関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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第6回 関っ娘♡ゆるかわリポート

第6回ゆるかわリポート
(⁰︻⁰) ☝ここをクリック
今回はサウンド・ロッヂ伊吹さんです
とっても楽しかったです( ゚v^ )

頑張って撮影したので
♥是非見てください♥
サウンドロッヂ伊吹さん
TEL 0584-43-1515
岐阜県不破郡関ケ原町大字関ヶ原玉1565-6

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こちらもどうぞ

第1回ゆるかわリポートやぎ工房 may!may!さん
(⁰︻⁰) ☝ここをクリック
第2回ゆるかわリポート喫茶 松さん
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第3回ゆるかわリポート関ケ原鍾乳洞さん
(⁰︻⁰) ☝ここをクリック
第4回ゆるかわリポート
魚しげさん
(⁰︻⁰) ☝ここをクリック
第5回ゆるかわリポートエコミュージアムさん
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関っ娘♡ ゆるかわリポート

こんにちは、関っ娘です!!

第6回のゆるかわリポートをご覧になられた方はご存知かと思いますが
3月31日をもちまして関っ娘解散致します(´・ω・`)
ブログ含む全11回のリポートどうでしたか?

たくさんの方々に応援やアドバイスを頂き、それが私達の心の支えとなりました

だんだん慣れた頃で寂しい気持ちでありますが、ゆるかわリポートがきっかけとなって
関ケ原を訪れる方が少しでも多くなる事を願っています
IMG_0247_R.jpg


ありがとうございました♥♥♥

今年度の締め

3月31日をもちまして今年度の事業を終了致します。

今年度は笹尾山交流館と笹尾山交流広場をメインに、水鉄砲合戦やドリフターズ原画展、
関ケ原合戦ツアーや関っ娘♡のゆるかわリポートなど、さまざまな活動をさせて頂きました。

ご参加ご協力ありがとうございます。


4月からは新しいメンバーで2014年度関ケ原笹尾山交流館がスタート致します。
ご期待ください。


第5回 関っ娘♡ ゆるかわリポート

5回ゆるかわリポートはエコミュージアムさんです
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エコミュージアムさんは子供~大人でも楽しめる施設です

実際にで触れたりできるのでとってもオススメです
是非来てみてください



エコミュージアム 関ケ原 入場無料
営業時間 9:00~17:00
定休日 月曜 (祝の場合は翌日休)
TEL 0584-43-5724



こちらもどうぞヽ(´▽`)/
第1回ゆるかわリポートやぎ工房 may!may!さん
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第2回ゆるかわリポート喫茶 松さん
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第3回ゆるかわリポート関ケ原鍾乳洞さん
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第4回ゆるかわリポート 
魚しげさん
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第5回ゆるかわリポートエコミュージアムさん
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おまけ篇 PartⅢ

ゆるかわリポートのおまけ篇partです(*´ω`*)     
狐家紋 黄濃_R狸家紋 赤濃_R



今回ご紹介するところは...  お蕎麦がめっちゃ美味しい そば処 幸山です!!! 
_MG_5610_R.jpg


きたて・ちたて・がきたて
関ケ原インターを西に300m程進んだ国道365号線沿いに店を構える「そば処幸山」。
そば発祥の地と言われる伊吹山で収穫された、良質なそばを使用しています。
そば作りに適するといわれる寒暖の激しい土地に契約農場を持ち、
この農家との密な連携により、5月には春そば8月には夏そば11月には秋そばと、
年に3度ものそばの提供を可能にしています。
季節ごとに獲れる良質な伊吹産そばを自家製粉にて使用した、
挽きたて・打ちたて・湯がきたての三たてそばは、味と香りがふくよかで、喉越しがよいのが特徴です。
中でも「ざる」は店主のおすすめの逸品

天ざる_R


そばを使った新たな商品を考え続ける幸山には、そばを使用したいくつかのオリジナルメニューが存在します。
まるで芸術作品の様な「そばパフェ」は、食べ終わるまでサクサクの食感を楽しめるのが特徴的。
そば粉やそばの実を使った創作料理やそば懐石もお楽しめます(要予約)

他では味わうことのできないそばです
_MG_5660_R.jpg

こちらが店内の様子です
座敷もあるので小さいお子様のいるご家族でもくつろげる空間ですよ
_MG_5666_R.jpg


関っ娘の二人とスタッフの中でも美味しいと絶賛中のお蕎麦屋さんです

  是非一度食べてみてください 




エリア インター周辺(駅南)
住所 関ケ原町大字関ケ原2575
電話番号 0584-43-1060
営業時間 11:00~15:00、17:00~20:00
(土日祝11:00~20:00)
定休日 月曜休
駐車場 20台
席数 40席
アクセス 関ケ原ICを北へ車で2分




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中山道第2弾 今須宿 ~おまけ篇PartⅤ~

前回に引き続きゆるかわリポート~おまけ篇Part
中山道 第2 (今須方面) をちょっとだけご紹介したいとおもいます(*゚∀゚*)

 町の重要文化財  門間の八幡神社
 
近辺では見られない精巧な社殿
今須の中山道の問屋場近くに「八幡神社」の石の鳥居があります。その鳥居を通り抜けてさらに新幹線の高架を抜けて進むと、今須川のほとりに「門間の八幡神社」があります。には川沿いの桜並木き誇りには新緑
目をわれちゃいます。
空気も綺麗で心が清らかな気持ちになりますよ


住所 関ケ原町今須152
10台
WC なし
門間


 今須宿 問屋場
美濃16宿で唯一現存する問屋場ヽ(´▽`)/
中山道の今須中学校を越え西へ100mほど進むと、今須宿問屋場(現在は、山崎家)があります。
交通の要所である今須宿にはもともと7軒の問屋場があったそうです。中山道美濃16宿のうちで、
当時のまま現存し、その威容を今に伝えているのはこの1軒だけだそうです

住所 関ケ原町大字今須3447
P なし
WC なし
今須宿

 県下最古の曹洞宗寺院 妙 応 寺


このお寺は町時代初め、正平15年(1360年)に、今須領主長江重景が、亡き妙応のために創建した
県下で最も古い曹洞宗寺院だそうです
宝物館には史料・寺宝・妙応が使った枡・関ケ原出身の喜田華堂筆の縁起絵巻…などが残っていますまた、この寺の裏山には伝説の巨人ダダ法師の足跡があり、モッコ(縄を網状に編んだもので、主に土や砂などを入れて運ぶ)で伊吹山と養老山を作り、モッコから落ちた土で南宮山ができたと伝えられ、その時の足跡だといわれています


住所 関ケ原町大字今須2591-1
P 30台
WC あり
寺


   ♥是非来てみてください♥  

ゆるかわマップ
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中山道 関ケ原宿

~ゆるかわリポートおまけ編PartⅣ~
今回は中山道野上方面を少しだけご紹介したいと思います


①中山道松並木
野上の西端には樹齢300年余りの松の老木が街道の両側に残っています
その中には関ケ原宿の看板が立っており、ここでは中山道を行く多くの旅人が木陰でしばしの休息を取りました。また、大名行列もこの松並木に沿って進んだといわれています。
中山道の中でも、松並木が残っている場所は非常に少なく、全国的にも珍しいそうですよ

桃配山麓にある地蔵堂のあたりは、かつて桃配山の登り口があった場所で、関ケ原合戦の際は家康がその道を通って着陣したとされています★合戦後に植えられた松は、関ケ原の歴史をずっと見守ってきたのでしょうか

住所 関ケ原町野神地内
中山道2

②六部地蔵
中山道の松並木の途中にある「六部地蔵」ここに祀られている六部とは「六十六部」の略で、法華経の書き写し66部を、日本全国66ヶ国の霊場に1部ずつ奉納して巡る僧のことを指します★その僧が宝暦11年(1761年)頃、この地で亡くなられたのを地元の人々が祠を建て祀ったものだといわれています。この地蔵は「歯痛地蔵尊」とも呼ばれており、「六部地蔵歯痛なおりて 礼参り」と詠まれているように、歯痛を治すことでも知られています。歯の悩みがある方は、一度お参りしてみてはいかがでしょうか

住所 関ケ原町大字野上1400-4
中山道

③野上の七つ井戸
ここ野上は、中山道の垂井宿・関ケ原宿の間の宿でした★水不足に悩むこの地の人々は、江戸時代の頃から僅かな地下水を多目的に利用していました街道筋の井戸は「野上の七つ井戸」として親しまれ、旅人にとっては、喉を潤し、疲れを癒す格好の場所だった事でしょう(*´艸`*)
近年は、水道事業が整備されて放置されていましたが、先人が残した遺産の再発見の見地から、休息所を兼ねて修復・再現しました★この井戸はつるべ式で実際に水を汲むことができますが、その際は安全に十分ご注意ください
また、飲料水ではないので、飲まないでくださいね

住所 関ケ原町大字野上440
中山道1

ゆるかわマップ
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小関地区の陣跡 薩摩池と史料をめぐって9

前回のブログの続きです。
義弘が居たとされる薩摩池から、現在残る道で西方の関ケ原町玉地区に、歩くと700mぐらい離れています。
大垣城から関ケ原に来るのに、藤古川を渡ったというのは、地図を見ると不自然に思われます。わざわざ、遠回りをしているようです。
このことは合戦史の本などであまり知られていないし、初めてこのルートを聞いたとき、地図でこのルートを考え、何かの冗談、誇大妄想でないかと思いましたが、そういう説があるというのでひとまず受け入れて進めていきたいと思います。
どの地点で島津隊、また西軍は藤古川をわたったのでしょうか。またなぜ、この道を通ったのでしょうか。





いくつかの史料で、西軍は三成隊を先頭に、島津、小西、宇喜多の順番で大垣城を出ます。
島津側の史料によると、大雨の中、牧田の抜け道を通り、午前4時ごろに島津隊は関ケ原合戦につきました。
具体的にどのルートを通ったか、可能性として以下、書いてみます。
関ケ原町の公式見解ではもちろんなく、お話の一つとして読んで頂けたら幸いです。

関ケ原町に山中という大字が、近江に抜ける最重要な街道、東山道(中山道)沿いにあります。
西軍の大谷吉継は、山中村の小字、了願寺という所に陣地を作っています。
了願寺とは、地名として寺の名前で残ってますが、現在はありません。
この山中の北嶺、大字で玉村に通じる間に、石原峠というところがあります。

合戦の時、西軍はこの山中に屯留(とんりゅう、「寄り集まって留まった」の意味)し、さらに出でて陣地に就いたといわれています。
(「増補 大日本地名辞書第5巻(明治35年初版、昭和46年増補)」P397の「石原峠」の項目参照)
石原峠を通ったという記述が、「関原合戦図志(神谷道一著)」にもあります。


