合戦の時、若い兵士のための日持ちする食糧として作ったと言われています。


関ケ原合戦 島津の退き口 伊勢街道 九里半街道 阿多長寿院盛淳 琳光寺
小さくて見づらいですが、入って正面奥に阿多長寿院盛淳の位牌を置いていただきました。
位牌の写真は、琳光寺の方に特別に撮影許可頂きました。



弁当箱をひろげると……。 


関ケ原合戦 島津の退き口 島津弁当 長寿院盛淳 琳光寺




関ケ原合戦 島津の退き口 島津弁当 長寿院盛淳 琳光寺
皆様、食べ始めた所です。
魚しげ様、日比野光敏先生をはじめ、たくさんの方のご協力を得て、弁当を作ることができました。

ほとんどの方がうれしいことに……
記念に弁当箱を持って帰られました。


関ケ原合戦 島津の退き口 島津弁当 長寿院盛淳 琳光寺
上の写真で、石碑の左に、小さいですが五輪塔が見えます。
この街道沿いで、島津のたくさんの兵が亡くなりました。
江戸時代の宝暦治水(宝暦4(1754)年~宝暦5(1755)年)で薩摩藩士は、街道沿いなどに戦死者を弔うためにたくさんの五輪塔を置いていったとも言われています。
「この工事に参加していた藩士数人が、牧田の戦死地を訪れ、自然石の貧弱な墓印を見て哀れを感じ、昼間の激しい労働の疲れもいとわず、こつこつと五輪石を刻み供養したものであると伝えている」と、蒲生町史(辻下榮一編著「上石津における関ケ原合戦と島津軍の背進 総集編」P20)にあります。
すでに150年以上経ち、合戦の生き残りはほとんどのこっていなかったと思われますが、合戦の経験は薩摩藩の中で語り継ぐべきものとされていました。


五輪塔はもともと戦死地にありましたが、後に琳光寺に集められたそうです。
琳光寺様に今は守られています。


関ケ原合戦 島津の退き口 島津弁当 長寿院盛淳 琳光寺
今年の夏に撮った写真です。
中央は盛淳のお墓です。
周囲は家臣のお墓でしょうか。



関ケ原合戦 島津の退き口 島津弁当 長寿院盛淳 琳光寺
さらに奥にも、五輪塔などがあります。
上の写真は、無名の戦死者のために作ったものでしょうか。
琳光寺の方が、いつもきれいになされております。
同じ今年の夏の写真ですが、夕方なので右上からの太陽、写真左下が赤くなっています。


次は、豊久の墓がある瑠璃光寺までバスで行きます。

ルポ④ 豊久奮戦の地、烏頭坂

関ケ原町歴史民俗資料館からバスで10分弱、烏頭坂に着きました。 
およそ11時半。
関ケ原合戦 島津の退き口 島津豊久 烏頭坂 伊勢街道 九里半街道


上の写真は烏頭坂から豊久の奮戦の地に登るところです。
烏頭坂は、旧伊勢街道で関ケ原町を抜けてすぐ、大垣市上石津町にあります。
関ケ原からは登り道、烏頭坂から下り坂になるので、追いかけてくる敵を待ち伏せるのに適した場所と思われます。
この写真の向こうから、追いかけてくる東軍が見えたと想像されます。


通説では、ここで島津は捨て奸(すてがまり)という戦術を取って、義弘を逃すというその一点のため、味方は捨て石となって、逃走する道の途中に兵が残り、地面に折敷いて敵を押しとどめたと言われています。



島津ファンをがっかりさせることかもしれないのですが、桐野先生によると、残っている当時の文献には「捨て奸」という言葉は出てこないそうです。
いつ頃から言われるようになったか、確かなことはわからないそうです。

「捨て奸」という戦法はすごく衝撃的で、MOOK本などに既成事実であるように書かれています。
本当はどうだったのか、興味がわきます。
どうした経緯で生まれ、知られるようになったか、どなたか調べて頂けるとうれしいです。


徳川幕府は江戸時代になっても、島津の軍事力に対し恐れの気持ちを抱いていました。
朝鮮の役での戦績、関ケ原の役での何十倍という敵に囲まれ、背を向けて逃げるのでなく、その敵の中心部に向かって正面突破する、前代未聞の退却があまりにも凄まじかったこと、またたくさんの兵が捨て身となって、義弘の退却を助けたこと、島津の兵は当時、日本最強であったと言われていたこと、そうした事実を後付けで説明できるものとして、捨て奸という恐ろしい戦術が、後世に作られていったのかもしれません。



上の写真の案内板右横に、小さくて見づらいですが石柱が見えます。
歩いていると気付きにくいのですが、「島津豊久の墓」という石柱が道路から登る途中に立っています。
下の写真は、少し石柱をアップしたところ。
関ケ原合戦 島津の退き口 島津豊久 烏頭坂 伊勢街道 九里半街道<a href=
写真は今年の夏に撮ったものですが、かつては烏頭坂で島津豊久が亡くなったと言われていましたので、その伝承にもとづいて建てられたものだと思われます。
ひっそりと目立たず、周囲は雑草でちょっとかわいそうな感じもします。
脇の方に置かれているので、道路を拡張した時に移設されたのでしょうか。


関ケ原合戦 島津の退き口 島津豊久 烏頭坂 伊勢街道 九里半街道
石柱のアップ。
裏には1938(昭和13)年と刻まれています。



桐野先生によると、いつ頃からなぜ、この地で豊久がなくなった言われるようになったかわからないそうです。
烏頭坂という地名も、当時の記録には出ていないようです。

豊久が亡くなったところを見た人が島津側にいないなど、混乱した戦況が様々な解釈を生んだ要因と考えられますが、この地まで東軍が追ってきて、島津は大勢が討ち取られていったことは確かと考えられます。

東軍は家康の命で、牧田(大垣市上石津)あたりでまもなく追撃をやめます。
東軍がいなくなった後、伊勢街道沿いは死屍累累(ししるいるい)であったと思われます。



島津側の記録「惟新公関原御合戦記」には、松平隊、井伊隊が、義弘が福島正則をかすめて通ったあと、伊勢街道を下るのを猛追し、直政は島津兵に撃たれて負傷、落馬したという記録があります。
直政はその傷が元で、2年後に亡くなります。



直政が撃たれたのはどこでしょうか。
旧参謀本部編纂「関ケ原の役」では、「牧田川を越えて多良に向かっていこうというとき」とあります。
諸説ありますが同書を参考にしている書籍が多いです。
島津側の「惟新公関原御合戦記」でも、伊勢街道を南下した所で撃たれたという記述があります。

島津側の史料「旧記雑録後篇三」によると、直政が撃たれたのは義弘の本陣に近い所、本陣の前であるという記述が2か所あります。(桐野作人著「関ケ原 島津退き口」P154以下参照)
そこで桐野先生は、「旧記雑録後篇三」にもとづいた説をとっておられます。


合戦のおよそ半年後、直政は敵であった島津家と家康との和睦に奔走しています。
直政は島津の退け口を、「始末比類なし、ごほうびの以(もっ)ての外(ほか)」と褒め称えて語ったと言われます。
直政はあっぱれというべきか、敵味方で戦った相手、自分を撃った相手を助けようとしました。(桐野作人著「関ケ原 島津退き口」P158引用、以下参照)


関ケ原合戦 島津の退き口 島津豊久 烏頭坂 伊勢街道 九里半街道
烏頭坂の豊久の石碑の前に、花が活けてあるのが見えますでしょうか。
このツアーの日の花は、わざわざツアーのために用意したものではありませんが、ほっとします。

