関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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2013年 ありがとうございました☆

今日で今年最後のブログです

11月24日で笹尾山交流館の売店、甲冑体験は終了しましたが
交流館はまだまだこれからも続いていきます
来年からの活動をお楽しみに

今年1年間いろいろとお世話になりました
来年もよろしくお願い致します

よい年をお迎えください

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島津豊久の生き方⑥

義弘は大阪城に人質となっていた義弘の夫人の宰相(さいそう)殿や、義弘の嫡男の夫人、亀寿(かめじゅ)らと合流し、一緒に逃げました。
関ケ原合戦後2週間経った10月1日、ようやく豊久の居城、佐土原(宮崎県)に着きます。

しかし九州における関ケ原合戦は、まだ終わっていません。
この地も安住できなく、義弘は佐土原で豊久の母に豊久の死を伝え、数時間滞在しただけですぐに西に向かいます。


豊久には夫人はいましたが子供はいません、夫人は関ケ原合戦の時、佐土原にいました。
豊久の母は義弘と会ったあと、大将の母らしからぬ言葉を残します。
「(義弘公は)中書(自分の息子、豊久のこと)を打ち捨ててお下りになった。またここ(佐土原)をお見捨てになるのか」と不満を言うのです。(桐野作人著「関ケ原 島津退き口(学研M文庫)」P230引用、以下参照)
戦国武将と言うと、お家のため、戦功のために命を失うこともいとわないと想像されます。
豊久は尊敬する伯父のため、島津家存続のためと、命を張って追う敵を食い止めて後悔はなかったでしょうが、息子を想う母の気持ちは、平成の現代と変わらないのでしょう。



この後、島津は家康との間で一年半ほど緊張関係にありましたが和平することができました。
西軍として参加したが、所領安堵になりました。
家康側の和平の理由はたくさんありますが、関ケ原合戦後に国内がひとまず治まって、次第に対外的なことが大きな課題となって来ました。
秀吉による朝鮮出兵によって関係が悪くなっていた日本と明の国交回復をするため、島津の力が必要であったことなどの政治的判断、また島津退き口の凄まじかったことから、いま一度島津と交えるとするならば、簡単には収まらないことが予想され、利用した方がよいとの判断も、和平の背景にあったと考えられます。

退き口はまた、他家ではまねができない日本史上稀有なこととして、後々も薩摩藩にとって大いなる自信につながったと思われます。

桐野作人氏によると、退き口の効果は義弘が義久の嫡女、義弘の嫡男の夫人、亀寿を無事連れ帰ったことが、領主である義久の義弘父子の心証をよくしました。
その結果、義弘の嫡男である忠恒、後に家久(いえひさ)になりますが、以後江戸時代から現代に至るまで、新たな島津宗家、その初代になる大きな推進力になったと言っています。

義弘は、慶長6(1601)年より桜島の方に蟄居(ちっきょ)していましたが、やがて家康により助命が認められました。
家久の背後には義弘がいて、実権は義弘にありました。
特に慶長16(1611)年に義久がなくなってからは、自然と義弘の力はより強くなりました。
義弘は元和5年(1619)年に亡くなっています。
義弘は正式には当主にならなかったのですが、義弘の嫡男、家久が薩摩藩初代藩主となったことで、今なお鹿児島では義弘は崇拝されています。



関ケ原合戦で義弘が生き残り、義久の血統から義弘に変わります。
義弘がもし合戦から帰国できなかったならば、当時の義久の考え方として自分の外孫、忠仍(ただなお)を家督にしたでしょう。


義弘が帰国したことで、義久は、義弘父子をむげにできなくなったように思われます。
すでに豊臣政権より家督として忠恒は認められていましたが、義久は義弘の嫡男、忠恒(後の家久)に一度家督を継がせますが、すぐに奪います。
義久は家督としての忠恒の能力を、疑っていたようです。
合戦後は、紆余曲折はありましたが再び家督は、忠恒が継ぐことになります。
(桐野作人著「関ケ原 島津退き口(学研M文庫)」P306他参照)




このブログでは、義弘の関ケ原合戦での動きを追って来ました。
義久から義弘に血統が変わり、何が変わったかというと、日本の中では辺地にあった島津が生き残るための策、つまり対外政策のように思われます。
具体的に政策と言えるものはないので、考え方、方針と言った方がよいかもしれません。
このように書くと少々の違いのように感じられますが、実はたいへん大きな違いです。



