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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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昨日、桐野作人先生の関ケ原合戦ツアー、島津退き口編が開催されました

関ケ原合戦 決戦地 島津
本日朝9時、関ケ原合戦決戦地付近より、島津が退いた方面を望む風景です。
山の尾根がきれいでした。





昨日は朝の8時半に名古屋駅を出発してほぼ1日、関ケ原合戦の島津の退き口に由来あるところをまわるツアーを開催しました。

阿多長寿院盛淳の墓と碑がある琳光寺様(大垣市)、
島津豊久の菩提所である瑠璃光寺様(大垣市)にご協力を頂きました。
誠にありがとうございました。


参加者は36人で、皆さん熱心に桐野作人先生の熱のこもったお話を聞いておられました。
下の写真は、瑠璃光寺の鐘楼に書いてある文字の解説を聞いているところです。


関ケ原合戦ツアー 島津の退き口編 桐野作人先生 瑠璃光寺


関ケ原合戦ツアー 島津の退き口編 桐野作人先生 瑠璃光寺
同じく鐘楼付近。


関ケ原合戦ツアー 島津の退き口編 桐野作人先生 白拍子谷
豊久が傷が深いため、地元の方の案内で行って自害したという伝承がつたわる、白拍子谷。
先生の解説を聞いている所です。

白拍子谷には、地元の方が作ったと思われる「白拍子谷」と書いてある石しかなく、この地についての紹介は何もありません。
地図にも、この地の地名はのっていません。

周辺の川にはススキが生え、合戦当時と思われる風景が山々や休耕田などに見ることができます。
関ケ原合戦に関わるスポットの中で、穴場ともいえる場所です。



天気予報では、岐阜は夕方より雨とのことで、実際には白拍子谷を過ぎたあたりで、雨がポツポツきました。
ツアーの主なポイントは雨は降らず、これは参加者皆様の心がけだと、私は信じております。
下の写真は雨の中でのツアーの模様で、最後に行った治水神社(海津市)です。
関ケ原合戦ツアー 島津の退き口編 桐野作人先生 治水神社


江戸時代になって江戸幕府の命により、揖斐川、長良川、木曽川の三川の治水工事を薩摩藩がすることになりました。
その偉業を顕彰するために作られた神社が、治水神社です。
平田靱負(ひらたゆきえ)が祭神です。



この工事の経緯が、関ケ原合戦合戦後の薩摩魂を感じさせる逸話なので少し紹介します。
すでに小説や書籍、テレビなどで紹介されてご存知の方も多いと思います。

この事業は宝暦治水とも言われ、桐野先生によると、宝暦治水は大変な困難によりなされたのですが、薩摩藩の方もその偉業を忘れかけていました。
徐々に再評価するひとが現れ、今に至っているそうです。
治水神社で頂いた資料には、「薩摩の経済を破綻させたこの悲劇の大工事は、永く伏せられていました」とあります。

神社は昭和13(1938)年5月25日に創建されています。

岐阜や三重の方は今でも、薩摩の方々のおかげで安心して暮らしていけることに感謝しています。
40年ぐらい前、岐阜市出身の私は小学校の遠足でこの地を訪れました。
ただ、長らくこの地を訪れたことを私は忘れていて、この仕事をきっかけに思い出すことになり、反省をしなければいけません。



桐野先生には本に書かれておられないお話を含め、車中でまた現地で、ありがとうございました。




なお、今年の8月頃に見た時、社殿の正面に薩摩の家紋が二つありました。
昨日見たところ、上の写真のように、郵便局のマークを逆さにしたような家紋が左側にありました。

神社の方に聞いた所、これは平田靱負の家紋だそうです。
靱負は、宝暦治水の工事総責任者で、幕府の検分が終わった後に亡くなっています。

まっつんでした。


追伸;上記の治水神社ですが、所在地は海津市と訂正させて頂きました。
4日にアップした時には津島市となっていました。
間違いのご指摘、ありがとうございました。
11月7日記

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