また石碑の近くには、すぐに掃除ができるようにいつもほうきが下げてあります。
時々地元の方が清掃しているようで、古跡の管理を地元の方が続けておられます。
今も伝承を大切にしていると、感じさせられます。

関ケ原合戦 島津の退き口 島津豊久 烏頭坂 伊勢街道 九里半街道
上の写真をクローズアップした写真。



石碑の裏に、豊久の血戦奮闘を顕彰する内容が書いてあります。
撰文(せんぶん、文章を作ること)は宮内省御用掛の小牧昌業で、昌業は桐野先生によると薩摩藩士、明治維新で活躍された大久保利通の部下であった方です。
小牧昌業は宮内省御用掛として大正天皇に和漢学を進講なされた程の漢学者で、内閣書記官長、奈良県知事、帝室博物館長など、歴任なされた方です。

合戦の320年後の昌業が78歳、亡くなる2年前、大正9(1920)年に碑は作られました。


関ケ原合戦 島津の退き口 島津豊久 烏頭坂 伊勢街道 九里半街道
碑の表には、島津中務大輔豊久とあります。
中務大輔(なかつかさたいふ)という官職は父と同じもので、合戦の前の年、慶長4(1599)年に任じられています。
この官職について、どんなものであったかについて質問があり、桐野先生から解説がありました。

桐野先生によると中務大輔と中務小輔の「大」も「小」も、実際は位として、あまりかわらないそうです。
また研究者としては本人が名乗った名称で、最終的に確定することもあるようです。

関ケ原合戦 島津の退き口 島津豊久の墓 烏頭坂 伊勢街道 九里半街道
豊久の顕彰を称える石碑の近くに、「島津豊久戦死処」と書かれている石柱が明治39 (1906)年8月に建てられています。
時期を違え、いろいろなことを表示している石柱があることは、事実の認識や伝承も時がたてば、変化していくということをわからせてくれます。
先人が豊久の功績を大切にして作ったということに、意味があると思われます。
はたして本当はどうなのか、桐野先生によると史料の背景をいろいろな角度から読み取って推論する、楽しみということだと思われます。

関ケ原合戦 島津の退き口 島津豊久の墓 烏頭坂 伊勢街道 九里半街道

この地からおよそ2㎞弱、伊勢街道(九里半街道)を歩き、盛淳の墓がある琳光寺まで歩きます。
実際にこの道を、島津は敗走していったわけです。
道中、桐野先生は様々な質問を参加者の方から受けておられました。
関ケ原合戦 島津の退き口 島津豊久の墓 烏頭坂 伊勢街道 九里半街道

ルポ③ 関ケ原町歴史民俗資料館から、烏頭坂へ

関ケ原合戦 関ケ原町歴史民俗資料館 島津の退き口 島津豊久
関ケ原町歴史民俗資料館は館長の方がたまたまおられたので、合戦があった1日の概略を大型ジオラマを前に、わかりやすく解説頂きました。

資料館のジオラマは当日の諸将全体の動きを、流れをもってつかむことができて、目にうろこです。
いかに三成が地形的に有利な陣を作ったか、西軍有利で午前中進んだ所以が、良く理解できました。
関ケ原というと、陣跡に来られる人が多い中、ちょっと足を運んでみるのもお勧めです。



資料館では現在、企画展「見てわかる関ケ原合戦~郷土に伝わる合戦絵巻と合戦屏風~」を開催していて、2014年3月20日(木)までです。
参考ですが、来年2014年2月1日~28日まで、館所蔵の関ケ原合戦図屏風が展示されます。
本物を見られる、良い機会です。

関ケ原合戦 島津の退き口 関ケ原町歴史民俗資料館 島津豊久
この時間帯は自由行動でした。
資料館にミュージアムショップがあったことで、お好きな武将に関係するオリジナルグッズを買い求めておられる方もたくさんいました。



一つ前の関ケ原町民俗資料館の企画展示で、合戦では「世界に例のないほど大量の火器火砲が使用された」ことに着目した、鉄砲の展示をしていました。
鉄砲と言えば、鉄砲伝来の地でもあった島津。
井伊直政を負傷させたのも、鉄砲でした。


島津は足軽でなく、武将が鉄砲を自ら持ち、戦の局面で活用し、有利に導いたのがたいへんに特徴的でした。
島津の武将は競いあって、鉄砲の扱いを向上させ、義弘も豊久も、合戦では持筒(もちづつ・鉄砲のこと)を自らか、侍従に持たせて、すぐに使えるようにしていたと考えられます。


関ケ原合戦は、当時世界で、最大数の鉄砲が使われたと言われます。
狭い盆地なので、朝から鉄砲の音はほとんどやむことがなかったのではないでしょうか。

関ケ原合戦 関ケ原町歴史民俗資料館 桐野作人
桐野先生の後ろ姿。ツイッターに書き込み中でしょうか。





続いて、島津豊久が奮戦したと言われる烏頭坂に、バスで移動。


さてツアールート検討の中で、大型観光バスで烏頭坂に行くのに、実際に敗走した旧伊勢街道(街道の場所は実は諸説あります)を通って行きたかったのですが、事前確認で残念ながら、観光バスが通行できないことがわかってあきらめました。

下の写真のように風情を感じますが、当時の伊勢街道(九里半街道とも呼ばれています)の道路幅のまま舗装されたようで、車が通るには狭い道です。

関ケ原合戦 島津の退き口 島津豊久 伊勢街道 九里半街道
写真の地は関ケ原町と大垣市との境に近く、左が旧道(伊勢街道)で、烏頭坂方面から関ケ原方面を見ています。
実はルート選定では、関ケ原町内や大垣市上石津地区内にある対象地は、細い道が多いため、何度も現地確認をしました。


関ケ原合戦 島津の退き口 島津豊久 伊勢街道 九里半街道
この写真は、さらに烏頭坂寄りの地です。
街道を歩いて行くことができますので、時間がある方は行ってみてください。
変化する風景を楽しむことができます。


九里半街道は旧上石津町牧田地区を中心とする有志の方(九里半歴史文化回廊)が、写真左にあるような案内板を各所に設置しています。



この二つの写真の地はツアーでは行きませんでしたが、名残惜しいので掲載しました。
参考にしていただけましたら幸いです。

残り9日!

こんにちは!!!!ミッチーです

交流館閉館まで、残すこと9日となりました

もちろん甲冑体験も終わりとなります


特にこの時期は甲冑を着るにはベストではないかと思います


紅葉も綺麗で、夏とは違った関ケ原を楽しめます

歴史に興味がなくとも、気分をリフレッシュするのにも良いかと思います


最後に、関ケ原は大変寒くなっておりますので、暖かい格好をしてお越しくださいませ

ルポ② 薩摩池から関ケ原町歴史民俗資料館に

桐野先生から車中で、歴史の楽しみ方として参加なされた方へのメッセージがありました。
本日は、記録に残っているものと、伝承として残っているものの、両方を楽しんでいきましょうというお話でした。

島津の退き口については諸説あり、私たちがツアーの行程を考えるとき、いろいろな考えが行き交うこともありました。
そうした中で開催当日を迎え、大きな柱を桐野先生にご用意して頂いていたように思いました。



島津隊は近江に抜ける道、戦略上重要な、北国街道をおさえるべく、石田隊と挟んで陣しました。
桐野先生によると島津は二番備えなので、西軍の陣地、石田三成や宇喜多秀家と横一線でなく、少し奥まった所にあったのではないかと考えておられます。


島津が二番備えであるとは、鹿児島に残っている史料「旧記雑録」などや、また東軍の側の史料にも残っていますが、これまであまり言われてこなかったことのように思われます。
よく島津が傍観していたということが言われますが、もともと二番備えであると、合戦当初は出る機会を待っていたということになります。

