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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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ルポ③ 関ケ原町歴史民俗資料館から、烏頭坂へ

関ケ原合戦 関ケ原町歴史民俗資料館 島津の退き口 島津豊久
関ケ原町歴史民俗資料館は館長の方がたまたまおられたので、合戦があった1日の概略を大型ジオラマを前に、わかりやすく解説頂きました。

資料館のジオラマは当日の諸将全体の動きを、流れをもってつかむことができて、目にうろこです。
いかに三成が地形的に有利な陣を作ったか、西軍有利で午前中進んだ所以が、良く理解できました。
関ケ原というと、陣跡に来られる人が多い中、ちょっと足を運んでみるのもお勧めです。



資料館では現在、企画展「見てわかる関ケ原合戦~郷土に伝わる合戦絵巻と合戦屏風~」を開催していて、2014年3月20日(木)までです。
参考ですが、来年2014年2月1日~28日まで、館所蔵の関ケ原合戦図屏風が展示されます。
本物を見られる、良い機会です。

関ケ原合戦 島津の退き口 関ケ原町歴史民俗資料館 島津豊久
この時間帯は自由行動でした。
資料館にミュージアムショップがあったことで、お好きな武将に関係するオリジナルグッズを買い求めておられる方もたくさんいました。



一つ前の関ケ原町民俗資料館の企画展示で、合戦では「世界に例のないほど大量の火器火砲が使用された」ことに着目した、鉄砲の展示をしていました。
鉄砲と言えば、鉄砲伝来の地でもあった島津。
井伊直政を負傷させたのも、鉄砲でした。


島津は足軽でなく、武将が鉄砲を自ら持ち、戦の局面で活用し、有利に導いたのがたいへんに特徴的でした。
島津の武将は競いあって、鉄砲の扱いを向上させ、義弘も豊久も、合戦では持筒(もちづつ・鉄砲のこと)を自らか、侍従に持たせて、すぐに使えるようにしていたと考えられます。


関ケ原合戦は、当時世界で、最大数の鉄砲が使われたと言われます。
狭い盆地なので、朝から鉄砲の音はほとんどやむことがなかったのではないでしょうか。

関ケ原合戦 関ケ原町歴史民俗資料館 桐野作人
桐野先生の後ろ姿。ツイッターに書き込み中でしょうか。





続いて、島津豊久が奮戦したと言われる烏頭坂に、バスで移動。


さてツアールート検討の中で、大型観光バスで烏頭坂に行くのに、実際に敗走した旧伊勢街道(街道の場所は実は諸説あります)を通って行きたかったのですが、事前確認で残念ながら、観光バスが通行できないことがわかってあきらめました。

下の写真のように風情を感じますが、当時の伊勢街道(九里半街道とも呼ばれています)の道路幅のまま舗装されたようで、車が通るには狭い道です。

関ケ原合戦 島津の退き口 島津豊久 伊勢街道 九里半街道
写真の地は関ケ原町と大垣市との境に近く、左が旧道(伊勢街道)で、烏頭坂方面から関ケ原方面を見ています。
実はルート選定では、関ケ原町内や大垣市上石津地区内にある対象地は、細い道が多いため、何度も現地確認をしました。


関ケ原合戦 島津の退き口 島津豊久 伊勢街道 九里半街道
この写真は、さらに烏頭坂寄りの地です。
街道を歩いて行くことができますので、時間がある方は行ってみてください。
変化する風景を楽しむことができます。


九里半街道は旧上石津町牧田地区を中心とする有志の方(九里半歴史文化回廊)が、写真左にあるような案内板を各所に設置しています。



この二つの写真の地はツアーでは行きませんでしたが、名残惜しいので掲載しました。
参考にしていただけましたら幸いです。

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