関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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奥平家と貞治、家康のつながり その1 

以前書いた、奥平貞治についての追記です。


関ケ原合戦で貞治が大谷隊と奮戦したのは、中山道沿いの旧山中村あたりです。

墓は、旧山中村から1.3kmほど離れた北国街道沿いにあるのですが、なぜこの地にあるのかわかりません。
五輪塔は亡くなった場所によく置いてありますが、この墓は後に大正時代に造成されたと思われます。墓石は大がかりで費用をかけているように見えます。
貞治の法名は、江戸時代の寛政年間に作られた新訂寛政重修諸家譜によると、道菊と言います。
墓には書いてありません。


264年も経つと、亡くなった近くに建てる必要性は少ないと思われます。
お墓参りをしやすい場所と、北国街道、玉宿に作ったことが考えられます。
玉宿は当時、北国街道より中山道経由で荷物が運ばれることが多くなったため、以前より寂しくなっていました。
宿として人の往来は、あったでしょう。

関ケ原合戦 奥平貞治の墓


墓の裏に、「裔孫 奥平新左衛門源貞昭」と書いてあります。
裔孫とは、「えいそん」と読み、遠い子孫、末の子孫の意味ですが、新訂寛政重修諸家譜に、貞治は後継ぎがなかったとされています。
264年経って作ったことを考えると、子孫の方に間違いないと思われますが、後継ぎがないのにどうして子孫と言えるのか。
また、どこに住んでいた方でしょうか。


新訂寛政重修諸家譜に、奥平貞治は関ケ原合戦後、家康が貞治に後継ぎがなかったのであわれみ、貞治の母に「近江国のうちにをいて300石の地をたまふ」とあります。
合戦の日、秀秋を押し出した貢献はあったにしても、300石というと相当な石高です。
なぜ家康は、そこまでしたのでしょうか。




褒美をもらう側からすると、合戦は負ければ、命がないかもしれない。
当然、功績にみあった褒美をもらえると期待します。

貞治は個人として手柄をあげたというより、奥平家の一人として功績を上げようと参戦したと思われます。
亡くなって後継ぎがいないので、奥平家に論功をあげようと考えて貞治の母に300石の地をあげたのでしょうが、なかなか出来なるものではないと思われます。家康らしいエピソードです。
東軍として貞治以外に、甥の信昌(46歳)、また貞能の嫡男、家昌(24歳)も参戦し、それぞれ論功を頂いています。
貞治に兄弟は居ましたが、兄は二人とも亡くなり、弟の貞国(さだくに、求馬助)は「子孫尾張家につかふ」とあります。
貞国は家臣として尾張家に仕えていたのか、褒美をもらった形跡は不明です。



家康側からすれば、合戦後の論功は、徳川の世を確立していくためです。
節約家であった家康からすれば、一石の無駄もするとは考えられません。
とすれば、この報奨をどう考えるとよいのでしょうか。



貞治の母は正室でないと推測されますが、近江で300石に居たというのが、これを読み解く一つのカギとなりそうです。
近江は、奥平宗家(奥平家の主流の意味)が居た地ではありません。
すでに夫、貞治の父、貞勝は慶長元(1596)年に亡くなっているので、貞治の母は宗家の近くにはいずらくなっていたのでしょうか。



貞治の母に与えられた300石は、亡くなった女性一人が生きていくに不相応の石高です。
家康は、貞治個人の系統を残しておくことを考えたのではないでしょうか。
家康は、今後長期にわたり徳川家繁栄のため、命を張ってでも忠義にあげむ家臣が、たいへん重要である。関ケ原合戦を通じて、より強くそれを自覚することになった。
合戦に貢献があった貞治を、粗末してはいけない。血筋は途絶えたが、貞治の系統を残しておくことが恩に報いることであり、またいつか、何かの役に立つだろう。
つまり、養子をとってでも貞治の系統を絶やないための300石ではなかったか、というのがここでの推論です。


貞治の母は、貞治が亡くなった関ケ原に近い、近江に移り住んできたとも考えられないか。
養子で続いた貞治の子孫が、先祖を大切にするために墓を建てたとすれば、つじつまが合うように思われます。

近江と言えば、関ケ原合戦で大きな貢献をした井伊直政、井伊家があります。
家康が心から信頼していた井伊家なら、安心して任せられるかもしれないと思ったのだろうか。



墓標の裏に、
「君諱(いみな)貞治源姓奥平氏稱(しょう)藤兵衛関原之役奉 神祖(しんそ)命監筑前黄門秀秋軍攻大谷刑部陣戦死爲(為)實(実)慶長五年九月一五日他春秋二十八 元治紀元龍集(一年のこと)甲子(かっし/干支の組み合わせの1番目のこと)十月 裔孫 奥平新左衛門源貞昭建」

諱(いみな)の意味は 「生前の実名。生前には口にすることをはばかった」「人の死後にその人を尊んで贈る称号。諡(おくりな)」(引用「goo辞書」)のことです。

稱の意味は、「ほめあげる。たたえる」「となえる。呼ぶ。呼び名」の意味です。

神祖とは、「徳川家康の尊称」です。

関ケ原合戦 松尾山 奥平貞治
貞治が居た松尾山頂上から、関ケ原の盆地を見る。



さらに追記です。
上のブログを書いた後、関ケ原町内の私設資料館、関ケ原ウォーランドを創立された、谷口玉泉氏の著「泰平への道 関ヶ原合戦に学ぶ」P40に、「奥平の墓は、後に奥平の一族が土着した玉地区につくりました」とあるのをみました。
貞治ゆかりの方が、墓を作ったときに関ケ原町内に玉地区に住んでいた様です。玉地区は、この墓がある地区です。
別の話で、墓の近所に住む方に、墓の地は奥平の方が所有しているのでないかと聞いたことがあります。土地の方で昔の由来など知っている方がすでに亡くなっている事が多く、確かめることは難しいです。
町役場で墓の土地所有者を確認できますが、未確認です。
いずれ、確かめてみたいと思います。
なお「泰平への道 関ヶ原合戦に学ぶ」は何版かあり、B5判が広く流布していますが、先の文はA4判の大きい書にありました。関ケ原町立図書館に所蔵してあります。

関ケ原町立図書館に所蔵してあります。

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