関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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上石津(大垣市)の牧田から勝地峠まで残っている伝承④

桑原家がある住宅一帯の地区から、上石津中学の方に抜ける道、旧伊勢西街道のルートはわかりづらいです。
下の写真の舗装された道路を、私は伊勢街道と誤解していました。
後にブログで紹介する萩永次郎さんに聞くと、そうではありませんでした
次の写真、急な坂を駆け上がっていく道が、伊勢街道です。現在は林道のような状況です。

関ケ原合戦 島津退け口 無名兵士の墓 大垣市上石津町一之瀬
上の写真は萩永さんご夫婦の家から、桑原家方面に下る道。北西から東南方面を見る。
自動車でこの道の先、道なりに行くと、川を越え、中学校に出ます。
その突き当たりを右に曲がり道なりに行くと、勝地峠に出ます。
この道は車は通れますが、伊勢街道ではありません。


関ケ原合戦 島津退け口 無名兵士の墓 大垣市上石津町一之瀬
左の写真の坂が伊瀬街道であった道です。島津隊は、徒歩か馬で駆け上がっていきました。
登り切った先、歩道として整備はされていないので竹が倒れているなど、少し歩きづらいですが林の中を抜けると上の写真の、道なりに行った先に合流します。
目印に境界を示すコンクリートの柱が立っていて、何とか道をたどることはできますが、わかりづらいのと、歩きにくいので、おすすめは出来ません。


 この道の先、少し入った所に住んでいる、70代の萩永さんご夫婦にお話を聞くことができました。
 なおこの付近は萩永の名字の方が多いので混乱します。
「上石津(大垣市)の牧田から勝地峠まで残っている伝承①」のブログで、話を聞いた女性の方とは別の方です。

 萩永さんご夫婦のまわりの土地は代々、段々畑などの畑がありました。
 その中で一つだけ、昔から家の裏に竹林の所がありました。
 その竹林の中の、祠についてのお話です。

 この祠の下に、合戦の時にここまで生き延びてきた兵士が埋められ、弔ってあるそうです。
 合戦の頃、萩永さんご夫婦の家より少し下った方に住んでいる方で、この辺りではお大尽(だいじん)というか、お金持ちの方がいた。
 西軍の兵士が逃げてきた。
「頼むからかくまってくれ」
と言われ、お金をもらって、
「いいよ、いいよ」
とかくまった。
 その後東軍が来て、
「落ち武者がこちら辺りまで逃げて来ているから、お金を払うので教えてくれ」
ということで要請された。

かくまっていたその人は、
「裏にいるよ」
と、教えてしまった。
 兵士を捕まえようとすると、家から出て、この竹林まで逃げてきた。
 いよいよ行き止まりになって逃げられなくなり、斬り合いになった。
 兵士は敗れたが、白竜大明神(はくりゅうだいみょうじん)のお守りを持っていて、切られて死ぬときに、悔しさのあまり、そのお守りを口にかみながら亡くなった。
 その後、その家に不幸なことが続いて、知らせたことを後々に後悔し、竹林の祠とは別の所にお地蔵さんを建てたということである。

 萩永さんご夫婦で夫の方は、ここの祠の御神体(ごしんたい)は、尻尾のない白竜さんだと、おじいさんに教えてもらったそうです。
「白竜さん」と土地の人たちは言っているが、ようするに足の生えた白蛇のことだそうです。
 萩永さんご夫婦で夫の方は、見たことはないが、なぜ尻尾がないかというと、落ち武者が殺されたことで、尻尾がなくなって蛇にもどったというのである。

 なお60年以上前、ここの竹林は、釣竿を作るのにもってこいのしなりがいい細い竹であると聞いて、萩永さんご夫婦で夫の方は、まだ小学生の4年から6年生ぐらいの頃、同じ年頃の友人と竹を切りに行って切ったところ、二人とも腹が痛くなって転げまわるぐらいになった。
「えらい、ばちにあたったんだ」と、祠に塩を持って行って、おじいちゃんおばあちゃんが謝っておはらいなどしたら、腹痛はおさまったそうです。
 いまだにおなかが痛くなるようなことがあったら、この時のことを思い出すそうです。
 萩永さんご夫婦で夫の方は、若いとき、関ケ原に住んでいて、当時笹尾山周辺に無縁仏の五輪塔がたくさん置いてあったというお話も聞かせて頂きました。
 この地では21世紀になった今も、合戦の頃の伝承が生きているという印象を持ちました。
 別れる間際、萩永さんご夫婦で夫の方は、孫が遊びに来ると、この言い伝えのお話をすると力強く言っておられました。


地図は祠がある場所です。

大きな地図で見る
お許しを得てこの祠を見に行きましたが、見に行く場合は民有地であることを何とぞお願いします。


 下の写真はお話しいただいた、竹林の中の祠。萩永さんご夫婦で夫の方は、小さい時は祠はなく、石だけであったそうです。
 外から戻ってきた時、現在のように祠がきちんと作られていたそうです。
関ケ原合戦 島津退け口 無名兵士の墓 大垣市上石津町一之瀬
祠の中の板に、「龍石大神」と書いてあります。



 なお亡くなった兵が、「白竜大明神」のお守りをもっていたというので、薩州(今の鹿児島と宮城県の一部)の方で、白竜を祀っている神社がないか調べました。
 合戦があった慶長5(1600)年に存在して、白竜を祀っている神社は日本各地にありますが、たくさんあるというわけではありません。
 宮城県日向、諸県郡高原町(もろかたぐんたかはるちょう)に、霞(かすみ)神社という神社があります。
 この霞神社の近く、霧島山は山岳信仰の中心として長く信仰されてきました。
 霞神社はこの山麓にあり、霧島山で修行するものは霞神社に詣でていました。
 この神社に昔から岩の間に棲息していると言われた白蛇は、この白蛇を見ることができると良いことがあるという言われがあり、今も参詣して探す人が絶えないようです。
 この霞神社のお守りであることが、考えられます。

 なお霞神社は、豊久の領地の佐土原に近いですが、島津本宗家の領地でした。
高原町のホームページには、義弘の領地であったこともあると書いてあります。
島津隊は義弘をしたって、はるばる関ケ原まで来て参戦した兵士が多かったと言います。



 周囲の竹林は現在、タケノコを取るために鹿が来るのを防ぐため、トタンなどで柵を作っています。
 毎年、たくさんの被害があり、困っているそうです。

 大垣市上石津町の殿垣外で出会った方に、「一之瀬で島津の関係を調べているのですが」と聞いたところ、このブログで紹介している祠の地の近くに土地を持っている方でした。
 萩永さん夫婦に話していただいた同じ祠の話が出てきました。
 その方の名前は聞かなかったのですが、「父から聞いた話で、兵士は何人もここで亡くなって、埋められている」と伝わっているそうです。
 なお祠のある近くまで住民の土地ですが、祠のある塚のように少し盛り上がった10m四方の土地は誰の土地でもないそうです。
 このような出来事があった土地だからと思われます。


関ケ原合戦 島津退け口 無名兵士の墓 大垣市上石津町一之瀬
萩永さんご夫婦と大垣市上石津町の殿垣外で出会った方にお話しいただいた竹林の中の祠。

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