義弘は義久より国外、島津以外のことに無関心でなく目を向けて、積極的に関わろうとして行動していました。
義弘はそもそも二男であったため、義久とは違った役割を期待され、このような生き方をするようになったと考えられます。

義久は、三州の制定を最重要視していました。
この点は義弘と同じですが、実現するための方法への考え方が、義久と義弘に違いが見られます。
対外への考え方が、一貫して無関心、積極的には関わろうとはしませんでした。

これは関ケ原合戦での対応、また朝鮮出兵での、義久と義弘の行動の違いに、顕著に見られます。



関ヶ原合戦では、義弘は成り行き上、三成の側につかざるを得なくなって、結果は敗退することなりました。
結果だけを見るなら、たくさんの家臣の犠牲を出し、なんという愚かなということになるかもしれません。

しかし大将として、義弘自ら京に近いところに身を置き、家康、三成はじめ諸将との間で緊張関係に置き、無関心ではいられませんでした。
その中で秀頼公のため、それは当時の日本における大義のためということになるかと思われますが、その中で島津としてなすべきことをなすという姿勢でした。

義弘が島津の退き口に至るまで、三成のそばにいて行動していたこと。
また退き口では、最初は大垣城に向い籠城しようとしたこと、大坂付近に戻った時は、毛利輝元に連絡し、再び東軍と戦うことを考えていたこと(関原陣輯録)などに、その意識を感じさせられます。

それがまた、島津のためになると信じていたように思われます。
この点は、義久に全く理解されていなかったとは言えませんが、義弘とは行動する判断基準が違っていました。

こうした義弘の姿勢が、家久に大きく引き継がれたと考えられます。
島津の家風として定着し、宝暦治水や、幕末、明治維新で、薩摩藩士が明治政府の中枢を担っていくような人材となっていくことにつながっていったのではないでしょうか。



関ケ原合戦で西軍敗退となってまわりを取り囲まれたとき、義弘は敵に向かって行き、討ち死にする覚悟を決めました。
それを豊久は、「まことに御家の安危(安全か危険か)に関わる大切な御身であられるので、なるべくお退きになることがよろしい」と何度も繰返し諌(いさ)めます。(「新納忠元勲功記」より)

豊久は慶長5(1600)年5月に京に上ってから、義弘との連絡が常に取れる距離にいました。
同年7月頃より三成らの挙兵が表に出ると、義弘、豊久は国に帰る機会を失います。

京や大坂に居るのと、遠い国元、佐土原(宮城県)に居る時とは見える世界が違います。
その間に、以前から敬愛していた義弘の行動をより理解するようになって、義久と異なる大将としての資質を義弘に見出し、その可能性に島津の将来をかけたのかもしれません。

義弘に付いて関ケ原まで来た家臣も、当時主君であった義久の意向でなく義弘を慕って来たので、義弘の人格的魅力もあったでしょうが、多くは豊久と似た気持ちを抱いていたように思われます。



家久の名前の「家」は諱(いみな)で、島津との間で和平となったことで、あらためて家康から恩恵としてあたえられたものです。
家久という名前は義弘の弟であった、豊久の父と同じです。
同じ名前になったことは偶然でしょう。
しかし家康は配慮深い人と諸将に知られていたので、忠恒にとっては伯父の家久、またその子である豊久に対しても、敬意の情があったかのように感じられたのではないでしょうか。



豊久の亡きあと、佐土原城は一時家康の家臣が預かっています。
島津が所領安堵とされた後、豊久が亡くなって3年後の慶長8(1603)年、島津家の一つ、大隅垂水の領主であった島津以久(もちひさ)が初代藩主として、佐土原島津、佐土原藩を興して江戸時代続きます。
征(以)久は、豊久の父である家久とは従兄弟の関係です。
家久、豊久の親子を、「前島津氏」と称しています。

また島津本宗家は、退き口で大きな功績があった豊久の家を、子がなかったという理由で断絶させないと、豊久の跡を継ぐ養子を迎え、本宗家の家中として続かせました。

関ケ原合戦 島津退け口 島津義弘陣跡 島津豊久 五輪塔 薩摩池
島津が関ケ原合戦で陣取ったと言われる、薩摩池の後ろの林の中に、今も残る五輪塔。
無名の兵士を弔っています。

