関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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ルポ② 薩摩池から関ケ原町歴史民俗資料館に

桐野先生から車中で、歴史の楽しみ方として参加なされた方へのメッセージがありました。
本日は、記録に残っているものと、伝承として残っているものの、両方を楽しんでいきましょうというお話でした。

島津の退き口については諸説あり、私たちがツアーの行程を考えるとき、いろいろな考えが行き交うこともありました。
そうした中で開催当日を迎え、大きな柱を桐野先生にご用意して頂いていたように思いました。



島津隊は近江に抜ける道、戦略上重要な、北国街道をおさえるべく、石田隊と挟んで陣しました。
桐野先生によると島津は二番備えなので、西軍の陣地、石田三成や宇喜多秀家と横一線でなく、少し奥まった所にあったのではないかと考えておられます。


島津が二番備えであるとは、鹿児島に残っている史料「旧記雑録」などや、また東軍の側の史料にも残っていますが、これまであまり言われてこなかったことのように思われます。
よく島津が傍観していたということが言われますが、もともと二番備えであると、合戦当初は出る機会を待っていたということになります。

関ケ原合戦 島津の退き口 島津義弘 薩摩池
島津隊と小西隊の陣跡の間には、梨の木川という小川が流れています。
上の写真の向こうの方です。
指を指しておられるのが、桐野作人先生です。


島津本陣、義弘がいたとされるこの地は、薩摩池と呼ばれています。
いつも訪れる人が無くひっそりとした薩摩池ですが、周辺はきれいに清掃されていました。

合戦の日、義弘のすぐ横には、直後に殿(しんがり)の戦いをする阿多長寿院盛淳(あたちょうじゅいんせいじゅん)もいました。

なお盛淳を「せいじゅん」と読むか、「もりあつ」と読むか、後に質問をたくさん受けました。
桐野先生は「せいじゅん」という立場を取っておられますが、どちらが正しいかは不明と言っておられました。

関ケ原合戦 島津の退き口 島津義弘 薩摩池


鹿児島に残っている史料「旧記雑録」によると、盛淳は義弘が退くのを助けるため、この本陣の地にとどまって敵を迎え討ったように書かれています。

盛淳は三成が挙兵した頃、義弘がいない留守を守るために国許(くにもと)に居ました。
その後7月末に義弘からの連絡を受け、手勢など70人余りを引き連れ、上方に向かいました。

合戦の二日前、9月13日に大垣に着き、義弘らと合流します。
義弘は盛淳の到着を非常に喜び、自ら迎え出て、手をとって陣地に招き入れました。


関ケ原合戦 島津の退き口 島津義弘 薩摩池
合戦の日、盛淳は義弘から、具足、羽織、甲を拝領し、身代わりとなって義弘が押し出すことを助けます。
家来に、義弘がすでに遠くに行っていることを聞いて確認すると、満足げに「あとはわしが替わりに、討ち死にするだけだ」と、「死に狂い也」と大声をあげて、自刃しました。
「島津兵庫頭義弘、運尽きてこれより腹を切る。日本の諸侍はこの首を我が手にかけたと、あとで広言すべからず」
と述べたとも言われています。
名誉を重んじる、島津の大将を演じ切ったのです。

このあと、それを見た郎党たち283人は、「われ送れじ」と、敵中に切り入り、わずか50人が生き残って落ち延びたと言われています
(桐野作人著「関ケ原 島津退き口」P242引用、出典「薩摩旧伝集」、他参照)

上石津に残る盛淳の伝承では、義弘の殿(しんがり)として、大垣市上石津町牧田の上野の方まで行って亡くなったと言われ、盛淳の墓があります。
どちらが本当かと思うところですが、史料と伝承、両方を楽しんで見ていくことにします。



関ケ原町小関(こぜき)地区にある薩摩池は、大きな史跡でなく、町が配布している「関ケ原合戦 史跡めぐり」「せきがはら巡歴手帖」に紹介はありません。
町の案内板は建ててあり、周辺の道には車を停める所もないため、徒歩で来ることになります。
笹尾山駐車場から歩いて、10分ぐらいで行くことができます。


この小関地区には、関ケ原合戦の前には、不破の関と相互補完的に、不破の関と比べると小規模ですが関所がありました。

その時の由来が、地名となって残っていると言われ、その当時と思われる土塁も残っています。


今年の夏は雨が大変少なかったので見に行ったところ、小さな薩摩池にもかろうじて水は残っていました。
水が少なくなって、ザリガニは苦しそうでしたが。
この裏には現在も池寺池という池があり、島津が他の隊からの侵入を敵味方問わず許さない戦法をとったため、10何人か、島津をさけたためにおぼれ死んだと言われています。



関ケ原合戦 島津の退き口 島津義弘 北国街道 北国脇往還
上の写真は薩摩池から、旧北国街道(北国脇往還)が通っていた細道に戻る所です。
車がすれ違うのが難しいほどに細い道が、この小関地区をめぐっています。
この写真の先の北国街道の一部は、かつては道脇に水が流れ、もっと人が歩く部分は狭かったと地元の方に聞きました。


写真をそのまま直進し、突きあたりを左、さらに小道の2本目を右に曲がって抜けていくと、その先に国道365号があります。
再びバスに、乗車します。



関ケ原合戦 島津の退き口 島津義弘 薩摩池
写真では見えませんが、後ろの林の中に、五輪塔が二か所、少し残っています。
周辺の方に聞いたことがある話で、以前はたくさん五輪塔があったが、東京(遠方から来た方のことでしょう)か、島津の関係の方が少しずつ持って行ったのではないかと話しておられました。


関ケ原合戦 島津の退き口 島津義弘 薩摩池
少し離れて薩摩池方面を見ます。


次は下の写真、関ケ原町歴史民俗資料館です。
関ケ原合戦 島津の退き口 関ケ原町歴史民俗資料館

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