関ケ原合戦 島津の退き口 島津義弘 薩摩池
島津隊と小西隊の陣跡の間には、梨の木川という小川が流れています。
上の写真の向こうの方です。
指を指しておられるのが、桐野作人先生です。


島津本陣、義弘がいたとされるこの地は、薩摩池と呼ばれています。
いつも訪れる人が無くひっそりとした薩摩池ですが、周辺はきれいに清掃されていました。

合戦の日、義弘のすぐ横には、直後に殿(しんがり)の戦いをする阿多長寿院盛淳(あたちょうじゅいんせいじゅん)もいました。

なお盛淳を「せいじゅん」と読むか、「もりあつ」と読むか、後に質問をたくさん受けました。
桐野先生は「せいじゅん」という立場を取っておられますが、どちらが正しいかは不明と言っておられました。

関ケ原合戦 島津の退き口 島津義弘 薩摩池


鹿児島に残っている史料「旧記雑録」によると、盛淳は義弘が退くのを助けるため、この本陣の地にとどまって敵を迎え討ったように書かれています。

盛淳は三成が挙兵した頃、義弘がいない留守を守るために国許(くにもと)に居ました。
その後7月末に義弘からの連絡を受け、手勢など70人余りを引き連れ、上方に向かいました。

合戦の二日前、9月13日に大垣に着き、義弘らと合流します。
義弘は盛淳の到着を非常に喜び、自ら迎え出て、手をとって陣地に招き入れました。


関ケ原合戦 島津の退き口 島津義弘 薩摩池
合戦の日、盛淳は義弘から、具足、羽織、甲を拝領し、身代わりとなって義弘が押し出すことを助けます。
家来に、義弘がすでに遠くに行っていることを聞いて確認すると、満足げに「あとはわしが替わりに、討ち死にするだけだ」と、「死に狂い也」と大声をあげて、自刃しました。
「島津兵庫頭義弘、運尽きてこれより腹を切る。日本の諸侍はこの首を我が手にかけたと、あとで広言すべからず」
と述べたとも言われています。
名誉を重んじる、島津の大将を演じ切ったのです。

このあと、それを見た郎党たち283人は、「われ送れじ」と、敵中に切り入り、わずか50人が生き残って落ち延びたと言われています
(桐野作人著「関ケ原 島津退き口」P242引用、出典「薩摩旧伝集」、他参照)

上石津に残る盛淳の伝承では、義弘の殿(しんがり)として、大垣市上石津町牧田の上野の方まで行って亡くなったと言われ、盛淳の墓があります。
どちらが本当かと思うところですが、史料と伝承、両方を楽しんで見ていくことにします。



関ケ原町小関(こぜき)地区にある薩摩池は、大きな史跡でなく、町が配布している「関ケ原合戦 史跡めぐり」「せきがはら巡歴手帖」に紹介はありません。
町の案内板は建ててあり、周辺の道には車を停める所もないため、徒歩で来ることになります。
笹尾山駐車場から歩いて、10分ぐらいで行くことができます。


この小関地区には、関ケ原合戦の前には、不破の関と相互補完的に、不破の関と比べると小規模ですが関所がありました。

その時の由来が、地名となって残っていると言われ、その当時と思われる土塁も残っています。


今年の夏は雨が大変少なかったので見に行ったところ、小さな薩摩池にもかろうじて水は残っていました。
水が少なくなって、ザリガニは苦しそうでしたが。
この裏には現在も池寺池という池があり、島津が他の隊からの侵入を敵味方問わず許さない戦法をとったため、10何人か、島津をさけたためにおぼれ死んだと言われています。



関ケ原合戦 島津の退き口 島津義弘 北国街道 北国脇往還
上の写真は薩摩池から、旧北国街道(北国脇往還)が通っていた細道に戻る所です。
車がすれ違うのが難しいほどに細い道が、この小関地区をめぐっています。
この写真の先の北国街道の一部は、かつては道脇に水が流れ、もっと人が歩く部分は狭かったと地元の方に聞きました。


写真をそのまま直進し、突きあたりを左、さらに小道の2本目を右に曲がって抜けていくと、その先に国道365号があります。
再びバスに、乗車します。



関ケ原合戦 島津の退き口 島津義弘 薩摩池
写真では見えませんが、後ろの林の中に、五輪塔が二か所、少し残っています。
周辺の方に聞いたことがある話で、以前はたくさん五輪塔があったが、東京(遠方から来た方のことでしょう)か、島津の関係の方が少しずつ持って行ったのではないかと話しておられました。


関ケ原合戦 島津の退き口 島津義弘 薩摩池
少し離れて薩摩池方面を見ます。


次は下の写真、関ケ原町歴史民俗資料館です。
関ケ原合戦 島津の退き口 関ケ原町歴史民俗資料館

ルポ① 笹尾山・石田三成陣地から島津義弘陣跡

関ケ原プロデュース事業の一つとして、2013年11月3日(日)に、歴史作家、武蔵野大学政治経済研究所客員研究員の桐野作人先生による関ケ原合戦ツアー、島津退き口編を開催しました。
主催は関ケ原町です。

内容は、およそ1日かけて、史上名高い「島津の退き口」をたどるツアーです。
ツアーはおかげさまですぐに満席になりました。
お申込みできなかった方、誠に申し訳ありませんでした。


関ケ原町小池地区にある島津義弘陣跡に行かれた方は多いかと思いますが、島津にゆかりがある、薩摩池や琳光寺、瑠璃光寺、白拍子谷まで行かれる方は、まだ少ないと思います。
ツアーの紹介により、関ケ原合戦について、またツアーの参加者のように、当時の面影をしのぶことを期待して、ブログにて数回、掲載することにしました。




なお、このブログを見て現地に行かれる方は、ルートの都合上、人家をぬって通ることも多かったので、その点、気遣いをしていただけましたらうれしいです。



数日前の予報では11月3日のみ天候が悪いということで心配していましたが、前日の予報では夕方まで天気は何とか持ちそうとなり、ホットしました。
雨が降らないことを祈りつつ、当日を迎えました。
当日の朝、なんとかもちそうな天気です。


関ケ原合戦 島津の退き口
午前8時10分集合、30分出発。
上の写真は、今回旅行実施となったツアー会社がプレートを持って集合を呼び掛けています。

参加なされた方は男女およそ半々で40名弱、20代の方から70代以上まで、幅広く参加されました。
島津が年代問わず、幅広く関心が高いことを感じさせます。
地域的にも愛知県を中心ですが、関東から、また九州、四国の方もおられました。


大型観光バスに乗り、途中一度、PAにてトイレ休憩をし、一路関ケ原町へ。
最初の目的地は、笹尾山・石田三成陣跡にある駐車場です。
左が笹尾山で、きれいな紅葉になりつつあります。
観光バスの後ろは、再現した馬防柵。
関ケ原合戦 島津退け口 笹尾山・石田三成陣跡



笹尾山駐車場で桐野先生の解説を聞きます。

なお下の写真を見て、お気づきになられるでしょうか!
右端にお見えになる足軽の畳鎧(たたみよろい)を来ている甲冑ボランティアの方が、本日島津の退き口のツアーがあるということもあって、
特別に石田三成の軍旗、「大一、大万、大吉」と書いていたのです。
感激です!!
ありがとうございました。


関ケ原合戦 島津退け口 笹尾山・石田三成陣跡 甲冑ボランティア

実は字を書くのが間にあわなくて、着いた時は書いておられる途中でした。

土日祝日には、甲冑ボランティアの方が石田三成の陣跡付近におられることがあります。
また関ケ原笹尾山交流館では、写真と同じ足軽の甲冑などを着て、関ケ原のまちを歩くこともできる甲冑体験を11月24日までですがやっています。
宣伝でした。



