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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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関っ娘♡~ゆるかわリポート~おまけ篇~

こんにちは ヽ(^0^)ノ
先日、明神の森取材に行きました(*゚▽゚*)
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(;゚Д゚) !! ......残念ながら冬季期間中閉鎖していました




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でも、関っ娘のとっても おすすめな絶景スポット なので是非紹介したいと思い
ブログ限定でご紹介致しまーす♡♡♡♡

明神の森は頂上に広い駐車場があり、道は少しは狭い箇所もありますが車で登ることができます

時々可愛いバンビ達がいます!!!!KOKOは途中で遭遇しました(´∀`)てへ

ここが頂上から見える絶景です
まずは昼間の絶景から

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昼間でもとーっても綺麗ですよ (((o(*゚▽゚*)o)))
頂上のところから少し進んだところに展望台などがあります
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最後に夜の絶景ですヽ(・∀・)ノ 
ジャジャジャジャーン━(゚∀゚)━ !!!!
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以上が明神の森の画像です♡♡
画像での紹介となりましたが、実際に見てみると本当に綺麗なので是非ドライブしてみてください

明神の森の地図です↓↓


大きな地図で見る

今日は、喫茶 松さんで取材させていただきます

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奥平家と貞治、家康のつながり その7

貞治の甥、定昌ですが、弘治元(1555)年に生まれ、元亀元(1570)年に姉川の戦いに父、貞能とともに家康に従って参戦しています。

再び新訂寛政重修諸家譜によると、定昌は力戦後、家康と面会します。
「小腕(こがいなと読み、「か弱い腕」の意味)をもって、首級を得しこと其功大なり(手柄をあげたのは、その功績は大きい)との御感をかうぶる(戦功を賞して賞状を与えられたの意味であるが、ここではお誉めの言葉を頂いたの意味か)。」

信昌(定昌)謹で(それに対し定昌は、つつしんで言われた、)
「戦いの道は筋骨の動きによらず。唯其術にこそより候へ(戦いはただ筋肉によって戦うだけではありません。その術(わざ)によって戦うことができました)」と申せしかば、

(家康は)「汝剣法を学びたりや(どんな剣法を学んできたのか)」と御尋あり(おたずねになられた)、
信昌(定昌)「奥山流を学びたり」と答へたてまつる。

「しからば汝が家臣急加斎を師とせるか(それなら家臣の急加斎を師としているのか)。」
いはくしかり(信昌は「そうである」と答えた)。

又仰に余も若かりしとき、其流を学ぶといへども、事繁きがゆへに怠れり(さらに家康は申せられたが、私も若い時に急加斎より学ぼうとしたが、忙しくてできなかった)。

凱旋ののち必(戦いに勝って戻った後に必ず)彼に面会したまはむとの御諚(会いたいと言われた)。



急加斎は新訂寛政重修諸家譜によると、(奥平)貞久(文明7(1475)年亡)の四男のひ孫で、奥平孫次郎公重と称し、甲斐の国(山梨県)で修行し、神陰流の剣術を学び、その奥義を極めた。
その後三河国奥山に来て、一般には奥山急加斎(奥平でなく奥山)と呼ばれていた、とあります。

さらに新訂寛政重修諸家譜に、「(天正)2年10月28日家臣急加斎を岡崎にめされて、剣術を学ばせたまふにより、御誓書を急加斎に下され、11月28日食録をたまひ、御家人にめしくはへらるべしとの御書をたまふ」とあります。
家康は律儀に、定昌に言ったとおり急加斎と会いました。


急加斎という人ですが、いろいろな名前で呼ばれていたようで、「戦国人名事典(阿部 猛/西村 圭子編、出版:新人物往来社)」の奥平久賀斎と同人物と思われます。

戦国人名辞典では、奥平久賀斎は「兵術家」で、上記の経緯により家康「自らも門弟になった」とあります。
天正2(1574)年11月28日付の家康の朱印状が残っていて、家康に奥山流兵術を見せたために、家康に召し抱えられました。



他の資料では急加斎は奥山休賀斎とも呼ばれていて、後々、剣術の流派を作る人を作っていきます。
奥平家は兵術、剣術においても、家康と深い関係でした。





天正3(1575)年2月28日、定昌は長篠城(愛知県鳳来(ほうらい)町)につき、塀などを修理して防御を固めます。
勝頼はしばしば兵を出しますがなかなか攻め落とせません。
5月朔日(1日)あるいは4月21日から、500の兵が守る城を勝頼率いる武田勢1万8千(新訂寛政重修諸家譜)、計算では38倍の軍勢が包囲します。


武田勢は地下や堀など、様々な所から攻撃をしかけますが、信昌(定昌)率いる奥平勢は持ちこたえます。
武田勢をくぎ付けにし、抵抗する中、巧みに武田勢の兵力をそいでいきます。
新訂寛政重修諸家譜の信昌の所に、籠城の経緯が事細かに記されています。


14日、食糧があと4、5日ぐらいとなり、救援が来そうな気配はまったくありません。
城中では降伏の声も出る中、誰が城を出て、救援を求めに行くか議論ばされます。
しかし結論が出ません。
勝頼は城を何重にも囲い、城を出るのは命がけです。

そんな中、鳥居強右衛門勝商(とりいすねえもんかつあき)が自ら進み出ます。
鳥居は身分が低く、普段は百姓をしていたと言われます。

一人で城を抜けだし、定昌の父の貞能と家康に、助けを求めました。
16日、家康と会ったあと、城に戻ってきます。
ところが城に戻る所で捕まります。

見方が助けに来ることを城中に大声で告げたので、磔(はりつけ)になって殺されます。
磔の姿は旗にもなり、逸話として残ります。



18日に家康の兵8千、信長の兵3万が、設楽原(したらがはら、愛知県新城市)に到着します。
この時勝頼は、兵1万3千と言われています。
備蓄食糧が限界に近づいた所で、ようやく信長・家康の援軍が間にあいました。





