関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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関ケ原は霧です

まっつんです。


この仕事に就く時に関ケ原というと、新幹線や高速道路で「雪」という印象がありました。
しかし今年は、数回年末などに降りましたが、まだ深い雪はありません。
残念というか、ありがたいというか。

霧の関ケ原、いいです。

関ケ原合戦 笹尾山・石田三成陣跡跡
笹尾山・石田三成陣跡から、決戦地方面を見る。
何も見えません。


関ケ原合戦 笹尾山・石田三成陣跡
笹尾山・石田三成陣跡から、左方面を通って降りる林道。
頂上には、カップルの方がおられました。

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上石津(大垣市)の牧田から勝地峠まで残っている伝承⑧

昭和61(1986)年から10年以上かけ、一之瀬地区の地籍調査が行われました。
萩永次郎さんは最初から最後まで立会って、その時に街道の道も確認したそうです。
手書きで詳細に書き込まれた、地積調査の報告書原本を自宅に大切に保管しておられました。
このブログを作るにあたって、参考に見せても頂きました。


前回のブログの続きです。
街道は現在歩いていけませんが、一度降りた小川から谷を上がると上石津中学校のテニスコート、また道の端に大きな木の切り株があります。

下の写真は上で述べた切り株。木の後ろに谷があり、ここまで上がってきた。
関ケ原合戦 伊勢西街道 島津退け口 大垣市上石津町一之瀬


上石津中学に隣接する道に出て、すぐに右に折れ、まっすぐ坂をあがって行きました。

下の写真は上の写真場所を、引いて撮った写真。奥の方が勝地峠方面に行く道。
写真の左側が上石津中学。
この付近、街道の面影は残っていません。

関ケ原合戦 伊勢西街道 島津退け口 無名戦士の墓 大垣市上石津町一之瀬





五輪塔は一時、中学の出口の道を挟んだ向こう側に置いてありました。
当時、広報会長であった方が責任をとって、とりあえずご自分の土地に置かれたそうです。
広報会長は、今では自治会長という役職名になっています。
その後、川西共同墓地に石碑を作って移設しました。



五輪塔は、坂道を勝地峠に向けて登っていく所で、追手に追いつかれたのか、逃れるのをあきらめて自刃したか、それを弔うために置かれていたのかもしれません。
天保12(1841)年の市之瀬(一之瀬)村絵図を見ると、中学校敷地は一面畑で、切り株があった付近に森と神社のようなものが書いてあります。

萩永さんに伊勢西街道の道を聞いて、上石津中学と伊勢西街道が隣接していたことがわかり、五輪塔が退却する道に沿って置かれていたのでないか、その可能性がより増えてきました。
しかし本当は、どこに五輪塔があったのか、川西地区では最長老の萩永さんがわからないので、確かめようがないのは残念です。


下の写真は萩永さんの自宅にある「上石津町一之瀬川西地内(平成2(1990)年5月10日)」の空撮写真です。
矢印は、これまで紹介してきたルートのイメージを矢印で示したものです。
道の跡が残っていないので、あくまでイメージであるのをご了承ください。
関ケ原合戦 伊勢西街道 島津退け口 大垣市上石津町一之瀬




下の写真は、夕方帰宅する上石津中学生。
関ケ原合戦 伊勢西街道 島津退け口 上石津中学 大垣市上石津町一之瀬



以前のブログで紹介した、川西地区の共同墓地を萩永さんにご案内頂きました。

敷地で見つかった無縁仏の五輪塔は、下の写真にあるように石碑に寄り添うように三つ置いてありました。
石碑の左右にある、少し黒ずんだ直径が10センチぐらいの石が二つ。
正面にある、上に穴が開いた石が一つです。
関ケ原合戦 無名兵士の墓 伊勢西街道 島津退け口 大垣市上石津町一之瀬


実は、一人で見に来た時はその石が五輪塔と気付きませんでした。

共同墓地は、桑原家は禅宗ですので、石碑正面から見るとの左手、北側にあります。
そうでない村人、町民、現在は市民ですが、墓は仏教なので石碑正面から見るとすぐ右手の方、南側と、別々になっています。



上石津中学から勝地峠に至る道は、現在林道がきちんと整備されています。
伊勢西街道と現在の林道は、同じ部分と違う部分があります。
萩永さんは小さな頃、勝地峠までよく登ったそうです。




この後、勝地峠に行きました。
標高183mとはそれほど高くはないですが、伊勢西街道の最大の難所と言われていた勝地峠。
宝永6(1709)年の「多良古物語(他書では他の本の記述有り)」によると、勝地峠は「往昔この坂は馬にて行く人も道悪しきため歩いて通るゆえ『歩路(カチジ)』とはいいけるらし」とあります。
※「上石津の石文を訪ねて」(上石津町教育委員会/平成7年3月発行)P9より引用。

地元の伝承では、「歩路」と呼ばれていたのを、秀吉が戦に勝ったことを由来に秀吉が「勝地」と変えたと言われます。


勝地峠に登るまでに、基礎の石に「三界萬霊」と書かれているお地蔵さんがあります。
「新修上石津町史」P668には、「享和四(1804)年の銘があり、多良の田村地蔵につづく建立」と書いてあります。
伊勢西街道 坂の地蔵 大垣市上石津町一之瀬 勝地峠
坂のお地蔵さん。桑原家が作ったと言われていますが、出来た時代で判断すると関ケ原合戦と関係ないと思われます。
林道が整備され、元々あった街道沿いから現在地に移設されました。



勝地峠の碑から、旧伊勢西街道の方を見る。
一之瀬から登ると、写真の奥からあらわれます。

関ケ原合戦 伊勢西街道 島津退け口 大垣市上石津町一之瀬 勝地峠


上の写真と反対側、一之瀬側から伊勢西街道を登ってきて勝地峠の碑を見ます。
この先の林道は、伊勢街道と重なります。

関ケ原合戦 伊勢西街道 島津退け口 大垣市上石津町一之瀬 勝地峠


勝地峠にある案内板。
関ヶ原は雨でしたが、勝地峠に至るまでの道は雪が少し積もっていました。

関ケ原合戦 伊勢西街道 島津退け口 大垣市上石津町一之瀬 勝地峠

勝地峠は、守るにも重要な場所でした。
江戸末期の混乱期、多良の交替寄合であった「高木家は弥冝上(ねぎかみ)番所をここへ移し昼夜交替で士卒が詰めた」と言われています。
「かみいしづの古道ー史蹟と石仏」P9から引用(上石津町教育委員会/昭和62年3月発行)