なお時間の関係で、残念ですが笹尾山には登れませんでした。
石田三成陣跡からは、絶景かな、関ケ原盆地全体をほぼ見渡せます。
笹尾山駐車場から5分もかからないので、再度来られたら、ぜひお登り下さいませ。
三成陣跡には、音声による合戦解説もありますよ。



関ケ原合戦 島津退け口 島津義弘陣跡
上の写真は、駐車場からやや下りた所。後ろは丸山方面。
笹尾山から、東軍が陣取った写真では右方向へは、なだらかな下り坂が続いています。
東軍が陣取った方は、現在関ケ原町役場や陣場野公園、住宅が立ち並ぶ市街地になっています。
この坂を上ってくることが大きな要因で、兵が多い東軍が苦戦を強いられたと説明されました。

笹尾山交流館スタッフの中に一人、関ケ原駅から自転車通勤をしている人がいましたが、坂道を上がるのは体重コントロールに有効だったとのこと、歩いてみると実感できます。
参考に、三成陣地の駐車場と並んでいる笹尾山交流館(旧関ケ原町立関ケ原北小学校)は標高163m、市街地の中にある関ケ原小学校とは、高低差40mだそうです。



関ケ原合戦 島津退け口 島津義弘陣跡
笹尾山から下って、国道365号をわたった所にある案内板。
関ケ原町には、まち中の各所にさりげなく、陣跡案内板があります。


関ケ原合戦 島津の退き口 島津義弘
上の写真は、作成時期が混ざった案内板です。
一番古いのは石の案内で、1938(昭和13)年3月に作られています。

義弘の陣跡に行く途中、失礼して、人家の間の道を通り、畑の横を通らせていただきました。
ありがとうございました。
まさに、「このまち、まるごと、古戦場」です。


下の写真は2番目の目的地、島津義弘の陣跡です。
ちょっとした林になっていて、実際には、先鋒の島津豊久がいたと言われています。
正面奥に、神明神社の社殿が見えます。
島津義弘の陣跡の裏に、神明神社があるということです。
関ケ原合戦 島津退け口 島津義弘陣跡 島津豊久


関ケ原合戦 島津退け口 島津義弘陣跡 島津豊久
島津義弘陣跡の碑。


関ケ原合戦 島津退け口 島津義弘陣跡 島津豊久
この石は、何かと言うと鹿児島県日置市(旧伊集院町)から関ケ原町に毎年こられて、島津の退き口のルートを歩かれる踏破隊が、1960(昭和35)年から、50回以上開催されています。
その参加した人の名前が彫ってあります。


桐野先生も一度、120㎞歩く踏破隊に参加したそうです。
なお先生はこの時、スズメバチの襲来で病院に担ぎ込まれたそうで、身をもって過酷な体験をなされました。


赤い陣羽織に島津家の家紋が入った笠、「チェスト行け関ケ原」の旗をもって4泊5日で、史跡をめぐりながら関ケ原から大坂城まで、青少年を中心に挑んでいます。
現在は、大垣市上石津町から滋賀県多賀町まで、歩くも困難な道を中心に島津越え(五僧峠)70㎞を、歩きで行っているようです。(参考;広報ひおき)


なお旧伊集院町は、義弘の菩提寺、妙円寺がある所です。
妙円寺は明治維新の時の廃仏毀釈によりなくなり、その地に徳重神社ができましたが、その後明治13年に、その近くに復興しています。



関ケ原合戦 島津退け口 島津義弘陣跡 島津豊久
義弘の陣跡は午後になると逆光で暗くなり、集合写真は撮りにくいのですが、この時は午前中でOKでした。
参加者全員で急きょ、記念写真を撮りました。
次は薩摩池です。

関ケ原合戦 島津の退き口 島津義弘 薩摩池

島津豊久の生き方④

味方が苦しいときに助けないなんて、島津らしくありません。
島津隊は、三成にあまりに冷たく自分勝手な対応と思われるかもしれません。


大将の義弘は三成と親しく、豊臣政権となってから三成は秀吉とのつなぎ役をし、恩を感じていました。
しかし300里(およそ1000㎞)離れて参戦している家臣や島津の兵は、義弘に従って参戦したまでで、自分たち、島津のために戦うという意識は他の隊よりより一層強かったのではないでしょうか。

三成に秀頼のためという純粋な気持ちがあったにしても、それは島津の兵にとって別の話でした。


司馬遼太郎の小説「関ケ原(新潮文庫版中巻)P255」には、不思議な行動になった理由に島津が「上方の情報にうとかった」ことをあげています。
「遠国(おんごく)のせいもあり、言葉のせいもある」と述べています。
ひょっとして三成の使者が放つ言葉を、方言の違いなどですぐには理解できなかった、またバカにされたと思ったということも、あったのかもしれません。

後の江戸時代の宝暦治水の時、薩摩からきたたくさんの藩士が犠牲になっています。
一番最初の犠牲者二人は、幕府側の役人に侮(あなど)られ、それを不名誉と自害しました。
それほど、名誉を重んじていました。

司馬は、島津が鎌倉以来の名家であること、軍団が郡を圧して強く「最強である」と、中央から、また諸大名の中で、尊敬の念をもって見られていたこと、また方言が他の隊にはわかりづらかったことで、島津が諸侯とあまりつきあわなかった、と述べています。



義弘は一生懸命に最初は家康、次に三成を支えようと、機会を捉えては国の兄、義久や嫡男の忠恒に応援を求めます。
家康のことばをそのまま受け止め、鳥居元忠が籠城する伏見城に行ったりします。

西軍に参加するようになってからは、清洲城に布陣した時、赤坂陣への夜襲を提案したとき、三成らのペースでどうも島津らしい戦い方ができません。
諸侯の中でもまれている中央の世界で生きてきた家康や三成と比べ、義弘や家臣達は良い意味で地方の、純粋培養的に、人の話をそのまま信じやすいまじめな性格であったのかもしれません。
この性格は、豊久や、島津隊全体に共通するように思われます。



朝鮮に行ったときは島津らしい戦い方ができたのに、日本の中心地の京や西濃に来ると、諸侯の複雑な思惑が入り交じり、いつものような戦い方ができません。

味方であったはずの小早川秀秋、脇坂安治らも敵となります。
こんなことは、島津の戦いではありえない。
もうがまんできないと、三成を見限ったのかもしれません。

関ケ原合戦 島津豊久 島津軍旗 十字 
烏頭坂の豊久の石碑。この旗は丸に十字であるが、これは江戸時代になってからで、戦国時代は十字だけであったといわれます。





少し戻りますが、ほぼ敗退が決まった頃、義弘、豊久、盛淳ら主だった武将が集まり軍議をしました。
義弘は、ここにとどまって戦い、戦死するか、と言います。


豊久は、自分は捨て身となるつもりでいました。
「すでに敗退は決まったが、(義弘が)戦ってここで死ぬことはない。我らがここで戦死すべきである。(義弘は)家来を率いて帰国されよ」、
義弘はあくまで戦死するつもりなので、豊久はさらに強く言います。
「国家(薩州)の存亡は、あなたお一人の身にかかっていることを忘れないで頂きたい」


31歳の豊久が伯父で尊敬し敬っているとはいえ、66歳の義弘の為に命を捨てるつもりで殿(しんがり)をするとは、とても私達には考えられません。
義弘はそれを許しているわけですから、自分だけが助かりたいということは、互いに発想にないのです。
ここでは国家と言っていますが、薩州、島津のことで、自分の命を越えたもののために、命を捧げようとしたと言えましょう。
先に島津隊に来た三成は、この島津隊の世界とは別の世界の人であったであろうし、この潔さに、今も私たちは惹かれるのです。



