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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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奥平家と貞治、家康のつながり その2

関ケ原町玉地区にある墓に並んで、大正8年の碑があります。
その裏に、
「奥平藤兵衛貞治君徳川家康ニ仕ヘ関ヶ原ノ戦ニ西軍ノ将小早川秀秋ノ松尾山ノ営二在之ヲ監ス戦酣(たけなわ)ナルニ及ビ秀秋未ダ内応ノ約ヲ果サズ君之ヲ促シテ大谷吉隆ノ陣ヲ衝カシム利アラズ君奮戦シテ死ス時二二十八秀秋軍監ノ死ヲ見テ諸将ト共二力戦シ遂二大ニ西軍ヲ破ル此地君ノ墳墓ノ地ナリ今碑ヲ建テテ之ヲ表ス 
大正八年三月 東京帝国大学文科大学教授文学博士 三上参次撰文
岐阜県不破古蹟保存会長 升田憲元建之」
と刻んであります。


「秀秋軍監ノ死ヲ見テ諸将ト共二力戦シ」とあることから、「秀秋が、軍監であった貞治の死を見て家臣と共に戦った」
この記述をもとにすると、秀秋は貞治の戦死を見て、戦意をより高くし、配下の武将とともに戦ったことが想像されます。

この牌に書いてある関ケ原合戦時に28歳というのは、お墓の裏に書いてあったものをそのまま参考に、書かれたと考えられます。




参謀本部編纂の「日本の戦史2 三方原・長篠の役」(旧参謀本部編纂 監修;桑田忠親 山岡荘八 発刊;徳間書店)という本の中に、長篠の役に参加した「氏姓名表」があります。
見ると、奥平藤兵衛定治という名前が見られます。

奥平藤兵衛定治が、奥平貞治と同一人物かということですが、
定治のとなりに、「求馬助」という名前があります。
奥平求馬助は「定治の弟」と記されています。

新訂寛政重修諸家譜に、貞治の弟は貞國、初名に「求馬助」という名前が記してあります。
「日本の戦史2」と「新訂寛政重修諸家譜」を照らし合わせると、奥平藤兵衛定治は貞治と同一人物であり、長篠の役に参加したことは間違いないようです。


長篠の役は、天正3(1575年)年。
貞治の墓と碑に書いてある、関ケ原合戦時は28歳ということから逆算すると、長篠の役の時には3歳となります。
整合性がとれません。
戦国時代、幼くとも戦場につれていくのがあたりまえでしたが、数えで3歳というと、現在の私たちの数え方で言うと2歳、この歳で参戦したとはいえないでしょう。

墓に書いてある28歳で死んだという記述をどう考えればよいのか、いよいよ謎ですが、史料から探索していきます。


関ケ原合戦 奥平貞治の墓
貞治の墓の裏。
文の最後に春秋二十八とあり、28歳で亡くなったと書いてあります。
春秋とは、「年齢。とし」の意味です。

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