関ケ原合戦の日、9月15日は新暦で10月21日でした。
前日から雨で、すでに服は乾いていたでしょうが、夜となると肌寒かったと思われます。
戦国時代は現代より、気温が低かったとも言われています。




芭蕉の句である、
「山路来て何やらゆかしすみれ草」
と刻んだ石碑が、さらに多良方面に行くとすぐ近くにあります。

文政13(1830)年の建立で、何百年もの間、多良と一之瀬の山の村境争いがあって和解しました。
今後、こうした争いが無いことを願って、作られたそうです。

芭蕉が来たというわけではありません。
※「上石津の石文を訪ねて」(上石津町教育委員会/平成7年3月発行)P8より引用。



一之瀬の伝承についてですが、参考に大垣市上石津町、川東自治会のホームページに、「地域に残る昔話」とあります。
クリックすると、「落ち武者のたたり」、「七(しち)なんさん」と二つの昔話が紹介されています。

一之瀬の一連のこのブログを書いているとき、見つけました。
「ふる里噺」(上石津町教育委員会編/昭和58年3月発刊)という本になっています。

「七(しち)なんさん」はこのブログで紹介しました。
話の詳細は、少し違っています。
「落ち武者のたたり」は、私が聞いた方では聞けなかった話でした。
他にいろいろな伝承があっても、不思議でないと思います



この地でお会いした方に、伝承で島津らしいふるまいがあったか聞いてみましたが、無いということでした。
期待する方に無理があったのでしょう。
敗残兵となれば、いかに島津と言えども、かっこよくはありません。



なお蛇足ですが、萩永次郎さんは先祖代々この地に住んでいます。
この地に住む萩永姓の方はすべて桑原家の家臣と思っていたのですが、そうでありませんでした。
この地に豪族は二つあったそうです。

家臣は二つに分かれ、一つが桑原氏、もう一つが「りんあん(林あん)」氏。
萩永さんのご先祖は、林あん家の家臣なのだそうです。
「あい」の字は不明です。
林あん氏については、「新修上石津町史」では未確認です。

話が関ケ原合戦からだんだん外れてきました。


上石津町一之瀬に残る、島津退け口の伝承を聞いてきたブログの最後に、一之瀬が度重なる水害を克服し、たゆまない田畑開発を進めてきたことを加えます。
私がお話を聞いてきたいずれの方も、合戦のお話に加え、この地を守ってきた歴史も聞かせていただきました。

合戦のテーマからはずれるので掲載しませんが、「土地改良史」(編集発行 上石津町役場農業振興課/昭和62年12月発行)に、村民、町民が営々と田畑の開発、水害と戦い続けてきた歴史がつづられています。
この地は一般にやせ地が多く、盛んに開田をして増収する必要に迫られていました。(同P46参照)


また同P39には、「大永5年年(1525)、美濃国の守護・土岐頼芸(ときよしのり)は六角氏と組んで、江州の小谷城主浅井亮政(あざいすけまさ)と栗原(くりはら)山・乙坂山間を戦場として戦い、牧田では村を焼かれたり、農地も荒らされ、住民は実に悲惨であった。
つづく慶長5年関ケ原の役では、又しても戦いの渦中に入り、郷土の各地は荒らされ農民はおののいた」
「関ケ原の決戦により、ようやく戦国の幕は閉じ、徳川による幕藩体制の時代になった」
とあります。
島津が薩摩に帰り着いた出来事の裏に、この地に様々な影を落としていったということも見逃すことは出来ません。

関ケ原を始め濃州(岐阜県)、江州(滋賀県)、また日本各地で、戦国時代は常に小競り合いを含めた戦乱がありました。
同じような状況は全国各地に、形は違うがあったと思われます。



関ケ原合戦 伊勢西街道 島津退け口 大垣市上石津町一之瀬
勝地峠に上がる林道で見たサル。
人になれています。
この地区の歴史は、戦乱や水以外に、シカやイノシシ、またサルとも今も戦い続けています。

上石津(大垣市)の牧田から勝地峠まで残っている伝承⑦

関ケ原合戦で、たくさんの兵士がここまでやって来たと、一ノ瀬では言われています。
それを示す、祠や塚、石や五輪塔が残っています。
しかし全国的に流通する史料や合戦記に、このことを書かれているのを見たことはありません。
こうした情報は地味ですが、陣跡を考えるときに参考になるかと思い、引き続き書いていこうと思います。

一之瀬に来た武将が、もし名のある大将であれば、名乗りを上げ、記録に残されたのでないでしょうか。
そのためこちらの地に来たのはほぼ無名の兵士で、歴史を変えるような出来事でなかったからと考えられます。
今は平和なこの地区の、ごく普通の道ばたに、一人の命の火が消える瞬間がありました。
記録に残っていなくても、この地にその痕跡が今も残っている事に惹かれます。



萩永次郎(90歳)さんは、国鉄退職後、一之瀬川西地区の広報会長(自治会長)を13年なさり、会長当時、旧一之瀬村全部の地籍調査に協力したため、地元の事に詳しいです。
実際は会長を辞めた後も、調査は続きました。

昭和50(1975)年4月に、三つの中学を統合して上石津中学校ができました。
この中学校を作るため、自衛隊のブルドーザーが入りました。
段々畑は校舎、田は運動場になり、畑と田の比率は、ほぼ半々でした。
その敷地に、関ケ原合戦に関係したと伝えられる五輪塔が置いてありました。

五輪塔がなぜそこにあったのか、私がずっと疑問を持っていました。
予想した街道の道から、外れていたからです。



萩永次郎さんに、雪が所々残る寒い中、幸いにも伊勢西街道の道をご案内頂きました。
やはり私が考えていた道は、まちがっていました。
予想外の所もあったので、紹介します。

なお紹介する道は、萩永次郎さんが誰かからきちんと聞いたというのでなく、いろいろな人から聞いてきたことをまとめ、そうでないかと推測されるものであることをご了承ください。



再度確認をすると、島津は関ケ原合戦の退き口で牧田上野から二つの方向に退いたと考えられます。
一つに、関ケ原から牧田上野まで南東に進み、ここで右の方に折れ、藤古川を南方面に渡り、逃げてきました。

藤古川は合戦の時、将兵の地で赤くにごったと言われています。(「歴史の道調査報告書第二集(伊勢西街道・伊勢東街道・北国街道・高賀街道・郡上街道)」(岐阜県教育委員会編)より、以下も参照または引用)