そう言って豊久は義弘を説得し、自分は家来13人を率い大軍の中に討ち入り、家来ともども全員が戦死しました。

豊久の首を討ちとったものは、福島正則の嫡男で、正之、徳川家康の養女、満天姫を正妻にしていますが、その家来で小田原浪人、笠原藤左衛門と言われています。
この正之は後に、正則の手で餓死させられるという、不幸なことになりました。
この事件は、豊久に由来するものではありません。



豊久の甲冑と言われる物が鹿児島には現在も残っていて、豊久の6代子孫が江戸交代に行ったときに、偶然に鎧があるのを発見して手に入れています。
鑓に突かれたあとが二か所、糸が切れている所があります。

鹿児島に残っている「本藩人物誌」「称名墓誌」を元に作った「鹿児島士人名抄録 (上野尭史著)」では、ここで終わっています。


豊久他全員が討ち死にし、豊久は福島隊のものが討ちとったとここでは書かれていますが、関ケ原に近い大垣市上石津地区につたわっている伝承では、少し違います。

どちらが正しいか、ひとまず置いて見ていきます。

島津弁当公開っ!w

こんにちは
conaでございます

2013年11月3日
桐野作人先生と行く!関ケ原合戦ツアー 
               -島津の退き口編-


ツアーどうでしたでしょうか

お弁当、びっくりしましたか
すごく豪華でしたね~
実は内緒で、このプロジェクトを進めておりました
誰にも言えないなんて、苦しすぎます


お弁当のメニューは日比野光敏先生にお願い致しまして
すごくたくさんの鹿児島、島津絡みのメニューを考えて頂き、その中からコレはどうしても食べたい食べてみたいと言う物を厳選いたしました

さてさて、ツアーに参加出来なかった方のためにも
お弁当を紹介していきます

見た目は可愛い包のお弁当

島弁01

品がある感じで
この風呂敷も、たくさんの中から選びぬかれた物なのです



             こんなかわいい包みを…
                  ↓
                  ↓
                  ↓
                  ↓
  
             開けていくと…

                  ↓
                  ↓
                  ↓

               どーん!!

島弁02

見てくださいこの蓋おお!
可愛い包から、これです
この重箱は、ヒダヤさんにお願いして作って頂きました
この金の家紋が カッコイイですよね
このマークだけでもサイズや微妙な形
色々考えに考え、これになりました


そして

島弁03

さらに十字
あぁ…写真は十字に撮れてないですね…

そう二段階十字~
ここも十字ってのを

しかもお重ですよ~そして下の段は
ちらし寿司

島弁04

ちらし寿司がまた、色合いもよく可愛い感じで
味ももちろん、すごく美味しいです

んで、お品書き
開いていってみましょう

島弁06

一番中には、メニューについての説明などが書いてあります

こちらも、交流館で製作しました
一枚一枚、丁寧に折って行きましたが、やはりそれぞれ形が微妙に…
申し訳ありません
高級感が出るように、和紙に


島弁05
メニュー
酒ずし風ちらし寿司  今回はお酒を使わず、お酢で
黒豚の豚骨       今回は骨なしで
油ぞうめん
◆なま節のマヨネーズ和え
がね
つけあげ
こが焼き
山川漬け
◆ブンタンのシロップ漬け 時期が合わなかったので、シロップ漬けに

お弁当は魚しげ様にお願いし、作って頂き致しました
どのメニューもとても美味しくて、大満足です
もっと食べたいくらいでした
また、食べたいですね~

そしてお茶請けには
かるかん
かるかん


あくまき
あくまき

こちらは、封を切る前の原型です

そしてカットしたのが
あくまき02
きなこをかけて、いただきますっ


かるかんもあくまきも、家紋がちゃんと入ってますね~


初めて見る、食べる物があり
何というか人生初のお弁当でした
これだけたくさんの鹿児島、島津絡みのメニューが入っているお弁当は
もしかしたらコレしかないかもしれませんね


器は皆さんお持ち帰りいただきましたか
何かに使って下さいね~



conaでした

島津豊久の生き方③

合戦の前日14日夜、午後7時頃と言われていますが関ケ原に出発します。
現在の歴では10月21日。
真っ暗な中に冷たい雨が降り、大変な苦労をして移動しました。
夜が明ける前に関ケ原に着き、現地を見ながらどう布陣するか考えて備えました。


豊久は島津隊の先鋒(せんぽう)をつとめ、およそ1町歩(およそ100メートル)義弘の東南、三成隊からは一町歩離れて布陣します。
当時、人があまり住んでいなかったようですが、現在の小池地区で、現存する神明神社の裏ですが、周囲より土地が小高くなっています。
島津隊の右手備(え)には、山田有栄が着陣します。


島津本隊は義弘、義弘は小関(こぜき)村の薩摩池付近に、着陣します。
当時は、集落をそれぞれ村と呼んでいました。
村は現在、地区や集落と言い換えられます。

地元の方によると、以前は薩摩池の裏に、神社があったと言われています。
また小関という地名にあるように、関ケ原には壬申の乱の後、三関の一つ、不破関がありました。
不破関は東山道、のちに中山道となる、街道を挟んだ場所にありました。

不破関には土塁があり、義弘の布陣した北国街道(北国脇往還)にも、不破関よりも小さいですが関があり、土塁もありました。
地元の方によるとその当時の土塁が、薩摩池の後ろに現在も低くなっていますが残っています。
島津隊は、その土塁を備えとして活かし、北国街道を守りました。


桐野作人氏によると、西軍の先鋒は島左近や宇喜多秀家がつとめ、島津隊、小西行長は2番備えとして配置されたと言われています。
そのため、石田隊より少し引いた位置に布陣したと思われます。



合戦日の15日、いつ頃か分りませんが、義弘の近くにいた阿多長寿院盛淳が豊久の陣に来ます。
馬上より豊久に、別れのあいさつをします。

関ケ原合戦 島津豊久 義弘の陣跡
写真は義弘の陣した方面から、豊久の陣した方を見る。


豊久は2万8千石の大名です。
大垣市上石津に残る碑に、豊久公と書いてあるのはその所以(ゆえん)と思われます。
盛淳もまた薩州(さっしゅう)で検地など、重要な仕事をしてきましたが、盛淳の碑には「公」と書いてありません。
盛淳はもともと出家していたのですが、豊久の伯父であり実質的な当主の島津義久より、世俗に戻れとの命を受け、義久の側近になります。
盛淳は元々、室町幕府の有力守護の一族の出です。
この時豊久は31歳、盛淳は53歳、盛淳は義弘の老臣だったので、馬上でも失礼にはあたらなかったのでしょう。


豊久から「今日は味方が弱い。今日の鑓(やり)は突けまじきぞ」と言い、互いに笑みを交わして別れます。
今日の軍勢では味方が弱い、このたびの戦い、負けることがわかった上で腹を決めた、というような会話です。
二人とも、島津のために戦うという強い共通認識があったからこそ、言える会話ではないでしょうか。
死に際を幾度も越えてきた体験が、二人を結びつけていたのでしょう。




やがて三成より、使者が来ます。
豊久は「わかっている」と返事をしますが、その使者は馬上より口上を言ったので、豊久の家臣たちは口々に、「馬上よりの口上尾籠(「おこ」と読む、礼儀をわきまえていない)なり、討ち取れ」と言います。