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地図は吉継の陣跡があった付近。神社の上の方なので吉継の陣地場所を、「宮上」とも言います。


吉継は9月3日より、この山中の地にいました。
吉継は、守りの要衝である中山道を守るため、陣地の構築をしたり、付近の地形など、情報を収集していたと考えられます。

「大日本地名辞書」の記述によると、諸将が合戦の戦いについて事前の打ち合わせをしたあと、各々の陣地に就いたということです。
石原峠にいったん集結して、陣地に行ったとすれば、藤古川を通って義弘は陣地に入る記述と整合性が合います。
なぜこのようなことをしたかと言えば、大谷吉継が事前に入手していた情報を共有するためであったのかもしれません。



さらに島津関係で、島津の退却ルートについてですが、陣取っていた小関から、伊勢街道を目指して退却しました。その伊瀬街道について、関ケ原町に残る字名から、違った可能性について触れます。

伊瀬街道は江戸時代、中山道の関ケ原宿から、大垣市上石津の烏頭坂、二又と、牧田方面に通っていたと言われています。



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この地点は、中山道から伊勢街道へ入る所


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豊久が奮戦したと伝わっている烏頭坂。
大正9年に作られた、豊久を顕彰する碑がある。



関ケ原町には小字名で、伊勢街道という字が、松尾地区(村)の方に残っています。
昭和15年発行の関ケ原町土地宝典にも、字名はあります。
井上神社のすぐ北です。

この地名からも、関ケ原町では江戸時代以前、古くは鎌倉時代(奈良時代とも言われています)にあったとされますが、いつ頃に東方の方に移ったかはわかりませんが、この地に伊勢街道があったと言われています。
江戸時代のルートと比べると、最も離れているところで、1キロほど西方になります。


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伊勢街道の字名が残っている場所

この道は、関ケ原町歴史を語る会の細見昌男様に御案内いただいて教えてもらいました。
細見様には、町の有志の会に所属している方ならではの内容で、壬申の乱の関係の史跡をたくさん教えてもらいました。
大変ありががとうございました。
力不足から、壬申の乱の史跡のご紹介ができなかったことをこのブログを借りてお詫びします。



島津の話に戻ります。

島津が退いた時、一つの可能性として、この昔の伊勢街道ルートを通ったことが考えられます。
このルートは、福島隊が陣取った春日神社のすぐ横を通ります。

島津側の記録「旧記雑録」では、関ケ原宿口付近で豊久の馬を見つけ、また後世の記録「本藩人物誌」では、豊久は13騎で東軍の大軍に討ち入り、戦死したと言われています。

敵は福島正之(正則の養子)で、首級をあげたのは福島の手の、小田原浪人、笠原藤左衛門とあります。
(桐野作人著「関ケ原 島津退き口(学研M文庫)」P156、224参照)
最後は東軍の各隊が加わった大混戦となっているので、豊久が福島方に討ち取られたとしても偶然に思われます。
しかしこのルートは、この史実と照らし合わせても不自然ではありません。


関ケ原合戦 小関 島津豊久 島津義弘 旧伊勢街道
江戸時代以前、伊勢街道があったとされている道。
この道は壬申の乱を契機として作った、不破関(大関)の東限にあたります。
この道の先右側には、不破関鍛冶工房跡が発掘されています。



関ケ原合戦 不破関 鍛冶工房 伊勢街道
工房跡のある所

もう二つ、義弘や三成の陣所について関ケ原の伝承を書いて、今年度の陣跡ブログは終わりにしたいと思います。

伝承の一つは、小関にあった関の場所を教えて頂きました。
小関の方は、関ヶ原合戦にあまり関係ないと思われるかもしれませんが、小関は北国街道を押さえるための関でありました。
現在私達が北国街道を考えるとき、江戸時代のルートで考えているので、ひょっとして、合戦当時は北国街道、また小関の場所が違っていたという可能性があるという伝承が関ケ原にあるので、紹介してみたいと思います。


小関は、壬申の乱の後に造られた関所、東山道(中山道)をおさえる大関とともに、北国街道をおさえるために作られました。

小関については、以前のこのブログの中で「関ケ原町史 通史編別巻」P251から引用した、小関の関の記述を参考にして下さい。


先のブログで小池地区を案内いただいた小林昻様に聞いた話です。
小関に常夜燈があり、この常夜燈の南に関があったのでないかということでした。
正確な方向で言うと、常夜燈の南南西です。

関ケ原合戦 小関 小池 島津義弘 陣跡 北国街道
旧北国街道沿いにある現在の小関の常夜燈。

関ケ原合戦 小関 小池 島津義弘 陣跡
常夜燈付近の伊勢街道


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常夜燈のある場所


なお関ケ原町では他にもうひとつ、関のあった場所として伝わっている所があります。
伊勢街道沿いに常夜燈の南、およそ100メートルの場所です。


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この場所が、関があるとされている、もう一つの場所です。


関ケ原合戦 小関 小池 島津義弘 陣跡 北国街道
小関の関所があったと伝えられている場所付近の写真。

関がどこにあったのかを推定することは、壬申の乱、また関ヶ原合戦の陣地を考えるのに、とても重要なポイントになると思われます。





二つ目の伝承は、北国街道の小関を抜けるルートについてです。
江戸時代の北国街道のルートは、常夜燈がある前の道です。
北国街道沿いに常夜燈のさらに西北西、100メートルの所には、馬をつないだ場所と言われる、馬頭観音が残っています。


関ケ原合戦 小関 陣跡 北国街道
小関の馬頭観音

関ケ原合戦 小関 陣跡 北国街道
現在の馬頭観音付近。
道は江戸時代の北国街道。
左に少し馬頭観音が見える。



江戸時代のさらに昔、小関の地区で北国街道があったと伝わっているのは、さらに南へ100メートル以上の細い道です。
薩摩池のすぐ北側を通る道です。
江戸時代は馬頭観音の前の道に違いないのですが、ひょっとすると合戦当時、薩摩池の北側の道が北国街道であったのかもしれないということです。

この伝承は、関ケ原歴史を語る会の坂東紀喜様に聞きました。
以前のブログで薩摩池のことについて聞いた、池付近に住んでいる方にこの伝承について聞きました。
そんな話は聞いたことはないと言われました。
江戸時代から北国街道は、馬頭観音の前の道と言われています。

ところが薩摩池のすぐ北側の道を、合戦当時に北国街道だとすると、島津側の史料「旧記雑録 新納忠元勲功記」の義弘の陣所についての記述で、義弘と豊久が北国街道を挟んで陣取ったと書いているので、この説で陣形を考えると説明がつく部分があります。
「旧記雑録 新納忠元勲功記」には、「中書忠豊冨隅衆杯召列、街道之南二當而御先二被相備、其次 松齢様(義弘)壱町計街道より北に当」とあり、「豊久は北国街道の南側、義弘は北国街道の北側一町(109m)」と書いてあるのです。

神谷道一氏が考察した陣所が現在の場所の元となっていますが、薩摩側に残る「旧記雑録」の記録などから、陣所の場所をもう一度確認してみることも必要かもしれません。

何度か島津池付近に通って風景を見ているうちに、薩摩池の西側の林に豊久、豊久から北西100メートル付近に義弘がいたのでないか。そんな姿が頭の中に浮かんできました。


他にも関ケ原歴史を語る会の方などに聞くことが出来た伝承などあるのですが、ここでブログは終わりにしたいと思います。
ブログを書く機会を与えていただいて、誠にありがとうございました。
お話をこれまで聞いてきて感じたことは、さらに詳細な史料踏査、聞き取り調査など行い、小関の関があったとされる場所付近を発掘調査するなら、大関と小関の地理的関係、壬申の乱の928年後の関ケ原合戦の布陣について、様々なことがわかってくる可能性があるのではないしょうか。

関ケ原合戦 小関 陣跡 北国街道 薩摩池
雪が降った後の薩摩池に隣接する道

関ケ原合戦 小関 陣跡 北国街道 
吹雪いている薩摩池付近。

関ケ原合戦 小関 陣跡 北国街道 薩摩池
上の写真とほぼ同じ場所。

関ケ原合戦 小関 陣跡 北国街道 薩摩池
小関から三成らが陣取った方を見る。


関ケ原合戦 小関 島津豊久 島津義弘 今寺池
薩摩池の西方にある、今は平和な池寺池。
宇喜多隊、小西隊が敗退する時、島津の陣所に紛れ込もうとしました。
島津は他の隊が陣に入ってくることを拒んだので、兵が逃れようとして多数池でおぼれ死にました。
この池は、薩摩池の西方にある池寺池です。

小関地区の陣跡 薩摩池と史料をめぐって8

有栄ですが、義弘に従うため、合戦の2日前に、ようやく関ケ原に到着します。
この時有栄は23歳、合戦の時、豊久の右隣にいました。
合戦には他にも、若い戦士がずいぶんと参加しています。



有栄は、豊久を見ながら戦っていましたが、途中で豊久を見失いました。
家来が止めるのも聞かず、元居た所にもどろうとすると、赤崎丹後と出会います。
さらに二人は関ケ原宿口付近で、豊久の馬がいるのを見つけます。
馬には豊久はいなく、鞍(くら)つぼに大量の血が付いていました。
二人は、豊久は討ち取られたに違いないと思って、討ち入りました。


その後有栄は生き延び、義弘の退却に最後まで従いました。
合戦後、その功績で200石の加増を受け、関ケ原合戦での体験を、覚書として残しました。


江戸時代には薩摩藩きっての精鋭を育成するなど、多大な貢献をします。
有栄は合戦50年たっても生き続け、生き証人として退き口のことを語り続けていたようです。
合戦後70年近く、1668年まで生きました。
こうした経歴から、覚書は信用がおけると思われます。
((桐野作人著「関ケ原 島津退き口(学研M文庫)」P149、251他参照))





「関原合戦図志」の発刊後、いろいろな史料や見解が発見、発表がなされています。
たとえば薩摩側に残る「旧記雑録」は、薩摩に残っていた史料を年代別に編纂し、特に合戦関係は「旧記雑録 後篇三」(昭和57(1982)年発刊)が参考になります。
神谷道一は、島津側の史料も参考にしていますが、「旧記雑録」のような体系的な資料は見ていないと思われます。



義弘の陣地場所として参考となるのは、「旧記雑録 後篇三」の「新納忠元勲功記」です。

「……暮時分より大垣御進撥、夜中之大雨降に牧田之間道被為通、寅剋計関ケ原二御到着、街道之北二被備居候石田陣所を御尋付、自其右之方壱町半程も可有之所二、未明より夜明迄御備被為配、中書忠豊冨隅衆杯召列、街道之南二當而御先二被相備、其次 松齢様(義弘)壱町計街道より北に当、藤川越し小関之南巽向二被為備、其次 四五町計傭前中納言秀家・小西行長等小高き岡二相備、四方霧深ニて……」
とあります。

