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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

三成が戦勝祈願した八幡神社と、小関地区につたわる言い伝え1 

このブログで以前に書いた「島津義弘の陣跡①~⑪」「豊久の生き方①~⑥」は、主に書籍や史料により書きました。
これから書くブログ「三成が戦勝祈願した八幡神社と、小関地区につたわる言い伝え」「小関地区の陣跡 薩摩池と史料をめぐって」は、関ケ原町内に残る伝承を加えながら書きました。
そのため義弘や豊久の陣跡場所など、通説と異なる見解もあります。
検証はされてないので、気軽に読んでいただけたら幸いです。
またわかりやすく書いたつもりですが、通説と異なっている点でわかりづらくなることをご了承下さい。



関ケ原合戦の時、三成は笹尾山に陣を構え、下の写真の八幡神社にて湯を沸かし、この神社に供えて(湯の花神事)戦勝を祈願したと伝えられています。

この神社は昭和3(1928)年に改築され、昭和4(1929)年に村社となりました。
「関ケ原町史 通史編別巻」P46に、「現存する最も古い棟札は享保3年(1718)のものである」とあります。

下の写真は八幡神社の境内。
所在地は「大字関ケ原字一二の湯」です。
この神社は応神天皇と玉依姫を祀っています。

笹尾山 石田三成 八幡神社

下の写真は案内板
笹尾山 石田三成 八幡神社

下の写真は笹尾山に登ることができる階段。
登ると、まもなく三成の陣跡にでます。

笹尾山 石田三成 八幡神社

下のマップは神社のある場所。八幡神社の名称はありませんが地図の中心地です。

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笹尾山麓の八幡神社から南、国道356号を渡った向こう側、ほぼ直線距離で300mほどの所に、島津義弘が陣を構えたと言われる薩摩池があります。

薩摩池付近は、小関(こぜき)という地名です。
付近に住む方、お二人に付近の言い伝えについて偶然聞くことができたので、整理して紹介します。
何度もうかがって、親切に対応頂いて本当にありがとうございました。
なお小関には歴史にさらに詳しい方が住んでいたのですが、すでになくなられていますので、以下は参考に読んで下さいませ。




お一人の方は大正15(1926)年に関ケ原で生まれ、家族で開墾のため北海道の根室に行かれました。
「関ケ原町史 通史編下巻」を参照すると、昭和4(1929)年に株価暴落で金融恐慌がおこり、もっとも打撃を受けたのは生糸でした。
岐阜県は生糸生産県であり、主要な現金収入源が失われて農村部は貧困に悩み、そうした中での移住であったのかもしれません。

小学校卒業と同時に、再びこの地に戻ってこられました。
北海道から戻る車中の様子で、こちらの方は文化が進んでいると、感想をもったそうです。

以前から気にかかっていた、薩摩池近くに残っている五輪塔のことについてうかがいました。
現在薩摩池近くに見ることができる五輪塔は、わずか数基しか残っていません。
その方の家の伝えによると、明治の頃、100、200ぐらいはあったそうです。
帰ってきた当時、すでに五輪塔の数はかなり少なくなっていました。

伝えられているお話で、東京の方などがこの地に来て、戦ったご先祖を祀るために、持っていかれたのではないかということでした。
ほとんどが持っていかれたということなのですが、100、200という数は相当な数なので、多くの人がこの地で亡くなったということがあったからと思われます。

関ケ原合戦 薩摩池 五輪塔 無名兵士の墓 
上の写真は、薩摩池近くに残っている五輪塔。


痕跡はありませんが、五輪塔が残る林に、昔、神社がありました。
関ケ原合戦 薩摩池 小関 若宮八幡神社
写真の右手の方に神社はあったと思われます。
また写真では左、林の東の畑の方には寺があったそうです。
盛りあがっている地盤が写真で確認でき、この盛り土の所に神社がありました。



神社は若宮八幡神社という名前で、応神天皇と玉依姫、仁徳天皇の3神を祀ってありました。
確かな記録では「関ケ原町史 通史編別巻」P45に「最も古い棟札は元禄14(1701)年のものである」とあります。