ルポ⑨番外編 3月23日に次回、中井均先生と行く!「関ケ原合戦ツアー 松尾山と南宮山編」を開催

関ケ原合戦ツアー、島津の退き口編を終え、笹尾山交流館では城郭研究で第一人者の、中井均先生(滋賀県立大学教授)同行による「関ケ原合戦ツアー 松尾山と南宮山編」を準備しています。

松尾山城は小早川秀秋が入った陣跡で、主郭入口の枡形虎口や複雑に配置された曲輪、堀切、土塁など、見どころ満載です。

また南宮山は毛利秀元が入った陣跡で、登山道に沿って土塁や曲輪、堀切などの遺構が見られ、西軍の拠点であった大垣城を捉えることもできます。

関ケ原合戦の行方を決めた二つの陣跡、1日でその二つの山城に行くという、内容豊富であると共に、開催まで体力をつける準備が多少とも必要になってこようかと思われます。

開催は、2014年3月23日(日)を予定しております。
詳細は後ほど、ホームページなどでご案内しますので、今少しお待ちくださいませ。

関ケ原合戦ツアー 中井均先生 小早川秀秋陣跡 松尾山
松尾山頂上より関ケ原盆地への眺望

関ケ原合戦ツアー 中井均先生 松尾山
小早川秀秋陣跡 松尾山の枡形虎口

関ケ原合戦ツアー 中井均先生 小早川秀秋陣跡 松尾山
松尾山頂上の土塁

関ケ原合戦ツアー 中井均先生 毛利秀元陣跡 南宮山
毛利秀元陣跡から、石田三成達西軍の本拠地があった大垣城などがある濃尾平野を望む

関ケ原合戦ツアー 中井均先生 毛利秀元陣跡 南宮山
毛利秀元陣跡の土塁

ルポ⑧駒野を通って治水神社へ

今回のツアーが予定より早く進んだので、島津藩が江戸時代に行った治水工事、宝暦治水を称えて作った治水神社(岐阜県海津市)に行きました。

出発してすぐ、雨がぽつぽつと降って参ります。
無事に、今回ツアーの目的地を雨が降ることなしに通過できたこと、スタッフ一同で感謝しました。


上石津町の上多良から治水神社への道ですが、国道365号を関ケ原方面に、牧田川近くまで戻ります。
国道365号の牧田川を渡る橋、和田橋を渡る手前で右の方へ、県道227号を2キロ弱短い区間を走ります。
やがて県道56号を道なり、この県道は別名、薩摩カイコウズ街道と呼ばれる道を南下します。



バスでなく、義弘たちの退き口でたどったルートですが、関ケ原から牧田川左岸を行き、どのあたりで牧田川の右岸へ渡ったかはわかりませんが、東伊瀬街道(九里半街道)を通って行ったとすると、大垣市上石津町乙坂にある八幡神社あたりで牧田川方面に右折、牧田川を沢田と言うところでわたった可能性があります。


牧田川を渡ると現在の県道56号に入り、さらに養老山地沿いに南下したと思われます。
ただし県道56号に近いルートで行ったということで、県道の上を行ったかどうかはわかりません。

義弘たちは養老山地を右手に見ながら南下し、駒野付近まで来ます。
「駒野」とい地名は、島津に残る貴重な史料集、「旧記雑録」の中に義弘の退陣を示す記述の中で何度か現れています。



養老山地は標高が北の方は8~900 mぐらいで、南の方は400mともっと低くなります。
東方面が険しく、西はなだらかな斜面です。


バスは、県道56号沿いの養老公園東を通過し、庭田(岐阜県海津市)という交差点から県道25号で、西の方に行くと駒野峠方面ですが、県道25号には行かず、県道56号をそのまま行きます。



駒野峠への道は、標高はそれほどでなく普通車で峠を越えることができます。
行ってみると体験できますが、かなり険しい山道です。
この付近を養老山地を超えるべく山道を義弘たちは行ったと考えられます。