以上は、関ケ原歴史を語る会の曽我治太郎氏提供の補足資料を引用にしました。



上記によれば、義弘陣地は三成の右、1町半(163m)、豊久は北国街道の南側、義弘は北国街道の北側一町(109m)、小関の南南東(巽は南東のことで、その前に南がつくので南南東の意味か)、ということになります。

「新納忠元勲功記」では、義弘は北国街道の北側に陣地を設けたとあり、薩摩池は現在北国街道とされる南側にあるので、薩摩池に義弘が陣地をつくったとする今の見解と整合性がありません。



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北国街道の場所を元に、「新納忠元勲功記」の記述とあわせて考えると、義弘が実際に居た場所はここらあたりになります。


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「新納忠元勲功記」の記述を元に考えられる義弘の陣地は、空撮ではここらあたりになります。

現在の現地の状況を見ると、立地的に納得できないように思われるかもしれません。
現在の国道の道は山を切りひらいて作ったため、ここに陣地を作ることは地の利にかなっています。
この国道は、かつて「関ケ原~長浜」までの国鉄の汽車が走っていたルートです。1900年に廃線になっています。


他に「島津家譜」(引用は「関ケ原合戦史料集(藤井治左衛門編著)」に、
「惟新は藤川を越(え)、小関の南巽に向ひ(かって)、備え(陣地)を立(て)申(し)候(なされた))」
とあります。
この「島津家譜」の記述は内容的に、上の「新納忠元勲功記」を参照していると思われます。



藤川は、現在は藤古川のことです。
藤古川は多くの歌詞で「関の藤川」と呼ばれ、また土俗では今藤子川、とも呼ばれていたとあります。
(「増補 大日本地名辞書第5巻(明治35年初版、昭和46年増補)」P400参照)
玉藤川とも呼ばれていたようです。



義弘が居たとされるところからもっとも近い藤川の場所は、字で玉の方、現在、藤古川ダムがある近くになります。
島津は、三成隊、小西隊、宇喜隊と同じ道を進軍したはずです。
西軍はわざわざ少し遠回りして、小関に入ったのでしょうか。
どのような理由があったのか、また西軍が進軍したルートを、地図の中にどのように落とし込むか、難しいところです。
まだまだ島津、また合戦について、わからないことが多いです。



関ケ原町内の歴史研究の会、関ケ原歴史を語る会では、様々な関ケ原に関する提案を毎月、第三火曜日に関ケ原町役場中央公民会の会場で行っています。
この会は、歴史を楽しく語り、関ケ原に親しむ広場つくりをめざす文化団体です。
事務局を、関ケ原町中央公民館に置いています。

2014年4月15日(火)の例会では、西軍の進軍ルートの関係の提案で、石原峠についてなされる予定です。
毎回、研究熱心な方が集まる、熱い会ですので参加なされればいかがでしょうか。

関ケ原合戦 小関 小池 島津義弘 陣跡
島津義弘陣所跡近くから薩摩池方向を見る。


関ケ原合戦 小関 小池 島津義弘 陣跡
霧の中、石田三成陣地の近くから決戦地方向を見ます。

小関地区の陣跡 薩摩池と史料をめぐって7

現在の関ケ原合戦の陣跡地の場所は、神谷道一氏著による「関原合戦図志」(明治25(1892)年5月)を参考に、岐阜県の役人たちが参加し、現地事情を様々に考慮しながら決めたそうです。

平成24年9月に発行された「慶長五年の関ケ原 -合戦当時の村の様子-」の調査で、当時の様子がいろいろとわかってきました。
関ケ原は、江戸時代はそれほど田畑は増えていなかったが、明治になると田畑は増えていたこと。
合戦当時、今より人口は少なかったが人も大分住んでいたこと。
合戦のときは、戦いから避難するために近くの山に行っていたこと。
非難はすぐに終わったわけでなく、場合によっては一カ月以上いたこと。
などです。



陣跡地を決める時、多くが私有地であること、かつて陣地があった野原や林に宅地ができたことなど、場所の選定は苦労したと思われます。


「関原合戦図志」から、島津の陣地の考察の部分を引用します。
「御手配留ニ[小池村ニ島津兵庫頭義弘、島津中務小輔右ニ陣ハ(、)辰巳(南東)ニ向テ備フ](。)

山田有栄(「ありしげ」または「ありなが」とも読む)覚書ニ
[義弘ノ陣ハ三成ノ右方一町余(約109m)後ロニアリ(。)
義弘姪豊久之ガ前隊タリ]進退秘訣ニ[山田有栄年二十歳雖(「といえども」の意味)○若年○勇士ノ誉レアリ(。)
故ニ己ガ手勢ヲ一隊ニシ豊久ノ右備ニ相并(「並」の簡体字)ビ(、)共ニ剣先ニ相備フ(。)
富之隅衆福(福の旧字)山衆有栄ニ相従フ(。)
此等ハ公ノ旗本ヲ去ル(離れること)○一町半(約163m)計是ヨリ惟新公御備也
(中略)
御陣ヨリ(、)一町半ヲ隔テ豊久陣也]

トアルニ據(よ)リ(、)陣地ヲ実測スルニ(、)小池ノ内北国街道ヨリ南ヘ入ル○凡ソ三十間(約55m)許小高キ地アリ(。)
字神田ト云フ(。)
林樹業生シ中ニ(、)秋葉神社アリ(。)
此林地一町五段五畝(ほ)六歩(約15,400㎡)アリ(。)
先鋒豊久ノ陣セシ所迄一町三十間(約144.4m)(。)
(有栄が書いた)進退秘訣ニ記スル所ト違ハズ(。)
又天満山北小西ガ陣所迄直徑一町二十四間(約173.3m)(、)岡地十五間(約17.7m)田地及ビ(、)寺谷川迄ヲ加ヘ一町九間(約119.6m)(。)」
※( )は付け加えています。


神谷道一氏が本を書いた当時、参考となる史料も今と比べると格段に少なかったと思われます。
氏の業績はとても大きく、現在もなお、合戦を巡る諸説の元となっています。
本から、氏は島津側など史料に忠実に、実際に現地で距離をはかるなどしながら、場所の特定をしたことがうかがえます。

「御手配留」という文書の内容はよくわからないのですが、この文書には小池村とあります。
「小池村」とありますが、合戦当時は小池は人家がなく、字も、また村もありませんでした。
後に家が立ち、島津義弘陣所跡がある付近一帯の場所を小池というようになりました。

「慶長五年の関ケ原 -合戦当時の村の様子-」では、関原村の慶長5年の様子を慶長2(1598)年の「関原村検地帳」により、分析を進めています。
現在の字、細田の集落の中に「ミやノまへ」という小字の名前があり、「ミやノまへ」の集落に、田畑の他に4軒の家がありました。
慶長2年の検地帳によると、小関と現在言われる地域に、ほかに家はありません。
「ミやノまへ」という当時の字名は、かつて神社(若宮八幡神社)があったために出来た名前と考えられます。宮、つまり神社の前、「宮前(みやまえ)」にある小字、であることを示していることと思われます。

また合戦当時に小池という地名はありません。
合戦後、家が伊瀬街道沿いに何軒か建つようになり、島津が使った池があったとつたわっているので、小池という字名ができたと思われます。
義弘陣所跡の昭和15年にできた石碑に、小池と刻んだのは、池を島津が使ったという伝承を、より強調したいということがあったのかもしれません。

なお義弘自身は、小関の薩摩池付近に居たとしています。
義弘は豊久を率いているので、「御手配留」に小池と書いてあっても間違いではありません。


上記に「林樹業生シ中ニ(、)秋葉神社アリ」とある、秋葉神社のことですが、字名は神田に、秋葉神社があると町史にもあります(「町史 通史編別巻」P48)。
しかし現在、周辺をいくらみても秋葉神社という神社が見あたりません。
あまりに不思議であったので小林様に聞いたところ、現在は神明神社と合祀され、一緒の敷地内に祀られているそうです。



関ケ原合戦 小池 島津義弘 陣跡 秋葉神社
写真で柵の向こう、真ん中やや右に見えるのが秋葉神社。秋葉神社は、関ケ原全村が火事になったあと、幕末に出来ました。関ケ原はかつて、大火がよくあり、その対策が大きな悩みの種でした。

第4回 関っ娘♡ゆるかわリポート

第4回ゆるかわリポート 
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今回はうなぎの美味しい...魚しげさんです
とっても美味しかったです( ゚v^ ) オイチイ

動画で美味しさが伝わるように頑張って撮影しました笑笑笑

♥是非見てください♥

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こちらもどうぞ

第1回ゆるかわリポートやぎ工房 may!may!さん
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第3回ゆるかわリポート関ケ原鍾乳洞さん
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小関地区の陣跡 薩摩池と史料をめぐって6

義弘陣所の石碑の南側に、名前が記してある石が並んでいます。
この石は、これまで毎年行われている、鹿児島県の伊集院(日置市)から来られる「関ケ原戦跡踏破隊」の参加者のお名前です。
この石は並行して並び、石が指し示す方向は、江戸時代に薩摩藩が行った宝暦治水に由来がある、千本松原の方角です。

この石の近くに、膝ぐらいの高さの目立たない石があります。
ここには下記の通り書かれています。

「此の地より堺の港に至る 
島津勢退路200粁突破せんとす
チェスト行け
昭和35年8月17日」

石碑に、「薩摩国 窪田廣治」他6名と人の名前が書いてあります。
踏破隊を実現するため、力を注がれた方と思われます。
昭和の時代に、「薩摩国」と書いたことに誇りに思う気持ちが伝わってきます。
町史(上巻P417)に、踏破隊が生まれた経緯が書かれています。


関ケ原合戦 小関 島津豊久 島津義弘 陣跡
雨に濡れていたので、彫ってある字が読みやすかったです。


昭和35(1960)年の初夏、伊集院町在住の鹿児島県の教育委員長、有馬俊郎氏が文部省(東京都)に行った帰りに関ケ原古戦場に見学に来て、町史編集委員長を後につとめた不破幹雄氏と合戦の話をしました。
それから10日余りたち、伊集院町の窪田広治(廣治)氏から「有馬俊郎先生の御指導で、(略)薩摩勢の退路を徒歩で突破したいから、その行程を地図で指示して欲しい」という手紙がきました。

不破氏はさっそく240キロのコースを作成し、8月18日には窪田隊長以下、十数名がやってきました。
この踏破隊は、コースや行程は変わりましたが今も続いています。

関ケ原合戦 小関 島津豊久 島津義弘 陣跡



小関地区の陣跡 薩摩池と史料をめぐって5

島津義弘陣所跡は、2回の移動を経て、現在地に来ました。
昭和59(1984)年2月12日に、町指定の指定文化財になっています。
「関ケ原町史 通史編別巻」P10に、場所は大字関ヶ原字神田、「現在の地は南方へ約200m移動している」とあります。
小林様の話を裏付けています。



