関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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ルポ④ 豊久奮戦の地、烏頭坂

関ケ原町歴史民俗資料館からバスで10分弱、烏頭坂に着きました。 
およそ11時半。
関ケ原合戦 島津の退き口 島津豊久 烏頭坂 伊勢街道 九里半街道


上の写真は烏頭坂から豊久の奮戦の地に登るところです。
烏頭坂は、旧伊勢街道で関ケ原町を抜けてすぐ、大垣市上石津町にあります。
関ケ原からは登り道、烏頭坂から下り坂になるので、追いかけてくる敵を待ち伏せるのに適した場所と思われます。
この写真の向こうから、追いかけてくる東軍が見えたと想像されます。


通説では、ここで島津は捨て奸(すてがまり)という戦術を取って、義弘を逃すというその一点のため、味方は捨て石となって、逃走する道の途中に兵が残り、地面に折敷いて敵を押しとどめたと言われています。



島津ファンをがっかりさせることかもしれないのですが、桐野先生によると、残っている当時の文献には「捨て奸」という言葉は出てこないそうです。
いつ頃から言われるようになったか、確かなことはわからないそうです。

「捨て奸」という戦法はすごく衝撃的で、MOOK本などに既成事実であるように書かれています。
本当はどうだったのか、興味がわきます。
どうした経緯で生まれ、知られるようになったか、どなたか調べて頂けるとうれしいです。


徳川幕府は江戸時代になっても、島津の軍事力に対し恐れの気持ちを抱いていました。
朝鮮の役での戦績、関ケ原の役での何十倍という敵に囲まれ、背を向けて逃げるのでなく、その敵の中心部に向かって正面突破する、前代未聞の退却があまりにも凄まじかったこと、またたくさんの兵が捨て身となって、義弘の退却を助けたこと、島津の兵は当時、日本最強であったと言われていたこと、そうした事実を後付けで説明できるものとして、捨て奸という恐ろしい戦術が、後世に作られていったのかもしれません。



上の写真の案内板右横に、小さくて見づらいですが石柱が見えます。
歩いていると気付きにくいのですが、「島津豊久の墓」という石柱が道路から登る途中に立っています。
下の写真は、少し石柱をアップしたところ。
関ケ原合戦 島津の退き口 島津豊久 烏頭坂 伊勢街道 九里半街道<a href=
写真は今年の夏に撮ったものですが、かつては烏頭坂で島津豊久が亡くなったと言われていましたので、その伝承にもとづいて建てられたものだと思われます。
ひっそりと目立たず、周囲は雑草でちょっとかわいそうな感じもします。
脇の方に置かれているので、道路を拡張した時に移設されたのでしょうか。


関ケ原合戦 島津の退き口 島津豊久 烏頭坂 伊勢街道 九里半街道
石柱のアップ。
裏には1938(昭和13)年と刻まれています。



桐野先生によると、いつ頃からなぜ、この地で豊久がなくなった言われるようになったかわからないそうです。
烏頭坂という地名も、当時の記録には出ていないようです。

豊久が亡くなったところを見た人が島津側にいないなど、混乱した戦況が様々な解釈を生んだ要因と考えられますが、この地まで東軍が追ってきて、島津は大勢が討ち取られていったことは確かと考えられます。

東軍は家康の命で、牧田(大垣市上石津)あたりでまもなく追撃をやめます。
東軍がいなくなった後、伊勢街道沿いは死屍累累(ししるいるい)であったと思われます。



島津側の記録「惟新公関原御合戦記」には、松平隊、井伊隊が、義弘が福島正則をかすめて通ったあと、伊勢街道を下るのを猛追し、直政は島津兵に撃たれて負傷、落馬したという記録があります。
直政はその傷が元で、2年後に亡くなります。



直政が撃たれたのはどこでしょうか。
旧参謀本部編纂「関ケ原の役」では、「牧田川を越えて多良に向かっていこうというとき」とあります。
諸説ありますが同書を参考にしている書籍が多いです。
島津側の「惟新公関原御合戦記」でも、伊勢街道を南下した所で撃たれたという記述があります。

島津側の史料「旧記雑録後篇三」によると、直政が撃たれたのは義弘の本陣に近い所、本陣の前であるという記述が2か所あります。(桐野作人著「関ケ原 島津退き口」P154以下参照)
そこで桐野先生は、「旧記雑録後篇三」にもとづいた説をとっておられます。


合戦のおよそ半年後、直政は敵であった島津家と家康との和睦に奔走しています。
直政は島津の退け口を、「始末比類なし、ごほうびの以(もっ)ての外(ほか)」と褒め称えて語ったと言われます。
直政はあっぱれというべきか、敵味方で戦った相手、自分を撃った相手を助けようとしました。(桐野作人著「関ケ原 島津退き口」P158引用、以下参照)


関ケ原合戦 島津の退き口 島津豊久 烏頭坂 伊勢街道 九里半街道
烏頭坂の豊久の石碑の前に、花が活けてあるのが見えますでしょうか。
このツアーの日の花は、わざわざツアーのために用意したものではありませんが、ほっとします。

また石碑の近くには、すぐに掃除ができるようにいつもほうきが下げてあります。
時々地元の方が清掃しているようで、古跡の管理を地元の方が続けておられます。
今も伝承を大切にしていると、感じさせられます。

関ケ原合戦 島津の退き口 島津豊久 烏頭坂 伊勢街道 九里半街道
上の写真をクローズアップした写真。



石碑の裏に、豊久の血戦奮闘を顕彰する内容が書いてあります。
撰文(せんぶん、文章を作ること)は宮内省御用掛の小牧昌業で、昌業は桐野先生によると薩摩藩士、明治維新で活躍された大久保利通の部下であった方です。
小牧昌業は宮内省御用掛として大正天皇に和漢学を進講なされた程の漢学者で、内閣書記官長、奈良県知事、帝室博物館長など、歴任なされた方です。

合戦の320年後の昌業が78歳、亡くなる2年前、大正9(1920)年に碑は作られました。


関ケ原合戦 島津の退き口 島津豊久 烏頭坂 伊勢街道 九里半街道
碑の表には、島津中務大輔豊久とあります。
中務大輔(なかつかさたいふ)という官職は父と同じもので、合戦の前の年、慶長4(1599)年に任じられています。
この官職について、どんなものであったかについて質問があり、桐野先生から解説がありました。

桐野先生によると中務大輔と中務小輔の「大」も「小」も、実際は位として、あまりかわらないそうです。
また研究者としては本人が名乗った名称で、最終的に確定することもあるようです。

関ケ原合戦 島津の退き口 島津豊久の墓 烏頭坂 伊勢街道 九里半街道
豊久の顕彰を称える石碑の近くに、「島津豊久戦死処」と書かれている石柱が明治39 (1906)年8月に建てられています。
時期を違え、いろいろなことを表示している石柱があることは、事実の認識や伝承も時がたてば、変化していくということをわからせてくれます。
先人が豊久の功績を大切にして作ったということに、意味があると思われます。
はたして本当はどうなのか、桐野先生によると史料の背景をいろいろな角度から読み取って推論する、楽しみということだと思われます。

関ケ原合戦 島津の退き口 島津豊久の墓 烏頭坂 伊勢街道 九里半街道

この地からおよそ2㎞弱、伊勢街道(九里半街道)を歩き、盛淳の墓がある琳光寺まで歩きます。
実際にこの道を、島津は敗走していったわけです。
道中、桐野先生は様々な質問を参加者の方から受けておられました。
関ケ原合戦 島津の退き口 島津豊久の墓 烏頭坂 伊勢街道 九里半街道

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