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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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上石津(大垣市)の牧田から勝地峠まで残っている伝承⑦

関ケ原合戦で、たくさんの兵士がここまでやって来たと、一ノ瀬では言われています。
それを示す、祠や塚、石や五輪塔が残っています。
しかし全国的に流通する史料や合戦記に、このことを書かれているのを見たことはありません。
こうした情報は地味ですが、陣跡を考えるときに参考になるかと思い、引き続き書いていこうと思います。

一之瀬に来た武将が、もし名のある大将であれば、名乗りを上げ、記録に残されたのでないでしょうか。
そのためこちらの地に来たのはほぼ無名の兵士で、歴史を変えるような出来事でなかったからと考えられます。
今は平和なこの地区の、ごく普通の道ばたに、一人の命の火が消える瞬間がありました。
記録に残っていなくても、この地にその痕跡が今も残っている事に惹かれます。



萩永次郎(90歳)さんは、国鉄退職後、一之瀬川西地区の広報会長(自治会長)を13年なさり、会長当時、旧一之瀬村全部の地籍調査に協力したため、地元の事に詳しいです。
実際は会長を辞めた後も、調査は続きました。

昭和50(1975)年4月に、三つの中学を統合して上石津中学校ができました。
この中学校を作るため、自衛隊のブルドーザーが入りました。
段々畑は校舎、田は運動場になり、畑と田の比率は、ほぼ半々でした。
その敷地に、関ケ原合戦に関係したと伝えられる五輪塔が置いてありました。

五輪塔がなぜそこにあったのか、私がずっと疑問を持っていました。
予想した街道の道から、外れていたからです。



萩永次郎さんに、雪が所々残る寒い中、幸いにも伊勢西街道の道をご案内頂きました。
やはり私が考えていた道は、まちがっていました。
予想外の所もあったので、紹介します。

なお紹介する道は、萩永次郎さんが誰かからきちんと聞いたというのでなく、いろいろな人から聞いてきたことをまとめ、そうでないかと推測されるものであることをご了承ください。



再度確認をすると、島津は関ケ原合戦の退き口で牧田上野から二つの方向に退いたと考えられます。
一つに、関ケ原から牧田上野まで南東に進み、ここで右の方に折れ、藤古川を南方面に渡り、逃げてきました。

藤古川は合戦の時、将兵の地で赤くにごったと言われています。(「歴史の道調査報告書第二集(伊勢西街道・伊勢東街道・北国街道・高賀街道・郡上街道)」(岐阜県教育委員会編)より、以下も参照または引用)

さらに伊勢西街道のルートで勝地峠を越して、上多良まで行きます。
こちらのルートは一般に今まで、島津豊久がたどったと言われていて、上石津の方でそれを示す史料もありますが、現在様々な説があります。
なお、上石津では「島津の退け口」のことを、「島津隊の背進(はいしん)」と呼んでいます。

もう一つに、牧田上野で右に折れないで伊勢東街道ルートで、そのまま養老山地を行き、駒野の方から養老山地を越えて退きました。
桐野作人氏によると薩摩に残る第一級史料、「旧記雑録」などから、島津義弘はこちらルートから逃れたと考えておられます。


ここでは大垣市上石津町内の一つ目のルート、勝地峠までを詳しく紹介します。
牧田上野から萩原を抜け、左に和田橋、右手に山、牧田川左岸を上流に向かいます。
方角は南西で、このルートは伊勢西街道です。

牧田川左岸を行くと、右手に畑などあり、殿垣外と言われている地区に入り、左方向に折れます。
殿垣外と言われている地区に入り、左方向に折れます。
曲がるところには、常夜燈があり、かつて伊瀬街道があった事を示しています。

殿垣外は、萩永次郎さんによると「とのがいどう」、「かみいしづの古道」(発行 上石津町教育委員会)では「とのがいと」とあります。
右手に山を見ながら、山沿いを南東に行くと、一之瀬川西地区に入ります。
殿垣外とは、「城の外」という意味です。
対応する「城の中」という地名があってもよいですが、ありません。地名は無くなったのでしょうか。