長篠の戦いは、信長が馬防柵と大量の鉄砲を活用したことで討ち破った戦です。
武田勢に、壊滅的打撃を与えました。
武田氏はこの後徐々に衰退し、勝頼は7年後の天正10(1582)年に自害、武田氏は滅びます。



武田を打ち破ったのは信長ですが、前段階で奥平家が、わずか500の兵で1万8千を相手に籠城したことが、勝利に至る大きな要因となりました。
この功績で、奥平家は家康と信長の信頼を勝ち得て、以後、引き立てられるようになります。
信長は褒美に、貞能の嫡男の定昌に、「信」の字を与えます。
定昌は信昌と、名をあらためます。

この戦は多大な犠牲者を出しましたが、奥平家を明治維新までつづかせる大きな転機になりました。
また奥平の名は一躍、有名になりました。

関ケ原合戦 奥平貞治の墓 奥平家
貞治の墓付近より、貞治が陣取った松尾山方面を見ます。
墓の地をここに選んだのは、貞治の輝かしい戦歴の場所、松尾山が見えるからかもしれません。

奥平家と貞治、家康のつながり その6

貞治の父の貞勝は、貞能が徳川側に着こうと城を出て行こうとした時、制しようとしました。

新訂寛政重修諸家譜では、貞能は自分の弟、
「常勝、貞治等に命じて(、)父(の)道文(貞勝)とともに長篠の方に退き去るべし(逃げるべきである)。

兼約(前もっての約束)によりて今夜の中(、)徳川家より迎の人衆を賜るべきなり(迎えの人が来る)。

猶(なおも)信昌(定昌のこと。この時、数えで19歳)とはかるべしとて(いっしょに来いこうと言って)、其身(貞能自身は)は先(に)妻子家人等を具して(連れて)、作手を退きゆくこと十町ばかりにして(およそ1キロと少し離れた所で)音づれ(到着)を待(つ)。

信昌も常勝等と相談すといへども、彼らがこころいまだ決せざるにより(信昌は伯父の常勝たちと相談するが決められないので)、しからば道文の思慮に任せられ(そうであれば父の貞勝と相談して)跡より返答あるべしとて退き去(後の方からついてこいと言って去った)。

道文このよしを聞て(父の道文はこの経緯を聞いて)大(い)に怒り、これらの事あらむには、かねて告聞すべきに(このように裏切ることは以前から聞いていたが)、心得ざることなりとて(許すことはできないと言って)、速(やか)に人をはせて(早く走らせて)貞能等をどどむといへども(貞能を止めるように言うが)、すでに父子ども退き去しとて城下騒動す(すでに貞能、信昌親子は去って行ってしまったので、城は大騒ぎになった)。」


貞能は自分の子供が犠牲になることを覚悟していたが、貞勝は武田を恐れていたこと、自分の孫などが人質になっていたので、反対したようにも思われます。



親子が敵味方に別れたわけですが、江戸時代後期につくられた新訂寛政重修諸家譜は、嫡男の貞能が、武田側につこうとする父と別れ、子の貞昌らとともに一族で逃げ出す経緯を、上のように情景が浮かぶかのごとく書いてあります。


このようにして貞治の兄の奥平貞能は、武田信玄が死去したことをきっかけに、家中と共に家康につきました。




新訂寛政重修諸家譜では、貞治が徳川、武田、どちら側についていったかは書いてありません。
貞治の兄、常勝は武田側について亡くなったのと、その後の奥平家と貞治の経緯をみると、生き残った貞治は徳川についていったと考えられます。


奥平家としては徳川に対し、再び忠誠を示すようになった重要な場面であったので、強調しておきたかった所です。
結果を見れば奥平家が明治まで続くことになる、大きな決断となりました。



貞治についてですが、兄の貞能はこの時37歳、主君として決断し、様々な影響力を周囲に与えていますが、貞治はこの経緯を見ると自らの判断で動くことはできなかったようです。



この少し前、家康は天正元(1573)年8月20日に、奥平家の貞能父子に対し、自分の長女、亀姫を貞能の嫡男、貞昌(後の信昌)と結婚させることを起請文で約束しています。
奥平家として、家康と姻戚関係を作ることができるのは、願ってもないことです。

亀姫は、家康の最初の妻、築山殿の娘で、嫡男信康が兄です。

起請文は「きしょうもん」と読み、
「起請の文書。前書・神文シンモン・姓名を記し、神文は「梵天帝釈・四大天王・総日本国中六十余州大小神祇・別伊豆箱根両所権現・三島大明神・八幡大菩薩・天満大自在天神、部類・眷族、神罰・冥罰各可罷蒙者也。仍起請状如件」などのように掲げて、もしこれにたがう時は神仏の罰をこうむる旨を記す。誓紙。誓詞。誓書。」(広辞苑第五版より引用)の意味。


同年9月10日には、家康は武田方の長篠城を攻めています。
攻められた側の勝頼は、信玄の遺言を守り、応戦しなかったので家康に奪い取られています。(「クロニック戦国全史(講談社)」参照)



2年後の天正3(1575)年、信玄の死後、しばらく控えていた勝頼は再び信長・家康の領土を脅かしはじめます。
家康は武田氏より奪っていた長篠城を、貞能の嫡男、貞昌に城主に命じ、守らせます。
貞昌(後の信昌)は1955年生まれ、21歳の時です。


