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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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島津豊久の生き方③

合戦の前日14日夜、午後7時頃と言われていますが関ケ原に出発します。
現在の歴では10月21日。
真っ暗な中に冷たい雨が降り、大変な苦労をして移動しました。
夜が明ける前に関ケ原に着き、現地を見ながらどう布陣するか考えて備えました。


豊久は島津隊の先鋒(せんぽう)をつとめ、およそ1町歩(およそ100メートル)義弘の東南、三成隊からは一町歩離れて布陣します。
当時、人があまり住んでいなかったようですが、現在の小池地区で、現存する神明神社の裏ですが、周囲より土地が小高くなっています。
島津隊の右手備(え)には、山田有栄が着陣します。


島津本隊は義弘、義弘は小関(こぜき)村の薩摩池付近に、着陣します。
当時は、集落をそれぞれ村と呼んでいました。
村は現在、地区や集落と言い換えられます。

地元の方によると、以前は薩摩池の裏に、神社があったと言われています。
また小関という地名にあるように、関ケ原には壬申の乱の後、三関の一つ、不破関がありました。
不破関は東山道、のちに中山道となる、街道を挟んだ場所にありました。

不破関には土塁があり、義弘の布陣した北国街道(北国脇往還)にも、不破関よりも小さいですが関があり、土塁もありました。
地元の方によるとその当時の土塁が、薩摩池の後ろに現在も低くなっていますが残っています。
島津隊は、その土塁を備えとして活かし、北国街道を守りました。


桐野作人氏によると、西軍の先鋒は島左近や宇喜多秀家がつとめ、島津隊、小西行長は2番備えとして配置されたと言われています。
そのため、石田隊より少し引いた位置に布陣したと思われます。



合戦日の15日、いつ頃か分りませんが、義弘の近くにいた阿多長寿院盛淳が豊久の陣に来ます。
馬上より豊久に、別れのあいさつをします。

関ケ原合戦 島津豊久 義弘の陣跡
写真は義弘の陣した方面から、豊久の陣した方を見る。


豊久は2万8千石の大名です。
大垣市上石津に残る碑に、豊久公と書いてあるのはその所以(ゆえん)と思われます。
盛淳もまた薩州(さっしゅう)で検地など、重要な仕事をしてきましたが、盛淳の碑には「公」と書いてありません。
盛淳はもともと出家していたのですが、豊久の伯父であり実質的な当主の島津義久より、世俗に戻れとの命を受け、義久の側近になります。
盛淳は元々、室町幕府の有力守護の一族の出です。
この時豊久は31歳、盛淳は53歳、盛淳は義弘の老臣だったので、馬上でも失礼にはあたらなかったのでしょう。


豊久から「今日は味方が弱い。今日の鑓(やり)は突けまじきぞ」と言い、互いに笑みを交わして別れます。
今日の軍勢では味方が弱い、このたびの戦い、負けることがわかった上で腹を決めた、というような会話です。
二人とも、島津のために戦うという強い共通認識があったからこそ、言える会話ではないでしょうか。
死に際を幾度も越えてきた体験が、二人を結びつけていたのでしょう。




やがて三成より、使者が来ます。
豊久は「わかっている」と返事をしますが、その使者は馬上より口上を言ったので、豊久の家臣たちは口々に、「馬上よりの口上尾籠(「おこ」と読む、礼儀をわきまえていない)なり、討ち取れ」と言います。

三成は実質上関ケ原の戦いで、大将の役割をしていました。
その当時の習慣で、使いは非常に大きな役割であり、いわば三成の代理人とも言え、当然に敬意を払うものと思われます。
確かに不礼であったに違いないのですが、よほど切羽詰まっていたと想像されます。
使いの八十島助左衛門は、島津に知己がある人物でした。
島津の家臣は、三成からの使いを重要とは意識していなかったようです。
西軍としてでなく、島津のために戦っているんだ、という認識が兵一人ひとりにまで行きわたっていたことが想像できます。



次に三成が来て、「これから敵に向かうので、後方から(突いて)敵に攻めかかってほしい」と言うと、豊久は突き放したように言います。
「今日の義(戦)は面々手柄次第(それぞれの腕前で)に相働くべし(戦うべきでないか)、御方もその通りに御心得られよ(あなたもそのつもりで心得てはどうか)」


実質的に総大将であった三成が合戦中に動くのはよほどのことで、わざわざ計三度笹尾山の方から来たのは、島津の力を、最後の切り札として当てにしていたのでしょう。
もともと2番手で備えているとするならば、島津隊は勢力をほぼ温存していました。
もろくも期待は裏ぎられ、三成は「好きにせよ」と応えたのが、せいいっぱいでした。
間もなく石田隊も、破れ去って敗走します。



島津は鉄砲も放たず、敵が押し寄せてくるのを待ちます。
勇んだ豊久は、「今が打ってでる時だ」と馬にのって弓矢を持ちます。
すると義弘の家臣、赤崎丹後は、「まだ早い。膝に敵がかけ上がるくらい寄せつけるべき」と言います。((桐野作人著「関ケ原 島津退き口」P140引用、以下参照))
丹後は、義弘が三成に「薩州の中でも、武辺に優れている物だ」と紹介したぐらいの人物です。
義弘の家臣として、豊久をサポートするために共にいたのでしょう。


少し経ち丹後が、「時分よく、御座あるべし(ちょうど今、行かれる時です)」と言います。
再び豊久は馬に乗って、鉄砲を放ちます。
すぐに敵味方が入り乱れて、戦うようになりました。

少し離れた所にいたと思われる義弘も、必死に防戦します。

関ケ原合戦 島津豊久 西軍の進軍 多良街道
写真は、西軍の大軍が大垣城から牧田川沿いに関ケ原まで進む時、通ったといわれる多良街道です。
この先、関ケ原町小関地区まで歩いておよそ9㎞です。
ここは東伊勢街道、九里半街道と部分的に重なっていて、街道の様子を伝える部分がこの写真の所、およそ70m残っていると、案内板に書いてあります。

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