FC2ブログ

関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

上石津(大垣市)の牧田から勝地峠まで残っている伝承①

関ケ原合戦の勝敗が決まり、ほとんどの兵は東軍から逃れるため西方面に敗走していきました。
島津隊だけ、東軍が布陣する東南方面に向かいました。

島津のお話に少しかたよっていますが、今少しお付き合いください。


すでに戦場に残っているのは島津隊のみ。
島津は東軍と入り乱れて乱戦になる中、家康がいる方面に向かい、さらに豊久が奮戦したという伝承がつたわる烏頭(うとう)坂を越え、大垣市牧田上野の方まで来ます。

関ケ原合戦 島津退け口 島津義弘 大垣市上石津町門前
関ケ原から牧田を経て伊勢・尾張まで通じる伊勢街道。
この地周辺では牧田街道、九里半街道とも言われていますが、南宮山の北側、中山道(古くは東山道)に劣らない重要な街道として江戸時代は栄えます。




この道は南宮山系の南側にあり、前日の午後7時から大垣城を出発した西軍が、石田隊、島津隊、小西隊、宇喜多隊の順番に、関ケ原方面に進軍した途中の道です。
なお東軍は、関ケ原方面から見ると左手、南宮山系の北側を、丸山(勝山とも呼ばれます)付近から進軍して関ケ原まで来ます。



烏頭坂は、「上石津の地名(平成22年12月)発行 大垣市上石津文化財保護協会」によると、「南方から見て、鳥(う)の頭のように見える地形からか。両側が高く切り込んだ道の意か(秋田、鹿角郡)伝承話、おとうの殿からきた名か」と書かれています。
ここには豊久の事については書かれていません。
同書には烏頭山という地名もあり、「両側が切り立つ洞のような坂の意か」とあります。


同書によると、烏頭坂と上石津上野の間にある門前地区の地名に、「小尾谷(おびだに)」と「小屋谷(こやだに)」という谷があり、この二つの地名にはそれぞれ、「関ケ原合戦の残党が、山中に洞穴を掘り居住していた」という伝承が残っています。
具体的にどの場所かは、同書には書いてありません。

なお偶然に、「上石津の地名」の編集に関わった方にお話を聞いたことがあるのですが、この周辺には何かの言い伝えがあると、「関ヶ原合戦の」ということで、関ケ原合戦に結び付けられやすい傾向があるので、と言われていました。
このすぐ付近で、日本史上最大の決戦がなされたのですから、無理からぬことのように思われます。

関ケ原合戦 島津退け口 島津義弘 大垣市上石津町門前
街道の往年の雰囲気が残る



この先、島津は二方向に別れたように考えられます。
一つはそのまままっすぐ行き、養老山地の東を南下するために右に曲がって、乙坂(おつさか、大垣市上石津町)付近で牧田川を渡り、伊瀬東街道方面、現在の県道56号(南濃関ケ原線)に近いルートを行く。

もうひとつは養老山地の西、伊勢西街道を南下するルートで、上野からすぐに藤古(ふじこ)川に向い、川を渡ります。
現在の国道365号線に近いルートで、萩原(おぎわら)橋を渡り、荻原地区を抜け、さらに現在の国道365号の旧道沿いに進み、険しい勝地峠に向かいます。


荻原地区在住の九里半街道に詳しい方に聞いた所、荻原地区の現在の国道の橋、荻原橋ができる前に、道沿いに三つの石が置いてあったそうです。
この辺りには、島津隊が退却する中、亡くなった兵を弔ったと言われる石や五輪塔がいくつか置いてありました。
これらは無名兵士の墓です。
島津は敗れた側であったので、名を刻むことを遠慮したように考えられます。


この石は現在、道路ができるにあたって近くにある地区の共同墓地の方に移転させられたそうです。
石や五輪塔は、当時住んでいた村の住民が置いたのか、あるいは江戸時代中期、宝暦年間の頃、薩摩から御手伝普請の名目で、たくさんの薩摩藩士が来ます。
この時、同じく薩摩から来て150年ほど前、亡くなったご先祖を弔って置いていったようにも考えられます。


関ケ原合戦 島津退け口 島津義弘 大垣市上石津町一之瀬
旧国道365号線、一之瀬橋付近の堤防より、山沿いを見る。島津隊の一部が退却した伊勢西街道は、霧がかかっている山の麓に川沿いにあった。合戦当時は橋はない。


関ケ原合戦 島津退け口 大垣市上石津町一之瀬
上の写真と同じ場所から、やや左の方を見る。撮影した日は雨が降り、合戦当日もこのように霧がかかっていたことが想像できます。

関連記事
スポンサーサイト



Leave a reply






管理者にだけ表示を許可する