貞昌と亀姫の結婚は、信玄の死後、奥平家を家康側につけるための政略でしたが、実際の結婚は天正4(1577)年です。

約束した結婚が遅れていたので、信長の催促があったと言われます。
家康は亀姫を、できるだけ手元に置いておきたかったのでしょうか。
「日本の戦史2 三方原の戦い・長篠の役」P221によれば、亀姫の同母兄の信康が反対していたとあります。

亀姫の同母兄の信康は、その2年後の天正7(1579)年、信長の命で自害させられています。
また亀姫の母、築山殿はやはり信長の命で、同年信康より少し先に、家康の家臣によって殺されました。


関ケ原合戦 奥平貞治 奥平家
戦国時代に奥平氏の拠点であった作手(つくで)村(現在は愛知県新城市)から、平成3(1991)年、教育委員会の方が貞治の墓に来られています。
上の写真のように表示板が残っていて、木で作ってあるので読みにくくなっていますが、下記のように書かれています。


愛知県南設楽郡作手村教育委員会
文化財○○(読めません)委員参拝記念
追善 供養 法名 道菊 奥平藤兵衛貞治霊位
戦死 慶長5年9月15日(紀元1600年) 
平成3年11月10日建立

ゆるかわリポート完成しました!!

第1回関っ娘♡ゆるかわリポート動画完成しました
(⁰︻⁰) ☝ここをクリック



第1回目はヤギ工房 may!may!さんです

アイスめーちゃっ美味しかったです 

初めての撮影でとっても緊張しました(;_;)
これからももっともっと勉強して、全国の皆さんに関ケ原の魅力が伝わるように頑張りたいと
思っているので宜しくお願いします

ぎこちないですけど、見て頂けると嬉しいです


ヤギ工房may!may! HP
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10時~17時(11月~3月は~16時30分)
Tel 0584-43-2583





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奥平家と貞治、家康のつながり その5

新訂寛政重修諸家譜に詳しいので、ここより紹介していきます。


貞能は、家康側に寝返ったといううわさがあるがと問い詰められ、答えます。
「かかる時節には人口區々(「くく」と読み、ばらばらでまとまりがないことの意味)にして、父は子を疑ひ子は父を疑う。
しかれども先に人質をたてまつるのうへは、何の二心かあるべき」
二心とは、心の中に二つの心、裏切る心のことです。

文章の意味は、
「このような時代、世間のうわさはいろいろなあるし、父は子を疑ったり、子は父を疑ったりする。
しかしすでに人質を預けている以上、謀反をするような気持ちを持っているはずがない」

武田信豊は、障子を隔て隣の部屋から貞能の態度をうかがい、さらに対面し、問い詰めます。
貞能の心に二心がないか試すため、碁を囲みます。
武田側は、もし貞能に心が乱があって碁の打ち方に影響が出れば、討ち取るつもりでいました。
貞能は疑いを次々に乗り越え、居城の作手に戻ることができました。

 

奥平家の居城ですが、武田側についているため、本丸は武田方の甘利三郎四郎某に奪われていました。
奥平家は二丸に住んでいるので、貞能は二丸にもどります。

疑いは晴らされていないので、さらに追及にあいます。
「一族等の人質をすみやかに本丸に入れるべし」

貞能はこの日、城を退いて家康側に行くつもりだったので、「うけたまはりぬ」とのみ答えて、7人の族、5人の家老等に静かに雑具を運ばせます。
貞能は、
「たとへ(もし、)信豊より由来るの事ありとも、あへてこれに応ぜずして(、)物静かに集(ま)りゐて、我下知を待(つ)べし(私の指示を待ちなさい)」
と言って、冷静に対応するように家臣に指示をしました。



新訂寛政重修諸家譜に退く経緯が書かれ、その中で貞治の名前が出てきます。

「時に土屋右衛門尉昌次(は)今宵(今夜は)はたして貞能がはしりさらむこと事を察し、與力(よりき)の士(、)小笠原新彌某草間備前某をして、二丸に来り、其挙動うかがはしむ(その動きを調べさせる)。
貞能わざと寛に語り、或は引てともに浴室に入、又は酒食を設けてこれを饗し、さらにうたがはしきことなかりしば、二人心を安じてかへりさり(安心して帰った)、人質もまた明朝送るべしと本丸よりいひ来る」

「ここにをいて常勝(貞能の弟)貞治等に命じて父道文(貞勝)とともに長篠の方に退き去べし。」
新訂寛政重修諸家譜の奥平の頁で、貞治本人の記述箇所以外、貞治の名前が出てくるのはここだけです。

なお貞治の兄、常勝は、新訂寛政重修諸家譜によると、この時貞能と一緒に逃げなかったためか、「武田家に志を通じるにより死をたまふ」とあります。




甲府(山梨県)にいる奥平家の人質は、貞能の「二男仙丸及び一族奥平久兵衛貞友(さだとも)が女(の娘、長女とされています)、奥平周坊勝次が男(の息子)虎之助」とあります。
天正元(1573)年9月21日、勝頼の命で3人はとらえられ、三河国鳳来寺(ほうらいじ、愛知県新城市)の前で磔(はりつけ)になりました。
仙丸はその時14歳でした。




新訂寛政重修諸家譜によれば、貞友は貞勝の弟で、その娘は貞治、貞能にとって従姉妹になります。
奥平の家臣、黒屋甚九郎重吉は若い仙丸についていくのですが、仙丸が磔になる時、
「君は幼稚なれば最後の事覚悟あるまじ(若いからまだ、覚悟できないだろう)、某(なにがし、ここでは私の意味)を手本とさらるべし(私を手本として自害なされたい)といひて自殺す」とあります。



