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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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ルポ⑤ 伊勢街道(九里半街道)で阿多盛淳の墓のある琳光寺へ

関ケ原合戦 島津の退き口 伊勢街道 九里半街道 阿多長寿院盛淳 琳光寺
写真は伊勢街道にて琳光寺に入っていく道。
上野と書いてあるバス停。
伊勢街道は、この角で左に曲がります。


関ケ原合戦 島津の退き口 伊勢街道 九里半街道 阿多長寿院盛淳 琳光寺
九里半歴史文化回廊の方が作られた、九里半街道の案内板が立っています。
琳光寺は大垣市上石津町牧田の上野にあります。



関ケ原合戦 島津の退き口 伊勢街道 九里半街道 阿多長寿院盛淳 琳光寺
琳光寺に着くと、バスの運転手さんが弁当の搬入を手伝っていました。
左端に小さく見える方です。
ありがとうございました。

待ちに待った昼食ですが、その前に、阿多長寿院盛淳の石碑と、お墓を見ます。

関ケ原合戦 島津の退き口 伊勢街道 九里半街道 阿多長寿院盛淳 琳光寺
上の写真は盛淳の石碑。
敷地は元中学校で(表示板には小学校と書いてあります)、現在は大垣市就業改善センター、大垣市上石津地域事務所牧田支所があります。


関ケ原合戦 島津の退き口 伊勢街道 九里半街道 阿多長寿院盛淳 琳光寺
石碑の裏の文章は、豊久と同じ小牧昌業の作ったものです。

内容は、畠山頼国の子孫であること、義弘の陣場織りを着て、われは義弘なりと奮戦し、身代わりとなって亡くなる。時は53歳、部下の10余人が一緒に亡くなったこと、などです。

盛淳の合戦での功績は、非常に大きなものでした。
盛淳が盾(たて)となって防いだのは、時間としては短かったかもしれませんが、この時間が義弘を生き残らせる、決定的な時間稼ぎになったことは明らかです。


琳光寺は、島津家の現当主、島津修久(しまづのぶひさ)氏が今年の夏に来られました。50回以上を数える関ケ原戦跡踏破隊は毎年、また盛淳の子孫の方なども来られています。


関ケ原合戦 島津の退き口 伊勢街道 九里半街道 阿多長寿院盛淳 琳光寺
境内に入ったところ。

関ケ原合戦 島津の退き口 伊勢街道 九里半街道 阿多長寿院盛淳 琳光寺

関ケ原合戦 島津の退き口 伊勢街道 九里半街道 阿多長寿院盛淳 琳光寺
盛淳の墓の前にある石碑です。
琳光寺様、お花をありがとうございました。

石碑を書かれたのは、大正12(1923)年、侯爵の島津忠重氏です。
忠重氏は、島津30代当主の方です。
明治、大正、昭和と三つの時代に、たくさんの功績を残されている方です。


関ケ原合戦 島津の退き口 伊勢街道 九里半街道 阿多長寿院盛淳 琳光寺
桐野先生の笑顔。

関ケ原合戦 島津の退き口 伊勢街道 九里半街道 阿多長寿院盛淳 琳光寺
琳光寺の本殿に入る所です。
琳光寺の住職の方は当日ご不在でしたが、昼食の場所としてお許し頂きました。
誠にありがたいことでした。


関ケ原合戦 島津の退き口 島津弁当 阿多長寿院盛淳 琳光寺
本日の最大のサプライズ!!
弁当を外から撮った写真。
弁当の隣は、鹿児島などの名物和菓子の「かるかん」。


関ケ原合戦 島津の退き口 島津弁当 阿多長寿院盛淳 琳光寺
スタッフにより、「あくまき」が一つ一つに切って配られます。
あくまきは鹿児島特有の「もち」の和菓子で、関ケ原合戦の時、若い兵士のための日持ちする食糧として作ったと言われています。


関ケ原合戦 島津の退き口 伊勢街道 九里半街道 阿多長寿院盛淳 琳光寺
小さくて見づらいですが、入って正面奥に阿多長寿院盛淳の位牌を置いていただきました。
位牌の写真は、琳光寺の方に特別に撮影許可頂きました。



弁当箱をひろげると……。 


関ケ原合戦 島津の退き口 島津弁当 長寿院盛淳 琳光寺




関ケ原合戦 島津の退き口 島津弁当 長寿院盛淳 琳光寺
皆様、食べ始めた所です。
魚しげ様、日比野光敏先生をはじめ、たくさんの方のご協力を得て、弁当を作ることができました。

ほとんどの方がうれしいことに……
記念に弁当箱を持って帰られました。


関ケ原合戦 島津の退き口 島津弁当 長寿院盛淳 琳光寺
上の写真で、石碑の左に、小さいですが五輪塔が見えます。
この街道沿いで、島津のたくさんの兵が亡くなりました。
江戸時代の宝暦治水(宝暦4(1754)年~宝暦5(1755)年)で薩摩藩士は、街道沿いなどに戦死者を弔うためにたくさんの五輪塔を置いていったとも言われています。
「この工事に参加していた藩士数人が、牧田の戦死地を訪れ、自然石の貧弱な墓印を見て哀れを感じ、昼間の激しい労働の疲れもいとわず、こつこつと五輪石を刻み供養したものであると伝えている」と、蒲生町史(辻下榮一編著「上石津における関ケ原合戦と島津軍の背進 総集編」P20)にあります。
すでに150年以上経ち、合戦の生き残りはほとんどのこっていなかったと思われますが、合戦の経験は薩摩藩の中で語り継ぐべきものとされていました。


五輪塔はもともと戦死地にありましたが、後に琳光寺に集められたそうです。
琳光寺様に今は守られています。


関ケ原合戦 島津の退き口 島津弁当 長寿院盛淳 琳光寺
今年の夏に撮った写真です。
中央は盛淳のお墓です。
周囲は家臣のお墓でしょうか。



関ケ原合戦 島津の退き口 島津弁当 長寿院盛淳 琳光寺
さらに奥にも、五輪塔などがあります。
上の写真は、無名の戦死者のために作ったものでしょうか。
琳光寺の方が、いつもきれいになされております。
同じ今年の夏の写真ですが、夕方なので右上からの太陽、写真左下が赤くなっています。


次は、豊久の墓がある瑠璃光寺までバスで行きます。

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