関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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ルポ⑥ 豊久の菩提寺、瑠璃光寺

琳光寺から国道365号に入りトンネルをくぐってすぐに、細い旧西伊勢街道(裏伊勢街道とも言います)に入ります。
距離にしておよそ9㎞の瑠璃光寺まで、バスでおよそ20分。

国道でずっと行くルートの方が大型バスでは行きやすいのですが、退路と言われる西伊勢街道を通って行くことを考えました。

西伊勢街道は、実は大型バスが通れるかどうかわからず、現地を見たところ、大垣駅前へ行く名阪近鉄バスの路線バス(大垣多良線)が通っていることがわかりました。
今回の旅行会社、名阪近鉄旅行から名阪近鉄バスの担当者様に問い合わせをお願いしたところ、大型観光バスが通行可能だと確認できました。

実は本当に通行可能か不安な部分、また古い街並みが残る細い道を通っていいのかな、という気持ちもあったのですが、バス運転手様の見事な運転で走りきりました。
また幸いにも、対向車はありませんでした。
誠にありがとうございました。


当日写真が撮れませんでしたが、下記は別の日、その日は雨でしたが、現地に行った時の写真です。
写真は路線バスで、「多良・時」と書いてあります。
「時」は、島津が退いた時に通ったと言われている方面です。

関ケ原合戦 島津の退き口 瑠璃光寺 西伊勢街道 上石津町

当時の街道の雰囲気が、現在も残っています。
街道の道は通行車が少ない所ではありますが、国道を通れば快適に瑠璃光寺まで行けます。
関ケ原合戦 島津の退き口 瑠璃光寺 西伊勢街道 上石津町


写真下は瑠璃光寺に着いて、階段を上がる所。
関ケ原合戦 島津の退き口 瑠璃光寺 島津豊久の菩提寺

瑠璃光寺は、旧上多良(かみたら)樫原(柏原(かしわら))村にあります。
寺に上がる階段で、まずは記念写真。
関ケ原合戦 島津の退き口 瑠璃光寺 島津豊久の菩提寺


寺の正面には、大きく「島津豊久公菩提寺」と書かれている新しい石碑です。
「公」がついているのは、豊久は31歳と若くして亡くなりますが佐土原2万8600石(出典「関ヶ原の役」)の領主であるからです。
関ケ原合戦 島津の退き口 瑠璃光寺 島津豊久の菩提寺

関ケ原合戦 島津の退き口 瑠璃光寺 島津豊久の菩提寺 上石津町

戦前、金属類回収令で鐘が供出され、昭和25(1950)年に再び作られた鐘が、現在のものです。
関ケ原合戦 島津の退き口 瑠璃光寺 島津豊久の菩提寺

この鐘に、「慶長年中当国関ヶ原陣之砌(の時)、薩州島津中啓公於此所(ここにおいて)戦死。於二當(とう)寺葬」と刻まれています。

慶長の間に行われた関ケ原合戦で、薩州の島津中啓公(豊久のこと、「中啓」は「中務」のことでないかと桐野先生より御指摘ありました)がここで戦死した。この寺で埋葬されたと、書いてあります。
関ケ原合戦 島津の退き口 瑠璃光寺 島津豊久の菩提寺



豊久の位牌の写真をご用意させて頂きました。
江戸時代の位牌ですので、字が読みづらくなっていますが、位牌には「嶋光院殿忠道源津大居士神儀」と書かれています。
この字の中に、「嶋」「津」の二文字があり、つなげると島津になると、参加者の方より御指摘ありました。
江戸時代から今に至るまで、瑠璃光寺にて大切に弔われています。

豊久が亡くなった所を見たものが、島津側には誰もいません。
そこで江戸時代になって、豊久がなくなった場所を探しに、薩摩の方が来たという記録が、上石津に、また島津にもあります。

別の機会に紹介します。
関ケ原合戦 島津の退き口 瑠璃光寺 島津豊久の菩提寺 上石津町



瑠璃光寺には、豊久の顕彰会会長、その関係者などたくさんの関係者が豊久の菩提寺ということで来られています。
島津の現当主、島津修久氏も一緒に来られています。
町の中には、上多良地区の児童が作ったと思われる関ケ原戦跡踏破隊の歓迎の看板があります。

関ケ原合戦 島津の退き口 瑠璃光寺 島津豊久の菩提寺 上石津町

瑠璃光寺の住職様には、御挨拶にうかがったときに豊久の伝承を興味深くお話して頂きました。
今回残念なことに日があわないため、また豊久の位牌は撮影させて頂いたものを、参加者にご紹介をさせて頂きました。


続いて、地元では島津塚(通称でカンリヤブ、カンリンヤブとも言われています)または薩摩塚と言われている、島津豊久の墓に行きます。

最近、広域農道のきれいな道が、島津塚に入る所にできました。
桐野先生によると、豊久の墓は以前来た時は草原の中に入っていく感じであったようです。
関ケ原合戦 島津の退き口 瑠璃光寺 島津豊久の菩提寺 上石津町


これから、中に入っていきます。
関ケ原合戦 島津の退き口 島津塚 薩摩塚 島津豊久の墓


下の写真が豊久の墓です。
今年の夏に撮ったものです。
当日は、瑠璃光寺の方が掃除して新しいお花をお供えしていただいていたはずなのですが、うっかりして確認をしていません。
ごめんなさい。

薩摩に伝わっている話などをまとめた「倭文麻環」には、「墓表に大なる山茶樹(つばき)を植えたり。是豊久の墓とぞ、土人の説に当時三輪内助入道方斉といふ者豊久の死骸を拾(ひろ)ひ此地(このち)に葬り」とあります。

墓の前に大きくはありませんでしたが、参加者らでみるとつばきはありました。


関ケ原合戦 島津の退き口 瑠璃光寺 島津塚 島津豊久 上石津町


合戦後400年後につくられた、豊久を顕彰する碑。
関ケ原合戦 島津の退き口 瑠璃光寺 島津塚 島津豊久 上石津町

続いて近くの、豊久が自刃したとの伝承がある白拍子谷まで行きます。
まだ雨が降らないで、何とかもっています。

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