大きな地図で見る
Googleマップで2番目の場所です。



現在地は、2番目の場所から道を挟んだ向こう側に移されました。
上のGoogleマップで、島津惟新陣跡とある場所です。


現在の義弘陣所跡は、昭和15(1940)年に移設されました。
小林様はその時、22歳(満歴)でした。

立派な自然石が、鹿児島から国鉄東海道線関ヶ原駅まで来ました。
駅からひっぱられ、陣跡地まで運ばれていくのを小林様は見たそうです。
石の文字を刻んだのは関ケ原の方で、刻んだ方の名前までしっかりと小林様は記憶しておられます。
その石が、「小池 島津義弘陣所跡」と書かれているものです。

石碑の字は、島津忠重(ただしげ)氏が書いています。
この年が日本紀元2600年にあたり、奉祝祝賀会が催されたと町史(下巻P430参照)にあります。
氏は侯爵で、長年貴族院議員を勤められています。
昭和天皇の皇后陛下が、島津家のご出身であったことで、大変な歓迎を受け、運ばれてきたと思われます。

碑は、鹿児島の青年が寄付金を集め、運ばれてきたそうです。
この時植樹された楠が、今は素晴らしい大木になっています。

陣跡を新しく作るにあたり、陣跡地一帯の林は、当時一人の地主が持ち主でしたが、町が陣跡の用地を買い取りました。
碑の裏に、町の協力で出来たことが書かれています。

関ケ原合戦 小関 島津豊久 島津義弘
島津義弘の陣跡の石碑


史蹟指定地になると、開発ができなくなるので、開発か保存か、町民やまた行政にとって大変悩ましいです。
決戦地、開戦地付近は私有地の農地がほとんどで、生活も大事です。
日常生活が行われることで、景観が維持されていく部分も多いです。
1年近く関ケ原プロデュース事業にかかわってきて、町や町民の多くの善意で、史蹟観光がなりたってきたことを知ることができました。

関ケ原という名前は全国的に知られ、観光地でなりたっているように見られがちですが、滞在型観光でないので、観光立地に向けて課題も多いようです。




町の史跡保存については、平成22年度に史跡関ケ原古戦場保存管理計画策定報告書が出され、町の図書館にて、保存・閲覧することができます。
報告書は資料的にも充実しています。
合戦後の400年間、どんなことが古戦場をめぐってあったかを知ることもできます。


例えばP82の年表で、明治39(1906)年に関ケ原村(当時は関原村)合戦300年祭を記念して、古戦場の主な陣跡に石碑が建てられました。
同年には陸軍大学校参謀演習旅行が行われ、皇太子(後の大正天皇陛下)様も来られています。
戦争に向かっていた、特に昭和5(1930)年から昭和15(1940)年の間、様々な動きがありました。

追伸;
義弘陣所跡の移動について触れましたが、関ケ原合戦の関係で他に、小西行長の陣跡の東にある開戦地の石碑は、以前は現在地より南へ300m程の所にありました。
耕地整理のためです。
また松平忠吉・井伊直政陣跡も、場所は移動しています。

小関地区の陣跡 薩摩池と史料をめぐって4

現在、義弘陣所跡がある字は、神田(じんでん)でいう所です。

そのすぐ隣の字、西甲斐墓(にしかいはか)在住の小林昻様に、島津の陣跡や、小関の由来について貴重なお話を聞くことができたので紹介します。
小林様は小池の義弘陣跡に歩いてすぐの所に住んでおられます。


神田、西甲斐墓など、周辺は国土地理院2万5千分1の地図で小池と書かれています

なお西甲斐墓という字名の由来となっている甲斐墓という名前ですが、現在、関ケ原製作所のある一帯です。
「ふるさとものがたり不破の地名」(著者;不破破郡地名研究会/編、出版;不破郡教育振興会・出版1988年)によると、合戦で亡くなった「甲斐の国のひと人の墓か」、あるいは「宿場で死去した人の街道墓か」とあります。


甲斐とは現在山梨県で、合戦時は浅野幸長(あさのよしなが)の領地でした。
幸長は合戦時、毛利や吉川の押さえのため、家康の後陣を守っていました。
場所はこの地より、東5キロ弱、合戦時は無かったですが中山道一里塚もある所です。

合戦の時、浅野幸長は長束正家(なつかまさいえ)の隊と、小競り合いもあったと伝えられています。
長束はさらに東に布陣していたので、戦ったのはもっと東の場所と思われます。

この地は兵を弔って作った東首塚に近いので、その関係で墓を作ったのか、あるいは合戦の最後の最後、東軍の全軍攻撃となったとき、手柄をあげるべく浅野隊が西のここまで急ぎ駆けつけ、戦ったのか、あるいは江戸時代になって甲斐の人が宿で亡くなって作ったのでしょうか。
いろいろと、想像力がかきたてられます。




小林様は関ケ原歴史を語る会の会員として発表なされたこともあり、同会の曽我治太郎様に紹介を頂きました。
曽我様も82歳なのですが、小林様はあと4日で96歳(大正7/1918年生)となると聞きました。
その日は暖かい日で、一緒に小関を歩き、誠にありがとうございました。

以下は、小林様が体験したこともありますが、聞き伝えが含まれていますので、史実としてでなく、小関に伝わっている話として読んで頂けたら幸いです。



ご自宅近くにある島津の陣跡ですが、現在地に移るまで、2回移動したそうです。

現在の島津陣跡の敷地、大きく「小池 島津義弘陣所跡碑」と書かれた石の東方に、「小池 島津義弘陣所古跡」と表に書かれ、裏に「明治39(1906)年8月建之 不破郡関原村」と書かれた石碑があります。
当時は関原村でした。
明治39年は日露戦争が終わった翌年で、乃木大将で有名な乃木希典が東京に凱旋した年です。

平成18年3月、関ケ原町によりこの地に移されたと、明治39年の石碑を囲む石に書かれています。



一番最初に作られた、陣地の場所を示す石が、最初はここにありました。
伝えによると、この場所に豊久が布陣し、小高い丘があったようです。

大きな地図で見る
最初に島津義弘陣所跡の石碑があった場所。


最初の場所は町有地でしたが、小学校の用地買収費捻出のため、個人に売却されました。

義弘陣所跡がもともとあった所の東側は丘でした。
どのぐらいの高さかは不明ですが、付近の状況からそれほど高くはなかったと考えられます。


明治26年の地図には神社が記され、人家はなく付近は桑畑か針葉樹、また薩摩池の方は田です。
小林様は合戦当時は、小池という字は無く、小池のあった所は小関と呼ばれるエリアの中に含まれていたのでないかと言っていました。
報告書「慶長五年の関ケ原 -合戦当時の村の様子-(監修 小和田哲男)」を作成した時、慶長2(1597)年の関原村検地帳をもとに町民がどんな状況かを調査しました。
その結果、小池には人家がなく神社もなかったようです。
明治39(1906)に撮った写真でも、付近に人家はまるで無い感じです。



以前のブログに書きましたが、島津が使ったと言われる池があります。
小林様は昔、池に祠があったのを見たことがあるそうです。
現在水はなく、隣りの地との境界で、池の半分が埋められています。
ありがたいことに見せていただくことができましたが、民家の中ですので、写真は割愛させていただきます。

「不破の地名」(著者;不破破郡地名研究会/編、出版;不破郡教育振興会・出版1987年)という本には、「小池」という自治会の由来に、「笹尾山のマンボからひいたり、幻の小池。地名のみ残る」とあります。

小林様によると、小池の由来となった池はわき水であって、マンボで湧いている所は別だと教えていただきました。
下記の写真の所です。
関ケ原合戦 小関 島津豊久 島津義弘 マンボ
神明神社近くの畑にあります。
マンボとは地下水路のことで、水が少ない所に水をひくため、関ケ原ではたくさん作られました。
コンクリートの構造物が、マンボの空気抜きです。



なお神明神社が昔あった所は、今は個人所有で畑になっています。

関ケ原合戦 小関 島津豊久 島津義弘 陣跡
左の写真は昔、神明神社があった所。神社は合戦時には無く、現在は平坦ですが岡であったと思われます。

下は義弘陣所跡の石碑が二番目にあった場所の写真です。
ここから小西行長、宇喜多秀家が陣取った天満山がよく眺望できます。

陣地巡りをする方が休んで頂けるように、現在この土地を所有されておられる方が、石のテーブルと島津の家紋がある灯ろうを、設置しています。
私はそのようなことがあるなんて、教えられて初めて知りました。
町が作ったとばかりに、思っていました。
作られた方の名前が、石に刻まれています。

関ケ原合戦 小関 島津豊久 島津義弘 陣跡

関ケ原合戦 小関 島津豊久 島津義弘 陣跡


関ケ原合戦 小関 島津豊久 島津義弘 陣跡
三月のまだ肌寒いこの日は霧がでていました。合戦の日の朝は、このような風景でなかったでしょうか。
感動して撮りました。関ケ原は山が近いためか、霧、そして雨が多いです。岐阜から来ると、関ケ原は雨、と言うことがよくあります。
いつもの年は雪が多いですが、今年は少なかったです。おそらく東京の方が、たくさん雪が降った年でした。関ケ原は霧が、そして雪が、とても似合います。


関ケ原合戦 小関 島津豊久 島津義弘 陣跡
この写真は天気が良い日に、テーブル付近から撮った写真です。

おまけ篇PartⅡ

ゆるかわリポート~おまけ篇~Part
今回はシーズンはまだ先ですがホタルの出る藤古川をご紹介致します(´∀`) 
現在は無いですが、藤古川では数年前まで6月頃になるとホタル祭りという祭りを
開催しており、ホタルが出る川として地元の人に愛されています

簡単に21号線から藤古川までの道のりを紹介しつつ、藤古川をご紹介します
image2.png

image3.png
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ここまでが藤古川までの道順ですが、最後にまた地図を掲載しますね

昼間の藤古川はこんな感じです(*´ω`*)
1_R.jpg
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こちらが、ホタルの時期の藤古川です   じゃーん♥  
3_R.jpg


去年の工事後の影響で一昨年よりもだいぶ減ってしましましたが、
去年もホタルがいっぱい居たので是非見ていただきたいです

シーズン 6月中旬~ゲンジボタルが見れます

大きな地図で見る

関ケ原町に伝わっている伝承 だいもんのなぞ 

関ケ原町立図書館で、関ケ原合戦に由来する伝承を見つけたので紹介します。
出典は「むかしばなし関ケ原48話」(編集・発行 関ケ原歴史を語る会/1992年3月発刊)です。