さらに伊勢西街道のルートで勝地峠を越して、上多良まで行きます。
こちらのルートは一般に今まで、島津豊久がたどったと言われていて、上石津の方でそれを示す史料もありますが、現在様々な説があります。
なお、上石津では「島津の退け口」のことを、「島津隊の背進(はいしん)」と呼んでいます。

もう一つに、牧田上野で右に折れないで伊勢東街道ルートで、そのまま養老山地を行き、駒野の方から養老山地を越えて退きました。
桐野作人氏によると薩摩に残る第一級史料、「旧記雑録」などから、島津義弘はこちらルートから逃れたと考えておられます。


ここでは大垣市上石津町内の一つ目のルート、勝地峠までを詳しく紹介します。
牧田上野から萩原を抜け、左に和田橋、右手に山、牧田川左岸を上流に向かいます。
方角は南西で、このルートは伊勢西街道です。

牧田川左岸を行くと、右手に畑などあり、殿垣外と言われている地区に入り、左方向に折れます。
殿垣外と言われている地区に入り、左方向に折れます。
曲がるところには、常夜燈があり、かつて伊瀬街道があった事を示しています。

殿垣外は、萩永次郎さんによると「とのがいどう」、「かみいしづの古道」(発行 上石津町教育委員会)では「とのがいと」とあります。
右手に山を見ながら、山沿いを南東に行くと、一之瀬川西地区に入ります。
殿垣外とは、「城の外」という意味です。
対応する「城の中」という地名があってもよいですが、ありません。地名は無くなったのでしょうか。

天保12年の市ノ瀬村絵図には、家が何軒か書いてあります。

下記の場所は和田橋の場所

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写真下は和田橋北から勝地峠方面を見ます。
関ケ原合戦 伊勢西街道 島津退け口 大垣市上石津町一之瀬


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殿垣外の場所

写真下は殿垣外の北東500メートルの牧田川の堤防から、一之瀬や勝地峠の方面を見たところ。
関ケ原合戦 伊勢西街道 島津退け口 無名戦士の墓 大垣市上石津町一之瀬


下記のGoogleマップの上の○から下の●へ、さらに一之瀬川西地区に向かいます。
当時は畑か田、あぜ道なので、実際は直線で行ったと思われます。

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さらに上の○(殿垣外付近)から下の●へ行きます。
下記のGoogleマップ写真参照。
萩永次郎さんは山沿いに行ったという想定で、今は道がないのでイメージです。
合戦当時は畑とあぜ道がほとんどであったと思われます。

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下の写真は殿垣外を出て、一之瀬川西地区の方面を見た写真。
実際は山沿い、山の林の中を通って行ったのではないかと萩永次郎さんは考えています。

関ケ原合戦 伊勢西街道 島津退け口 無名戦士の墓 大垣市上石津町一之瀬

下の写真はさらに一之瀬川西地区に近づき、地区内の住宅などを見た写真。
写真右に昔は祠があったが、今はないです。

関ケ原合戦 伊勢西街道 島津退け口 無名戦士の墓 大垣市上石津町一之瀬
正面奥に、一之瀬保育園とその駐車場が見えます。
この道の先の裏に、本善(ほんぜん)寺という寺があります。
寺の東は現在住宅ですが、萩永次郎さんが若い時、林でした。

お寺が合戦当時にあったかはわかりません。
伊勢西街道はこの写真の正面、寺沿いを通り抜けていたのではないかと萩永次郎さんは思っています。
そうだとすれば、島津は下の写真をまっすぐ保育所の方に向かいます。

下の写真は下の地図付近から、今まで来た道を振り返った写真。正面山の裏側は関ケ原の方です。
関ケ原からここまで来たら、兵は少しほっとしたのでないでしょうか。

関ケ原合戦 西伊勢街道 島津退け口 無名戦士の墓 大垣市上石津町一之瀬



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この後、伊勢西街道で一之瀬川西地区の中心を流れる小川、関谷川(せきたに)をわたり、小さい山の方に向い、駆け昇ります。駆け昇ります。
今は関谷川は洪水対策のために、三面コンクリートになっています。

下の写真は、街道沿いの小山の上から見た所。
細い矢印のように、写真の右上方面から、そのまま左方面に行き、殿垣外を抜けて左に曲がってからはまっすぐ進み、手前の崖までやってきます。

下の写真で太い線にあるように、実際に民家と民家の3mぐらいの幅を通り抜け、矢印のように崖を登ってきました。
関ケ原合戦 西伊勢街道 島津退け口 無名戦士の墓 大垣市上石津町一之瀬


崖を矢印のようにジグザグに登ります。
登った所に、先のブログで紹介した、160mぐらい離れて矢を当てた、的場がありました。
写真の下の道は横方向にありますが、最近作られたもので昔はありません。
関ケ原合戦 伊勢西街道 島津退け口 大垣市上石津町一之瀬



下記の地図の、○付近より●方面の先に、がけを駆け昇って小山の頂上を行き、猿子谷(さるごたに)川という小川が流れる谷に降り、再び谷を駆けあがります。
猿という名前が川名にあるように、今も付近では住んでいます。
すると●の先の所、上石津中学のテニスコートが面した道に出ます。
道に出る所には大きな木の切り株があります。
なお整備されていないので、最後の地図の区間は徒歩では行くのは不可能です。


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上石津(大垣市)の牧田から勝地峠まで残っている伝承⑥

これまで市ノ瀬地区で数名の方にお話していただきました。
ほとんどの方は飛び込みにもかかわらず、親切にお話しして頂きました。
お一人お一人、一ノ瀬に誇りと愛着、そして関心を持って生きておられることに、感心しました。

関ケ原合戦 西伊勢街道 島津退け口 大垣市上石津町一之瀬
西伊勢街道から一之瀬などを見る




この近辺に残る、興味深い当時の話を一話、紹介します。
関ケ原合戦の前後の話です。
直接合戦には関係はありません。
当時の城郭の雰囲気が良く残る、国の重要文化財、桑原家の建物についての話です。



現在の建物は江戸時代、享保18(1733)年に一度焼けた後に再建されました。
以前は現在地より東方にあったと、地元の方に聞きました。
(「新修上石津町史」には「北側の小高い所」とあります)

桑原家は系図によると、天文14(1545)年、阿下喜(あげき)城(三重県いなべ市北勢町)からこの地にやってきました。
織田、豊臣に仕え、文禄の役にも参加し、秀吉の忌諱(いき、きらって避けられることの意味)にふれ、一之瀬に蟄居(ちっきょ、家にこもるように謹慎させられるの意味)させられます。
関ケ原合戦では中立を保ち、その後、郷士として江戸時代、尾張藩の石河家に石高30で仕え、財政顧問として「権之助」を襲名します。
村山の支配、植林に力を注ぎました。
(「新修上石津町史」P132参照)
建物は、映画のロケに使用されたこともあり、現在は外観は見られますが入館はできません。


