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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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ルポ⑧駒野を通って治水神社へ

今回のツアーが予定より早く進んだので、島津藩が江戸時代に行った治水工事、宝暦治水を称えて作った治水神社(岐阜県海津市)に行きました。

出発してすぐ、雨がぽつぽつと降って参ります。
無事に、今回ツアーの目的地を雨が降ることなしに通過できたこと、スタッフ一同で感謝しました。


上石津町の上多良から治水神社への道ですが、国道365号を関ケ原方面に、牧田川近くまで戻ります。
国道365号の牧田川を渡る橋、和田橋を渡る手前で右の方へ、県道227号を2キロ弱短い区間を走ります。
やがて県道56号を道なり、この県道は別名、薩摩カイコウズ街道と呼ばれる道を南下します。



バスでなく、義弘たちの退き口でたどったルートですが、関ケ原から牧田川左岸を行き、どのあたりで牧田川の右岸へ渡ったかはわかりませんが、東伊瀬街道(九里半街道)を通って行ったとすると、大垣市上石津町乙坂にある八幡神社あたりで牧田川方面に右折、牧田川を沢田と言うところでわたった可能性があります。


牧田川を渡ると現在の県道56号に入り、さらに養老山地沿いに南下したと思われます。
ただし県道56号に近いルートで行ったということで、県道の上を行ったかどうかはわかりません。

義弘たちは養老山地を右手に見ながら南下し、駒野付近まで来ます。
「駒野」とい地名は、島津に残る貴重な史料集、「旧記雑録」の中に義弘の退陣を示す記述の中で何度か現れています。



養老山地は標高が北の方は8~900 mぐらいで、南の方は400mともっと低くなります。
東方面が険しく、西はなだらかな斜面です。


バスは、県道56号沿いの養老公園東を通過し、庭田(岐阜県海津市)という交差点から県道25号で、西の方に行くと駒野峠方面ですが、県道25号には行かず、県道56号をそのまま行きます。



駒野峠への道は、標高はそれほどでなく普通車で峠を越えることができます。
行ってみると体験できますが、かなり険しい山道です。
この付近を養老山地を超えるべく山道を義弘たちは行ったと考えられます。

島津から毎年来ている関ケ原戦跡踏破隊は、駒野峠を通る時にマムシが出るとも言われているので、注意します。
この道は冬になると、通過ができなくなります。



駒野という地名は、駅名とともに付近に残っていますが、現在、駒野峠と言う地名は残っていません。
義弘が通った正確な道は実はわかりませんが、養老山地を越え、山地を超える途中まで県道25号付近にあった道を行ったと思われます。
現在の地図で、二之瀬越えと書かれている峠があります。



ツアー行程を検討している段階で、実際に通ったルートに近い県道25号を通って上石津に入るルートを検討しました。
普通車では通行可能ですが、バスはとても無理でした。
残念ながら、バスから眺めるだけにしました。

当日は、バスをゆっくり走らせることもできなかったので交差点をあっと言う間に通り過ぎただけで終わりました。
ごめんなさい。



島津の退き口で、義弘が退いたルートに大きく三つの説があります。
一つ目に①、主に薩摩、島津側に残る史料より推論されるルート。
桐野作人先生は、この説に立っておられます。

二つ目に②、主に上石津に残る伝承や史料によるルートです。

①と②の共通点は、関ケ原から伊勢街道を行き、牧田、上野から南東方面、牧田川沿いに東伊瀬街道へ行って、東伊瀬街道からはずれて南進します。駒野付近で西進し、駒野峠を通って養老山地を超えます。
①と②の違いは、駒野峠を越えた後、①は西(裏)伊勢街道に出て南下します。その後、鈴鹿峠の方を通りすぎて土山まで行くが、京都方面に行くことが無理とわかると、元に少し戻り、伊賀の国、甲賀の国を経て、信楽まで来ます。
これまでブログで紹介してきたのは、主に①と②の説によっています。