だいもんのなぞ
むかし むかしの ことやけど
まるやま ふもとに おおきなおてら
だいもん あって ちめいとなった

てんか わけめの かっせんで
そこの ぼうさま ひをつけて
てらも もんも やいたとさ
ぼうさま あちこち あなをほり
きざんだ なまえを かくすため
じぞうや おはかを うめたとさ
そして すたこら にげたとさ 

じつは このてら いえやすが
ひそかに かりねが できるよう
てらに さしずを していたと
ぼうさま いしだに おんがあり
いえやす こばむ ためではないかと
つたえる ひとも あったとさ


話の中に「じぞうや おはかを うめたとさ」とあり、大正2(1913)年に埋めたものが掘り出されています。


「だいもん」は漢字で大門と書き、古地図に書かれる、この地の字名でした。
明治まで小字名は大門で、現在は端竜(ずいりゅう)という地名になっています。
地区の方にあがる交差点の信号機に、端竜の名前が付いています。
関ケ原町ふれあいバスが付近を運行し、その停留所にも同じ名前がついています。

この「だいもん」から決戦地はみえませんが、直線距離で800mとすぐ近くです。
町史によると当時、寺の名前は法忍寺であったと言われています。
法忍寺は今は、町内の別の場所にあります。



その後江戸時代に、関ケ原は竹中重門の知領地であるのでこの地を守るため、お寺が作られます。
竹中半兵衛の菩提寺、禅幢寺 (ぜんどうじ、岐阜県垂井町)から別れてできた端竜寺です。



このお寺は、東海自然歩道のルートに入っています。
ひっそりとした、雰囲気のある寺ですので、周囲の陣跡を巡るついでに訪れてはいかがでしょうか。


行き方は、国道21号バイパスで「瑞竜」の名前がついた信号から、山の方面に上がりきった左手に寺はあります。
この道は東軍でのろしをあげた「丸山烽火場」に入る道と同じです。
場所は下の通りです。



大きな地図で見る瑞竜寺の場所です。

2010年開催の第1回関ケ原陣跡制覇ウォーキングの地図で、瑞竜寺の場所を確認できます。

関ケ原合戦 瑞竜寺 だいもん 竹中重門 東海自然歩道
お寺に上がる道。
当日は雪が降った後できれいでした。



関ケ原合戦 瑞竜寺 だいもん 竹中重門 東海自然歩道
お寺の中庭。


関ケ原合戦 瑞竜寺 だいもん 竹中重門 東海自然歩道
入口にある祠。


関ケ原合戦 瑞竜寺 だいもん 竹中重門 東海自然歩道
駐車場付近にある湧水


関ケ原合戦 瑞竜寺 大門 竹中重門 東海自然歩道
岐阜県の急傾斜地崩壊危険区域の表示に大門と記されています。

第3回 関っ娘♡ゆるかわリポート

お待たせ致しました!!!!!!!!!
第3回ゆるかわリポートは関ケ原鍾乳洞さんです♡
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鍾乳洞といえば 夏は涼しく冬は暖かく と言われてますが
本当に快適な温度で冒険している気分になりました♡!!
関っ娘の2人からのオススメスポットです★★★ 
!!

動画の中では一部しか公開してませんので
♥♥♥実際に見に来てください♥♥♥


詳しい事はHPをご覧ください!!
関ケ原鍾乳洞HP
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第1回ゆるかわリポートやぎ工房 may!may!さん
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第2回ゆるかわリポート喫茶 松さん
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第1回、第2回ともに、再生回数150回超えました!!!
ありがとうございます(´∀`)

まだまだぎこちない2人ですが残りわずか
最後まで精一杯関ケ原の魅力をお伝えしますので宜しくお願いします 

あかぇダイエット☆

お久ぶりですあかぇです

最近ダイエットをしようと思いヨガにはまってます
だけどなかなか痩せられません、、、

何かいい案あったら教えて下さい

最近1年ぶりに友達とディズニーランドに行ってきました

IMG_20140312_115459_R_20140312121948b77.jpg

やっぱたまにの旅行は楽しいですね
ちょっと人酔いしちゃいましたけどwww
でもまた行きたいです

今週はボルダリングにいてきまーす

他に楽しくて面白い場所あったら教えてくださ~い

でゎあかぇでした

小関地区の陣跡 薩摩池と史料をめぐって3

合戦の時、西軍敗退が決定的になり、島津が最後に残り、東軍が一斉に押し寄せてきました。

島津側に残る資料、重要文化財の「旧記雑録」によると、阿多長寿院盛淳は義弘の陣地付近で義弘の具録、羽織、甲を拝領して奮戦したと記録されています。
羽織は太閤秀吉より拝領したもので、また親交のあった三成から、金磨きの軍配と団扇を拝領していました。
(桐野作人著「関ケ原 島津退き口(学研M文庫)」P245引用、以下参照)



盛淳は、義弘の陣地にとどまり戦いますが、ニ度目に押し寄せてきたときに大乱となり、勇敢な島津隊も後ろの「堀」に逃げる兵が多数続出したので、盛淳は「薩摩者遁国 其国遠し、各面は皆知居候(薩摩の国は遠いぞ。(逃げようとしても)各々の顔はみんな知っておるぞ」と言い、悔しがったとあります。

そして義弘が無事、逃げ去ったことを確かめると「死に狂い也」と大声をあげて討ち入って戦死したとされています。
(「旧記雑録 後篇三 新納忠元勲功記(にいろただもと)」より)


同じような内容の記述が、島津側の史料「旧記雑録」の「井上主膳」に確認できます。

「……我等十九歳ニ而長寿院御供仕、関ケ原江罷登……候、……
一、玉林坊を召寄被仰候者、我者御跡ニ残り打死可致与思ひ定候・・・
一、池御座候、其前ニ御答被成候、長寿院御具足之上より御拝領之・・
一、敵方より馬を七百計両度入来候、二度目之戦ニ大乱に罷成候、
  薩摩衆大方後之堀に遊入候、長寿院馬を乗り廻し・・・脇江御尋
  候ハ、殿様者何程御退可有哉、何れ茂被申候者(は)、敵陣を分け
  御退候、最早程遠く候与皆々被申候へ者、扨(さて)者目出度、跡者
  我等御名代ニ打死只今可仕与被仰候を承候事、
一、後に蒲生衆之噺に承(うけたまわり)候者(は)、三度目之合戦弥相乱、
  其時島津兵庫守死狂也与御名乗候得者、大勢取掛鑓ニ而突立候を、
  余所ながら見申候、余物語承候事、
      明暦三酉年(一六五七)九月十日      井上主膳」

以上は、関ケ原歴史を語る会の曽我治太郎氏提供の補足資料を引用しました。
御厚意に感謝します。



合戦に近い時代に書かれたものであるだけに信ぴょう性は高そうです。
忠元は、合戦には参加しませんが、子孫も代々、家老となっている家柄です。
主膳は、上に書いてある様に、19歳の時、長寿院にお供をして、関ケ原に来て参戦します。

二人が同じように書いているので、盛淳は義弘が討ち出るのを見届け、陣地付近の小関で亡くなったことは違いないようです。

主膳の記述に、「池御座候」とあり、義弘、盛淳が池の前におられたとあります。

薩摩池は今は小さいですが、昔は今より、大きかったようです。
薩摩池付近に布陣していたとの言い伝えがあるので、記述の池は薩摩池と思われますが、他の可能性として、薩摩池のすぐ西にもっと大きな池寺池があるので、この池の可能性もあります。
いずれかわからないので、今後の検討を待ちます。

関ケ原合戦 小関 島津豊久 島津義弘 薩摩池
写真の奥が、薩摩池の林。

林は今は杉の木が生えていますが、かつては竹が生えていました。
上の写真で林の中に、薩摩池のコンクリートが小さく「一」の字のように黒色で見えます。
左側が神社があった場所で、土が盛られています。
土が盛られている所から一段下がった所に、水たまりがあります。
写真ではよくわかりませんが、右側(東方)は現在畑で、今もぬかるみがちで、かつて湿地帯でした。
地元の方から、島津が陣を作った時、林の中で南半分、神社があった側に馬がとめられていて、武将たちは林の中で北半分、池の西側にいたのでないかと聞きました。




上記の井上主膳によると、「薩摩衆大方後之堀に遊入候」とあり、盛淳が最後に奮戦した時、多くの兵が堀に逃げ込んだとあります。
主膳は島津方で、自分達にとって悪いことは積極的には書きたくないという意識があるはずなので、大方の薩摩(島津)の兵が、後ろの堀に遊入(逃げ込んだの意味)したというのは、かなり信ぴょう性があります。

一斉に島津が前に討って出たと言われているのですが、あまりにも東軍側の攻めの人数が多く乱戦になって逃げようとした兵もたくさん出たということなのでしょう。


主膳の記で「堀」とあるのは、合戦にあわせて堀をつくったとは今のところ考えられません。
合戦前からあった、川か水路であったのでないでしょうか。



昭和15年発行の関ヶ原町土地宝典によると、小関(字名は細田)の地の中に、水路がたくさんめぐっているように書かれています。
旧北国街道沿いに、流れている所もあります。
合戦当時にこの水路はあったかもしれませんが、現地を見る限り、逃げ込むほど大きな水路があったようには思えません。

こうしたことを考えると、薩摩池の西側を流れる梨ノ木川は谷底まで数mあり、堀のようになっています。
「堀」とあるのは可能性として、梨ノ木川ではないでしょうか。
川名は、古地図で寺谷川とあり、他に「おけ川」とも呼ばれていました。
当時、川の名前は場所により同じ川が違った名前で呼ばれていました。

梨ノ木川は小関より約3キロ弱の下流で、藤古川に合流しています。


関ケ原合戦 小関 島津豊久 島津義弘 薩摩池 寺谷川
写薩摩池の西側を流れる現在の梨ノ木川。
真上の方に見える林が、薩摩池の裏にある林。


逃げようとしたのは島津ばかりではありません。
むしろ午後2時頃、敗退が大勢となって、おそらく計算上は万を超える兵がばらばらに逃げます。
宇喜田、小西の兵が天満山南の方からこちらの小関まで、北国街道を抜けて西方面に抜けるべく、島津陣地の方に逃げてきました。
宇喜多、小西の兵は後ろの天満山が険しく背後に逃げられないため、小関を通って逃げようとしたと考えられます。
小関に居た島津は、断固として味方であろうと自陣に入ることを拒否しました。
そのため、数十人がおぼれ死んだとありますが、地形から考えると、逃げようとしたが、東軍、島津にふさがれ、逃げ口がなくなって池に追い詰められたと考えられます。(「関ヶ原の役(旧参謀本部編纂)」P226参照)

