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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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奥平家と貞治、家康のつながり その6

貞治の父の貞勝は、貞能が徳川側に着こうと城を出て行こうとした時、制しようとしました。

新訂寛政重修諸家譜では、貞能は自分の弟、
「常勝、貞治等に命じて(、)父(の)道文(貞勝)とともに長篠の方に退き去るべし(逃げるべきである)。

兼約(前もっての約束)によりて今夜の中(、)徳川家より迎の人衆を賜るべきなり(迎えの人が来る)。

猶(なおも)信昌(定昌のこと。この時、数えで19歳)とはかるべしとて(いっしょに来いこうと言って)、其身(貞能自身は)は先(に)妻子家人等を具して(連れて)、作手を退きゆくこと十町ばかりにして(およそ1キロと少し離れた所で)音づれ(到着)を待(つ)。

信昌も常勝等と相談すといへども、彼らがこころいまだ決せざるにより(信昌は伯父の常勝たちと相談するが決められないので)、しからば道文の思慮に任せられ(そうであれば父の貞勝と相談して)跡より返答あるべしとて退き去(後の方からついてこいと言って去った)。

道文このよしを聞て(父の道文はこの経緯を聞いて)大(い)に怒り、これらの事あらむには、かねて告聞すべきに(このように裏切ることは以前から聞いていたが)、心得ざることなりとて(許すことはできないと言って)、速(やか)に人をはせて(早く走らせて)貞能等をどどむといへども(貞能を止めるように言うが)、すでに父子ども退き去しとて城下騒動す(すでに貞能、信昌親子は去って行ってしまったので、城は大騒ぎになった)。」


貞能は自分の子供が犠牲になることを覚悟していたが、貞勝は武田を恐れていたこと、自分の孫などが人質になっていたので、反対したようにも思われます。



親子が敵味方に別れたわけですが、江戸時代後期につくられた新訂寛政重修諸家譜は、嫡男の貞能が、武田側につこうとする父と別れ、子の貞昌らとともに一族で逃げ出す経緯を、上のように情景が浮かぶかのごとく書いてあります。


このようにして貞治の兄の奥平貞能は、武田信玄が死去したことをきっかけに、家中と共に家康につきました。




新訂寛政重修諸家譜では、貞治が徳川、武田、どちら側についていったかは書いてありません。
貞治の兄、常勝は武田側について亡くなったのと、その後の奥平家と貞治の経緯をみると、生き残った貞治は徳川についていったと考えられます。


奥平家としては徳川に対し、再び忠誠を示すようになった重要な場面であったので、強調しておきたかった所です。
結果を見れば奥平家が明治まで続くことになる、大きな決断となりました。



貞治についてですが、兄の貞能はこの時37歳、主君として決断し、様々な影響力を周囲に与えていますが、貞治はこの経緯を見ると自らの判断で動くことはできなかったようです。



この少し前、家康は天正元(1573)年8月20日に、奥平家の貞能父子に対し、自分の長女、亀姫を貞能の嫡男、貞昌(後の信昌)と結婚させることを起請文で約束しています。
奥平家として、家康と姻戚関係を作ることができるのは、願ってもないことです。

亀姫は、家康の最初の妻、築山殿の娘で、嫡男信康が兄です。

起請文は「きしょうもん」と読み、
「起請の文書。前書・神文シンモン・姓名を記し、神文は「梵天帝釈・四大天王・総日本国中六十余州大小神祇・別伊豆箱根両所権現・三島大明神・八幡大菩薩・天満大自在天神、部類・眷族、神罰・冥罰各可罷蒙者也。仍起請状如件」などのように掲げて、もしこれにたがう時は神仏の罰をこうむる旨を記す。誓紙。誓詞。誓書。」(広辞苑第五版より引用)の意味。


同年9月10日には、家康は武田方の長篠城を攻めています。
攻められた側の勝頼は、信玄の遺言を守り、応戦しなかったので家康に奪い取られています。(「クロニック戦国全史(講談社)」参照)



2年後の天正3(1575)年、信玄の死後、しばらく控えていた勝頼は再び信長・家康の領土を脅かしはじめます。
家康は武田氏より奪っていた長篠城を、貞能の嫡男、貞昌に城主に命じ、守らせます。
貞昌(後の信昌)は1955年生まれ、21歳の時です。


貞昌と亀姫の結婚は、信玄の死後、奥平家を家康側につけるための政略でしたが、実際の結婚は天正4(1577)年です。

約束した結婚が遅れていたので、信長の催促があったと言われます。
家康は亀姫を、できるだけ手元に置いておきたかったのでしょうか。
「日本の戦史2 三方原の戦い・長篠の役」P221によれば、亀姫の同母兄の信康が反対していたとあります。

亀姫の同母兄の信康は、その2年後の天正7(1579)年、信長の命で自害させられています。
また亀姫の母、築山殿はやはり信長の命で、同年信康より少し先に、家康の家臣によって殺されました。


関ケ原合戦 奥平貞治 奥平家
戦国時代に奥平氏の拠点であった作手(つくで)村(現在は愛知県新城市)から、平成3(1991)年、教育委員会の方が貞治の墓に来られています。
上の写真のように表示板が残っていて、木で作ってあるので読みにくくなっていますが、下記のように書かれています。


愛知県南設楽郡作手村教育委員会
文化財○○(読めません)委員参拝記念
追善 供養 法名 道菊 奥平藤兵衛貞治霊位
戦死 慶長5年9月15日(紀元1600年) 
平成3年11月10日建立

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