三成は実質上関ケ原の戦いで、大将の役割をしていました。
その当時の習慣で、使いは非常に大きな役割であり、いわば三成の代理人とも言え、当然に敬意を払うものと思われます。
確かに不礼であったに違いないのですが、よほど切羽詰まっていたと想像されます。
使いの八十島助左衛門は、島津に知己がある人物でした。
島津の家臣は、三成からの使いを重要とは意識していなかったようです。
西軍としてでなく、島津のために戦っているんだ、という認識が兵一人ひとりにまで行きわたっていたことが想像できます。



次に三成が来て、「これから敵に向かうので、後方から(突いて)敵に攻めかかってほしい」と言うと、豊久は突き放したように言います。
「今日の義(戦)は面々手柄次第(それぞれの腕前で)に相働くべし(戦うべきでないか)、御方もその通りに御心得られよ(あなたもそのつもりで心得てはどうか)」


実質的に総大将であった三成が合戦中に動くのはよほどのことで、わざわざ計三度笹尾山の方から来たのは、島津の力を、最後の切り札として当てにしていたのでしょう。
もともと2番手で備えているとするならば、島津隊は勢力をほぼ温存していました。
もろくも期待は裏ぎられ、三成は「好きにせよ」と応えたのが、せいいっぱいでした。
間もなく石田隊も、破れ去って敗走します。



島津は鉄砲も放たず、敵が押し寄せてくるのを待ちます。
勇んだ豊久は、「今が打ってでる時だ」と馬にのって弓矢を持ちます。
すると義弘の家臣、赤崎丹後は、「まだ早い。膝に敵がかけ上がるくらい寄せつけるべき」と言います。((桐野作人著「関ケ原 島津退き口」P140引用、以下参照))
丹後は、義弘が三成に「薩州の中でも、武辺に優れている物だ」と紹介したぐらいの人物です。
義弘の家臣として、豊久をサポートするために共にいたのでしょう。


少し経ち丹後が、「時分よく、御座あるべし(ちょうど今、行かれる時です)」と言います。
再び豊久は馬に乗って、鉄砲を放ちます。
すぐに敵味方が入り乱れて、戦うようになりました。

少し離れた所にいたと思われる義弘も、必死に防戦します。

関ケ原合戦 島津豊久 西軍の進軍 多良街道
写真は、西軍の大軍が大垣城から牧田川沿いに関ケ原まで進む時、通ったといわれる多良街道です。
この先、関ケ原町小関地区まで歩いておよそ9㎞です。
ここは東伊勢街道、九里半街道と部分的に重なっていて、街道の様子を伝える部分がこの写真の所、およそ70m残っていると、案内板に書いてあります。

シークレット千社札紹介

こんにちは(^ω^)
ミッチーです


昨日に引き続き千社札の紹介です


ズバリ!!!!シークレットの中身に触れたいと思います



この記事を読むことでシークレットではなくなりますが、それでもいい方は

引き続きご覧下さい


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まずいっきに3枚紹介します

浅井長政と市との間にできた、「浅井三姉妹」です

「淀 初 江」  戦国時代で活躍した女性といえば、間違いなくこの三人だと思います


次は、「湯浅五助」です

大谷吉継が自害した際に介錯し、首を埋めた人物です

藤堂高刑(とうどうたかのり)に発見され、「私の首の代わりに、主君の首をここに埋めたことを秘して欲しい」

と言い首を差し出しました。

ご存知の方もいると思いますが、大谷吉継のお墓の横に五助の墓も建てられています



最後は「黒田如水」です

黒田官兵衛のほうが馴染みがあると思いますが、関ケ原合戦時は、既に出家しており「如水」の号をとっていました

竹中半兵衛と双璧をなす参謀で、「両兵衛」「二兵衛」と言われていました


来年の大河ドラマの主人公なので興味ある方は是非




千社札01


ちなみに、この5種の千社札は非売品です

まとめて購入されたお客様にプレゼントとしてお配りしていますので

あらかじめご了承お願いします


引き続き、千社札強化月間ですのでよろしくお願いします
















千社札武将紹介

こんにちは!!!
ミッチーです

今日は先日紹介した千社札より4名をピックアップし簡単に紹介しようと思います

まず一人目は「前田玄以」です

ん?関ケ原合戦関係なくね?って思った方もいらっしゃるかと思いますが、千社札72種のなかで関ケ原の戦い自体に参戦していない武将も含まれています(東西どちらか付くか表明しているのを含む 例:伊達正宗 東軍)

玄以は五奉行の一人で西軍に付きました。家康と内通しており、合戦の時には大坂城にいました
普通は敗者は冷遇されますが、改易されず、五奉行の中では唯一死を免れた一人です

二人目は「可児才蔵」です

福島正則の家臣で、切り落とした首に笹を含ませ戦場に残しても誰のか分かるようにしたことから、「笹の才蔵」と呼ばれることもあります

簡単に言うと持ち切れないほど敵を倒したと言えますね

関ケ原合戦では17の首級を挙げたのはあまりにも有名な話です

三人目は「立花宗茂」です

宗茂は関ケ原合戦において西軍に付き、合戦時は大津城を攻めていました

秀吉に「東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西には立花宗茂という天下無双の大将がいる」と言わせたほどの器量の持ち主であることが分かります

家康が一番恐れていたのは宗茂だったかもしれませんね

もし関ケ原に宗茂が参戦していたらと思うと・・・

最後に「結城秀康」です

秀康は、徳川家康の二男として生まれ、10歳の時に豊臣秀吉の養子となり、最終的に結城家の養子になりました

幼少期から波乱万丈な生き方をし、もし養子に出ていなければ秀康が2代目将軍になっていたかもしれませんね

知的な家康の息子からは想像がしにくいですが、天下三槍の一つ「御手杵(おてぎね)」を所有し、武勇に秀でていたそうです

関ケ原合戦時は、会津で上杉景勝を抑える重要な任を任されたのも頷けますね


千社札



とても簡単ではありますが紹介とさせていただきます

引き続き11月は千社札強化月間なので、よろしくお願い致します





届きました!!!

こんばんは(・∀・)
お待たせ致しました今月の交流館のチラシ届きました(。◕ˇε ˇ◕。)♡

___20131106173259fae.jpg

笹尾山交流広場いよいよ最終回となりました!!!!!!

日時:2013年11月24日(日) 10:00~16:00

おきたま「」の武将隊 州上田おもてなし武将隊
引き続き、ケ原もののふコンテストも行っております(๑╹ڡ╹๑)

是非、遊びにきてください

たあこでした♥

ドリフターズ原画展 ②

こんにちは
conaです

ドリフターズ原画展②です
少し長いですが

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10月15日
雨です…台風接近です…

ドリフ014

表に出るはずだった信長は中へ…

ドリフ016


入口を入り中に入ると右手にこちら

ドリフ015

ルール守らないと大変なことになりますよ

この日は、いつもよりお客さんは少なかったのですが、
それでもたくさんの方々にお越しいただきました

雨も降り、寒かったので
みなさんが体調を壊してないか、心配でした

この日、やっとですが
感想ノート作りましたーー
感想ノートと奥にミッチー

ドリフ017


遅くなりまして、すみません


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16日は………
飛ばしましょう
ごめんなさい
写真を……撮り忘れたんです…私…