こちらの方は、薩摩池と梨ノ木川の西にある池寺池です。



追伸
2014年3月23日に滋賀県立大学の中井均先生による、松尾山と南宮山の山城を見るツアーを開催し、関ケ原合戦の陣地についてたくさんのお話を聞くことができました。
中井均氏によると、岐阜県教育委員会の調査委託で、伝えられている山城など、岐阜県下の城館跡をかなり調査しました。
岐阜県教育委員会『岐阜県中世城館跡総合調査報告書(2002年)』という報告書です。

その結果、関ケ原合戦前に陣地を構築したのは、松尾山、南宮山(毛利秀元と安国寺恵瓊)、長宗我部盛親がいた栗原山、大谷吉継がいた山中村の八幡神社上の陣地、他に東軍で岡山(勝山)ぐらいでないかということでした。
あると言われていた所を探したが、他には見当たらなかったので、先にあげた以外は、合戦当日に柵を作るぐらいでなかったか、ということです。

小関地区の陣跡 薩摩池と史料をめぐって2

豊久が陣取ったと現在考えられている地に、神明神社 (しんめいじんじゃ)があります。
神社の由来は、
「合戦時には現在地でなく字西甲斐墓1950番地の丘陵に祀られていたが西軍の将(、)島津惟新(義弘)は陣地として好適地につき(、)この(神社の)境内を本陣とし(、)戦勝を祈願したと言われている。

嘉永六年(1853年)火災にあい都合により隣地の現在地に移転し(、)元の礎石は薩摩軍の使った井戸の側に残っている。

惜しいことに慶長以後の棟札が残っていたが、嘉永六年(1853年)の火災で焼失してしまった(神明神社の案内板より引用)」
とあります。
なお()は読みやすくするため、後から加えました。

上で合戦時には「字西甲斐墓1950番地の丘陵に祀られていた」とありますが、同じ関ケ原町が作った「慶長五年関ケ原(小和田哲男監修)」によれば、神明神社は無かったとあります。
どちらが正しいかはわかりませんが、島津側の史料にも神社の記述が一切無いことから無かったと考えるのが自然ではないでしょうか。

岐阜県神社庁のホームページには、
「その前出している清水を軍用水として使ったので、今でもこれを薩摩井戸と称している」
とあります。
井戸は現在私有地にあるため、見ることはできません。


島津義弘の陣跡(豊久が陣取ったと言われる)に、「小池島津義弘陣所跡」と書かれている石碑があります。
関ケ原合戦 小池 島津豊久 島津義弘
雪と義弘陣所跡


もともと神明神社があった字名は神田(じんでん)、道を挟み、隣地に神社が移った先の字名は西甲斐墓と言います。

この付近は小池とも呼ばれ、地名の由来は、島津が合戦の時に使ったと言われる、上記では「井戸」と言っていますが、実際は池が地名の元となっていると聞きました。


神社の御神徳は、「天照大御神 国土平安 国家隆昌 五穀豊穣 火之迦具士命 火災消除 家内安全 厄除開運」であります。


下図は現在の神明神社の場所。
神社はかつて、今の場所の隣地にあったと由来にあります。
昭和15年発行の古地図、「関ヶ原町土地宝典」によると、1950という地番は今の土地の北側にあたります。


大きな地図で見る

関ケ原合戦 小池 島津豊久 島津義弘
雪が降った時の神明神社。

関ケ原合戦 小池 島津豊久 島津義弘
神明神社の裏の林。神明神社が林の向こうに見えます。

この写真の左方に岡があり、島津はその岡の上の方に陣取ったと言われています。




小関の方の話で、薩摩池付近に、写真中央部に見える島のような所に、「しょうごん寺(漢字は不明)」と呼ばれていた寺がありました。
関ケ原合戦時にあったかどうかは不明で、関ケ原町史には寺について記述がありません。


関ケ原歴史を語る回の曽根次太郎に、「不破の地名」(著者;不破破郡地名研究会/編、出版;不破郡教育振興会・出版1987年)という本のコピーを見せていただき、そこには「池寺」という自治会の由来に、「むかし、大池の東に、天台三〇か寺(じ)あり、池寺と」とあります。
「天台三〇か寺」というと、かなり大きなお寺であったのでしょうか。


曽根氏によると、池寺池という名前の由来にもなった池寺という寺は天台宗のお寺です。
1568年頃、織田信長により焼かれたと言われているそうです。
1571年には信長の比叡山焼きうちがあり、その3年ぐらい前で、信長は天台宗を敵視していたからだと言われています。

1568年頃というと、足利義昭を迎え入れて、義昭と共に信長は京都に上がっています。
この当時は信長は、小関の西、近江の小谷城主(滋賀県湖北町、現在は長浜市)、浅井長政と同盟関係にありました。

後の1970年、突然、長政は信長を裏切り、近江と美濃の間の国境を守るため、松尾山に家臣、樋口直房を入れて、長亭軒(ちょうていけん、松尾山城のこと)を守らせています。
しかし信長が近江に進攻すると、長亭軒(松尾山城のこと)の兵は投降・開城します。
松尾山には、信長方の城として不破光治がその後に入ります。



松尾山が対信長のために防備体制になっていたとすれば、北国街道沿いにある小関も、近江に抜ける街道として緊張関係に置かれたように思われます。
長政の兵が、多少なりともこの周辺に張り付いて守っていて、進攻の時に寺が焼かれたとも考えられます。

なお小関には現在、もともとは天台宗であった願誓寺、後の1716年に真宗大谷派に改宗したお寺があります。
(「町史 別巻」P92参照)
願誓寺と、池寺の関係は不明です。
小関には「天台三〇か寺あり」と伝わっているので、その一つが残ったものなのでしょうか。
およそ30年後の関ヶ原合戦当時は、池寺はなかったと思われます。


関ケ原合戦 小関 島津豊久 島津義弘
この写真の真ん中あたりの小さい島状になっている付近に寺がありました。
この茂みの中に、当時の寺跡をしのぶ石碑のようなものが今もあると聞きました。




地元の方は、たくさんあった五輪塔はここにあった寺の関係で、置かれるようになったのでないかと言っていました。
時系列で言うと、合戦後にはすでに寺は無いので、五輪塔が寺の関係であったするなら、合戦の前からすでにたくさん置かれていたのでしょうか。
または、すでに寺はなかったが、寺があったという由来が地元にあって、この地で亡くなった兵士を弔うために、五輪塔を置いていったのでしょうか。


地元の伝承で一本伸びている木は、触ると「腹が痛くなったりする」ので、切らないようにしているそうです。
今は冬なので枯れ木にように見えますが、今年の夏に見たとき、葉はありました。

その方はご自分の畑に入る時、塩をまいているそうです。
今さらながらですが、この地で亡くなった戦死者を弔う気持ちが大切です。


五輪塔や木が、21世紀に生きる私達にも、いろいろなことを語りかけてきます。
五輪塔 薩摩池 島津義弘

薩摩池 島津義弘

小関地区の陣跡 薩摩池と史料をめぐって1

前回のブログの「小関八幡神社・若宮八幡神社由緒」の中に、「細田」という地名があります。
この小関の小字名は細田です。
先に紹介したように、関所があったので小関と呼ばれていました。



昭和15(1940)年1月発行の帝国市町村地図刊行会発行の「関ヶ原町土地宝典」に、大字名は関ケ原、小字名は細田となっています。
小関の方に、上記の大変貴重な宝典(地図)を見せて頂く機会を得ることができました。

この宝典は地主の方に配られたので、一般にはでまわっていない資料です。
地図に地番が記してあり、大変参考になりましたので紹介します。


序文に、本書の発刊は当時国を挙げての「(日本紀元)二千六百年大典奉祝に相和(調和するの意味)」する、記念事業的なものであると書かれています。
書かれたのは昭和15(1940)年1月、当時の町長の川崎好一氏です。

これは時代的意義についてで、本書は記念事業として作られたものでないと、考えられます。
さらに、「今や我が国は支那事変の第四年を迎へ八紘一宇(「はっこういちう」と読み、世界を一つにし、一つの家のように和合させることを意味)の大旆(「たいはい」と読み、堂々たる旗印の意味)を翳して(「かざして」と読み、手に持って掲げるの意味)挙国一致東亞の新秩序建設に邁進している」
とあります。

この年は、島津義弘陣所跡碑、大谷刑部少輔吉隆(継)碑、平塚因幡守為広碑と、町内で三つの石碑ができた年です。
町内で一番たくさん、石碑が作られた年です。
三つの碑はいずれも9月15日にでき、その当日は町内、祝賀モードでいっぱいになっていたのではないでしょうか。




関ケ原合戦 薩摩池 小関 北国街道
上の写真は北国街道から薩摩池へ入る三差路。
角に祠があります



関ケ原合戦 小関 島津豊久 島津義弘 お地蔵 祠
北国街道沿いにある小関の他の祠


小関に関係する不破関は、昭和47(1972)年~53(1978)年の間、5回に分けて岐阜県が詳細に発掘調査することで、はじめて全貌が浮き上がってきました。
土塁が昔からあることはわかっていても、鉄道工事のために残土を盛ったものだとか、住民にとってはその程度の認識であったそうです。
土塁などは生活に関係ないものなので、無理からぬことと思われます。

発掘調査の結果、たくさんのことがわかってきたということです。

大関(不破関)は詳細な調査がなされましたが、関ケ原町史によれば小関について学問的な検討が何もなされていないとのことです。
費用や付近住民の方の理解が必要ですが、発掘調査がなされれば、様々なことがわかる可能性もあります。

なお薩摩池付近に住んでいる方から、今から数年前、薩摩池西方の土塁を、数人が来られ、いろいろと調べてまわったことがあったが、何も出てこなかったと聞きました。

壬申の乱 不破関 不破の関跡
上の写真は不破の関跡。小関から距離で1キロぐらいです。

関ケ原と関っ娘♡と私

こんにちはconaです。
お久ぶりです
2月より関っ娘♡始動しましたね

さてさて今回
衣装のデザイン、イラストなど色々やらせて頂きました☆
イラストご紹介~

ira00

本当はもっとたくさん出来ると良いのですが…

やりたいなぁ~出来るかな~





三成が戦勝祈願した八幡神社と、小関地区につたわる言い伝え3

この薩摩池の西方に、土塁が残っています。
伝えによると、以前はもっと高かったが年月が経って、低くなったそうです。

関ケ原合戦 薩摩池 小関 土塁
比較的高く残っている土塁

関ケ原合戦 薩摩池 小関 土塁
なだらかになっている土塁と見られるもの


関ケ原合戦 薩摩池 小関 土塁
畑の向こうに、低くはなっているものの、横一線に土塁が残っているのが見えます。
なおこの道路の先は道幅狭く、急坂あるので「自動車通行困難」の掲示板があります。普通乗用車は通り抜けできませんので注意ください。