地元に住む萩永次郎(90歳)さんによると、写真中央の木が生えているあたりが、元桑原家のあった所。
写真右の階段は、秋葉神社に登る階段。

関ケ原合戦 西伊勢街道 島津退け口 無名兵士の墓 桑原家 大垣市上石津町一之瀬





以前の地に、桑原家の建物があった頃。
後藤さんの話では、西伊勢街道沿いに「まとば」という所があった。
「まとば」は、矢を当てる的のことです。
おそらく的場という字ではないだろうか。

付近に住む村人、みんなで見ていた。
見世物か練習かわからないが、城から矢を的場まで放った。

誰が最初にこんなことを考えたのか、飛んだ推定距離は160m。
川が流れる谷の上を、ぴゅーんと飛び越えて当たる。
さぞかし見事だったしょう。

的に当たると、皆で「ワ―」と拍手大喝采で囃(はや)したてた。
見ていた人が「はやしたてた」ので、村人が見ていた場所のことを、「はやし」と言っていた。
矢を放った所と当たる所が見える、少し離れた所で見ていました。


国鉄に勤め、広報会長(今の自治会長)を13年なさっていた萩永次郎(90歳)さんに聞き、推定した場所を地図に落としたのが下図です。
萩永次郎さんは昭和61(1986)年からの地籍調査に関わっていたので、この周辺の現地はずいぶんと歩くなどして確認しています。
江戸時代末期、天保12(1841)年の市ノ瀬(一之瀬)村絵図には、今ほどではないが人家が書かれています。
Aにあった元桑原家の小山から、Bの「まとば」に当たったとすれば、現在立ち並ぶ家を、飛び越えて飛びました。


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関ケ原合戦 西伊勢街道 島津退け口 無名兵士の墓 桑原家 大垣市上石津町一之瀬
「まとば」があった所。現在周辺に木がありますが、昔はなかったと考えられます。


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地図のAが囃があったとされる付近の場所。「まとば」があるBの方を見ていた。


上石津川西地区の桑原家周辺では、江戸時代の領主と家来の関係が、弱くなっていますが少し今でも感じることができます。

桑原家は代々、桑原権之助の名前を継いできて、当主を「権之助さん」と呼び、周辺の人から尊敬の気持ちで呼ばれています。

上石津(大垣市)の牧田から勝地峠まで残っている伝承⑤

「しちなんさん」について、もう少し詳しい人がいないか、二人をたずねました。
そのお一人、一之瀬川東地区在住の桐山清さん(82歳)に、詳しいお話を聞くことができました。
桐山さんは昔、理科の先生をしておられ、日彰中学校という中学にも勤められていたそうです。
この中学は義弘の身代わりとなって戦死した、阿多長寿院盛淳の碑がある、現在は地域事務所にありました。
現在は上石津中学に統合され、廃校となっています。



昭和50(1985)年に圃場整備のために「しちなんさん」を掘った所、真ん中に刀のような鉄が出てきて、その両脇に人骨がでてきた。
鉄は、さびてぼろぼろであった。
骨が出て、このままにしておくわけにはいかずと、川東地区のみんなで話をしあった。
その結果、近くのお寺、天喜寺(てんきじ)の住職に頼み、もう少し関ヶ原よりの一本橋と呼ばれている所にあったお地蔵さんの下に、大切に納めることにした。

当時はお地蔵さんだけでしたが、圃場整備を機に祠をしっかりと作った。
鉄はあまりにぼろぼろであったので、原型もわからないほどで、一本橋には埋めず、どうしたのかはわからない。
天喜寺は県や市の重要文化財が5つ保存されている、近くの立派なお寺です。
この周辺では多きな出来事は、天喜寺の住職さんに頼んでいる。

関ケ原合戦 島津退け口 無名兵士の墓 大垣市上石津町一之瀬 
石垣があり、要塞のような天喜寺。
住所は大垣市上石津町一之瀬1316−1



関ケ原合戦 大垣市上石津町一之瀬 天喜寺
現在はひっそりとしている天喜寺は、行く価値はあります。寺は、織田信長に焼かれたことがあると言われています。


関ケ原合戦 大垣市上石津町一之瀬 天喜寺
天喜寺の入り口

関ケ原合戦 大垣市上石津町一之瀬 天喜寺
天喜寺



一本橋近く、「天王さん」という所からは、馬の骨が出てきました。
「天王さん」は、先に紹介した江戸時代の絵図にも出ている地名で、報告書「かみいしづの地名」には、津嶋神社跡とあります。

骨が出たのは、昭和50年に整地するより以前で、塚のようになっていました。
リヤカーでも通れるようにと、道を拡げるために掘った所、出てきたそうです。

一本橋も昔からある地名で、「かみいしづの地名」には、「最初の道路は小山谷(おやまだに)に簡単な橋で渡っていた。おそらく、道板一枚位が渡されていたのではないか。
一本橋は「狭い橋の意」とあり、旧国道沿いに建っています。

関ケ原合戦 島津退け口 無名兵士の墓 大垣市上石津町一之瀬
現在の一本橋の祠。


関ケ原合戦 島津退け口 無名兵士の墓 大垣市上石津町一之瀬
一本橋のお地蔵さん。
このお地蔵さんは関ケ原合戦とは関係なく、この地で子どもが洪水で流され、弔うためにできました。
三宅伊右衛門というこの地の庄屋出身で一之瀬村長もなされた方が、「いい顔をしているお地蔵さんはないか」と四方八方探し、ようやく見付けることができたお地蔵さんだそうです。
いい顔をなさっています。
三宅さんは、今の国道ができる前、川北に入る目印、道案内としての役割をお地蔵さんに期待して設置しました。
毎年7月24日には、このお地蔵さんのお祭りをしているそうです。




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一本橋のお地蔵さんの場所

桐山さんから聞いた言い伝えは、「しちなんさん」には、7人の兵士が埋められた。
7人の中の一人は、名前がわからないがかなりの武将であったらしく、ここまで逃げてきて「もうあかんから。埋めてくれ」というようなことを言った。
昔は主君が死ぬと、まわりも一緒に死ぬというから、その後を追って、一緒に死んだのかもしれない。