なお参謀本部編纂の「日本の戦史2 三方原・長篠の役」P223、P224には、人質になったのは仙丸以外に奥平一族の奥平藤兵衛の娘、於阿和(おあわ)とあります。
引用は、「武徳編年集成」からと思われます。
お墓などから、奥平藤兵衛は貞治であることは間違いないので、上の記述では亡くなったのは貞治の娘ということになります。
本当なのでしょうか。

「日本の戦史2」は二説の立場で、上記のあとに「一説によると、仙丸(14歳)、奥平久兵衛の娘おふう(16歳)、奥平周防の子虎之助(16歳)の3人が殺された」とあります。
奥平家譜引用とあります。


新訂寛政重修諸家譜によれば、亡くなった女の父は貞友、初名は久兵衛とあります。
新訂寛政重修諸家譜と奥平家譜の記述が重複していて、奥平家譜の方がさらに詳しいのですが、この場合、奥平家の記述を良しとするのが基本と思います。
そのため、亡くなった女が貞治の娘と言うのは間違いのように思われます。





家康の元につくと決断していた貞能は、急ぎ家中の者をつれて城を出ます。
武田勢が追跡しますが、鉄砲を放って退け、かねてからの約束通り家康のもとに合流します。


貞能は人質を失うことを覚悟し、家康側につきました。

そこまでして自分の元に来た奥平家に対し、このあと家康は、貞友の長女が犠牲になったことを憐れみ、家康の異父弟、松平隠岐守定勝(久松)の元に、人質であった娘の妹を、嫁に行かせています。
久松は1560年生まれ、家康は1543年と、歳が親子ほど離れています。
人間関係の機微に触れるはからいに、家康らしさを感じさせられます。

関ケ原合戦 奥平貞治 奥平家 松尾山
福島正則が着陣したと言われる井上神社(関ケ原町松尾)の裏手から、貞治が居た松尾山方面を見ます。
関ケ原合戦で正則の陣跡とされている所は、養嗣子の正之が着陣し、正則はもうすこし後ろ、井上神社の門あたりにいたといわれています。
福島隊が小早川隊に、参戦を催促するため鉄砲を放ったと言われているのは、この付近です。
※養嗣子は「ようしし」と読み、養子の後継ぎの意味。



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写真を撮った場所

奥平家と貞治、家康のつながり その4

もうすこし、貞治のことを知るために奥平家のことを見ていきます。

奥平家は新訂寛政重修諸家譜に書いてある伝承によると、村上天皇(在位は平安時代の946~967年)の具平(ともひら)親王の後裔(こうえい、かなり離れた昔の子孫の意味)、赤松氏の二男が、秩父の児玉氏の婿となって入り、家督を相続します。
その子孫が、上野(こうずけ)甘楽郡(かんら)奥平郷(現在の群馬県多野郡吉井町下奥平)に居住し、奥平と称するようになります。

その後、奥平郷を去り、三河設楽(みかわしたら)郡作手(つくで)(愛知県南設楽郡作手村)に来ます。



勢力が弱かった奥平家は、今川家について生き延びようとします。
貞勝(さだかつ 1512~1595年、貞勝は、貞能と貞治の父)が19歳の時、享祿3(1530)年、家康の祖父、松平清康に従って戦功をあげています。
また永禄2(1559)年、今川義元のために大高城に兵糧を届けています。
この年は桶狭間の戦いの前年、家康は18歳、今川の元、駿府(すんぷ)に居ます。
家康は今川氏を通し、奥平家のことを知る立場でした。
永禄3(1560)今川義元は桶狭間の戦いで、信長に討ち破られています。
家康は今川の元で戦い、織田方の砦を攻め落とす功績をあげます。
義元が討たれたのを知り、家康は自分の城、岡崎城に12年ぶりに主君として戻ることが出来ました。
(「別冊歴史読本 徳川家康 天下人への跳躍(発刊;新人物往来社)」の小和田哲男著「新・図説家康実記」P39他を参照。


永禄5(1562)年、家康21歳の時、清洲城で信長と会って、同盟関係になります。
家康と信長の同盟関係は、生涯続きます。



こうした中で、永禄7(1564)年、貞勝は弱体化した今川氏から離れて家康につき、子の貞能もそれに従っています。

なお貞能は、さかのぼること天文17(1548)年、11歳の時に貞勝の指示で人質になっています。
そして弘治2(1556)年には、貞能は貞勝と対立して今川氏に反旗を翻しています。
(「戦国人名事典」P269参照、出版:新人物往来社)
父子で、敵味方になったということです。
今川氏に貞能はとらえられ、父貞勝の願いで、配流(はいる 辺境地や島に送られる刑罰の意味)をまぬがれました。



奥平家は、信長・家康と浅井・朝倉とが戦った元亀元(1570)年の姉川の戦いで、家康側にて参戦しています。
この時、貞能は手勢を率い、朝倉景勝の隊に突入、91の首級をあげたと、新訂寛政重修諸家譜に記されています。


しかしその後元亀3(1572)年、二俣の城を勝頼に攻略されます。
奥平家はいやおうなく、信玄率いる武田氏を恐れ、従うようになります。



天正元(1573)年、突然武田が三河から甲斐に帰り、一度に事情が変わります。
奥平家の当主貞能は、信玄が亡くなったのでないかと察知し、同じく察知した家康の働きかけもあって、武田側から家康側に内応をします。
もともといやおうなく武田についていたが、信玄の子の勝頼に、大将の器はないと見たこともあります。
「内応」とは、ひそかに敵に通ずること。裏切りの意味です。(「広辞苑第5版」引用)


貞能は家康に内応することを決めていたのですが、人質として子どもや、奥平家の者が取られていました。
そして武田側に、武田を裏切って家康側についたのではないかと、疑がわれます。
勝頼の従弟、武田信豊(のぶとよ)に呼び出しを受け、家臣わずか10人でその疑いを晴らすため、出向かいます。

