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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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奥平家と貞治、家康のつながり その7

貞治の甥、定昌ですが、弘治元(1555)年に生まれ、元亀元(1570)年に姉川の戦いに父、貞能とともに家康に従って参戦しています。

再び新訂寛政重修諸家譜によると、定昌は力戦後、家康と面会します。
「小腕(こがいなと読み、「か弱い腕」の意味)をもって、首級を得しこと其功大なり(手柄をあげたのは、その功績は大きい)との御感をかうぶる(戦功を賞して賞状を与えられたの意味であるが、ここではお誉めの言葉を頂いたの意味か)。」

信昌(定昌)謹で(それに対し定昌は、つつしんで言われた、)
「戦いの道は筋骨の動きによらず。唯其術にこそより候へ(戦いはただ筋肉によって戦うだけではありません。その術(わざ)によって戦うことができました)」と申せしかば、

(家康は)「汝剣法を学びたりや(どんな剣法を学んできたのか)」と御尋あり(おたずねになられた)、
信昌(定昌)「奥山流を学びたり」と答へたてまつる。

「しからば汝が家臣急加斎を師とせるか(それなら家臣の急加斎を師としているのか)。」
いはくしかり(信昌は「そうである」と答えた)。

又仰に余も若かりしとき、其流を学ぶといへども、事繁きがゆへに怠れり(さらに家康は申せられたが、私も若い時に急加斎より学ぼうとしたが、忙しくてできなかった)。

凱旋ののち必(戦いに勝って戻った後に必ず)彼に面会したまはむとの御諚(会いたいと言われた)。



急加斎は新訂寛政重修諸家譜によると、(奥平)貞久(文明7(1475)年亡)の四男のひ孫で、奥平孫次郎公重と称し、甲斐の国(山梨県)で修行し、神陰流の剣術を学び、その奥義を極めた。
その後三河国奥山に来て、一般には奥山急加斎(奥平でなく奥山)と呼ばれていた、とあります。

さらに新訂寛政重修諸家譜に、「(天正)2年10月28日家臣急加斎を岡崎にめされて、剣術を学ばせたまふにより、御誓書を急加斎に下され、11月28日食録をたまひ、御家人にめしくはへらるべしとの御書をたまふ」とあります。
家康は律儀に、定昌に言ったとおり急加斎と会いました。


急加斎という人ですが、いろいろな名前で呼ばれていたようで、「戦国人名事典(阿部 猛/西村 圭子編、出版:新人物往来社)」の奥平久賀斎と同人物と思われます。

戦国人名辞典では、奥平久賀斎は「兵術家」で、上記の経緯により家康「自らも門弟になった」とあります。
天正2(1574)年11月28日付の家康の朱印状が残っていて、家康に奥山流兵術を見せたために、家康に召し抱えられました。



他の資料では急加斎は奥山休賀斎とも呼ばれていて、後々、剣術の流派を作る人を作っていきます。
奥平家は兵術、剣術においても、家康と深い関係でした。





天正3(1575)年2月28日、定昌は長篠城(愛知県鳳来(ほうらい)町)につき、塀などを修理して防御を固めます。
勝頼はしばしば兵を出しますがなかなか攻め落とせません。
5月朔日(1日)あるいは4月21日から、500の兵が守る城を勝頼率いる武田勢1万8千(新訂寛政重修諸家譜)、計算では38倍の軍勢が包囲します。


武田勢は地下や堀など、様々な所から攻撃をしかけますが、信昌(定昌)率いる奥平勢は持ちこたえます。
武田勢をくぎ付けにし、抵抗する中、巧みに武田勢の兵力をそいでいきます。
新訂寛政重修諸家譜の信昌の所に、籠城の経緯が事細かに記されています。


14日、食糧があと4、5日ぐらいとなり、救援が来そうな気配はまったくありません。
城中では降伏の声も出る中、誰が城を出て、救援を求めに行くか議論ばされます。
しかし結論が出ません。
勝頼は城を何重にも囲い、城を出るのは命がけです。

そんな中、鳥居強右衛門勝商(とりいすねえもんかつあき)が自ら進み出ます。
鳥居は身分が低く、普段は百姓をしていたと言われます。

一人で城を抜けだし、定昌の父の貞能と家康に、助けを求めました。
16日、家康と会ったあと、城に戻ってきます。
ところが城に戻る所で捕まります。

見方が助けに来ることを城中に大声で告げたので、磔(はりつけ)になって殺されます。
磔の姿は旗にもなり、逸話として残ります。



18日に家康の兵8千、信長の兵3万が、設楽原(したらがはら、愛知県新城市)に到着します。
この時勝頼は、兵1万3千と言われています。
備蓄食糧が限界に近づいた所で、ようやく信長・家康の援軍が間にあいました。





長篠の戦いは、信長が馬防柵と大量の鉄砲を活用したことで討ち破った戦です。
武田勢に、壊滅的打撃を与えました。
武田氏はこの後徐々に衰退し、勝頼は7年後の天正10(1582)年に自害、武田氏は滅びます。



武田を打ち破ったのは信長ですが、前段階で奥平家が、わずか500の兵で1万8千を相手に籠城したことが、勝利に至る大きな要因となりました。
この功績で、奥平家は家康と信長の信頼を勝ち得て、以後、引き立てられるようになります。
信長は褒美に、貞能の嫡男の定昌に、「信」の字を与えます。
定昌は信昌と、名をあらためます。

この戦は多大な犠牲者を出しましたが、奥平家を明治維新までつづかせる大きな転機になりました。
また奥平の名は一躍、有名になりました。

関ケ原合戦 奥平貞治の墓 奥平家
貞治の墓付近より、貞治が陣取った松尾山方面を見ます。
墓の地をここに選んだのは、貞治の輝かしい戦歴の場所、松尾山が見えるからかもしれません。

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