関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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島津豊久の生き方⑥

義弘は大阪城に人質となっていた義弘の夫人の宰相(さいそう)殿や、義弘の嫡男の夫人、亀寿(かめじゅ)らと合流し、一緒に逃げました。
関ケ原合戦後2週間経った10月1日、ようやく豊久の居城、佐土原(宮崎県)に着きます。

しかし九州における関ケ原合戦は、まだ終わっていません。
この地も安住できなく、義弘は佐土原で豊久の母に豊久の死を伝え、数時間滞在しただけですぐに西に向かいます。


豊久には夫人はいましたが子供はいません、夫人は関ケ原合戦の時、佐土原にいました。
豊久の母は義弘と会ったあと、大将の母らしからぬ言葉を残します。
「(義弘公は)中書(自分の息子、豊久のこと)を打ち捨ててお下りになった。またここ(佐土原)をお見捨てになるのか」と不満を言うのです。(桐野作人著「関ケ原 島津退き口(学研M文庫)」P230引用、以下参照)
戦国武将と言うと、お家のため、戦功のために命を失うこともいとわないと想像されます。
豊久は尊敬する伯父のため、島津家存続のためと、命を張って追う敵を食い止めて後悔はなかったでしょうが、息子を想う母の気持ちは、平成の現代と変わらないのでしょう。



この後、島津は家康との間で一年半ほど緊張関係にありましたが和平することができました。
西軍として参加したが、所領安堵になりました。
家康側の和平の理由はたくさんありますが、関ケ原合戦後に国内がひとまず治まって、次第に対外的なことが大きな課題となって来ました。
秀吉による朝鮮出兵によって関係が悪くなっていた日本と明の国交回復をするため、島津の力が必要であったことなどの政治的判断、また島津退き口の凄まじかったことから、いま一度島津と交えるとするならば、簡単には収まらないことが予想され、利用した方がよいとの判断も、和平の背景にあったと考えられます。

退き口はまた、他家ではまねができない日本史上稀有なこととして、後々も薩摩藩にとって大いなる自信につながったと思われます。

桐野作人氏によると、退き口の効果は義弘が義久の嫡女、義弘の嫡男の夫人、亀寿を無事連れ帰ったことが、領主である義久の義弘父子の心証をよくしました。
その結果、義弘の嫡男である忠恒、後に家久(いえひさ)になりますが、以後江戸時代から現代に至るまで、新たな島津宗家、その初代になる大きな推進力になったと言っています。

義弘は、慶長6(1601)年より桜島の方に蟄居(ちっきょ)していましたが、やがて家康により助命が認められました。
家久の背後には義弘がいて、実権は義弘にありました。
特に慶長16(1611)年に義久がなくなってからは、自然と義弘の力はより強くなりました。
義弘は元和5年(1619)年に亡くなっています。
義弘は正式には当主にならなかったのですが、義弘の嫡男、家久が薩摩藩初代藩主となったことで、今なお鹿児島では義弘は崇拝されています。



関ケ原合戦で義弘が生き残り、義久の血統から義弘に変わります。
義弘がもし合戦から帰国できなかったならば、当時の義久の考え方として自分の外孫、忠仍(ただなお)を家督にしたでしょう。


義弘が帰国したことで、義久は、義弘父子をむげにできなくなったように思われます。
すでに豊臣政権より家督として忠恒は認められていましたが、義久は義弘の嫡男、忠恒(後の家久)に一度家督を継がせますが、すぐに奪います。
義久は家督としての忠恒の能力を、疑っていたようです。
合戦後は、紆余曲折はありましたが再び家督は、忠恒が継ぐことになります。
(桐野作人著「関ケ原 島津退き口(学研M文庫)」P306他参照)




このブログでは、義弘の関ケ原合戦での動きを追って来ました。
義久から義弘に血統が変わり、何が変わったかというと、日本の中では辺地にあった島津が生き残るための策、つまり対外政策のように思われます。
具体的に政策と言えるものはないので、考え方、方針と言った方がよいかもしれません。
このように書くと少々の違いのように感じられますが、実はたいへん大きな違いです。