関ケ原合戦 奥平貞治 奥平家
奥平家の幟(のぼり)

奥平家と貞治、家康のつながり その3

墓の隣の碑は、墓ができた経緯と別に考えられます。
その理由は、碑に「岐阜県不破古蹟保存会長 升田憲元建之」とあるので、子孫が建てた墓とは異なり、公の、別の意図で建てられたのでしょう。


他の関ケ原合戦由来の碑ができた年と、比較してみます。
以下は「関ケ原町史 通史編上巻」からの引用です。



大正8(1919)年3月に、この碑ができました。
「建之」は「けんし」と呼び、「建立」と同じ意味で、「これ(之)を建てる」という意味です。

大谷吉継の碑が、昭和15(1940)年9月15日、建之は「関ヶ原古跡保存 会 長 升田憲元」。

阿多長寿院の碑が大正9(1920)年4月、建之は「不破古蹟保存会長 升田憲元」。
島津義弘陣所跡碑が紀元2600(1940)年9月15日、「関ヶ原町町 川崎好一識」とあり、「識」は記した者のことです。
建てたのは、碑に「三州人仕」とあり、薩摩(鹿児島県と宮崎県の一部)の有志の方です。

平塚因幡守為広碑が、昭和15(1940)年9月15日、「平塚家八代目勘兵衛為忠二男平塚定二郎建之」とあり、建てたのは平塚家の方です。

島津中務大輔豊久之碑が大正9(1920)年4月、建之は「不破古蹟保存会長 升田憲元」。

陣場野公園内、徳川家康最後陣地にある床几場土壇銘は、江戸時代の天保13(1842)年にできています。
幕府の命により領主竹中氏が石壇・土塁を築いたものであるとあります。



これら碑の中で、貞治の碑は東首塚にある碑を除くと、最初に作られています。
「関ケ原町史・通史編下巻」(P371)によると、
「(大正)6年には岐阜県保勝会不破郡支部ができ、その翌年には不破郡古跡保存会が作られて、関ヶ原合戦関係の家族を訪ねたり、遺跡に道しるべや墓碑を建設したり、遺跡の私有地の買収を計画したりしている」
とあります。
合戦関係の家族を訪れたとあるので、どんな活動をしたのか興味があります。
関ケ原に時代を隔てて案内掲示が形跡が残されていますが、一番初期のもとと考えられます。

岐阜県保勝会という組織ですが、岐阜県における歴史に寄与した遺跡や古跡、景勝などの保存を目的に作られた会と考えられます。
さらに不破郡古跡保存会が作られ、その事業の中で、貞治の碑ができたのです。



なぜ一連の碑の中で最初にできたか、よくわからないです。
町史を参考にすると、碑を建てる土地の所有との関係で、墓の隣地に建てたので買収する必要性が少なかったため、碑が建てやすかったからではないでしょうか。
他の碑は、用地買収に時間がかかったと考えられます。



現代はその頃と比べると、貞治への関心は低くなったと思われます。
国の事情として当時、国威高揚への意識が高かったことです。

碑が建てられた大正8年ですが、日本は大正7(1918)年から大正11(1922)年まで、巨額の戦費を投入して7万人以上の兵をロシアのシベリアに出兵し、何千人という兵を失っています。
出兵にあたっては、どんな形でするか国内で様々な議論もありました。
岐阜県保勝会という組織ができたのも、こうした時代背景で作られたと思われます。

おそらく関ケ原からも、極寒の地、シベリアに行った兵士もいると思われます。
日本軍を支える一人ひとりの兵に、忠義心を求めた時代でした。
碑にあるように、貞治が徳川家康に仕えて戦ったことに関心が寄せられ、貞治の功績を顕彰することが行われたと考えられます。

関ケ原合戦 奥平貞治の石碑
貞治の合戦での功績を称えている碑。
碑ができた当時の関心も、合わせて知ることができます。

奥平家と貞治、家康のつながり その2

関ケ原町玉地区にある墓に並んで、大正8年の碑があります。
その裏に、
「奥平藤兵衛貞治君徳川家康ニ仕ヘ関ヶ原ノ戦ニ西軍ノ将小早川秀秋ノ松尾山ノ営二在之ヲ監ス戦酣(たけなわ)ナルニ及ビ秀秋未ダ内応ノ約ヲ果サズ君之ヲ促シテ大谷吉隆ノ陣ヲ衝カシム利アラズ君奮戦シテ死ス時二二十八秀秋軍監ノ死ヲ見テ諸将ト共二力戦シ遂二大ニ西軍ヲ破ル此地君ノ墳墓ノ地ナリ今碑ヲ建テテ之ヲ表ス 
大正八年三月 東京帝国大学文科大学教授文学博士 三上参次撰文
岐阜県不破古蹟保存会長 升田憲元建之」
と刻んであります。


「秀秋軍監ノ死ヲ見テ諸将ト共二力戦シ」とあることから、「秀秋が、軍監であった貞治の死を見て家臣と共に戦った」
この記述をもとにすると、秀秋は貞治の戦死を見て、戦意をより高くし、配下の武将とともに戦ったことが想像されます。

この牌に書いてある関ケ原合戦時に28歳というのは、お墓の裏に書いてあったものをそのまま参考に、書かれたと考えられます。




参謀本部編纂の「日本の戦史2 三方原・長篠の役」(旧参謀本部編纂 監修;桑田忠親 山岡荘八 発刊;徳間書店)という本の中に、長篠の役に参加した「氏姓名表」があります。
見ると、奥平藤兵衛定治という名前が見られます。

