関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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上石津(大垣市)の牧田から勝地峠まで残っている伝承②

前回ブログで紹介した本「かみいしづの地名」の中から、一之瀬(いちのせ)地区(大垣市上石津町)に残る関ケ原合戦の伝承について紹介します。

一つは一之瀬下畑田に、七難塚(ひちなんつか)という地名があり、「島津の落武者の遺跡と伝えられ、大きな石があり、かかわると7つの難を受けると伝えられてきた」「昭和50年(1970)の圃場整備により、祈祷して、供石二つが一本橋の地蔵堂に祀られている」とあります。


この地付近で畑仕事をなさっていた、もうすぐ85になるご婦人、荻永さんに、たまたまお話を聞くことができました。
この地の江戸時代の領主は桑原家で、家来はすべて萩永という姓で牧田川の西側に住んでいました。
現在もこの地の周辺に、萩永という姓の方はたくさんおられます。



萩永さんが聞いてきた内容ですが、古くから「しちなんさん」と周辺住民には呼ばれていた塚があったということです。
塚と言われるように、周囲よりこんもりと盛り上がり、椿の木がたくさん茂って林のようになっていました。
萩永さんは中はわからなかったと言っていたので、近くに居ても直接見ることは避けていたかもしれません。
当時はこの地周辺は現在のような平たん地ではなく、畳2畳ぐらいとかの小さな畑がたくさんある、地形が複雑な地でした。
用水も複雑に流れていました。



関ケ原合戦のとき、7人の武者が逃げてきて、塚の近くを流れる牧田川を渡った向こう側、川岸に住んでいた方に、「かくまってくれ」と頼み、山の方に隠れていました。
ところが頼まれた方は、山を持っていて当時は村の上役であったと思われますが、その後東軍側に知らせ、この武者が全員捕まって斬られます。
捕まった時、知らせた人に「7代後取りをやらん」と、後ろ手に引かれていくときに恨んで言いました。

こうした経緯があったので、古くからみんなできれいにし、またいつも椿(つばき)が咲いていたそうです。
大事に祀っていたので、子どももそこに「おしっこをしてはいけない」と言われていました。
また木もきれいに生えていたので、付近の方により手入れはされていたのではないかということです。

捕まった7人が埋められ、弔われているのが「しちなんさん」があった場所です。

萩永さんのお話では、知らせた方は6代にわたり子どもが生まれなくて、ずっと養子をもらっていたそうです。
7代目になってようやく子どもが生まれますが、しっかり働いていたものの、病んでいたそうです。



「新修上石津町史」に入っていた江戸時代、1841(天保12)年の市之瀬村絵図(愛知県図書館所蔵)には、同じ場所に字「森 七男田」とあり森のような絵が書いてあります。
市ノ瀬は、現在は一之瀬です。
「新修上石津町史」では、「市之瀬」「一之瀬」の両方が使われています。
「七男田」は、「しちなんでん」とも読めます。

上記の話を整理すると、亡くなったのが7人か、七代後まで影響を受けたのか、また7つの難があると考えられていたか、「7」という数字が共通していますが、これらはどれが元々の話かわかりません。
伝承される中で、話が変わっていったことも考えられます。

「7」は「しち」、「ひち」とも読めますので、「かみしづの地名」の「ひちなんづか」、萩永さんが伝承として聞いてきた「しちなんさん」の違いがありますが、絵図の場所と合せ、これら三つは同じ起源に基づくものと判断されます。
※上記、一之瀬村絵図は愛知県立図書館にてダウンロードできます。
http://www.aichi-pref-library.jp/gazou/search/oldareaname/

他に伝承に詳しそうな方がいると聞きましたので、また確認してみたいと思います。

七難塚、「しちなんさん」の場所は以下のところです。

大きな地図で見る


関ケ原合戦 島津退け口 無名兵士の墓 大垣市上石津町一之瀬
七難塚、「しちなんさん」があったと思われる場所。今は整地され、昔の面影はありません。


他に塚がきれいに整地された、同じく今から40年ほど前、昭和50(1975)年4月、それまで3か所に分かれていた中学を統合させ、上石津中学(大垣市上石津町一之瀬100)ができました。


勝地峠に抜ける道沿い東南側に、この中学校用地はあり、この麓まで行きついた兵士が自刃したと言われ、その墓が数基ありました。
この墓の前を通ると、よく転ぶと言い伝えられてきました。
(「上石津における関ケ原合戦と島津軍の背進 総集編(辻下榮一編者)」P23から引用)

これら牧田川の西岸にあった墓は工事を契機に、一つに合わさって合祀されることになり、川西にあるこの地区の共同墓地に合祀碑を作りました。

「上石津 むかしのくらし(上石津町教育委員会)」の本には、「薩摩兵児(へこ)の墓」と書いてあります。
兵児とは、鹿児島15歳以上、25歳以下の兵士のことを言います。


関ケ原合戦 島津退け口 無名兵士の墓 大垣市上石津町一之瀬
碑の裏には、「この碑は上石津中学校敷地内にあった数基の無縁仏合祀碑です」と書かれています。


関ケ原合戦 島津退け口 無名兵士の墓 大垣市上石津町一之瀬
写真は、共同墓地の方に上がる道。上がりきって右側に碑があります。

合祀碑がある場所は下記の通りです。

大きな地図で見る


萩永さんにお話を聞く中で、第二次世界大戦の話を聞きたいということで、孫が来られてお話をしたことがあると嬉しそうに語っておられました。
関ケ原合戦の伝承を知っている方も高齢となって、しだいに話す人、伝える人が少なくなっているのを実感します。
伝承のすべてが真実であるかどうかは別に、戦について、当時の社会や人についてなど、知る機会を与えてくれます。

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