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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

奥平家と貞治、家康のつながり その4

もうすこし、貞治のことを知るために奥平家のことを見ていきます。

奥平家は新訂寛政重修諸家譜に書いてある伝承によると、村上天皇(在位は平安時代の946~967年)の具平(ともひら)親王の後裔(こうえい、かなり離れた昔の子孫の意味)、赤松氏の二男が、秩父の児玉氏の婿となって入り、家督を相続します。
その子孫が、上野(こうずけ)甘楽郡(かんら)奥平郷(現在の群馬県多野郡吉井町下奥平)に居住し、奥平と称するようになります。

その後、奥平郷を去り、三河設楽(みかわしたら)郡作手(つくで)(愛知県南設楽郡作手村)に来ます。



勢力が弱かった奥平家は、今川家について生き延びようとします。
貞勝(さだかつ 1512~1595年、貞勝は、貞能と貞治の父)が19歳の時、享祿3(1530)年、家康の祖父、松平清康に従って戦功をあげています。
また永禄2(1559)年、今川義元のために大高城に兵糧を届けています。
この年は桶狭間の戦いの前年、家康は18歳、今川の元、駿府(すんぷ)に居ます。
家康は今川氏を通し、奥平家のことを知る立場でした。
永禄3(1560)今川義元は桶狭間の戦いで、信長に討ち破られています。
家康は今川の元で戦い、織田方の砦を攻め落とす功績をあげます。
義元が討たれたのを知り、家康は自分の城、岡崎城に12年ぶりに主君として戻ることが出来ました。
(「別冊歴史読本 徳川家康 天下人への跳躍(発刊;新人物往来社)」の小和田哲男著「新・図説家康実記」P39他を参照。


永禄5(1562)年、家康21歳の時、清洲城で信長と会って、同盟関係になります。
家康と信長の同盟関係は、生涯続きます。



こうした中で、永禄7(1564)年、貞勝は弱体化した今川氏から離れて家康につき、子の貞能もそれに従っています。

なお貞能は、さかのぼること天文17(1548)年、11歳の時に貞勝の指示で人質になっています。
そして弘治2(1556)年には、貞能は貞勝と対立して今川氏に反旗を翻しています。
(「戦国人名事典」P269参照、出版:新人物往来社)
父子で、敵味方になったということです。
今川氏に貞能はとらえられ、父貞勝の願いで、配流(はいる 辺境地や島に送られる刑罰の意味)をまぬがれました。



奥平家は、信長・家康と浅井・朝倉とが戦った元亀元(1570)年の姉川の戦いで、家康側にて参戦しています。
この時、貞能は手勢を率い、朝倉景勝の隊に突入、91の首級をあげたと、新訂寛政重修諸家譜に記されています。


しかしその後元亀3(1572)年、二俣の城を勝頼に攻略されます。
奥平家はいやおうなく、信玄率いる武田氏を恐れ、従うようになります。



天正元(1573)年、突然武田が三河から甲斐に帰り、一度に事情が変わります。
奥平家の当主貞能は、信玄が亡くなったのでないかと察知し、同じく察知した家康の働きかけもあって、武田側から家康側に内応をします。
もともといやおうなく武田についていたが、信玄の子の勝頼に、大将の器はないと見たこともあります。
「内応」とは、ひそかに敵に通ずること。裏切りの意味です。(「広辞苑第5版」引用)


貞能は家康に内応することを決めていたのですが、人質として子どもや、奥平家の者が取られていました。
そして武田側に、武田を裏切って家康側についたのではないかと、疑がわれます。
勝頼の従弟、武田信豊(のぶとよ)に呼び出しを受け、家臣わずか10人でその疑いを晴らすため、出向かいます。

関ケ原合戦 奥平貞治 奥平家
奥平家の幟(のぼり)

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