奥平藤兵衛定治が、奥平貞治と同一人物かということですが、
定治のとなりに、「求馬助」という名前があります。
奥平求馬助は「定治の弟」と記されています。

新訂寛政重修諸家譜に、貞治の弟は貞國、初名に「求馬助」という名前が記してあります。
「日本の戦史2」と「新訂寛政重修諸家譜」を照らし合わせると、奥平藤兵衛定治は貞治と同一人物であり、長篠の役に参加したことは間違いないようです。


長篠の役は、天正3(1575年)年。
貞治の墓と碑に書いてある、関ケ原合戦時は28歳ということから逆算すると、長篠の役の時には3歳となります。
整合性がとれません。
戦国時代、幼くとも戦場につれていくのがあたりまえでしたが、数えで3歳というと、現在の私たちの数え方で言うと2歳、この歳で参戦したとはいえないでしょう。

墓に書いてある28歳で死んだという記述をどう考えればよいのか、いよいよ謎ですが、史料から探索していきます。


関ケ原合戦 奥平貞治の墓
貞治の墓の裏。
文の最後に春秋二十八とあり、28歳で亡くなったと書いてあります。
春秋とは、「年齢。とし」の意味です。

明神の森☆

昨日2月13日明神の森に行ってきました

めっちゃ寒かった~

今日の関ケ原は大雪です

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奥平家と貞治、家康のつながり その1 

以前書いた、奥平貞治についての追記です。


関ケ原合戦で貞治が大谷隊と奮戦したのは、中山道沿いの旧山中村あたりです。

墓は、旧山中村から1.3kmほど離れた北国街道沿いにあるのですが、なぜこの地にあるのかわかりません。
五輪塔は亡くなった場所によく置いてありますが、この墓は後に大正時代に造成されたと思われます。墓石は大がかりで費用をかけているように見えます。
貞治の法名は、江戸時代の寛政年間に作られた新訂寛政重修諸家譜によると、道菊と言います。
墓には書いてありません。


264年も経つと、亡くなった近くに建てる必要性は少ないと思われます。
お墓参りをしやすい場所と、北国街道、玉宿に作ったことが考えられます。
玉宿は当時、北国街道より中山道経由で荷物が運ばれることが多くなったため、以前より寂しくなっていました。
宿として人の往来は、あったでしょう。

関ケ原合戦 奥平貞治の墓


墓の裏に、「裔孫 奥平新左衛門源貞昭」と書いてあります。
裔孫とは、「えいそん」と読み、遠い子孫、末の子孫の意味ですが、新訂寛政重修諸家譜に、貞治は後継ぎがなかったとされています。
264年経って作ったことを考えると、子孫の方に間違いないと思われますが、後継ぎがないのにどうして子孫と言えるのか。
また、どこに住んでいた方でしょうか。


新訂寛政重修諸家譜に、奥平貞治は関ケ原合戦後、家康が貞治に後継ぎがなかったのであわれみ、貞治の母に「近江国のうちにをいて300石の地をたまふ」とあります。
合戦の日、秀秋を押し出した貢献はあったにしても、300石というと相当な石高です。
なぜ家康は、そこまでしたのでしょうか。




褒美をもらう側からすると、合戦は負ければ、命がないかもしれない。
当然、功績にみあった褒美をもらえると期待します。

貞治は個人として手柄をあげたというより、奥平家の一人として功績を上げようと参戦したと思われます。
亡くなって後継ぎがいないので、奥平家に論功をあげようと考えて貞治の母に300石の地をあげたのでしょうが、なかなか出来なるものではないと思われます。家康らしいエピソードです。
東軍として貞治以外に、甥の信昌(46歳)、また貞能の嫡男、家昌(24歳)も参戦し、それぞれ論功を頂いています。
貞治に兄弟は居ましたが、兄は二人とも亡くなり、弟の貞国(さだくに、求馬助)は「子孫尾張家につかふ」とあります。
貞国は家臣として尾張家に仕えていたのか、褒美をもらった形跡は不明です。



家康側からすれば、合戦後の論功は、徳川の世を確立していくためです。
節約家であった家康からすれば、一石の無駄もするとは考えられません。
とすれば、この報奨をどう考えるとよいのでしょうか。



貞治の母は正室でないと推測されますが、近江で300石に居たというのが、これを読み解く一つのカギとなりそうです。
近江は、奥平宗家(奥平家の主流の意味)が居た地ではありません。
すでに夫、貞治の父、貞勝は慶長元(1596)年に亡くなっているので、貞治の母は宗家の近くにはいずらくなっていたのでしょうか。



貞治の母に与えられた300石は、亡くなった女性一人が生きていくに不相応の石高です。
家康は、貞治個人の系統を残しておくことを考えたのではないでしょうか。
家康は、今後長期にわたり徳川家繁栄のため、命を張ってでも忠義にあげむ家臣が、たいへん重要である。関ケ原合戦を通じて、より強くそれを自覚することになった。
合戦に貢献があった貞治を、粗末してはいけない。血筋は途絶えたが、貞治の系統を残しておくことが恩に報いることであり、またいつか、何かの役に立つだろう。
つまり、養子をとってでも貞治の系統を絶やないための300石ではなかったか、というのがここでの推論です。


貞治の母は、貞治が亡くなった関ケ原に近い、近江に移り住んできたとも考えられないか。
養子で続いた貞治の子孫が、先祖を大切にするために墓を建てたとすれば、つじつまが合うように思われます。

近江と言えば、関ケ原合戦で大きな貢献をした井伊直政、井伊家があります。
家康が心から信頼していた井伊家なら、安心して任せられるかもしれないと思ったのだろうか。



墓標の裏に、
「君諱(いみな)貞治源姓奥平氏稱(しょう)藤兵衛関原之役奉 神祖(しんそ)命監筑前黄門秀秋軍攻大谷刑部陣戦死爲(為)實(実)慶長五年九月一五日他春秋二十八 元治紀元龍集(一年のこと)甲子(かっし/干支の組み合わせの1番目のこと)十月 裔孫 奥平新左衛門源貞昭建」

