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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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上石津(大垣市)の牧田から勝地峠まで残っている伝承⑤

「しちなんさん」について、もう少し詳しい人がいないか、二人をたずねました。
そのお一人、一之瀬川東地区在住の桐山清さん(82歳)に、詳しいお話を聞くことができました。
桐山さんは昔、理科の先生をしておられ、日彰中学校という中学にも勤められていたそうです。
この中学は義弘の身代わりとなって戦死した、阿多長寿院盛淳の碑がある、現在は地域事務所にありました。
現在は上石津中学に統合され、廃校となっています。



昭和50(1985)年に圃場整備のために「しちなんさん」を掘った所、真ん中に刀のような鉄が出てきて、その両脇に人骨がでてきた。
鉄は、さびてぼろぼろであった。
骨が出て、このままにしておくわけにはいかずと、川東地区のみんなで話をしあった。
その結果、近くのお寺、天喜寺(てんきじ)の住職に頼み、もう少し関ヶ原よりの一本橋と呼ばれている所にあったお地蔵さんの下に、大切に納めることにした。

当時はお地蔵さんだけでしたが、圃場整備を機に祠をしっかりと作った。
鉄はあまりにぼろぼろであったので、原型もわからないほどで、一本橋には埋めず、どうしたのかはわからない。
天喜寺は県や市の重要文化財が5つ保存されている、近くの立派なお寺です。
この周辺では多きな出来事は、天喜寺の住職さんに頼んでいる。

関ケ原合戦 島津退け口 無名兵士の墓 大垣市上石津町一之瀬 
石垣があり、要塞のような天喜寺。
住所は大垣市上石津町一之瀬1316−1



関ケ原合戦 大垣市上石津町一之瀬 天喜寺
現在はひっそりとしている天喜寺は、行く価値はあります。寺は、織田信長に焼かれたことがあると言われています。


関ケ原合戦 大垣市上石津町一之瀬 天喜寺
天喜寺の入り口

関ケ原合戦 大垣市上石津町一之瀬 天喜寺
天喜寺



一本橋近く、「天王さん」という所からは、馬の骨が出てきました。
「天王さん」は、先に紹介した江戸時代の絵図にも出ている地名で、報告書「かみいしづの地名」には、津嶋神社跡とあります。

骨が出たのは、昭和50年に整地するより以前で、塚のようになっていました。
リヤカーでも通れるようにと、道を拡げるために掘った所、出てきたそうです。

一本橋も昔からある地名で、「かみいしづの地名」には、「最初の道路は小山谷(おやまだに)に簡単な橋で渡っていた。おそらく、道板一枚位が渡されていたのではないか。
一本橋は「狭い橋の意」とあり、旧国道沿いに建っています。

関ケ原合戦 島津退け口 無名兵士の墓 大垣市上石津町一之瀬
現在の一本橋の祠。


関ケ原合戦 島津退け口 無名兵士の墓 大垣市上石津町一之瀬
一本橋のお地蔵さん。
このお地蔵さんは関ケ原合戦とは関係なく、この地で子どもが洪水で流され、弔うためにできました。
三宅伊右衛門というこの地の庄屋出身で一之瀬村長もなされた方が、「いい顔をしているお地蔵さんはないか」と四方八方探し、ようやく見付けることができたお地蔵さんだそうです。
いい顔をなさっています。
三宅さんは、今の国道ができる前、川北に入る目印、道案内としての役割をお地蔵さんに期待して設置しました。
毎年7月24日には、このお地蔵さんのお祭りをしているそうです。




大きな地図で見る
一本橋のお地蔵さんの場所

桐山さんから聞いた言い伝えは、「しちなんさん」には、7人の兵士が埋められた。
7人の中の一人は、名前がわからないがかなりの武将であったらしく、ここまで逃げてきて「もうあかんから。埋めてくれ」というようなことを言った。
昔は主君が死ぬと、まわりも一緒に死ぬというから、その後を追って、一緒に死んだのかもしれない。

生き埋めにしたということはないだろうから、
「自刃するからだれかに埋めてくれ」
と、頼んだかもしれない。
だれが埋めたかはわからない。



「しちなんさん」には霊があって、行くと腹が痛くなったりするから行くではない、いじるとたたりがあるからさわるな、特におしっこをするなと、父や祖父に言われてきた。
小学校の頃の記憶では、田んぼの真ん中でなく、畔(あぜ、田と田の間の境界の意味)みたいな所に、こんもり盛り上がっていて塚のようになっていた。
塚の上には、大きな石をどんと置いてあった。
生えていた草や雑木は、放置されていたわけでなく、だれかが切っていた。
そのため、それほど高く生えていなかった。