天保12年の市ノ瀬村絵図には、家が何軒か書いてあります。

下記の場所は和田橋の場所

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写真下は和田橋北から勝地峠方面を見ます。
関ケ原合戦 伊勢西街道 島津退け口 大垣市上石津町一之瀬


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殿垣外の場所

写真下は殿垣外の北東500メートルの牧田川の堤防から、一之瀬や勝地峠の方面を見たところ。
関ケ原合戦 伊勢西街道 島津退け口 無名戦士の墓 大垣市上石津町一之瀬


下記のGoogleマップの上の○から下の●へ、さらに一之瀬川西地区に向かいます。
当時は畑か田、あぜ道なので、実際は直線で行ったと思われます。

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さらに上の○(殿垣外付近)から下の●へ行きます。
下記のGoogleマップ写真参照。
萩永次郎さんは山沿いに行ったという想定で、今は道がないのでイメージです。
合戦当時は畑とあぜ道がほとんどであったと思われます。

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下の写真は殿垣外を出て、一之瀬川西地区の方面を見た写真。
実際は山沿い、山の林の中を通って行ったのではないかと萩永次郎さんは考えています。

関ケ原合戦 伊勢西街道 島津退け口 無名戦士の墓 大垣市上石津町一之瀬

下の写真はさらに一之瀬川西地区に近づき、地区内の住宅などを見た写真。
写真右に昔は祠があったが、今はないです。

関ケ原合戦 伊勢西街道 島津退け口 無名戦士の墓 大垣市上石津町一之瀬
正面奥に、一之瀬保育園とその駐車場が見えます。
この道の先の裏に、本善(ほんぜん)寺という寺があります。
寺の東は現在住宅ですが、萩永次郎さんが若い時、林でした。

お寺が合戦当時にあったかはわかりません。
伊勢西街道はこの写真の正面、寺沿いを通り抜けていたのではないかと萩永次郎さんは思っています。
そうだとすれば、島津は下の写真をまっすぐ保育所の方に向かいます。

下の写真は下の地図付近から、今まで来た道を振り返った写真。正面山の裏側は関ケ原の方です。
関ケ原からここまで来たら、兵は少しほっとしたのでないでしょうか。

関ケ原合戦 西伊勢街道 島津退け口 無名戦士の墓 大垣市上石津町一之瀬



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この後、伊勢西街道で一之瀬川西地区の中心を流れる小川、関谷川(せきたに)をわたり、小さい山の方に向い、駆け昇ります。駆け昇ります。
今は関谷川は洪水対策のために、三面コンクリートになっています。

下の写真は、街道沿いの小山の上から見た所。
細い矢印のように、写真の右上方面から、そのまま左方面に行き、殿垣外を抜けて左に曲がってからはまっすぐ進み、手前の崖までやってきます。

下の写真で太い線にあるように、実際に民家と民家の3mぐらいの幅を通り抜け、矢印のように崖を登ってきました。
関ケ原合戦 西伊勢街道 島津退け口 無名戦士の墓 大垣市上石津町一之瀬


崖を矢印のようにジグザグに登ります。
登った所に、先のブログで紹介した、160mぐらい離れて矢を当てた、的場がありました。
写真の下の道は横方向にありますが、最近作られたもので昔はありません。
関ケ原合戦 伊勢西街道 島津退け口 大垣市上石津町一之瀬



下記の地図の、○付近より●方面の先に、がけを駆け昇って小山の頂上を行き、猿子谷(さるごたに)川という小川が流れる谷に降り、再び谷を駆けあがります。
猿という名前が川名にあるように、今も付近では住んでいます。
すると●の先の所、上石津中学のテニスコートが面した道に出ます。
道に出る所には大きな木の切り株があります。
なお整備されていないので、最後の地図の区間は徒歩では行くのは不可能です。


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