島津から毎年来ている関ケ原戦跡踏破隊は、駒野峠を通る時にマムシが出るとも言われているので、注意します。
この道は冬になると、通過ができなくなります。



駒野という地名は、駅名とともに付近に残っていますが、現在、駒野峠と言う地名は残っていません。
義弘が通った正確な道は実はわかりませんが、養老山地を越え、山地を超える途中まで県道25号付近にあった道を行ったと思われます。
現在の地図で、二之瀬越えと書かれている峠があります。



ツアー行程を検討している段階で、実際に通ったルートに近い県道25号を通って上石津に入るルートを検討しました。
普通車では通行可能ですが、バスはとても無理でした。
残念ながら、バスから眺めるだけにしました。

当日は、バスをゆっくり走らせることもできなかったので交差点をあっと言う間に通り過ぎただけで終わりました。
ごめんなさい。



島津の退き口で、義弘が退いたルートに大きく三つの説があります。
一つ目に①、主に薩摩、島津側に残る史料より推論されるルート。
桐野作人先生は、この説に立っておられます。

二つ目に②、主に上石津に残る伝承や史料によるルートです。

①と②の共通点は、関ケ原から伊勢街道を行き、牧田、上野から南東方面、牧田川沿いに東伊瀬街道へ行って、東伊瀬街道からはずれて南進します。駒野付近で西進し、駒野峠を通って養老山地を超えます。
①と②の違いは、駒野峠を越えた後、①は西(裏)伊勢街道に出て南下します。その後、鈴鹿峠の方を通りすぎて土山まで行くが、京都方面に行くことが無理とわかると、元に少し戻り、伊賀の国、甲賀の国を経て、信楽まで来ます。
これまでブログで紹介してきたのは、主に①と②の説によっています。

②は、養老山地を越えた後に伊勢街道に入ると、南へ行かないで街道を外れ、西方面に行きます。
時、時山、五僧峠(島津越えとも言われる)を経て、近江に出ます。
その後南下して、①と同じ信楽まで来ます。



ほかに三つ目に③としますが、これも伝承や2次史料による説で、関ケ原を抜けて牧田、ここからが①、②の説と違うところですが、牧田あたりで南下し、牧田川を渡り、標高はそれほどではないですが険しい勝地峠を越えて多良、時、時山、五僧峠を経て近江に出るコースの説です。
②と③が、現在の通説となっています。


桐野先生からすれば、三つの説全部を楽しもうということになるでしょう。
私の中では、どちらが真実か判断できないことで、すっきりしない気持が残っていたことも確かです。
①と②の二つを、史実としてありうるように結びつけようと考えたこともありますが、無理もあります。

そんな中で次第に、②と③は合戦のときの出来事に加え、合戦以後、様々な人の行為の中でできていった部分も多いので、これもまた大切な史実として受け止めることができうる、そんな気がするようになってきました。




治水神社に着くと、雨がかなり降っていました。
神社は、薩摩藩が治水工事をしたことで、岐阜、愛知、三重の人たちが安心して暮らせるようになり、たいへん感謝して作ったものです。

島津退き口 治水神社 

戦が少ない江戸時代になって、薩摩藩に違った戦いが持ち込まれます。
自然との闘いでした。

あまりに無理が多かった難工事のため、薩摩では自刃した人が多数出ました。
自刃した事実を江戸幕府に知られてはならないと、公にはできませんでした。
工事により薩摩藩の財政はさらに悪化し、こうしたこともあって、次第に工事が忘れ去られる中で神社が創建されました。


桐野先生は車中、治水工事に関わるエピソード、また今日のツアーのまとめとして、島津退き口の意味についてなどサービス満点でお話しいただきました。

参加者に配布した史料も、一次資料中心にたくさんご用意いただき、先生が史実であることを大切に論を組み立てておられることが伝わってきます。
治水工事で意外であったのは薩摩だけでなく、たくさんの諸藩が関わっていたこと、治水工事に関わった島津の家臣の死に関するエピソードなどです。



合戦に14歳で参戦し、無事行き残った松岡千熊という兵士についても、解説いただきました。
詳しくは先生が2013年11月に発刊した、文庫版の「関ケ原 島津退き口(学研M文庫)」をご覧頂ければよいのですが、千熊は「島津の退き口」に関する史料の宝庫、「旧記雑録」にたくさんの手記を残しています。