義弘は義久より国外、島津以外のことに無関心でなく目を向けて、積極的に関わろうとして行動していました。
義弘はそもそも二男であったため、義久とは違った役割を期待され、このような生き方をするようになったと考えられます。

義久は、三州の制定を最重要視していました。
この点は義弘と同じですが、実現するための方法への考え方が、義久と義弘に違いが見られます。
対外への考え方が、一貫して無関心、積極的には関わろうとはしませんでした。

これは関ケ原合戦での対応、また朝鮮出兵での、義久と義弘の行動の違いに、顕著に見られます。



関ヶ原合戦では、義弘は成り行き上、三成の側につかざるを得なくなって、結果は敗退することなりました。
結果だけを見るなら、たくさんの家臣の犠牲を出し、なんという愚かなということになるかもしれません。

しかし大将として、義弘自ら京に近いところに身を置き、家康、三成はじめ諸将との間で緊張関係に置き、無関心ではいられませんでした。
その中で秀頼公のため、それは当時の日本における大義のためということになるかと思われますが、その中で島津としてなすべきことをなすという姿勢でした。

義弘が島津の退き口に至るまで、三成のそばにいて行動していたこと。
また退き口では、最初は大垣城に向い籠城しようとしたこと、大坂付近に戻った時は、毛利輝元に連絡し、再び東軍と戦うことを考えていたこと(関原陣輯録)などに、その意識を感じさせられます。

それがまた、島津のためになると信じていたように思われます。
この点は、義久に全く理解されていなかったとは言えませんが、義弘とは行動する判断基準が違っていました。

こうした義弘の姿勢が、家久に大きく引き継がれたと考えられます。
島津の家風として定着し、宝暦治水や、幕末、明治維新で、薩摩藩士が明治政府の中枢を担っていくような人材となっていくことにつながっていったのではないでしょうか。



関ケ原合戦で西軍敗退となってまわりを取り囲まれたとき、義弘は敵に向かって行き、討ち死にする覚悟を決めました。
それを豊久は、「まことに御家の安危(安全か危険か)に関わる大切な御身であられるので、なるべくお退きになることがよろしい」と何度も繰返し諌(いさ)めます。(「新納忠元勲功記」より)

豊久は慶長5(1600)年5月に京に上ってから、義弘との連絡が常に取れる距離にいました。
同年7月頃より三成らの挙兵が表に出ると、義弘、豊久は国に帰る機会を失います。

京や大坂に居るのと、遠い国元、佐土原(宮城県)に居る時とは見える世界が違います。
その間に、以前から敬愛していた義弘の行動をより理解するようになって、義久と異なる大将としての資質を義弘に見出し、その可能性に島津の将来をかけたのかもしれません。

義弘に付いて関ケ原まで来た家臣も、当時主君であった義久の意向でなく義弘を慕って来たので、義弘の人格的魅力もあったでしょうが、多くは豊久と似た気持ちを抱いていたように思われます。



家久の名前の「家」は諱(いみな)で、島津との間で和平となったことで、あらためて家康から恩恵としてあたえられたものです。
家久という名前は義弘の弟であった、豊久の父と同じです。
同じ名前になったことは偶然でしょう。
しかし家康は配慮深い人と諸将に知られていたので、忠恒にとっては伯父の家久、またその子である豊久に対しても、敬意の情があったかのように感じられたのではないでしょうか。



豊久の亡きあと、佐土原城は一時家康の家臣が預かっています。
島津が所領安堵とされた後、豊久が亡くなって3年後の慶長8(1603)年、島津家の一つ、大隅垂水の領主であった島津以久(もちひさ)が初代藩主として、佐土原島津、佐土原藩を興して江戸時代続きます。
征(以)久は、豊久の父である家久とは従兄弟の関係です。
家久、豊久の親子を、「前島津氏」と称しています。

また島津本宗家は、退き口で大きな功績があった豊久の家を、子がなかったという理由で断絶させないと、豊久の跡を継ぐ養子を迎え、本宗家の家中として続かせました。

関ケ原合戦 島津退け口 島津義弘陣跡 島津豊久 五輪塔 薩摩池
島津が関ケ原合戦で陣取ったと言われる、薩摩池の後ろの林の中に、今も残る五輪塔。
無名の兵士を弔っています。

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