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10月17日

関ケ原はすでに寒いです…廊下は特に冷える…
ブランケットを足に巻き巻き…

そして、その廊下には感想ノート

ドリフ020

たくさんの方々が、思い思いの感想、メッセージを残して下さってます
そして…公式とは一切関係のない、私が描いた絵が…すみません 

そして、この日のエセ紫のお仕事風景
昔の事務職さんのような雰囲気が…

ドリフ021

お仕事お疲れ様です



私、何てこと与一を外で撮影し忘れてる…



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10月18日

雨が降りそうな曇りの日
この日は、安倍晴明が表に

ドリフ018

中に入って、目の前には豊久

ドリフ019

その端には……
カマキリ

多くのお客さんが、カマキリに興味深々で
カマキリもたくさんの方々に撮影していただきました
聞いた話によると、室内に卵を産むのは珍しいそうですよ~


そして今日のエセ紫
ローアングルの怪しい加工にしてみました

ドリフ040



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10月19日

良い天気~
パネルは全て外に
やっぱり迫力ありますね~

ドリフ022


せっかくなので1枚ずつ

ドリフ023

ドリフ024

ドリフ025

ドリフ026



この日は土曜日で、更に合戦祭り1日目ということで、ポストカードも早々になくなり
この日のポスカ、安倍晴明さんは200人と一緒に帰えらました


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10月20日

ついに…最終日です…
何とこの日は、朝から大雨…
ですが、朝から大勢の方が並んでみえ
入場も人数制限されるほど、混み合いました

ドリフ029


会場内もギュウギュウ

ドリフ030


ドリフ031

スタッフも、想像以上の方がみえたことにびっくりで
色々策を練ってみたのですが、1時間以上並ばれた方もみえ、お寒い中ご協力いただき
本当にありがとうございました

並んだ甲斐がありました
など、多くのお客様に言っていただき、本当に嬉しかったです
ありがとうございました


この日は、ポスターと同じ絵のポストカードが400枚配布されましたが

ドリフ039

あっという間に配布終了
ファイルなどを持参され大切に持って帰られたのを見て、にんまり


何と、私の知合いは大切に持って帰ったはずだったのに
ヨレヨレ…本人大ショックだったようでした
でも、ちゃんとキレイに保管してましたよ



そして…ついに原画展終了です…


会場内、何だか寂しい…私も寂しい…

ドリフ032

ドリフ033

ドリフ034


グッズコーナーは商品がほぼ売り切れと言う
ありがとうございました

ドリフ036



9日間、本当にありがとうございました
あっという間に過ぎ、何だか寂しいですが
たくさんの方々に来ていただいて、すごく嬉しく楽しかったです

私の大好きな平野耕太先生の「ドリフターズ」原画展が
まさかのまさか 携われるなんて思ってもみなかったので
そりゃ、嬉しくて
そりゃ、神経質にもなりますよ

他のスタッフにアレはダメ、これはダメなど
ごめんなさ~い
だって、しょうがないじゃないですかぁ~

そんなこんなで、皆さんに迷惑をかけつつも9日間が無事にすみ
とても嬉しかったです

またやってほしいなぁ~と、私も願っております


みなさん本当にありがとうございました


みなさん、関ケ原にまた来てくださいねっ


conaでした☆

島津豊久の生き方②

豊久は中務大輔(なかつかさたいふ)、侍従(じじゅう)に命じられたのですが、この役職は朝廷の官職で、官職は戦国時代、実際には名目化し、特に仕事があるというわけではありません。
中務の役割は本来、天皇の近くに居て、様々な宮中の政務をしたとされます。
侍従は、殿上(てんじょう)に上がることができる資格がある、名誉な役職です。

上下関係や、名誉を重んじた武家の習いとして、官職を授かるということは大変誇りことでした。

例えば石田三成は、治部少輔(じぶしょうゆう)、大谷吉継は刑部少輔(ぎょうぶしょうゆう)という役職で、その役職が、広く当時、書状などで使われていたことは知られています。



豊久は若い頃、父と同じ「又七郎」という名前を名乗っていました。
官職も父の家久と同じになりました。
豊久は、官職を授かったことに誇らしい気持ちになったと思われます。




慶長5(1600)年5月12日に伏見へ来ます。
なぜ上京してきたかですが、「本藩人物誌」という史料には、「参勤のため」とあります。


当主である豊久は、時期的に庄内の乱が平定された直後なので、家康にお礼も兼ねて上京してきたのだと考えられます。

豊臣政権に帰国の許可を得て一カ月ほど大坂に滞在した後、薩摩に戻る予定でいました。
ところが大坂滞在中の同年7月17日に、毛利輝元は大坂に来て、家康が会津に出発する前にいた、大坂城西の丸に入ります。



家康に城の留守を預けられていたものを、追い出して入りました。


義弘は家康との約束で東軍として参加するために伏見城に行くのですが、入城できず、やむなく西軍の側につきます。
そこで豊久は国に帰らず、父のように慕っていた義弘と一緒に行動することになりました。

8月1日には西軍として伏見城を攻め、城番の鳥居元忠らは戦死して落城します。

8月15日には伏見より佐和山に行き、美濃に向かいます。
豊久は三成に、関東勢(東軍)は岐阜城を攻めるので、江渡の渡
(長良川沿岸の岐阜市河渡のことと思われます)を防ぐように言われ、警護します。
義弘の命により、本田親正(義弘の家臣?)が足軽とともに豊久の隊に加わります。

関ケ原合戦 島津豊久 江渡の渡 岐阜市 河渡橋付近 
写真は江渡の渡があった所、河渡橋の上流付近から岐阜城を見る。


岐阜城の戦いは激戦となりましたが、8月23日の1日で落城し、東軍はさらに西に進軍してくることが予想されました。
それを遮るため、豊久は退くべしという命を受けます。
大垣城外の楽田(大垣市)に退いて着陣します。

9月13日に大垣城の義弘の陣へ、今後の指示をうかがいに行ったところ、三成もそこに来ました。
その日、義弘の家臣、山田有栄(ありなが)が大垣城に到着します。
有栄は武勇で鳴らした父、有信と同じように勇猛な武将でした。




9月14日、義弘の命で豊久は、三成の陣に来ます。
豊久は三成に、「長い移動で敵は疲れているから、今夜夜討すれば必ず破ることはできる。惟新(義弘)が先陣を仕(つかまつ)るべきである」と言ったところ、対して三成は言います。

「もっともであるが、西軍は大軍なので、昼間の戦いで勝負を決めよう。西軍の方が有利である」

島左近も、「およそ敵の不意をつくのは、戦力が等しくなく、こちらの戦力が弱い時である。今味方は大軍であるが、敵は小軍である。家康がいくら雄大な計略をもっていたとしても、恐れるに足らない」と言い放ちます。

豊久は、義弘の命を受けて進言したのに、軽く扱われたことに腹を立てます。
島津が歴戦をかいくぐってきたことに、プライドがあります。

豊久は腹を立てて言います。
「あなたは家康を恐れるに足らずと言うが、家康の逃げる所をみたことがあるか」

左近は「甲州にいたとき、たびたび家康が逃げるのを見た」と言い返します。
左近が甲州、つまり武田氏の元にいたという事実はないので、とっさに言っただけなのかもしれません。



豊久はさらに、「家康が信玄公と戦っていた頃は若かったが、今は武功を積み重ね、巧みな計略、雄大な計略を持っている。
もはや日本国中、家康の右に並ぶものは、他にだれもいない。
(そんな考え方では)この合戦で負けるに違いない」と断言して帰ります。
(上野尭史著「鹿児島士人名抄録」高城書房刊より引用)

島津という立場は、三成と離れた立場にあったので、より客観的に物事を見ることができたのでしょう。
三成も左近も、毛利輝元や宇喜多秀家と二人の大老をかつぎだし、大軍で大坂を支配下に置き、美濃にも多数の兵力を集めました。
この軍勢は家康の予想をはるかに上回り、このことが過信につながっていったのかもしれません。