生き埋めにしたということはないだろうから、
「自刃するからだれかに埋めてくれ」
と、頼んだかもしれない。
だれが埋めたかはわからない。



「しちなんさん」には霊があって、行くと腹が痛くなったりするから行くではない、いじるとたたりがあるからさわるな、特におしっこをするなと、父や祖父に言われてきた。
小学校の頃の記憶では、田んぼの真ん中でなく、畔(あぜ、田と田の間の境界の意味)みたいな所に、こんもり盛り上がっていて塚のようになっていた。
塚の上には、大きな石をどんと置いてあった。
生えていた草や雑木は、放置されていたわけでなく、だれかが切っていた。
そのため、それほど高く生えていなかった。




私の推測ですが、7人の兵は自刃するにしても場所を選ぶ余裕はなかったでしょうから、退却した道近くで亡くなったと考えられるのではないでしょうか。
江戸時代の絵図には、字七男田、「しちなんさん」のすぐ近くに、「大道」と呼ばれている道が書いてあります。
大道とは、「幅の広い道。大通り」の意味を持っています。
兵達は、この道を通ってこの地を抜けようとしたのでないか。



本来の伊勢西街道のルートは「しちなんさん」沿いの道と並行する、牧田川をわたった向こう側です。
街道を抜ける別の道の一つとして、「大道」が機能していたことがあるかもしれません。
街道は、いくつか脇道に分岐していることは、よくありました。


島津からはるばる農州(美濃)まで来て、道に不案内だろうから、通常の街道から大きくはずれて行く冒険はしないであろう。
関ケ原から街道沿いに来て、このあたりは見通しがよくなる。
退くのにより近い道と、大道を選んだのかもしれません。
地図を見ると、大道を通るとより峠へは近道です。
本来の伊勢西街道も、田の畔道のような道ですので歩くのに違いはそれほどありません。


関ケ原合戦 伊勢街道 島津退け口 無名兵士の墓 大垣市上石津町一之瀬
伊勢西街道の牧田川左岸より、大道、勝地峠の方面を見る。


関ケ原合戦 伊勢街道 島津退け口 無名兵士の墓 大垣市上石津町一之瀬
牧田川左岸の旧伊勢西街道。写真右は山が連なる。

もうひとつ、桐山さんに合戦の時の伝承を聞きました。
関ケ原から逃げてきた、「しちなんさん」の兵士と比べるとそれほど位が高くない兵士、一人か二人が一之瀬まで逃げてきた。

これから山道に入るという手前、歩くのが遅かったのか、傷ついてもう行くことができないという状態であったのか、街道で桑原家まで登っていくすぐ下あたりで、ふと見ると当時は裕福そうな家があった。
「これをあげるから、頼むからかくまってくれ」と言って、その家に飛び込んだ。
お金のようなものを渡して、かくまってくれることになった。

その日のうちに、徳川軍が追ってきた。
「お金をやるから、残党が来ていたなら教えろ。ウソをつくと、ひどい目にあわすぞ」
かくまっていることを言わなければいいのに、ほうびが欲しくて教えてしまった。

すぐにその兵士はつかまった。

「7代にわたってのろってやる」
と、つかまったときに言い放ち、その後その家には代々と不幸なことが続いたそうです。
裕福であったのに、徐々に衰退していきます。
そこでその家の方は、後々、告げ口をしたことを後悔しました。
まわりからも、そんなことをしたから不幸が続いたと言われました。



この話は「しちなんさん」とは場所も違う、別の話です。
先のブログ「上石津(大垣市)の牧田から勝地峠まで残っている伝承②」と「同④」に書いた内容は、上の二つの話が一緒になっていたように思います。
どうもこちらの方が、より真実に近い内容と思われます。
白竜大明神のお守りをかみながら亡くなった兵の話は、桐山さんの二つめの話と共通する事件であるように思われます。
引き続き、機会があれば一之瀬の方に聞いてみます。

なお前のブログで紹介した「榎木坂」について、桐山さんに聞きました。
桐山さんの家の前の道が榎木坂と言われている坂で、昔は急坂で細い路、雨が降ると物をのせて登るにも大変であったそうです。
この道については、合戦との関係は何もなさそうです。

桐山さんにお話を聞いた日は、他にも一之瀬川東、一之瀬川西地区でたくさんのお話を聞くことができ、その印象としてその印象として、合戦の影響が今も人の中で生きている気がしました。

例えば、旧伊勢西街道のすぐ近くに、明らかに塚のようになっている所があります。
今はその地に新しい方が住んでおられるので、写真はひかえますが、移動したり、壊したりしてはいけない、大切にしていかないといけないと、昔から地元の方々で語られています。
いつ頃から言われているかは、わかりません。




追記
「しちなんさん」について、「土地改良区」(編集発行 上石津町役場農業振興課/昭和62年12月発行)P31には、「一之瀬の下畑田地内に七なん塚と呼ぶところがある。一つの森をなしていたと伝えているが、群集墳としては見あたらない」と書いてあります。

こんにちわ!

雪が降りました

写真_R



午前中は、さほど寒くなく晴れていたのですが

午後から急に降り出しました

路面には積もっていませんが所々積もり始めました

なんと最悪なことに、今日タイヤを交換するつもりでした

今頃おせーよ、関ケ原なめんな!と思われる方沢山いらしゃると思います。

反省しております

「雪降ったら電車で通えばいいや」

とココロの中で思っていたこと、神に見透かされた気分です

今日は超安全運転で帰りたいと思います

                      書き手:ミッチー

上石津(大垣市)の牧田から勝地峠まで残っている伝承④

桑原家がある住宅一帯の地区から、上石津中学の方に抜ける道、旧伊勢西街道のルートはわかりづらいです。
下の写真の舗装された道路を、私は伊勢街道と誤解していました。
後にブログで紹介する萩永次郎さんに聞くと、そうではありませんでした
次の写真、急な坂を駆け上がっていく道が、伊勢街道です。現在は林道のような状況です。

関ケ原合戦 島津退け口 無名兵士の墓 大垣市上石津町一之瀬
上の写真は萩永さんご夫婦の家から、桑原家方面に下る道。北西から東南方面を見る。
自動車でこの道の先、道なりに行くと、川を越え、中学校に出ます。
その突き当たりを右に曲がり道なりに行くと、勝地峠に出ます。
この道は車は通れますが、伊勢街道ではありません。


関ケ原合戦 島津退け口 無名兵士の墓 大垣市上石津町一之瀬
左の写真の坂が伊瀬街道であった道です。島津隊は、徒歩か馬で駆け上がっていきました。
登り切った先、歩道として整備はされていないので竹が倒れているなど、少し歩きづらいですが林の中を抜けると上の写真の、道なりに行った先に合流します。
目印に境界を示すコンクリートの柱が立っていて、何とか道をたどることはできますが、わかりづらいのと、歩きにくいので、おすすめは出来ません。


