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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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島津豊久の生き方④

味方が苦しいときに助けないなんて、島津らしくありません。
島津隊は、三成にあまりに冷たく自分勝手な対応と思われるかもしれません。


大将の義弘は三成と親しく、豊臣政権となってから三成は秀吉とのつなぎ役をし、恩を感じていました。
しかし300里(およそ1000㎞)離れて参戦している家臣や島津の兵は、義弘に従って参戦したまでで、自分たち、島津のために戦うという意識は他の隊よりより一層強かったのではないでしょうか。

三成に秀頼のためという純粋な気持ちがあったにしても、それは島津の兵にとって別の話でした。


司馬遼太郎の小説「関ケ原(新潮文庫版中巻)P255」には、不思議な行動になった理由に島津が「上方の情報にうとかった」ことをあげています。
「遠国(おんごく)のせいもあり、言葉のせいもある」と述べています。
ひょっとして三成の使者が放つ言葉を、方言の違いなどですぐには理解できなかった、またバカにされたと思ったということも、あったのかもしれません。

後の江戸時代の宝暦治水の時、薩摩からきたたくさんの藩士が犠牲になっています。
一番最初の犠牲者二人は、幕府側の役人に侮(あなど)られ、それを不名誉と自害しました。
それほど、名誉を重んじていました。

司馬は、島津が鎌倉以来の名家であること、軍団が郡を圧して強く「最強である」と、中央から、また諸大名の中で、尊敬の念をもって見られていたこと、また方言が他の隊にはわかりづらかったことで、島津が諸侯とあまりつきあわなかった、と述べています。



義弘は一生懸命に最初は家康、次に三成を支えようと、機会を捉えては国の兄、義久や嫡男の忠恒に応援を求めます。
家康のことばをそのまま受け止め、鳥居元忠が籠城する伏見城に行ったりします。

西軍に参加するようになってからは、清洲城に布陣した時、赤坂陣への夜襲を提案したとき、三成らのペースでどうも島津らしい戦い方ができません。
諸侯の中でもまれている中央の世界で生きてきた家康や三成と比べ、義弘や家臣達は良い意味で地方の、純粋培養的に、人の話をそのまま信じやすいまじめな性格であったのかもしれません。
この性格は、豊久や、島津隊全体に共通するように思われます。



朝鮮に行ったときは島津らしい戦い方ができたのに、日本の中心地の京や西濃に来ると、諸侯の複雑な思惑が入り交じり、いつものような戦い方ができません。

味方であったはずの小早川秀秋、脇坂安治らも敵となります。
こんなことは、島津の戦いではありえない。
もうがまんできないと、三成を見限ったのかもしれません。

関ケ原合戦 島津豊久 島津軍旗 十字 
烏頭坂の豊久の石碑。この旗は丸に十字であるが、これは江戸時代になってからで、戦国時代は十字だけであったといわれます。





少し戻りますが、ほぼ敗退が決まった頃、義弘、豊久、盛淳ら主だった武将が集まり軍議をしました。
義弘は、ここにとどまって戦い、戦死するか、と言います。


豊久は、自分は捨て身となるつもりでいました。
「すでに敗退は決まったが、(義弘が)戦ってここで死ぬことはない。我らがここで戦死すべきである。(義弘は)家来を率いて帰国されよ」、
義弘はあくまで戦死するつもりなので、豊久はさらに強く言います。
「国家(薩州)の存亡は、あなたお一人の身にかかっていることを忘れないで頂きたい」


31歳の豊久が伯父で尊敬し敬っているとはいえ、66歳の義弘の為に命を捨てるつもりで殿(しんがり)をするとは、とても私達には考えられません。
義弘はそれを許しているわけですから、自分だけが助かりたいということは、互いに発想にないのです。
ここでは国家と言っていますが、薩州、島津のことで、自分の命を越えたもののために、命を捧げようとしたと言えましょう。
先に島津隊に来た三成は、この島津隊の世界とは別の世界の人であったであろうし、この潔さに、今も私たちは惹かれるのです。



そう言って豊久は義弘を説得し、自分は家来13人を率い大軍の中に討ち入り、家来ともども全員が戦死しました。

豊久の首を討ちとったものは、福島正則の嫡男で、正之、徳川家康の養女、満天姫を正妻にしていますが、その家来で小田原浪人、笠原藤左衛門と言われています。
この正之は後に、正則の手で餓死させられるという、不幸なことになりました。
この事件は、豊久に由来するものではありません。



豊久の甲冑と言われる物が鹿児島には現在も残っていて、豊久の6代子孫が江戸交代に行ったときに、偶然に鎧があるのを発見して手に入れています。
鑓に突かれたあとが二か所、糸が切れている所があります。

鹿児島に残っている「本藩人物誌」「称名墓誌」を元に作った「鹿児島士人名抄録 (上野尭史著)」では、ここで終わっています。


豊久他全員が討ち死にし、豊久は福島隊のものが討ちとったとここでは書かれていますが、関ケ原に近い大垣市上石津地区につたわっている伝承では、少し違います。

どちらが正しいか、ひとまず置いて見ていきます。

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