私の推測ですが、7人の兵は自刃するにしても場所を選ぶ余裕はなかったでしょうから、退却した道近くで亡くなったと考えられるのではないでしょうか。
江戸時代の絵図には、字七男田、「しちなんさん」のすぐ近くに、「大道」と呼ばれている道が書いてあります。
大道とは、「幅の広い道。大通り」の意味を持っています。
兵達は、この道を通ってこの地を抜けようとしたのでないか。



本来の伊勢西街道のルートは「しちなんさん」沿いの道と並行する、牧田川をわたった向こう側です。
街道を抜ける別の道の一つとして、「大道」が機能していたことがあるかもしれません。
街道は、いくつか脇道に分岐していることは、よくありました。


島津からはるばる農州(美濃)まで来て、道に不案内だろうから、通常の街道から大きくはずれて行く冒険はしないであろう。
関ケ原から街道沿いに来て、このあたりは見通しがよくなる。
退くのにより近い道と、大道を選んだのかもしれません。
地図を見ると、大道を通るとより峠へは近道です。
本来の伊勢西街道も、田の畔道のような道ですので歩くのに違いはそれほどありません。


関ケ原合戦 伊勢街道 島津退け口 無名兵士の墓 大垣市上石津町一之瀬
伊勢西街道の牧田川左岸より、大道、勝地峠の方面を見る。


関ケ原合戦 伊勢街道 島津退け口 無名兵士の墓 大垣市上石津町一之瀬
牧田川左岸の旧伊勢西街道。写真右は山が連なる。

もうひとつ、桐山さんに合戦の時の伝承を聞きました。
関ケ原から逃げてきた、「しちなんさん」の兵士と比べるとそれほど位が高くない兵士、一人か二人が一之瀬まで逃げてきた。

これから山道に入るという手前、歩くのが遅かったのか、傷ついてもう行くことができないという状態であったのか、街道で桑原家まで登っていくすぐ下あたりで、ふと見ると当時は裕福そうな家があった。
「これをあげるから、頼むからかくまってくれ」と言って、その家に飛び込んだ。
お金のようなものを渡して、かくまってくれることになった。

その日のうちに、徳川軍が追ってきた。
「お金をやるから、残党が来ていたなら教えろ。ウソをつくと、ひどい目にあわすぞ」
かくまっていることを言わなければいいのに、ほうびが欲しくて教えてしまった。

すぐにその兵士はつかまった。

「7代にわたってのろってやる」
と、つかまったときに言い放ち、その後その家には代々と不幸なことが続いたそうです。
裕福であったのに、徐々に衰退していきます。
そこでその家の方は、後々、告げ口をしたことを後悔しました。
まわりからも、そんなことをしたから不幸が続いたと言われました。



この話は「しちなんさん」とは場所も違う、別の話です。
先のブログ「上石津(大垣市)の牧田から勝地峠まで残っている伝承②」と「同④」に書いた内容は、上の二つの話が一緒になっていたように思います。
どうもこちらの方が、より真実に近い内容と思われます。
白竜大明神のお守りをかみながら亡くなった兵の話は、桐山さんの二つめの話と共通する事件であるように思われます。
引き続き、機会があれば一之瀬の方に聞いてみます。

なお前のブログで紹介した「榎木坂」について、桐山さんに聞きました。
桐山さんの家の前の道が榎木坂と言われている坂で、昔は急坂で細い路、雨が降ると物をのせて登るにも大変であったそうです。
この道については、合戦との関係は何もなさそうです。

桐山さんにお話を聞いた日は、他にも一之瀬川東、一之瀬川西地区でたくさんのお話を聞くことができ、その印象としてその印象として、合戦の影響が今も人の中で生きている気がしました。

例えば、旧伊勢西街道のすぐ近くに、明らかに塚のようになっている所があります。
今はその地に新しい方が住んでおられるので、写真はひかえますが、移動したり、壊したりしてはいけない、大切にしていかないといけないと、昔から地元の方々で語られています。
いつ頃から言われているかは、わかりません。




追記
「しちなんさん」について、「土地改良区」(編集発行 上石津町役場農業振興課/昭和62年12月発行)P31には、「一之瀬の下畑田地内に七なん塚と呼ぶところがある。一つの森をなしていたと伝えているが、群集墳としては見あたらない」と書いてあります。

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