 この道の先、少し入った所に住んでいる、70代の萩永さんご夫婦にお話を聞くことができました。
 なおこの付近は萩永の名字の方が多いので混乱します。
「上石津(大垣市)の牧田から勝地峠まで残っている伝承①」のブログで、話を聞いた女性の方とは別の方です。

 萩永さんご夫婦のまわりの土地は代々、段々畑などの畑がありました。
 その中で一つだけ、昔から家の裏に竹林の所がありました。
 その竹林の中の、祠についてのお話です。

 この祠の下に、合戦の時にここまで生き延びてきた兵士が埋められ、弔ってあるそうです。
 合戦の頃、萩永さんご夫婦の家より少し下った方に住んでいる方で、この辺りではお大尽(だいじん)というか、お金持ちの方がいた。
 西軍の兵士が逃げてきた。
「頼むからかくまってくれ」
と言われ、お金をもらって、
「いいよ、いいよ」
とかくまった。
 その後東軍が来て、
「落ち武者がこちら辺りまで逃げて来ているから、お金を払うので教えてくれ」
ということで要請された。

かくまっていたその人は、
「裏にいるよ」
と、教えてしまった。
 兵士を捕まえようとすると、家から出て、この竹林まで逃げてきた。
 いよいよ行き止まりになって逃げられなくなり、斬り合いになった。
 兵士は敗れたが、白竜大明神(はくりゅうだいみょうじん)のお守りを持っていて、切られて死ぬときに、悔しさのあまり、そのお守りを口にかみながら亡くなった。
 その後、その家に不幸なことが続いて、知らせたことを後々に後悔し、竹林の祠とは別の所にお地蔵さんを建てたということである。

 萩永さんご夫婦で夫の方は、ここの祠の御神体(ごしんたい)は、尻尾のない白竜さんだと、おじいさんに教えてもらったそうです。
「白竜さん」と土地の人たちは言っているが、ようするに足の生えた白蛇のことだそうです。
 萩永さんご夫婦で夫の方は、見たことはないが、なぜ尻尾がないかというと、落ち武者が殺されたことで、尻尾がなくなって蛇にもどったというのである。

 なお60年以上前、ここの竹林は、釣竿を作るのにもってこいのしなりがいい細い竹であると聞いて、萩永さんご夫婦で夫の方は、まだ小学生の4年から6年生ぐらいの頃、同じ年頃の友人と竹を切りに行って切ったところ、二人とも腹が痛くなって転げまわるぐらいになった。
「えらい、ばちにあたったんだ」と、祠に塩を持って行って、おじいちゃんおばあちゃんが謝っておはらいなどしたら、腹痛はおさまったそうです。
 いまだにおなかが痛くなるようなことがあったら、この時のことを思い出すそうです。
 萩永さんご夫婦で夫の方は、若いとき、関ケ原に住んでいて、当時笹尾山周辺に無縁仏の五輪塔がたくさん置いてあったというお話も聞かせて頂きました。
 この地では21世紀になった今も、合戦の頃の伝承が生きているという印象を持ちました。
 別れる間際、萩永さんご夫婦で夫の方は、孫が遊びに来ると、この言い伝えのお話をすると力強く言っておられました。


地図は祠がある場所です。

大きな地図で見る
お許しを得てこの祠を見に行きましたが、見に行く場合は民有地であることを何とぞお願いします。


 下の写真はお話しいただいた、竹林の中の祠。萩永さんご夫婦で夫の方は、小さい時は祠はなく、石だけであったそうです。
 外から戻ってきた時、現在のように祠がきちんと作られていたそうです。
関ケ原合戦 島津退け口 無名兵士の墓 大垣市上石津町一之瀬
祠の中の板に、「龍石大神」と書いてあります。



 なお亡くなった兵が、「白竜大明神」のお守りをもっていたというので、薩州(今の鹿児島と宮城県の一部)の方で、白竜を祀っている神社がないか調べました。
 合戦があった慶長5(1600)年に存在して、白竜を祀っている神社は日本各地にありますが、たくさんあるというわけではありません。
 宮城県日向、諸県郡高原町(もろかたぐんたかはるちょう)に、霞(かすみ)神社という神社があります。
 この霞神社の近く、霧島山は山岳信仰の中心として長く信仰されてきました。
 霞神社はこの山麓にあり、霧島山で修行するものは霞神社に詣でていました。
 この神社に昔から岩の間に棲息していると言われた白蛇は、この白蛇を見ることができると良いことがあるという言われがあり、今も参詣して探す人が絶えないようです。
 この霞神社のお守りであることが、考えられます。

 なお霞神社は、豊久の領地の佐土原に近いですが、島津本宗家の領地でした。
高原町のホームページには、義弘の領地であったこともあると書いてあります。
島津隊は義弘をしたって、はるばる関ケ原まで来て参戦した兵士が多かったと言います。



 周囲の竹林は現在、タケノコを取るために鹿が来るのを防ぐため、トタンなどで柵を作っています。
 毎年、たくさんの被害があり、困っているそうです。

 大垣市上石津町の殿垣外で出会った方に、「一之瀬で島津の関係を調べているのですが」と聞いたところ、このブログで紹介している祠の地の近くに土地を持っている方でした。
 萩永さん夫婦に話していただいた同じ祠の話が出てきました。
 その方の名前は聞かなかったのですが、「父から聞いた話で、兵士は何人もここで亡くなって、埋められている」と伝わっているそうです。
 なお祠のある近くまで住民の土地ですが、祠のある塚のように少し盛り上がった10m四方の土地は誰の土地でもないそうです。
 このような出来事があった土地だからと思われます。


関ケ原合戦 島津退け口 無名兵士の墓 大垣市上石津町一之瀬
萩永さんご夫婦と大垣市上石津町の殿垣外で出会った方にお話しいただいた竹林の中の祠。

上石津(大垣市)の牧田から勝地峠まで残っている伝承③

一之瀬には、国指定の重要文化財、桑原家住宅があります。

桑原家は天文14(1544)年に、伊勢の阿下喜城(三重県いなべ市)から一之瀬に移り住み、信長や秀吉につかえ、関ケ原合戦の時には中立を保ちました。
合戦後は、尾張藩の在郷武士として返り咲きました。
残る家は今でも、「戦国の世を物語る別世界」を感じさせます。

