関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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奥平家と貞治、家康のつながり その5

新訂寛政重修諸家譜に詳しいので、ここより紹介していきます。


貞能は、家康側に寝返ったといううわさがあるがと問い詰められ、答えます。
「かかる時節には人口區々(「くく」と読み、ばらばらでまとまりがないことの意味)にして、父は子を疑ひ子は父を疑う。
しかれども先に人質をたてまつるのうへは、何の二心かあるべき」
二心とは、心の中に二つの心、裏切る心のことです。

文章の意味は、
「このような時代、世間のうわさはいろいろなあるし、父は子を疑ったり、子は父を疑ったりする。
しかしすでに人質を預けている以上、謀反をするような気持ちを持っているはずがない」

武田信豊は、障子を隔て隣の部屋から貞能の態度をうかがい、さらに対面し、問い詰めます。
貞能の心に二心がないか試すため、碁を囲みます。
武田側は、もし貞能に心が乱があって碁の打ち方に影響が出れば、討ち取るつもりでいました。
貞能は疑いを次々に乗り越え、居城の作手に戻ることができました。

 

奥平家の居城ですが、武田側についているため、本丸は武田方の甘利三郎四郎某に奪われていました。
奥平家は二丸に住んでいるので、貞能は二丸にもどります。

疑いは晴らされていないので、さらに追及にあいます。
「一族等の人質をすみやかに本丸に入れるべし」

貞能はこの日、城を退いて家康側に行くつもりだったので、「うけたまはりぬ」とのみ答えて、7人の族、5人の家老等に静かに雑具を運ばせます。
貞能は、
「たとへ(もし、)信豊より由来るの事ありとも、あへてこれに応ぜずして(、)物静かに集(ま)りゐて、我下知を待(つ)べし(私の指示を待ちなさい)」
と言って、冷静に対応するように家臣に指示をしました。



新訂寛政重修諸家譜に退く経緯が書かれ、その中で貞治の名前が出てきます。

「時に土屋右衛門尉昌次(は)今宵(今夜は)はたして貞能がはしりさらむこと事を察し、與力(よりき)の士(、)小笠原新彌某草間備前某をして、二丸に来り、其挙動うかがはしむ(その動きを調べさせる)。
貞能わざと寛に語り、或は引てともに浴室に入、又は酒食を設けてこれを饗し、さらにうたがはしきことなかりしば、二人心を安じてかへりさり(安心して帰った)、人質もまた明朝送るべしと本丸よりいひ来る」

「ここにをいて常勝(貞能の弟)貞治等に命じて父道文(貞勝)とともに長篠の方に退き去べし。」
新訂寛政重修諸家譜の奥平の頁で、貞治本人の記述箇所以外、貞治の名前が出てくるのはここだけです。

なお貞治の兄、常勝は、新訂寛政重修諸家譜によると、この時貞能と一緒に逃げなかったためか、「武田家に志を通じるにより死をたまふ」とあります。




甲府(山梨県)にいる奥平家の人質は、貞能の「二男仙丸及び一族奥平久兵衛貞友(さだとも)が女(の娘、長女とされています)、奥平周坊勝次が男(の息子)虎之助」とあります。
天正元(1573)年9月21日、勝頼の命で3人はとらえられ、三河国鳳来寺(ほうらいじ、愛知県新城市)の前で磔(はりつけ)になりました。
仙丸はその時14歳でした。




新訂寛政重修諸家譜によれば、貞友は貞勝の弟で、その娘は貞治、貞能にとって従姉妹になります。
奥平の家臣、黒屋甚九郎重吉は若い仙丸についていくのですが、仙丸が磔になる時、
「君は幼稚なれば最後の事覚悟あるまじ(若いからまだ、覚悟できないだろう)、某(なにがし、ここでは私の意味)を手本とさらるべし(私を手本として自害なされたい)といひて自殺す」とあります。



なお参謀本部編纂の「日本の戦史2 三方原・長篠の役」P223、P224には、人質になったのは仙丸以外に奥平一族の奥平藤兵衛の娘、於阿和(おあわ)とあります。
引用は、「武徳編年集成」からと思われます。
お墓などから、奥平藤兵衛は貞治であることは間違いないので、上の記述では亡くなったのは貞治の娘ということになります。
本当なのでしょうか。

「日本の戦史2」は二説の立場で、上記のあとに「一説によると、仙丸(14歳)、奥平久兵衛の娘おふう(16歳)、奥平周防の子虎之助(16歳)の3人が殺された」とあります。
奥平家譜引用とあります。


新訂寛政重修諸家譜によれば、亡くなった女の父は貞友、初名は久兵衛とあります。
新訂寛政重修諸家譜と奥平家譜の記述が重複していて、奥平家譜の方がさらに詳しいのですが、この場合、奥平家の記述を良しとするのが基本と思います。
そのため、亡くなった女が貞治の娘と言うのは間違いのように思われます。





家康の元につくと決断していた貞能は、急ぎ家中の者をつれて城を出ます。
武田勢が追跡しますが、鉄砲を放って退け、かねてからの約束通り家康のもとに合流します。


貞能は人質を失うことを覚悟し、家康側につきました。

そこまでして自分の元に来た奥平家に対し、このあと家康は、貞友の長女が犠牲になったことを憐れみ、家康の異父弟、松平隠岐守定勝(久松)の元に、人質であった娘の妹を、嫁に行かせています。
久松は1560年生まれ、家康は1543年と、歳が親子ほど離れています。
人間関係の機微に触れるはからいに、家康らしさを感じさせられます。

関ケ原合戦 奥平貞治 奥平家 松尾山
福島正則が着陣したと言われる井上神社(関ケ原町松尾)の裏手から、貞治が居た松尾山方面を見ます。
関ケ原合戦で正則の陣跡とされている所は、養嗣子の正之が着陣し、正則はもうすこし後ろ、井上神社の門あたりにいたといわれています。
福島隊が小早川隊に、参戦を催促するため鉄砲を放ったと言われているのは、この付近です。
※養嗣子は「ようしし」と読み、養子の後継ぎの意味。



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