関ケ原合戦前、松尾山は三成の命で城として再整備されたことが最近になってわかってきました。
岐阜県教育委員会が調査した、岐阜県中世城館跡総合調査報告書第一集に調査結果、また「岐阜の山城ベスト50を歩く三宅 唯美・中井 均 (編)」にも、松尾山城について書いてあります。

この土塁について、関ケ原合戦の時に構築されたのではないかと書かれている本が何冊かあります。
もし三成がそこまで考えて事前に陣地を作っていたならば、わくわくします。
伝えが地元に残っているかどうかを聞いてみました。



すぐ近くに住む方に聞くと、いつ頃から土塁があるかわからないそうです。
小関の関所の関係で土塁が作られたのでないかと言っておられました。
今の段階では、672年の壬申の乱を契機に作られた、不破関(ふわぜき)と関連して作られたと考えるのが自然と思われます。
史料としても残っていないようなので、学術的な調査が待たれます。


島津が当時残っていた土塁などを、陣地として利用したことは考えられると思われます。
薩摩池付近は、林や土塁が盛ってある所は水はけが良いのですが、もともとは川の扇状地であるような所なので、林の東方はややぬかるんでいます。
合戦前日からかなり雨は降ったようなので、東から西へ攻めた東軍側は、不利になったと思われます。
守る側として、かなり有利な地に陣地を構えたと考えられます。

関ケ原合戦 小関 島津豊久 島津義弘 薩摩池
薩摩池付近より、義弘陣所跡のある林の方を見る。
手前の畑は湿地状で地面はややぬかるんでいる。





壬申の乱の後、戦いに勝利した大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)は、関ケ原に関所を作りました。
当時からすでに道はあったと思われますが、政治的な目的で作られた東山道(後の中山道)というと、意味は異なっています。
関所ができた後に、東山道はできました。

不破関(大関)が作られたと同時ぐらいに、北陸方向に抜けていく要衝を扼するため、北へおよそ1キロ離れたこの地に、関所が作られたと思われます。
関所の目的は、非常事態、天皇の地位にかかわる重大事態が発生した場合に、中央での非常事態が地方に波及するのを事前に防止することにありました。
機能は、警察的機能と軍事的機能があります。
扼するとは、「要所を占める」の意味です。(引用 デジタル大辞泉)
小関(小さい関)という地名は、関所があった名残りです。



「関ケ原町史 通史編別巻」P251には、
「小関には外郭(上宮と下宮をつなぐ線)があり、その内側に約64.8㎡の庁舎があり、庁舎の両端に榎(えのき)が植えてあった。
代々植えつがれてきたが、昭和の時代になってその両端の木は枯れた。
上の木はその下を馬が通ると時々動かなくなるので、里人は神がいると思ってこれを祀った。
下の榎木は釣瓶下しが出るという話が伝わっている。
今は両方ともなくなっている」
とあります。
上に書いてある、上宮と下宮というのは呼び名は、それぞれ小関にある若宮八幡神社と八幡神社ということで間違いないように思われます。

釣瓶下しとは「つるべおとし」と読み、
「京都府、滋賀県、岐阜県、愛知県、和歌山県などに伝わる妖怪。
木の上から落ちて来て、人間を襲う、人間を食べるなどといわれ」
ています。




地元の方が持っておられた、「小関八幡神社・若宮八幡神社由緒」という覚え書きのようなものを見せて頂きました。
地元の方による神社の由緒を後世に伝えていく、小関の大切な覚え書です。
引用させていただくことを、お願いしました。

「大宝元(701)年 当社創建年紀は不詳としながらも、この頃までに不破関(大関)が設置されると同時に、姉妹関である小関が当地に置かれたと推定されている。
勢い小関周辺の集落の誕生が小関村の起源と考えられる。

小関村では、その後北国脇往還を挟んで笹尾山麓に八幡神社、北天満山麓(細田)に若宮神社を祀って、鎮守(ちんじゅ)の宮として崇敬(すうけい)するとともに、街道の安全と繁栄を祈願する」
とあります。
さらに「その後、八幡神社社殿他は兵火のため焼失する」とあるので、何かの戦で焼かれたようです。関ヶ原合戦とは書いてありません。
住民の方がこれまで、大切に神社を守ってきたことを感じさせる内容です。
現在も3月の第2日曜日、10月の第1土曜日に、例祭が行われています。



三成は関ケ原に近い佐和山に居城をかまえていたこともあって地の利に明るく、山や川、池、神社、寺、さらに大関や小関など関所があった場所を巧みに利用しています。

三成自身の陣所について「関原合戦図志(神谷道一著)」には、
「前ハ関ヶ原全体ノ地形ヲ一目ニ下瞰スベク実ニ関ヶ原東西ノ陣所中第一等ノ地形ト称スルモ不可ナカルベシ」
とあります。

西軍の配置を見ると、家康に誘われる形で関ケ原の地で合戦をしたわけでなく、事前に地形や歴史を詳しく調べていたように考えられます。
こうした準備を経て、勝利の確信をもって戦勝祈願をしたのではないでしょうか。



追記です。
2014年3月23日の中井均先生による「関ケ原合戦ツアー 松尾山&南宮山編」で、たくさんのことを教わりました。
中井先生によると、小早川秀秋は松尾山に、三成の命で城を守っていた伊藤盛正を追い出して入りました。
このことから、合戦前日、毛利秀元を入れるつもりで築いた松尾山城を取られたので、かなりの危機感を持って三成は関ケ原に来たように思われます。
また南宮山の縄張図をよく検討すると、三成は大垣城で決戦をすることを考えていたようです。
南宮山を大垣城の後詰め、大垣城との関係で秀元は陣構えを作っていました。
縄張図からは、関ケ原での決戦を想定して、陣地を作っていないという事が実証されています。

さらに松尾山は、南宮山のさらに後、位置的には南南西ですが、総大将である毛利輝元が入るべく整備されていました。
そのことが縄張図を見ると、明確に言えるそうです。
三成は総大将が入るべき城を小早川秀秋にのっとられ、当初想定していなかった関ケ原で決戦せざるを得なかったというのが、松尾山と南宮山の城、陣地を見て、明確に言えることだそうです。
大谷吉継が9月3日から関ケ原の山中にいて陣地整備をしていました。こちらは松尾山との連携で、最終的な防衛ラインを作る想定、また大垣城での戦いのオプション、サブとして想定していたことは十分に可能性としてはあると思われます。
しかし、南宮山および関ケ原周辺に残る陣跡を城郭研究者としてみた場合、あくまでそれはサブ的な想定であったようです。

今後も、陣跡をつぶさに見ることで、また新しい見方が出てくる可能性があります。

お久しぶりです

お久しぶりです(*゚▽゚*) たあこです

先日誕生日を迎え、今までスキンケアに興味がなかったんですが最近は化粧水と乳液と保湿クリームをして
寝るようになりました
そしたら、逆にニキビができるようになりました(´;ω;`)わら

どうしようか困っています笑 何かいいケアの方法があれば教えてくださいわら

最近と言えば先日初めて友達と熱海旅行に行きました
海が無い岐阜県で育った私には、特に感動的な場所でした
伊豆のいちご狩りにも行ってきました
itigo.jpg
いちごとっても甘くて美味しかったです



すっごく良い場所だったんですが私にはやっぱ関ケ原が落ち着きますねわら
静岡にはまた行きたいと思います




話が変わり、関ケ原でお仕事できるのもあとわずかとなりました(´・ω・`)
交流館ではスタッフのみんなもお客様もとても優しく接してくださり良い思い出しかないので
すごく寂しいですけど、残り半月精一杯頑張りたいと思います
残りわずか、宜しくお願いします!!!

たあこでした

三成が戦勝祈願した八幡神社と、小関地区につたわる言い伝え2

三成隊と島津隊は、近江に抜ける北国街道をおさえるために薩摩池付近に布陣しました。

関ケ原合戦 薩摩池 小関 無名兵士の墓
今日の薩摩池付近、雪が降っていました。
林の手前に池があります。



薩摩池には島津義弘が布陣したと言われていますが、池はかつて、今より大きかったそうです。
ゴミが捨てられることがあったので、埋められることになりました。


かつて池は、この写真の手前の所までありました。
埋め立てられて、現在は小さくなっています。

関ケ原合戦 薩摩池 五輪塔 無名兵士の墓

下の写真で見づらいですが、写真右の切り株、小道近くまでありました。
関ケ原合戦 薩摩池 五輪塔 無名兵士の墓


大きな地図で見る
地図のAが薩摩池の場所。


池の水は、付近を流れる伊吹山や相川からの梨ノ木川の伏流水があるためか、水が枯れることはないそうです。
この付近は扇状地で、付近の畑では30㎝ほども掘ると河原石がたくさんでてきます。
この周辺は洪水になると水があふれるぐらい、水は豊富であったと考えられます。


池は昔、神社、町の所有地でした。
町の用地獲得のために、その後池は私有地となり、現在はその所有者のご好意により、私たちは池の近くに寄ることができます。



池から、五輪塔の方を見ることができます。
近所に住まれている方が、気づいたとき草や木を刈っておられると聞きました。
陣跡を見に来られる方を思って手を入れていることに、私は感動をしました。
考えてみると、合戦当時も関ケ原には人家はありましたが、関ヶ原の陣跡はもともと大部分、野原であったようなものでした。

なお五輪塔について他の方に聞いたところ、一つの石で作られているものは関ケ原において多くは、東軍の方を弔うため外から持ってこられたものであるそうです。
その例として、東軍が布陣した野上の方に、かつて大量の五輪塔があったそうです。
その五輪塔は、岡崎の方にたくさん持っていかれたそうです。
賊軍の西軍を弔うのは、徳川幕府政権下では難しかったこともあったでしょう。


関ケ原合戦 薩摩池 小関 無名兵士の墓
この五輪塔が一つの石でできているのは、持ち運びしやすいためで、一石五輪塔と呼ばれ、外から関ケ原に持ってきたものと思われます。

関ケ原合戦 薩摩池 小関 無名兵士の墓
一つの石で作られていないのは、関ケ原でも作られたと考えられます。

関ケ原合戦 薩摩池 五輪塔 無名兵士の墓
写真では確認が難しいですが、林の中、写真の真ん中奥に小さくあります。



関ヶ原町歴史民俗資料館のホームページに、関ケ原合戦300年祭写真帳があり、ダウンロードもできます。
合戦後300年、明治33(1900)年、現在より114年前に撮った写真です。

島津義弘の陣跡、他にも笹尾山や宮の上の大谷吉継の墓、陣場野写真など24枚あります。
関ケ原合戦は比較的当時をしのぶことができる風景が残っていますが、宅地開発や農地造成、河川改修、道路整備、電線柱やケーブルなどにより、景観や地形がかなり変わっていることは否定できません。
当時の景観を想像できる、貴重な写真群です。