関ケ原合戦 島津退け口 無名兵士の墓 大垣市上石津町一之瀬 桑原家住宅
桑原家住宅

桑原家は、合戦の時、西軍に加わった竜野城主、石川紀伊守の一子、太郎八を預かって育て、後に太郎八は家康に仕え、一万石の城主になります。
桑原家はそのため、尾張藩の在郷武士として返り咲くことができたそうです。
(「上石津 道をたずねて~歴史と文化のかくれ里(編集・発行 上石津教育委員会)」P14を参照)
なお竜野城は、他では龍野城とも表記されている所もあり、兵庫県たつの市龍野町にあった城です。
太郎八は幼名で、石川光忠(いしかわみつただ)になります。


旧国道365号の道より桑原家に至る道は、途中まで旧伊勢西街道で、コンクリートで岸壁を固め、「関谷」という地名がつけられた細い川が流れています。
桑原家に至る道は狭く、その景観は歴史を感じさせます。

川は過去に何度も氾濫したと、表示板にあります。
川沿いに祠が3か所あり、一見して氾濫に関係して作られたと思っていました。
特にきれいにされている祠に、隣接した家に住んでいる方に、お話を聞くことができました。

関ケ原合戦 島津退け口 無名兵士の墓 大垣市上石津町一之瀬
義母から受け継いで守っておられる祠

聞いた方は70歳以上の婦人で、小さいころから祠はあって、いつ頃からあるかはわからない。
嫁いできた先の自分の義母が、お地蔵さんがみすぼらしい感じであったので、宮大工に頼んできれいに祠を作り直した。
その後、義母からは
「私が亡くなった後は、形見と思って大事に守って欲しい」
と言われ、
「毎朝お花と、お経をあげている。可能な限り続けていきたい」
「この祠のおかげで元気に長生きができます」
と言っておられました。



前回のブログでお話を聞いた萩永さんによると、この辺りのお地蔵さんは桑原家が作ったものが多いのでないかということでした。
桑原家は大垣市ホームページによると、
「村内では賄庄屋も兼ね、植林を奨励し用水路引き田畑の開墾を始めました」
ということなので、領地内でも村人の信頼が厚かった方でした。

明けましておめでとうございます

明けましておめでとうございます!!


今年も関ケ原笹尾山交流館をよろしくお願い致します


今年の仕事始めは雪かきから始まるのではないかと連休中に思っていましたが


幸いにも雪のかけらもありませんでした


昨年は、カメムシが大量に発生したこともあり、大雪になるのではないかと


予想していましたが、とりあえず良い意味で裏切られてホッとしてます


しかし、昨年の夏みたいな異常気象で関ケ原の天気も変わりつつあるのでわないかと感じています


いつ大雪が降ってくるかもわかりませんので


関ケ原にお越しの際は、暖かい格好はもちろん雪の対策をしてきてください

                                    
                                    書き手:ミッチー





上石津(大垣市)の牧田から勝地峠まで残っている伝承②

前回ブログで紹介した本「かみいしづの地名」の中から、一之瀬(いちのせ)地区(大垣市上石津町)に残る関ケ原合戦の伝承について紹介します。

一つは一之瀬下畑田に、七難塚(ひちなんつか)という地名があり、「島津の落武者の遺跡と伝えられ、大きな石があり、かかわると7つの難を受けると伝えられてきた」「昭和50年(1970)の圃場整備により、祈祷して、供石二つが一本橋の地蔵堂に祀られている」とあります。


この地付近で畑仕事をなさっていた、もうすぐ85になるご婦人、荻永さんに、たまたまお話を聞くことができました。
この地の江戸時代の領主は桑原家で、家来はすべて萩永という姓で牧田川の西側に住んでいました。
現在もこの地の周辺に、萩永という姓の方はたくさんおられます。



萩永さんが聞いてきた内容ですが、古くから「しちなんさん」と周辺住民には呼ばれていた塚があったということです。
塚と言われるように、周囲よりこんもりと盛り上がり、椿の木がたくさん茂って林のようになっていました。
萩永さんは中はわからなかったと言っていたので、近くに居ても直接見ることは避けていたかもしれません。
当時はこの地周辺は現在のような平たん地ではなく、畳2畳ぐらいとかの小さな畑がたくさんある、地形が複雑な地でした。
用水も複雑に流れていました。



関ケ原合戦のとき、7人の武者が逃げてきて、塚の近くを流れる牧田川を渡った向こう側、川岸に住んでいた方に、「かくまってくれ」と頼み、山の方に隠れていました。
ところが頼まれた方は、山を持っていて当時は村の上役であったと思われますが、その後東軍側に知らせ、この武者が全員捕まって斬られます。
捕まった時、知らせた人に「7代後取りをやらん」と、後ろ手に引かれていくときに恨んで言いました。

こうした経緯があったので、古くからみんなできれいにし、またいつも椿(つばき)が咲いていたそうです。
大事に祀っていたので、子どももそこに「おしっこをしてはいけない」と言われていました。
また木もきれいに生えていたので、付近の方により手入れはされていたのではないかということです。

捕まった7人が埋められ、弔われているのが「しちなんさん」があった場所です。

萩永さんのお話では、知らせた方は6代にわたり子どもが生まれなくて、ずっと養子をもらっていたそうです。
7代目になってようやく子どもが生まれますが、しっかり働いていたものの、病んでいたそうです。



「新修上石津町史」に入っていた江戸時代、1841(天保12)年の市之瀬村絵図(愛知県図書館所蔵)には、同じ場所に字「森 七男田」とあり森のような絵が書いてあります。
市ノ瀬は、現在は一之瀬です。
「新修上石津町史」では、「市之瀬」「一之瀬」の両方が使われています。
「七男田」は、「しちなんでん」とも読めます。

上記の話を整理すると、亡くなったのが7人か、七代後まで影響を受けたのか、また7つの難があると考えられていたか、「7」という数字が共通していますが、これらはどれが元々の話かわかりません。
伝承される中で、話が変わっていったことも考えられます。

「7」は「しち」、「ひち」とも読めますので、「かみしづの地名」の「ひちなんづか」、萩永さんが伝承として聞いてきた「しちなんさん」の違いがありますが、絵図の場所と合せ、これら三つは同じ起源に基づくものと判断されます。
※上記、一之瀬村絵図は愛知県立図書館にてダウンロードできます。
http://www.aichi-pref-library.jp/gazou/search/oldareaname/