②は、養老山地を越えた後に伊勢街道に入ると、南へ行かないで街道を外れ、西方面に行きます。
時、時山、五僧峠(島津越えとも言われる)を経て、近江に出ます。
その後南下して、①と同じ信楽まで来ます。



ほかに三つ目に③としますが、これも伝承や2次史料による説で、関ケ原を抜けて牧田、ここからが①、②の説と違うところですが、牧田あたりで南下し、牧田川を渡り、標高はそれほどではないですが険しい勝地峠を越えて多良、時、時山、五僧峠を経て近江に出るコースの説です。
②と③が、現在の通説となっています。


桐野先生からすれば、三つの説全部を楽しもうということになるでしょう。
私の中では、どちらが真実か判断できないことで、すっきりしない気持が残っていたことも確かです。
①と②の二つを、史実としてありうるように結びつけようと考えたこともありますが、無理もあります。

そんな中で次第に、②と③は合戦のときの出来事に加え、合戦以後、様々な人の行為の中でできていった部分も多いので、これもまた大切な史実として受け止めることができうる、そんな気がするようになってきました。




治水神社に着くと、雨がかなり降っていました。
神社は、薩摩藩が治水工事をしたことで、岐阜、愛知、三重の人たちが安心して暮らせるようになり、たいへん感謝して作ったものです。

島津退き口 治水神社 

戦が少ない江戸時代になって、薩摩藩に違った戦いが持ち込まれます。
自然との闘いでした。

あまりに無理が多かった難工事のため、薩摩では自刃した人が多数出ました。
自刃した事実を江戸幕府に知られてはならないと、公にはできませんでした。
工事により薩摩藩の財政はさらに悪化し、こうしたこともあって、次第に工事が忘れ去られる中で神社が創建されました。


桐野先生は車中、治水工事に関わるエピソード、また今日のツアーのまとめとして、島津退き口の意味についてなどサービス満点でお話しいただきました。

参加者に配布した史料も、一次資料中心にたくさんご用意いただき、先生が史実であることを大切に論を組み立てておられることが伝わってきます。
治水工事で意外であったのは薩摩だけでなく、たくさんの諸藩が関わっていたこと、治水工事に関わった島津の家臣の死に関するエピソードなどです。



合戦に14歳で参戦し、無事行き残った松岡千熊という兵士についても、解説いただきました。
詳しくは先生が2013年11月に発刊した、文庫版の「関ケ原 島津退き口(学研M文庫)」をご覧頂ければよいのですが、千熊は「島津の退き口」に関する史料の宝庫、「旧記雑録」にたくさんの手記を残しています。

合戦で14歳にて参加し、史料によれば合戦の64年後、寛文4(1664)年に生きていたことが確認できています。
4代将軍家綱の時代、78歳を超えて生きていたと推察されます。
語られ続けなければ忘れ去られていく中で、語り部としての役割を果たしていたようです。

なお文庫版は、2010年6月に新書で発刊した内容に加筆・増補、修正もなされてますので、新書が絶版となっている現在、お勧めの本となっています。



宝暦治水(宝暦4(1754)年~宝暦5(1755)年)の普請で1000人近いたくさんの兵士が、島津から濃州に来ます。
徳川幕府は、強大な島津藩の勢力を弱めるために普請を命じたと言われていますが、家臣の平田靱負(ひらたゆきえ)は、「同じ日本国の人が、とても困っているのだから助けてあげよう」と言って、難工事を引き受けます。

島津は幕府に命じられたとはいえ、はるか遠く、まったく知らない人のために命を尽くし、立派に工事を完遂させました。




島津退き口 治水神社

島津退き口 治水神社

島津退き口 治水神社
島津の工事責任者、平田靱負。

島津退き口 治水神社

すでに真っ暗でしたが、予定より早く、帰還地の名古屋駅前につきました。
雨の中、桐野先生は参加者のみなさんの記念写真の要望に、応えておられました。

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