関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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島津豊久の生き方⑤

豊久の最後についてですが、書きまとめることが難しいです。

大きな理由は、これまで書いたように島津側のどの記録にも豊久の最後を見た人は、家臣を含め誰もいません。

島津に残る一次史料の中に、豊久が上石津に行く前に関ケ原で、大量の出血をともなう大傷をしたのではないかと、確信できる史料があります。
豊久の馬に間違いない馬に、多量の出血が残っていたためで、しかしこの後、豊久がどうなったのかがわかりません。

この一次史料は、重要文化財である「旧記雑録」と言われるものに集録されているものであり、「退き口」関係のものがたくさんあり、信頼性が高いものです。





美濃、濃州(現在の岐阜県)の上石津(岐阜県大垣市)に残る史料や伝承によると、関ケ原から上石津まで生き延びてきたとされています。

史料では「多良村三輪孫右衛門氏文書」に、三輪孫太夫という人が瑠璃光寺の玄透という和尚(おしょう)宛に出したものがあります。
ここでは豊久の最後について詳しく書かれており、「新修上石津町史」(上石津町史編集委員会編)」(P127より引用、『養老郡志』による)に掲載されているものを引用します。
書かれたのは、合戦から200年近く経った、江戸時代の後期、寛政5(1793)年5月のことですが、200年近く経っても大切な出来事として、三輪家では言い伝えられてきたのでしょう。



「嶋津中務(豊久のこと)様御廟之由来御尋有増申上候(この瑠璃光寺に葬られている理由についておたずねがあって、お答えたしますが)、
慶長年間関ヶ原御陣之節嶋津兵庫頭様(慶長の時に行われた関ケ原の合戦で、島津義弘が)
同國多良と申候處御越時山村から江州多賀(この国の多良を越え、時山村から滋賀の多賀の方に)
之庄被遊御越候故(越えて行かれたことから)、今に嶋津越と申事(今は「島津越え」と呼ばれる)、
所之名に相成候(地名になっている)。然る間御次男中務様には(そして、義弘様の二男(甥の間違い)の豊久様は)
御戦場にて御討死被遊候御覚悟にて(戦場で討ち死にを覚悟に)、戦場
御打(打って出られ)、静多良(多良郷のこと)へ御扣(に来て(かくまってくれる所を探している時に?)めぐっていた所)へ、其節(その時)拙者八代以前(私の八代先祖の)
三輪内助入道一斎と申(す)者、御途中にて蒙御意(『退く途中で、道がわからなくなったと言うので』の意味?)、
御家臣(豊久の家臣の)川口運右衛門を以って(と一緒に)、此(この)山へ急御案内
仕候様蒙仰(急ぎ案内をしてくれと申され)、白拍子谷へ両人(お二人を)御供仕(お連れした所)、此(の)所にて
被遊御逝去候儀(豊久が、(自ら?)お亡くなりになられたということで)、両士十方失ひ奉絶言(二人(三輪内助と川口運右衛門の二人か?)ともあらゆるものを失ってしまったように感じて?、何の言葉も出なかった)
語候事限なし。御尊骸(豊久の亡きがら)を正覚山薬師寺(瑠璃光寺の前身の寺)に御供仕(お供して)、
南拜殿と申所(南拝殿という所)に奉茶毘葬(火葬して葬った)、築師寺持春山長老(薬師寺の持春山という長老が)
御焼香被成候(ご焼香をして)御尊骨壷二つに奉納候様(骨を二つの骨壷におさめ)、右運右
衛門殿御申付にて(豊久の家臣の川口運右衛門が)、我等御本國へ御供可致旨(私たちは薩州に帰り、豊久がこの地で亡くなって葬られたことを伝えると言い残されて行ったが)
被申置候。其後何之音便も無御座候故(その後、何の音沙汰もなかったので)、
御尊骨御廟に奉納候而(骨はおさめたまま)、則貴寺山内南拜只今に(今に至るまで、お寺としてお墓とともに大切にお守りしてきた)
御墓御座候。右之通拙者先祖より(今まで書いてきたことは、私が先祖より)
代々申傳候所相違無御座候、以上(伝わってきたことで間違いありません)



上石津に残る伝承では、豊久は白拍子谷で自刃したと言われていますが、ここには自刃とは書いてありません。
「被遊御逝去候儀」とあるのは、自刃したという意味に読むことができるのでしょうか。
とにかく、一緒に行った二人は、まったく声が出ないほど驚いたということですのでよっぽどのことです。
やはり、自刃なされたのでしょうか。

豊久を案内したのが、三輪孫右衛門の八代前の先祖、三輪内助入道一斎という方で、村長であったという記録が別にあります。

文書の最後に「代々に残っている言い伝えなので、間違いない」と言いきっていますが、この時代に書かれた、よく書かれる言い表し方です。

ただ不明なのが、この文中に出てくる川口運右衛門という豊久の家臣です。
豊久の亡くなった家臣35名の名前が、豊久の墓がある佐渡原天昌寺に残る過去帳の写しにありますが、この中にはありません。
不明なものが5人とありますので、この中か、あるいは豊久は推定で300人ほどの兵を率いて関ケ原に来ていたと考えられるので、この中に入っていた可能性もあります。

天昌寺は宮崎市内にあった寺で、現在は廃寺、市の史跡になっています(佐土原町上田島西野久尾)。
寺には豊久の父である家久、そのほかに家久の母や妻、関ケ原で亡くなった家臣がまつられています。
川口運右衛門という人のことが分かると、豊久の最後について何かがわかるヒントが得られるかもしれません。

島津退き口 島津豊久 上石津
雨の日に大垣市上石津を通る旧伊勢街道から、東方面の山を見る。

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