他に伝承に詳しそうな方がいると聞きましたので、また確認してみたいと思います。

七難塚、「しちなんさん」の場所は以下のところです。

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関ケ原合戦 島津退け口 無名兵士の墓 大垣市上石津町一之瀬
七難塚、「しちなんさん」があったと思われる場所。今は整地され、昔の面影はありません。


他に塚がきれいに整地された、同じく今から40年ほど前、昭和50(1975)年4月、それまで3か所に分かれていた中学を統合させ、上石津中学(大垣市上石津町一之瀬100)ができました。


勝地峠に抜ける道沿い東南側に、この中学校用地はあり、この麓まで行きついた兵士が自刃したと言われ、その墓が数基ありました。
この墓の前を通ると、よく転ぶと言い伝えられてきました。
(「上石津における関ケ原合戦と島津軍の背進 総集編(辻下榮一編者)」P23から引用)

これら牧田川の西岸にあった墓は工事を契機に、一つに合わさって合祀されることになり、川西にあるこの地区の共同墓地に合祀碑を作りました。

「上石津 むかしのくらし(上石津町教育委員会)」の本には、「薩摩兵児(へこ)の墓」と書いてあります。
兵児とは、鹿児島15歳以上、25歳以下の兵士のことを言います。


関ケ原合戦 島津退け口 無名兵士の墓 大垣市上石津町一之瀬
碑の裏には、「この碑は上石津中学校敷地内にあった数基の無縁仏合祀碑です」と書かれています。


関ケ原合戦 島津退け口 無名兵士の墓 大垣市上石津町一之瀬
写真は、共同墓地の方に上がる道。上がりきって右側に碑があります。

合祀碑がある場所は下記の通りです。

大きな地図で見る


萩永さんにお話を聞く中で、第二次世界大戦の話を聞きたいということで、孫が来られてお話をしたことがあると嬉しそうに語っておられました。
関ケ原合戦の伝承を知っている方も高齢となって、しだいに話す人、伝える人が少なくなっているのを実感します。
伝承のすべてが真実であるかどうかは別に、戦について、当時の社会や人についてなど、知る機会を与えてくれます。

上石津(大垣市)の牧田から勝地峠まで残っている伝承①

関ケ原合戦の勝敗が決まり、ほとんどの兵は東軍から逃れるため西方面に敗走していきました。
島津隊だけ、東軍が布陣する東南方面に向かいました。

島津のお話に少しかたよっていますが、今少しお付き合いください。


すでに戦場に残っているのは島津隊のみ。
島津は東軍と入り乱れて乱戦になる中、家康がいる方面に向かい、さらに豊久が奮戦したという伝承がつたわる烏頭(うとう)坂を越え、大垣市牧田上野の方まで来ます。

関ケ原合戦 島津退け口 島津義弘 大垣市上石津町門前
関ケ原から牧田を経て伊勢・尾張まで通じる伊勢街道。
この地周辺では牧田街道、九里半街道とも言われていますが、南宮山の北側、中山道(古くは東山道)に劣らない重要な街道として江戸時代は栄えます。




この道は南宮山系の南側にあり、前日の午後7時から大垣城を出発した西軍が、石田隊、島津隊、小西隊、宇喜多隊の順番に、関ケ原方面に進軍した途中の道です。
なお東軍は、関ケ原方面から見ると左手、南宮山系の北側を、丸山(勝山とも呼ばれます)付近から進軍して関ケ原まで来ます。



烏頭坂は、「上石津の地名(平成22年12月)発行 大垣市上石津文化財保護協会」によると、「南方から見て、鳥(う)の頭のように見える地形からか。両側が高く切り込んだ道の意か(秋田、鹿角郡)伝承話、おとうの殿からきた名か」と書かれています。
ここには豊久の事については書かれていません。
同書には烏頭山という地名もあり、「両側が切り立つ洞のような坂の意か」とあります。


同書によると、烏頭坂と上石津上野の間にある門前地区の地名に、「小尾谷(おびだに)」と「小屋谷(こやだに)」という谷があり、この二つの地名にはそれぞれ、「関ケ原合戦の残党が、山中に洞穴を掘り居住していた」という伝承が残っています。
具体的にどの場所かは、同書には書いてありません。

なお偶然に、「上石津の地名」の編集に関わった方にお話を聞いたことがあるのですが、この周辺には何かの言い伝えがあると、「関ヶ原合戦の」ということで、関ケ原合戦に結び付けられやすい傾向があるので、と言われていました。
このすぐ付近で、日本史上最大の決戦がなされたのですから、無理からぬことのように思われます。

関ケ原合戦 島津退け口 島津義弘 大垣市上石津町門前
街道の往年の雰囲気が残る



この先、島津は二方向に別れたように考えられます。
一つはそのまままっすぐ行き、養老山地の東を南下するために右に曲がって、乙坂(おつさか、大垣市上石津町)付近で牧田川を渡り、伊瀬東街道方面、現在の県道56号(南濃関ケ原線)に近いルートを行く。

もうひとつは養老山地の西、伊勢西街道を南下するルートで、上野からすぐに藤古(ふじこ)川に向い、川を渡ります。
現在の国道365号線に近いルートで、萩原(おぎわら)橋を渡り、荻原地区を抜け、さらに現在の国道365号の旧道沿いに進み、険しい勝地峠に向かいます。


荻原地区在住の九里半街道に詳しい方に聞いた所、荻原地区の現在の国道の橋、荻原橋ができる前に、道沿いに三つの石が置いてあったそうです。
この辺りには、島津隊が退却する中、亡くなった兵を弔ったと言われる石や五輪塔がいくつか置いてありました。
これらは無名兵士の墓です。
島津は敗れた側であったので、名を刻むことを遠慮したように考えられます。


この石は現在、道路ができるにあたって近くにある地区の共同墓地の方に移転させられたそうです。
石や五輪塔は、当時住んでいた村の住民が置いたのか、あるいは江戸時代中期、宝暦年間の頃、薩摩から御手伝普請の名目で、たくさんの薩摩藩士が来ます。
この時、同じく薩摩から来て150年ほど前、亡くなったご先祖を弔って置いていったようにも考えられます。


関ケ原合戦 島津退け口 島津義弘 大垣市上石津町一之瀬
旧国道365号線、一之瀬橋付近の堤防より、山沿いを見る。島津隊の一部が退却した伊勢西街道は、霧がかかっている山の麓に川沿いにあった。合戦当時は橋はない。


関ケ原合戦 島津退け口 大垣市上石津町一之瀬
上の写真と同じ場所から、やや左の方を見る。撮影した日は雨が降り、合戦当日もこのように霧がかかっていたことが想像できます。

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