諱(いみな)の意味は 「生前の実名。生前には口にすることをはばかった」「人の死後にその人を尊んで贈る称号。諡(おくりな)」(引用「goo辞書」)のことです。

稱の意味は、「ほめあげる。たたえる」「となえる。呼ぶ。呼び名」の意味です。

神祖とは、「徳川家康の尊称」です。

関ケ原合戦 松尾山 奥平貞治
貞治が居た松尾山頂上から、関ケ原の盆地を見る。



さらに追記です。
上のブログを書いた後、関ケ原町内の私設資料館、関ケ原ウォーランドを創立された、谷口玉泉氏の著「泰平への道 関ヶ原合戦に学ぶ」P40に、「奥平の墓は、後に奥平の一族が土着した玉地区につくりました」とあるのをみました。
貞治ゆかりの方が、墓を作ったときに関ケ原町内に玉地区に住んでいた様です。玉地区は、この墓がある地区です。
別の話で、墓の近所に住む方に、墓の地は奥平の方が所有しているのでないかと聞いたことがあります。土地の方で昔の由来など知っている方がすでに亡くなっている事が多く、確かめることは難しいです。
町役場で墓の土地所有者を確認できますが、未確認です。
いずれ、確かめてみたいと思います。
なお「泰平への道 関ヶ原合戦に学ぶ」は何版かあり、B5判が広く流布していますが、先の文はA4判の大きい書にありました。関ケ原町立図書館に所蔵してあります。

関ケ原町立図書館に所蔵してあります。

中井均先生と行くツアー満席にてありがとうございました

おかげさまで、3月23日のツアーは満席になりました。
誠にありがとうございました。



参加を検討頂いていた方、ごめんなさい。

当日の状況については、このブログでご報告したいと思います。

わざみが原
小早川秀秋の陣跡碑

ユースディ記事 070_R
松尾山から関ケ原を見る





出没予定☆

明日は、晴れたら関っ娘♡明神の森出没予定

第1回ゆるかわリポートは来週くらいにアップしまーす

今頑張って動画編集してます

でゎ、お楽しみにトップ写真02_R


3月23日、中井均先生ツアーの現地確認に松尾山と南宮山に行ってきました③

近年、山城の調査・研究の蓄積がなされ、ファンが増えています。
中井先生に直接会ってお話を聞いたり、講演やテレビ放映などで、山城の面白さに気付いた方は多いと思われます。



三宅 唯美・中井 均編「岐阜の山城ベスト50を歩く」に、三成は合戦からさかのぼること一カ月以上前、8月10日に、大垣城主の伊藤盛正に、長くつかわれていなかった松尾山を再整備するように指示し、城の守備にもあたらせていたと考えられる、とあります。


本当はどうなのか、現地に残る遺構を考えて推理してみましょう。
こうしたことがわかってきたのは、山城の研究が進んだ最近になってのことです。
関ケ原合戦の定説が、現地調査によって変わって行く可能性がまだまだ残っています。




関ケ原合戦 中井均先生ツアー 松尾山と南宮山
秀秋が登った平尾地区方面から登る林道。


次に南宮山に行きました。

車から降りると、同行した旅行会社のツアー担当の方は、リュックを背負っていました。
びっくりして聞くと、「現地確認してきま~す」と、元気にお一人で登って行かれます。



私は先約があるため、残念ながら一緒に登らないで笹尾山の事務所に引き返しました。

お疲れさまでした。
カッコーツアーのホームページには、その時に撮った写真が掲載されています。




毛利秀元跡は、合戦前の9月7日にこの地に着き、9月15日までの1週間、短期間に陣城を構築しました。
合戦前、陣城としては何も無かったようです。


上に登ると、素晴らしい眺めが得られます。
陣跡には、高性能な双眼鏡が置いてあって、利用することもできます。

大垣城をはじめ、岐阜城、清州城方面など、関ケ原合戦に由来がある城、濃尾平野が一望できます。
ぜひ体験してみてください。
秀元の身になって、気づくものもあります。

南宮山の陣跡まで登るに、少し骨が折れます。
みんなで登れば怖くない。



関ケ原合戦 中井均先生ツアー 松尾山と南宮山
秀元参戦を抑えた、吉川広家の陣跡の前。
この日は、近くの不破高校生がランニングをしていました。
左端に見えるのは、吉川広家の陣跡を示す案内板。



関ケ原合戦 中井均先生ツアー 松尾山と南宮山
以前に登った時に撮った、秀元の陣跡から見た写真。
右端にあるのは双眼鏡。カバーを外して無料で使うことができます。
使った後、みなさんカバーを戻されています。



秀元陣跡に登る途中、林に入る前に、安国寺恵瓊の陣跡を示す表示板があります。
実際の陣跡はここになく、東蛇溜池にそって歩き、ややけわしい道を上がった所にあります。
少しわかりづらい所です。
団体で行くには少し無理があるので、ここはツアーでは遠景とさせていただきました。

興味がある人は、中井先生作成の縄張図と解説が、『岐阜県中世城館跡総合調査報告書』の第1巻「西濃・本巣」P124にあります。
他にこの報告書には、関ケ原合戦の関係で長宗我部盛親、大谷吉継の陣跡も掲載されており参考になります。