実際は成り行きで西軍に参加した武将が多く、本心は東軍、家康の側につきたいと思っていた武将がたくさんいました。

関ケ原合戦 島津の退け口 大垣城 島津豊久
現在の大垣城

昨日、桐野作人先生の関ケ原合戦ツアー、島津退き口編が開催されました

関ケ原合戦 決戦地 島津
本日朝9時、関ケ原合戦決戦地付近より、島津が退いた方面を望む風景です。
山の尾根がきれいでした。





昨日は朝の8時半に名古屋駅を出発してほぼ1日、関ケ原合戦の島津の退き口に由来あるところをまわるツアーを開催しました。

阿多長寿院盛淳の墓と碑がある琳光寺様(大垣市)、
島津豊久の菩提所である瑠璃光寺様(大垣市)にご協力を頂きました。
誠にありがとうございました。


参加者は36人で、皆さん熱心に桐野作人先生の熱のこもったお話を聞いておられました。
下の写真は、瑠璃光寺の鐘楼に書いてある文字の解説を聞いているところです。


関ケ原合戦ツアー 島津の退き口編 桐野作人先生 瑠璃光寺


関ケ原合戦ツアー 島津の退き口編 桐野作人先生 瑠璃光寺
同じく鐘楼付近。


関ケ原合戦ツアー 島津の退き口編 桐野作人先生 白拍子谷
豊久が傷が深いため、地元の方の案内で行って自害したという伝承がつたわる、白拍子谷。
先生の解説を聞いている所です。

白拍子谷には、地元の方が作ったと思われる「白拍子谷」と書いてある石しかなく、この地についての紹介は何もありません。
地図にも、この地の地名はのっていません。

周辺の川にはススキが生え、合戦当時と思われる風景が山々や休耕田などに見ることができます。
関ケ原合戦に関わるスポットの中で、穴場ともいえる場所です。



天気予報では、岐阜は夕方より雨とのことで、実際には白拍子谷を過ぎたあたりで、雨がポツポツきました。
ツアーの主なポイントは雨は降らず、これは参加者皆様の心がけだと、私は信じております。
下の写真は雨の中でのツアーの模様で、最後に行った治水神社(海津市)です。
関ケ原合戦ツアー 島津の退き口編 桐野作人先生 治水神社


江戸時代になって江戸幕府の命により、揖斐川、長良川、木曽川の三川の治水工事を薩摩藩がすることになりました。
その偉業を顕彰するために作られた神社が、治水神社です。
平田靱負(ひらたゆきえ)が祭神です。



この工事の経緯が、関ケ原合戦合戦後の薩摩魂を感じさせる逸話なので少し紹介します。
すでに小説や書籍、テレビなどで紹介されてご存知の方も多いと思います。

この事業は宝暦治水とも言われ、桐野先生によると、宝暦治水は大変な困難によりなされたのですが、薩摩藩の方もその偉業を忘れかけていました。
徐々に再評価するひとが現れ、今に至っているそうです。
治水神社で頂いた資料には、「薩摩の経済を破綻させたこの悲劇の大工事は、永く伏せられていました」とあります。

神社は昭和13(1938)年5月25日に創建されています。

岐阜や三重の方は今でも、薩摩の方々のおかげで安心して暮らしていけることに感謝しています。
40年ぐらい前、岐阜市出身の私は小学校の遠足でこの地を訪れました。
ただ、長らくこの地を訪れたことを私は忘れていて、この仕事をきっかけに思い出すことになり、反省をしなければいけません。



桐野先生には本に書かれておられないお話を含め、車中でまた現地で、ありがとうございました。




なお、今年の8月頃に見た時、社殿の正面に薩摩の家紋が二つありました。
昨日見たところ、上の写真のように、郵便局のマークを逆さにしたような家紋が左側にありました。

神社の方に聞いた所、これは平田靱負の家紋だそうです。
靱負は、宝暦治水の工事総責任者で、幕府の検分が終わった後に亡くなっています。

まっつんでした。


追伸;上記の治水神社ですが、所在地は海津市と訂正させて頂きました。
4日にアップした時には津島市となっていました。
間違いのご指摘、ありがとうございました。
11月7日記

カニ発見!!!

おはようございます 

朝掃除をしていたら、発見しました
kani.jpg


今夜はカニ鍋です(*´∀`*) 笑笑笑笑笑笑

今日は連休最終日ですね
関ケ原のお天気も、さっきまで曇りだったので雨が降るかと思いきや晴れてきました
ぜひ皆さんでカニ探しに来てください(。・ ω<)ゞてへぺろ♡ 

byあかね

甲冑体験

笹尾山交流館11月24日で閉館の為...
甲冑体験できるのがあと22日となりました(´・ω・`)

笹尾山も色づき始め、風も冷たくなり甲冑体験をするにはベストな時期となりました
今ならまだ間に合う、甲冑を着て年賀状の写真にいかがですか(*゚▽゚*)


katyuu.jpg

BYたあこ

[朗報] 千社札強化月間!!!!

おはようございます(*゚▽゚*)

本日より...千社札強化月間始めました!!!!!
通常、千社札10枚ご購入につきシークレット千社札1枚プレゼントしていたのですが、
       11月2日~11月24日まで
(((o(*゚▽゚*)o))) 
千社札5枚ご購入につきシークレット千社札1枚プレゼントいたします

10枚ご購入で...3枚
15枚ご購入で...5枚
プレゼント致します!!!!
千社札は全部で77種類(シークレット千社札含む)コンプリート挑戦者お待ちしております



たあこからのお知らせでした♥♥♥

11月3日に関ケ原合戦ツアー「島津の退き口編」を開催します

まっつんです。

明後日の日曜日、11月3日に桐野作人先生による、関ケ原合戦ツアー「島津の退き口編」を開催します。

ツアーの参加者は、おかげさまで満席になりました。
誠にありがとうございました。



丸1日、関ケ原合戦で島津に関係した陣跡などを歩きながら、先生のお話を直接聞けます。
参加することのできた方は、きっと幸せ者です。


桐野先生は、「関ケ原 島津退き口」、「さつま人国誌 戦国・近世編」、「織田信長 戦国最強の軍事カリスマ」や、また「謎解き 関ヶ原合戦 戦国最大の戦い、20の謎 (アスキー新書)」など、薩摩や戦国時代に関する多数の本を書かれています。
島津の関ケ原合戦に詳しい「関ケ原 島津退き口」は、今月15日より早くも文庫版(学研M文庫)が発売されると聞いています。
この本で十分、島津の関ケ原合戦について知ることができます。


今日の天気ですが、写真は15時ごろ、笹尾山交流館前の関ケ原合戦決戦地より、島津が陣取った方面を見たものです。
合戦当日もすでに田の刈り取りが終わっていたので、近い景色は412年前もあったのかもしれません。



きれいなうろこ雲が見えます。


ただし、うろこ雲は日本気象協会のホームページによると、天気は下り坂とのこと。



伝承によると鎌倉時代の武将、島津氏の祖、島津忠久(ただひさ)は雨の中で生まれたと言います。

そこで島津隊は、「出陣の日に雨が降るのは吉端(「きちずい」と読む。めでたいしるし。吉事の前兆。出典:goo辞書」と言って、雨の日には喜んで出陣する風潮もあったようです。
軍旗もこの由来に基づき、黒雲から雨が落ちているという図柄です。
(引用;小和田哲男監修「日本史諸家系図人名辞典」講談社発行)

そういえば今年の関ケ原合戦祭りの二日目(10月20日)も、雨でした。
先生のツアー、楽しみです。


関ケ原合戦 決戦地 島津
写真の真ん中の木立は、島津隊が陣取った小さな丘の反対側にある、神明神社の林。
左の山は小西行長が陣取った北天満山。
右側に少し見える山は石田三成が陣取った笹尾山。
島津隊と石田隊は、この二つの山の間を近江に抜ける北国街道(北国脇往還)を、おさえようとしました。


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