関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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奥平家と貞治、家康のつながり その3

墓の隣の碑は、墓ができた経緯と別に考えられます。
その理由は、碑に「岐阜県不破古蹟保存会長 升田憲元建之」とあるので、子孫が建てた墓とは異なり、公の、別の意図で建てられたのでしょう。


他の関ケ原合戦由来の碑ができた年と、比較してみます。
以下は「関ケ原町史 通史編上巻」からの引用です。



大正8(1919)年3月に、この碑ができました。
「建之」は「けんし」と呼び、「建立」と同じ意味で、「これ(之)を建てる」という意味です。

大谷吉継の碑が、昭和15(1940)年9月15日、建之は「関ヶ原古跡保存 会 長 升田憲元」。

阿多長寿院の碑が大正9(1920)年4月、建之は「不破古蹟保存会長 升田憲元」。
島津義弘陣所跡碑が紀元2600(1940)年9月15日、「関ヶ原町町 川崎好一識」とあり、「識」は記した者のことです。
建てたのは、碑に「三州人仕」とあり、薩摩(鹿児島県と宮崎県の一部)の有志の方です。

平塚因幡守為広碑が、昭和15(1940)年9月15日、「平塚家八代目勘兵衛為忠二男平塚定二郎建之」とあり、建てたのは平塚家の方です。

島津中務大輔豊久之碑が大正9(1920)年4月、建之は「不破古蹟保存会長 升田憲元」。

陣場野公園内、徳川家康最後陣地にある床几場土壇銘は、江戸時代の天保13(1842)年にできています。
幕府の命により領主竹中氏が石壇・土塁を築いたものであるとあります。



これら碑の中で、貞治の碑は東首塚にある碑を除くと、最初に作られています。
「関ケ原町史・通史編下巻」(P371)によると、
「(大正)6年には岐阜県保勝会不破郡支部ができ、その翌年には不破郡古跡保存会が作られて、関ヶ原合戦関係の家族を訪ねたり、遺跡に道しるべや墓碑を建設したり、遺跡の私有地の買収を計画したりしている」
とあります。
合戦関係の家族を訪れたとあるので、どんな活動をしたのか興味があります。
関ケ原に時代を隔てて案内掲示が形跡が残されていますが、一番初期のもとと考えられます。

岐阜県保勝会という組織ですが、岐阜県における歴史に寄与した遺跡や古跡、景勝などの保存を目的に作られた会と考えられます。
さらに不破郡古跡保存会が作られ、その事業の中で、貞治の碑ができたのです。



なぜ一連の碑の中で最初にできたか、よくわからないです。
町史を参考にすると、碑を建てる土地の所有との関係で、墓の隣地に建てたので買収する必要性が少なかったため、碑が建てやすかったからではないでしょうか。
他の碑は、用地買収に時間がかかったと考えられます。



現代はその頃と比べると、貞治への関心は低くなったと思われます。
国の事情として当時、国威高揚への意識が高かったことです。

碑が建てられた大正8年ですが、日本は大正7(1918)年から大正11(1922)年まで、巨額の戦費を投入して7万人以上の兵をロシアのシベリアに出兵し、何千人という兵を失っています。
出兵にあたっては、どんな形でするか国内で様々な議論もありました。
岐阜県保勝会という組織ができたのも、こうした時代背景で作られたと思われます。

おそらく関ケ原からも、極寒の地、シベリアに行った兵士もいると思われます。
日本軍を支える一人ひとりの兵に、忠義心を求めた時代でした。
碑にあるように、貞治が徳川家康に仕えて戦ったことに関心が寄せられ、貞治の功績を顕彰することが行われたと考えられます。

関ケ原合戦 奥平貞治の石碑
貞治の合戦での功績を称えている碑。
碑ができた当時の関心も、合わせて知ることができます。

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