関ケ原合戦 中井均先生ツアー 松尾山と南宮山 安国寺恵瓊陣跡
安国寺恵瓊陣跡の表示板

一日に山城を二つ登るツアーですので、体力がある方、ぜひご参加ください。
残る席、あとわずかと申し込み担当者に聞きました。

3月23日、中井均先生ツアーの現地確認に松尾山と南宮山に行ってきました②

一般に松尾山は北側、関ケ原町の中心地方面から登りますが、平井からの方が距離は短くて楽です。
中井先生のツアーでは、こちらから登ることにしました。
実際に小早川秀秋も、こちらの方から登ったと思われます。



松尾山は登ると、東西400m、南北250mと、巨大な山城であることが分かります。
曲輪、堀切、土塁など、たくさん残されています。
一歩踏み込むと、その世界に圧倒され、当時を想像すると、わくわくします。

松尾山城は、三宅 唯美・中井 均編「岐阜の山城ベスト50を歩く」に「戦国時代後半の非常に発達した縄張り」と記述があります。
また『岐阜県中世城館跡総合調査報告書』には、西美濃最大級の山城であると書かれています。

関ケ原合戦 中井均先生ツアー 松尾山と南宮山
木が立っているのと、写真では立体感がつかめないので、その壮大さを伝えるのは難しいです。

関ケ原合戦 中井均先生ツアー 松尾山と南宮山
ツアーでは、中井先生のガイドで山城をたっぷりと堪能できます。



個人で登る方にご案内をすると、平井側は公の駐車場がないです。

平井の反対側、関ケ原方面からは、登り口に乗用車数台が停まれる駐車場があり、さらに便利な杖も置いてあります。
関ヶ原を愛する方の心づかいを感じます。

こちらは、字の松尾地区方面から登るためか、松尾口とも言っています。
平井から登るより10分ほど余裕をみれば登ることができます。
健脚な方も、杖を使うと重宝します。

縄張図を持っていくと、さらに楽しめます。
参考文献は二つあり、中井先生作成の縄張図があります。
1.三宅 唯美・中井 均編「岐阜の山城ベスト50を歩く」サンライズ出版P23
2.岐阜県教育委員会『岐阜県中世城館跡総合調査報告書』第 1~4 集で、この第1巻「西濃・本巣」P126


松尾山は東海自然歩道として整備され、案内板があります。
標高293mで、実際に登るのは180m、1時間とかからず、すぐに登ることができる山です。
しかし油断は禁物で、水分補給はぜひ気を付けてください。
また今の季節、ヒルやハチなどはいませんが、季節によっては注意が必要です。

関ケ原合戦 中井均先生ツアー 松尾山と南宮山 松尾口
写真は松尾口に置いてある杖。使い終わったら、元に戻します。


3月23日のツアーでは、下りは関ケ原町中心方面に降ります。
頂上に陣取っていた小早川秀秋が、大谷隊をめがけて降りた方向です。
なお合戦の時、大多数の兵は頂上でなく、ずっと下の方に居たと推測されます。
山に登り、家康が命じた秀秋への発砲が本当にあったかどうか想像するのもいいです。

下記はGoogleマップによる、松尾山を降りる道のルート。

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関ケ原合戦 中井均先生ツアー 松尾山と南宮山 黒血川
松尾口近くを流れる黒血川。
川の名前は、672年の壬申の乱の時、死傷者の血で川の底の石が黒くなったことに由来しています。



アイドルはじめました♡!

3月までの期間限定アイドルはじめました   (((o(*゚▽゚*)o)))  

ユニット名は・・・ 「関っ娘 (せきっこはーと)です♡
地元関ケ原の私達が少しでも関ケ原を盛り上げていきたいと思い
結成致しました!!!!!!

短い期間ではありますが精一杯がんばりますので宜しくお願い致します♡
武者08_R
(左)NENEchan♡♡♡ (右)KOKOchan♡♡♡ です

初日は、役場に挨拶に行きmay!may!さんを取材させて頂きました(*゚▽゚*)
後日FacebookやYouTube、ブログ等に掲載していく予定なので見て頂けると嬉しいです


3月23日、中井均先生ツアーの現地確認に松尾山と南宮山に行ってきました①

下の写真は、今日の朝、笹尾山交流館前の運動場から、決戦地方面を望んだ風景です。
うっすらと雪があります。



関ケ原合戦 笹尾山 決戦地 雪
雪だるまを作る程はつもっていません。


関ケ原合戦 笹尾山 決戦地 雪
笹尾山方面を見ます。



昨日、「中井均先生と行く!関ケ原合戦ツアー」(3月23日開催)の事前確認で、カッコーツアーの担当者の方と一緒に松尾山と南宮山に行ってきました。

一昨日より寒かったのですが、雪もなく快適に登ることができました。



松尾山を登ったルートは、関ケ原町中心地に面した方でなく、山の裏側、関ケ原町内平井地区からです。
なお平井の地名は、この近く、大垣市上石津町内にもあります。


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関ケ原町から平井まで、Googleマップにて。


道途中、平井にある聖蓮寺というお寺に寄りました。
「しょうれんじ」と読みます。

この寺は天然記念物の冬も咲いている桜と、また天然記念物の八房ウメがあります。
学術的にも、貴重な桜だそうです。
いつ行っても、きれいに清掃なさっておられます。


関ケ原合戦 中井先生ツアー 松尾山と南宮山
咲いているかわいい桜。
ツアーでは時間の都合で、ここには寄れません。
ツアーでは、山頂を目指してすぐ近くを歩きます。



関ケ原合戦 中井先生ツアー 松尾山と南宮山
上の写真は、松尾山山頂近くの林道。
ここは山城の中です。



関ケ原合戦 中井先生ツアー 松尾山と南宮山 
山頂から、笹尾山や決戦地を見る。手前は土塁(どるい)。
空気がきれいなので、今の季節は遠くがよく見えます。









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