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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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ルポ⑦ 白拍子谷

いよいよ本日最後の目的地、白拍子谷です。
白拍子谷は現在、合併により大垣市となっていますが、上石津町上多良地区です。

史跡として白拍子谷はあまり紹介されていない所で、きちんとした案内板はありません。


豊久の墓から、およそ800mぐらいを歩きます。 
下記の写真の竹林を抜けると、日吉神社があってその境内を抜けます。
関ケ原合戦 島津の退き口 島津豊久 上石津町 白拍子谷



関ケ原合戦 島津の退き口 島津豊久 上石津町 白拍子谷
上の写真のように境内を抜けて道路をわたり、旧名及((なぎう)と読む、奈幾宇とも書く)村の、堂木(どうき)川(※堂木谷川とも言います)という川に向かいます。
※「上石津における関ケ原合戦と島津軍の背進 総集編(辻下榮一編者)」P35参照


伝承では豊久は、この地より関ケ原に近い伊勢街道で命を張った殿戦のために傷つき、大垣市上石津上野の方から西伊勢街道沿いに退却、険しい勝地(かちじ)峠を家臣らに助けられながらようやく超え、多良郷、さらに南下し、上多良の方まで落ち逃れてきます。


地元に残る伝承はいくつかあり、その中の一つでは、かくまってくれるように村に入ってあたりますが、断られ続け、傷が深いため、最終的に案内をしてもらって白拍子谷まできて、そして自刃しました。



豊久の亡骸は、地元の三輪内助入道方斉というものがお寺にて丁重に荼毘(だび)に付し(火葬のこと)ます。
当時はまだ瑠璃光寺があった地に、正覚山薬師寺という寺があり、そこに葬られました。
この経緯について、島津側に残る史料、「倭文麻環(しずのおだまき)」に記述があります。
※合戦当時の慶長年間は、瑠璃光寺はなく、正覚山薬師寺であったと「養老郡史」にあります。
正覚山薬師寺が廃寺になったあと再興され(天明6(1786)年、安永7(1778)年とも言われています)て、高輪山瑠璃光寺として改称されました。

関ケ原合戦 島津の退き口 島津豊久 上石津町 白拍子谷
上の写真は、堂木川の左岸を上流の方に歩いているところ。
ススキが、季節を感じさせます。  


関ケ原合戦 島津の退き口 島津豊久 上石津町 白拍子谷
さらに200mほど、小さなコンクリート橋を左に見ながら、二つ越えて進みます。
写真のように三つ目の橋を渡って、何もなさそうな所を谷の奥の方に進むと、白拍子谷と書いた石柱が見えます。

詳しい行き方はこちらをどうぞ。

関ケ原合戦 島津の退き口 島津豊久 上石津町 白拍子谷
石柱です。

関ケ原合戦 島津の退き口 島津豊久 上石津町 白拍子谷



関ケ原合戦 島津の退き口 島津豊久 上石津町 白拍子谷
上の写真は、戦国時代のような風景に囲まれながら、参加者全員で、桐野先生に豊久と白拍子谷について、解説を聞いているところです。
白拍子谷の「白拍子」は、「しらびょうし」とも読み、江戸時代は遊女のことを意味していた言葉だそうで、どうしてこの名がつけられたのかはわかりません。
いろいろな伝承が、他にもありそうです。


バスが停車している堂木橋付近まで、歩きます。   
夕方近くになってきましたが、時間的にまだ取れそうなので江戸時代の宝暦治水に由来する、治水神社(岐阜県海津市)まで行くことにしました。
治水神社は今も、薩摩、今の鹿児島県と、とても深い絆を持ち続けています。

史実では、義弘が退却するときに南下したと言われる、東伊勢街道をバスで行きます。
これまで雨が降らずもってきましたが、いよいよ天気が、あやしくなってきました。 

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