陣跡も、日々変わりつつあります。
陣跡を探しに行き、たまたま荒れ放題の陣跡を見ると、寂しいものを感じます。
関ケ原で今、私たちが合戦当時をしのんで差し障りなく見ることができるのは、付近に住んでおられる方の心づかいと思います。
おもてなしの心に、感謝をしたいです。

第2回ゆるかわリポート完成致しました

お待たせいたしました♡!!  
第2回ゆるかわリポート完成致しました!!
(⁰︻⁰) ☝ここをクリック
今回の撮影は 喫茶 松さんです

とっても美味しかったです

是非見てください♥

喫茶 松
営業時間 7時30分~22時
定休日 月曜日(祝の場合は翌日休)
Tel 0584-43-1508


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第1回ゆるかわリポート1週間で再生回数100回突破致しました♡!!
(⁰︻⁰) ☝ここをクリック
ありがとうございます
まだまだぎこちない2人ですが残りわずか
最後まで精一杯関ケ原の魅力をお伝えしますので宜しくお願いします 

NENE自己紹介❤

IMG_20140305_153431_R.jpgねね01_R


関っ娘♡NENE

誕生日 11・25射手座
血液型 AB型

身長 151.5
好きな食べ物 チョコレート
嫌いな食べ物 ピクルス
趣味     ショッピング
好きな色   青色
関ケ原で1番好きな場所 夜景がキレイな明神の森

自己紹介
短い間ですが、関ケ原のアピールをいっぱいしていくので、関っ娘♡をよろしくお願いします

関っ娘プロフィール♡ KOKO

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関っ娘 KOKO 

誕生日 2月20日 うお座
身長  153.5cm 
血液型 B型
趣味  食べること
好きな色 赤色
好きな食べ物 いちご
嫌いな食べ物 かぼちゃの煮物

関ケ原で好きな場所
ホタルがいる藤古川

自己紹介
地元関ケ原が好きです
短い期間ですが、関ケ原に少しでも多くの観光客が訪れるように
がんばります(*゚▽゚*)
よろしくお願いします

三成が戦勝祈願した八幡神社と、小関地区につたわる言い伝え1 

このブログで以前に書いた「島津義弘の陣跡①~⑪」「豊久の生き方①~⑥」は、主に書籍や史料により書きました。
これから書くブログ「三成が戦勝祈願した八幡神社と、小関地区につたわる言い伝え」「小関地区の陣跡 薩摩池と史料をめぐって」は、関ケ原町内に残る伝承を加えながら書きました。
そのため義弘や豊久の陣跡場所など、通説と異なる見解もあります。
検証はされてないので、気軽に読んでいただけたら幸いです。
またわかりやすく書いたつもりですが、通説と異なっている点でわかりづらくなることをご了承下さい。



関ケ原合戦の時、三成は笹尾山に陣を構え、下の写真の八幡神社にて湯を沸かし、この神社に供えて(湯の花神事)戦勝を祈願したと伝えられています。

この神社は昭和3(1928)年に改築され、昭和4(1929)年に村社となりました。
「関ケ原町史 通史編別巻」P46に、「現存する最も古い棟札は享保3年(1718)のものである」とあります。

下の写真は八幡神社の境内。
所在地は「大字関ケ原字一二の湯」です。
この神社は応神天皇と玉依姫を祀っています。

笹尾山 石田三成 八幡神社

下の写真は案内板
笹尾山 石田三成 八幡神社

下の写真は笹尾山に登ることができる階段。
登ると、まもなく三成の陣跡にでます。

笹尾山 石田三成 八幡神社

下のマップは神社のある場所。八幡神社の名称はありませんが地図の中心地です。

大きな地図で見る


笹尾山麓の八幡神社から南、国道356号を渡った向こう側、ほぼ直線距離で300mほどの所に、島津義弘が陣を構えたと言われる薩摩池があります。

薩摩池付近は、小関(こぜき)という地名です。
付近に住む方、お二人に付近の言い伝えについて偶然聞くことができたので、整理して紹介します。
何度もうかがって、親切に対応頂いて本当にありがとうございました。
なお小関には歴史にさらに詳しい方が住んでいたのですが、すでになくなられていますので、以下は参考に読んで下さいませ。




お一人の方は大正15(1926)年に関ケ原で生まれ、家族で開墾のため北海道の根室に行かれました。
「関ケ原町史 通史編下巻」を参照すると、昭和4(1929)年に株価暴落で金融恐慌がおこり、もっとも打撃を受けたのは生糸でした。
岐阜県は生糸生産県であり、主要な現金収入源が失われて農村部は貧困に悩み、そうした中での移住であったのかもしれません。

小学校卒業と同時に、再びこの地に戻ってこられました。
北海道から戻る車中の様子で、こちらの方は文化が進んでいると、感想をもったそうです。

以前から気にかかっていた、薩摩池近くに残っている五輪塔のことについてうかがいました。
現在薩摩池近くに見ることができる五輪塔は、わずか数基しか残っていません。
その方の家の伝えによると、明治の頃、100、200ぐらいはあったそうです。
帰ってきた当時、すでに五輪塔の数はかなり少なくなっていました。

伝えられているお話で、東京の方などがこの地に来て、戦ったご先祖を祀るために、持っていかれたのではないかということでした。
ほとんどが持っていかれたということなのですが、100、200という数は相当な数なので、多くの人がこの地で亡くなったということがあったからと思われます。

関ケ原合戦 薩摩池 五輪塔 無名兵士の墓 
上の写真は、薩摩池近くに残っている五輪塔。


痕跡はありませんが、五輪塔が残る林に、昔、神社がありました。
関ケ原合戦 薩摩池 小関 若宮八幡神社
写真の右手の方に神社はあったと思われます。
また写真では左、林の東の畑の方には寺があったそうです。
盛りあがっている地盤が写真で確認でき、この盛り土の所に神社がありました。



神社は若宮八幡神社という名前で、応神天皇と玉依姫、仁徳天皇の3神を祀ってありました。
確かな記録では「関ケ原町史 通史編別巻」P45に「最も古い棟札は元禄14(1701)年のものである」とあります。

大正8(1919)年に、初めに紹介した八幡神社の境内に若宮八幡神社は移転されました。
八幡神社の西側に、現在はあります。
町史によると若宮八幡神社は、古くは「上ノ宮(かみのみや)」と言われていたようです。対してこのブログで最初に紹介した八幡神社は「下ノ宮(しものみや)」です。
古くからこの二つの神社は、祭りは合同で行われていたようです。
※小関、小池在住の二人の長老の方に聞くと「上ノ宮」は八幡神社、「下ノ宮」は若宮八幡神社でした。


なお小池在住の96歳の小林昂様に聞いたところ、八幡神社はかつて現在地にはなく、小関地区内、北国街道に面して立つ常夜燈の近くにあったという伝承があるそうです。
そうだとすれば、合戦時には現在地に神社はなかった可能性はあります。

大きな地図で見る
現在常夜燈があり、小林さんによると八幡神社があったのではないかと伝わっている場所。




旧若宮八幡神社近くの薩摩池に義弘が布陣していたと伝承にあるのですが、現在の八幡神社近く、三成の西方にも武将が誰か居たのでしょうか。

「関原合戦図志(神谷道一著)」P22によると、
「織田信高及ビ大坂弓銃隊陣所 関ヶ原始末記ニ[石田三成不破関ケ原ニ出張シ小関ノ北ノ山際ニ陣ヲ取ル伝々其ノ左(右の間違いと思われる)ノ山際ニ織田小洞信高大坂黄母衣衆(きほろしゅう)段々ニ扣(ひかえ)タリ]トアリテ三成陣所ノ西北ナル北国街道ノ山側ニ陣セシモノナルベシ然レ○其陣地ハ詳シカナラズ」 
とあります。

この記述によると、確かではないですが、織田信高と大坂より黄母衣衆が関ヶ原に来て、北国街道をおさえるために位置的には、現在の八幡神社周辺に陣を作ったのではないでしょうか。


新訂寛政重修諸家譜に合戦時のことで記述があります。
『五年関原の役おこるのとき、采地(領地の意味)にありて弟雅楽助信貞と相議り、東照宮(家康)の御麾下(配下)にはせ参るのところ、既に凱旋ある(「戦いに勝って帰る」の意味で、合戦に間にあわなかったことを意味しているか)により、美濃路(ここでは関ヶ原のことか)に出て拜謁し、のち御麾下に属す』


新訂寛政重修諸家譜は、徳川の時代に徳川側に提出したものを元に作られているので、その関係を考えながら読んでいきます。



西軍に参加したとは、書いてありません。
文章の内容は、
「合戦が起こった時、領地に居て、弟の信貞と着論した。
(どちらに参戦するかどうかについてか?)
家康の側につくつもりで馳せ参じたが、すでに家康側が勝ってしまっていたので、関ケ原の方で家康に(合戦後か?)会い、家康の下につくようになった」

ここでは家譜の成立の経緯で、西軍参加と書かなかったこと。
この文章の裏を読むと、東軍につけなかったために、西軍についていたとも読めます。

関ヶ原始末記に西軍に参戦したと書いてあり、これと新訂寛政重修諸家譜、周辺の状況をあわせて憶測を入れて推測すると、「家康の側につくつもりで馳せ参じた」と書いてあるのは言い訳として書いたのでないか。
東軍参加がかわななかったため、しかたなく、西軍に参加せざるをえなくなったということを言いたかったのでしょうか。


信高は信長の7男で、合戦の前年12月に、近江国(滋賀県)愛知郡で2千石に加増されています。
合戦前、三成は大坂や京都、さらに近畿周辺を支配下におさめました。
三成が大坂などに居る間も、三成の父や兄が、居城のある佐和山城を中心に三成の指示で、周辺の諸将を西軍に引き入れることを行っていました。
また信長の嫡孫、信忠(信高にとっては甥っ子)も西軍につき、美濃の武将のほとんどはそれにならいました。



三成の居城、佐和山に近かった信高は、「秀頼御為(のため)」と言われると従わざるをえなく、西軍に加わったのかもしれません。
家康は合戦後、信高に対して厳しく所領没収としています。

なお「関ヶ原の役 日本の戦史(旧参謀本部編纂/2009年9月)」P305 によると、兵がどれだけかはわかりませんとあります。
2千石の所領なので、それほど数はいなかったと思われます。
家康の会津出陣での軍役を参考にすると、一人役(100石に一人)で、20人ほどになります。
実際にはもっと多いと思いますが、いずれにしても軍役から言うとそれほどの数では無いと考えられます。

信高ですが、先般引退したスケート選手の織田信成は、信高の子孫ではないかということで話題になりました。

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