合戦で14歳にて参加し、史料によれば合戦の64年後、寛文4(1664)年に生きていたことが確認できています。
4代将軍家綱の時代、78歳を超えて生きていたと推察されます。
語られ続けなければ忘れ去られていく中で、語り部としての役割を果たしていたようです。

なお文庫版は、2010年6月に新書で発刊した内容に加筆・増補、修正もなされてますので、新書が絶版となっている現在、お勧めの本となっています。



宝暦治水(宝暦4(1754)年~宝暦5(1755)年)の普請で1000人近いたくさんの兵士が、島津から濃州に来ます。
徳川幕府は、強大な島津藩の勢力を弱めるために普請を命じたと言われていますが、家臣の平田靱負(ひらたゆきえ)は、「同じ日本国の人が、とても困っているのだから助けてあげよう」と言って、難工事を引き受けます。

島津は幕府に命じられたとはいえ、はるか遠く、まったく知らない人のために命を尽くし、立派に工事を完遂させました。




島津退き口 治水神社

島津退き口 治水神社

島津退き口 治水神社
島津の工事責任者、平田靱負。

島津退き口 治水神社

すでに真っ暗でしたが、予定より早く、帰還地の名古屋駅前につきました。
雨の中、桐野先生は参加者のみなさんの記念写真の要望に、応えておられました。

島津豊久の生き方⑤

豊久の最後についてですが、書きまとめることが難しいです。

大きな理由は、これまで書いたように島津側のどの記録にも豊久の最後を見た人は、家臣を含め誰もいません。

島津に残る一次史料の中に、豊久が上石津に行く前に関ケ原で、大量の出血をともなう大傷をしたのではないかと、確信できる史料があります。
豊久の馬に間違いない馬に、多量の出血が残っていたためで、しかしこの後、豊久がどうなったのかがわかりません。

この一次史料は、重要文化財である「旧記雑録」と言われるものに集録されているものであり、「退き口」関係のものがたくさんあり、信頼性が高いものです。





美濃、濃州(現在の岐阜県)の上石津(岐阜県大垣市)に残る史料や伝承によると、関ケ原から上石津まで生き延びてきたとされています。

史料では「多良村三輪孫右衛門氏文書」に、三輪孫太夫という人が瑠璃光寺の玄透という和尚(おしょう)宛に出したものがあります。
ここでは豊久の最後について詳しく書かれており、「新修上石津町史」(上石津町史編集委員会編)」(P127より引用、『養老郡志』による)に掲載されているものを引用します。
書かれたのは、合戦から200年近く経った、江戸時代の後期、寛政5(1793)年5月のことですが、200年近く経っても大切な出来事として、三輪家では言い伝えられてきたのでしょう。



「嶋津中務(豊久のこと)様御廟之由来御尋有増申上候(この瑠璃光寺に葬られている理由についておたずねがあって、お答えたしますが)、
慶長年間関ヶ原御陣之節嶋津兵庫頭様(慶長の時に行われた関ケ原の合戦で、島津義弘が)
同國多良と申候處御越時山村から江州多賀(この国の多良を越え、時山村から滋賀の多賀の方に)
之庄被遊御越候故(越えて行かれたことから)、今に嶋津越と申事(今は「島津越え」と呼ばれる)、
所之名に相成候(地名になっている)。然る間御次男中務様には(そして、義弘様の二男(甥の間違い)の豊久様は)
御戦場にて御討死被遊候御覚悟にて(戦場で討ち死にを覚悟に)、戦場
御打(打って出られ)、静多良(多良郷のこと)へ御扣(に来て(かくまってくれる所を探している時に?)めぐっていた所)へ、其節(その時)拙者八代以前(私の八代先祖の)
三輪内助入道一斎と申(す)者、御途中にて蒙御意(『退く途中で、道がわからなくなったと言うので』の意味?)、
御家臣(豊久の家臣の)川口運右衛門を以って(と一緒に)、此(この)山へ急御案内
仕候様蒙仰(急ぎ案内をしてくれと申され)、白拍子谷へ両人(お二人を)御供仕(お連れした所)、此(の)所にて
被遊御逝去候儀(豊久が、(自ら?)お亡くなりになられたということで)、両士十方失ひ奉絶言(二人(三輪内助と川口運右衛門の二人か?)ともあらゆるものを失ってしまったように感じて?、何の言葉も出なかった)
語候事限なし。御尊骸(豊久の亡きがら)を正覚山薬師寺(瑠璃光寺の前身の寺)に御供仕(お供して)、
南拜殿と申所(南拝殿という所)に奉茶毘葬(火葬して葬った)、築師寺持春山長老(薬師寺の持春山という長老が)
御焼香被成候(ご焼香をして)御尊骨壷二つに奉納候様(骨を二つの骨壷におさめ)、右運右
衛門殿御申付にて(豊久の家臣の川口運右衛門が)、我等御本國へ御供可致旨(私たちは薩州に帰り、豊久がこの地で亡くなって葬られたことを伝えると言い残されて行ったが)
被申置候。其後何之音便も無御座候故(その後、何の音沙汰もなかったので)、
御尊骨御廟に奉納候而(骨はおさめたまま)、則貴寺山内南拜只今に(今に至るまで、お寺としてお墓とともに大切にお守りしてきた)
御墓御座候。右之通拙者先祖より(今まで書いてきたことは、私が先祖より)
代々申傳候所相違無御座候、以上(伝わってきたことで間違いありません)



