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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

上石津(大垣市)の牧田から勝地峠まで残っている伝承⑥

これまで市ノ瀬地区で数名の方にお話していただきました。
ほとんどの方は飛び込みにもかかわらず、親切にお話しして頂きました。
お一人お一人、一ノ瀬に誇りと愛着、そして関心を持って生きておられることに、感心しました。

関ケ原合戦 西伊勢街道 島津退け口 大垣市上石津町一之瀬
西伊勢街道から一之瀬などを見る




この近辺に残る、興味深い当時の話を一話、紹介します。
関ケ原合戦の前後の話です。
直接合戦には関係はありません。
当時の城郭の雰囲気が良く残る、国の重要文化財、桑原家の建物についての話です。



現在の建物は江戸時代、享保18(1733)年に一度焼けた後に再建されました。
以前は現在地より東方にあったと、地元の方に聞きました。
(「新修上石津町史」には「北側の小高い所」とあります)

桑原家は系図によると、天文14(1545)年、阿下喜(あげき)城(三重県いなべ市北勢町)からこの地にやってきました。
織田、豊臣に仕え、文禄の役にも参加し、秀吉の忌諱(いき、きらって避けられることの意味)にふれ、一之瀬に蟄居(ちっきょ、家にこもるように謹慎させられるの意味)させられます。
関ケ原合戦では中立を保ち、その後、郷士として江戸時代、尾張藩の石河家に石高30で仕え、財政顧問として「権之助」を襲名します。
村山の支配、植林に力を注ぎました。
(「新修上石津町史」P132参照)
建物は、映画のロケに使用されたこともあり、現在は外観は見られますが入館はできません。


地元に住む萩永次郎(90歳)さんによると、写真中央の木が生えているあたりが、元桑原家のあった所。
写真右の階段は、秋葉神社に登る階段。

関ケ原合戦 西伊勢街道 島津退け口 無名兵士の墓 桑原家 大垣市上石津町一之瀬





以前の地に、桑原家の建物があった頃。
後藤さんの話では、西伊勢街道沿いに「まとば」という所があった。
「まとば」は、矢を当てる的のことです。
おそらく的場という字ではないだろうか。

付近に住む村人、みんなで見ていた。
見世物か練習かわからないが、城から矢を的場まで放った。

誰が最初にこんなことを考えたのか、飛んだ推定距離は160m。
川が流れる谷の上を、ぴゅーんと飛び越えて当たる。
さぞかし見事だったしょう。

的に当たると、皆で「ワ―」と拍手大喝采で囃(はや)したてた。
見ていた人が「はやしたてた」ので、村人が見ていた場所のことを、「はやし」と言っていた。
矢を放った所と当たる所が見える、少し離れた所で見ていました。


国鉄に勤め、広報会長(今の自治会長)を13年なさっていた萩永次郎(90歳)さんに聞き、推定した場所を地図に落としたのが下図です。
萩永次郎さんは昭和61(1986)年からの地籍調査に関わっていたので、この周辺の現地はずいぶんと歩くなどして確認しています。
江戸時代末期、天保12(1841)年の市ノ瀬(一之瀬)村絵図には、今ほどではないが人家が書かれています。
Aにあった元桑原家の小山から、Bの「まとば」に当たったとすれば、現在立ち並ぶ家を、飛び越えて飛びました。


大きな地図で見る


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関ケ原合戦 西伊勢街道 島津退け口 無名兵士の墓 桑原家 大垣市上石津町一之瀬
「まとば」があった所。現在周辺に木がありますが、昔はなかったと考えられます。


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地図のAが囃があったとされる付近の場所。「まとば」があるBの方を見ていた。


上石津川西地区の桑原家周辺では、江戸時代の領主と家来の関係が、弱くなっていますが少し今でも感じることができます。

桑原家は代々、桑原権之助の名前を継いできて、当主を「権之助さん」と呼び、周辺の人から尊敬の気持ちで呼ばれています。

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