関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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笹尾山の石田三成陣地

MG_6539_R.jpg石田三成が布陣した笹尾山の夏景色。「大一大万大吉」の幟(のぼり)の後ろに馬防柵が並びます。


MG_6556_R.jpg
笹尾山の小道を5分ほど登ると、石田三成陣地です。
国史跡であることを示す大きな石碑が立っています。


MG_6553_R.jpg
石田三成陣地からは関ケ原古戦場が一望できます。
中央やや左手の稲田の中に立つのが決戦地碑。
さらにその奥、黒い影になった山のふもとに家康最初陣地(桃配山)が遠望できます。

                        

9月14日の夕刻、徳川家康(とくがわいえやす)率いる東軍が、西軍の集結する大垣(おおがき)城を素通りして、大坂に攻めのぼろうという動きを見せると、西軍もまた、それを阻止(そし)するため、激しい雨の中を関ケ原に向かって出発しました。

明けて15日の午前1時頃、まずは石田三成の隊が関ケ原に到着し、ここ笹尾山(ささおやま)に布陣しました。その目的のひとつは、北近江へ抜ける要路である北国街道(ほっこくかいどう=明治時代以降、北国脇往還(ほっこくわきおうかん)と呼ばれる)を押さえることにあったと考えられます。 

笹尾山の石田三成陣地に登ると、西進してくる東軍を取り囲むように布陣した西軍諸隊の様子が手に取るように分かります。但し、合戦当日の関ケ原は昨夜来の雨の影響もあって深い霧に覆(おお)われ、視界はほとんどきかなかったようです。

午前8時、井伊直政(いいなおまさ)が福島正則(ふくしままさのり)の隊を出し抜いて先陣を切ると、いよいよ天下分け目の決戦が幕を開けました。
当初は互角以上の戦いをしていた西軍でしたが、次第に押され、小早川秀秋(こばやかわひであき)らの裏切りによって、大谷隊は壊滅(かいめつ)。宇喜多秀家(うきたひでいえ)、小西行長(こにしゆきなが)の諸隊も次々に敗走していきました。

午後2時頃でしょうか。それまで懸命に戦っていた石田隊もついに崩れはじめ、三成は再起を期して笹尾山後方の伊吹山(いぶきやま)の山中へと落ちていったのです。

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