上石津に残る伝承では、豊久は白拍子谷で自刃したと言われていますが、ここには自刃とは書いてありません。
「被遊御逝去候儀」とあるのは、自刃したという意味に読むことができるのでしょうか。
とにかく、一緒に行った二人は、まったく声が出ないほど驚いたということですのでよっぽどのことです。
やはり、自刃なされたのでしょうか。

豊久を案内したのが、三輪孫右衛門の八代前の先祖、三輪内助入道一斎という方で、村長であったという記録が別にあります。

文書の最後に「代々に残っている言い伝えなので、間違いない」と言いきっていますが、この時代に書かれた、よく書かれる言い表し方です。

ただ不明なのが、この文中に出てくる川口運右衛門という豊久の家臣です。
豊久の亡くなった家臣35名の名前が、豊久の墓がある佐渡原天昌寺に残る過去帳の写しにありますが、この中にはありません。
不明なものが5人とありますので、この中か、あるいは豊久は推定で300人ほどの兵を率いて関ケ原に来ていたと考えられるので、この中に入っていた可能性もあります。

天昌寺は宮崎市内にあった寺で、現在は廃寺、市の史跡になっています(佐土原町上田島西野久尾)。
寺には豊久の父である家久、そのほかに家久の母や妻、関ケ原で亡くなった家臣がまつられています。
川口運右衛門という人のことが分かると、豊久の最後について何かがわかるヒントが得られるかもしれません。

島津退き口 島津豊久 上石津
雨の日に大垣市上石津を通る旧伊勢街道から、東方面の山を見る。

長野剛先生が関ケ原に★★☆

長野 剛原画展関ケ原で行われます


長野剛原画展01


12月13日(金)~12月15日(日)   10:00~17:00
関ケ原ふれあいセンター
2階ホワイエ


そして
14日、15日は
長野 剛氏ご本人による 
ライブペインティングを実施

14日(土) 13:00~
15日(日) 10:00~
 
の予定です



そして 

さらに
来場特典として
長野 剛特製ポストカードをプレゼント




その会場は……

関ケ原ふれあいセンター
2階ホワイエ


【アクセス】

公共交通機関で------------------------------------------------
東京から      
東海道新幹線 -- 約2時間 --- 名古屋駅 - JR東海道本線 -- 約45分 --

大阪から
東海道新幹線 -- 約40分 ---- 米原駅 - JR東海道本線 --- 約20分 ---     関ケ原駅

名古屋から
JR東海道本線 ---------------- 約45分 ----------------------


車で---------------------------------------------------------
東京から
東京IC --- 東名・名神高速道路 ----------- 約5時間 ------------

大阪から
吹田IC --- 名神高速道路 -------------- 約1時間40分 ----------     関ケ原IC

名古屋から
名古屋IC -- 東名・名神高速道路  --------- 約50分 ------------


map
JR関ケ原駅 下車 徒歩8分
名神高速道路 関ケ原IC から車で5分

岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原894-29

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