大正8(1919)年に、初めに紹介した八幡神社の境内に若宮八幡神社は移転されました。
八幡神社の西側に、現在はあります。
町史によると若宮八幡神社は、古くは「上ノ宮(かみのみや)」と言われていたようです。対してこのブログで最初に紹介した八幡神社は「下ノ宮(しものみや)」です。
古くからこの二つの神社は、祭りは合同で行われていたようです。
※小関、小池在住の二人の長老の方に聞くと「上ノ宮」は八幡神社、「下ノ宮」は若宮八幡神社でした。


なお小池在住の96歳の小林昂様に聞いたところ、八幡神社はかつて現在地にはなく、小関地区内、北国街道に面して立つ常夜燈の近くにあったという伝承があるそうです。
そうだとすれば、合戦時には現在地に神社はなかった可能性はあります。

大きな地図で見る
現在常夜燈があり、小林さんによると八幡神社があったのではないかと伝わっている場所。




旧若宮八幡神社近くの薩摩池に義弘が布陣していたと伝承にあるのですが、現在の八幡神社近く、三成の西方にも武将が誰か居たのでしょうか。

「関原合戦図志(神谷道一著)」P22によると、
「織田信高及ビ大坂弓銃隊陣所 関ヶ原始末記ニ[石田三成不破関ケ原ニ出張シ小関ノ北ノ山際ニ陣ヲ取ル伝々其ノ左(右の間違いと思われる)ノ山際ニ織田小洞信高大坂黄母衣衆(きほろしゅう)段々ニ扣(ひかえ)タリ]トアリテ三成陣所ノ西北ナル北国街道ノ山側ニ陣セシモノナルベシ然レ○其陣地ハ詳シカナラズ」 
とあります。

この記述によると、確かではないですが、織田信高と大坂より黄母衣衆が関ヶ原に来て、北国街道をおさえるために位置的には、現在の八幡神社周辺に陣を作ったのではないでしょうか。


新訂寛政重修諸家譜に合戦時のことで記述があります。
『五年関原の役おこるのとき、采地(領地の意味)にありて弟雅楽助信貞と相議り、東照宮(家康)の御麾下(配下)にはせ参るのところ、既に凱旋ある(「戦いに勝って帰る」の意味で、合戦に間にあわなかったことを意味しているか)により、美濃路(ここでは関ヶ原のことか)に出て拜謁し、のち御麾下に属す』


新訂寛政重修諸家譜は、徳川の時代に徳川側に提出したものを元に作られているので、その関係を考えながら読んでいきます。



西軍に参加したとは、書いてありません。
文章の内容は、
「合戦が起こった時、領地に居て、弟の信貞と着論した。
(どちらに参戦するかどうかについてか?)
家康の側につくつもりで馳せ参じたが、すでに家康側が勝ってしまっていたので、関ケ原の方で家康に(合戦後か?)会い、家康の下につくようになった」

ここでは家譜の成立の経緯で、西軍参加と書かなかったこと。
この文章の裏を読むと、東軍につけなかったために、西軍についていたとも読めます。

関ヶ原始末記に西軍に参戦したと書いてあり、これと新訂寛政重修諸家譜、周辺の状況をあわせて憶測を入れて推測すると、「家康の側につくつもりで馳せ参じた」と書いてあるのは言い訳として書いたのでないか。
東軍参加がかわななかったため、しかたなく、西軍に参加せざるをえなくなったということを言いたかったのでしょうか。


信高は信長の7男で、合戦の前年12月に、近江国(滋賀県)愛知郡で2千石に加増されています。
合戦前、三成は大坂や京都、さらに近畿周辺を支配下におさめました。
三成が大坂などに居る間も、三成の父や兄が、居城のある佐和山城を中心に三成の指示で、周辺の諸将を西軍に引き入れることを行っていました。
また信長の嫡孫、信忠(信高にとっては甥っ子)も西軍につき、美濃の武将のほとんどはそれにならいました。



三成の居城、佐和山に近かった信高は、「秀頼御為(のため)」と言われると従わざるをえなく、西軍に加わったのかもしれません。
家康は合戦後、信高に対して厳しく所領没収としています。

なお「関ヶ原の役 日本の戦史(旧参謀本部編纂/2009年9月)」P305 によると、兵がどれだけかはわかりませんとあります。
2千石の所領なので、それほど数はいなかったと思われます。
家康の会津出陣での軍役を参考にすると、一人役(100石に一人)で、20人ほどになります。
実際にはもっと多いと思いますが、いずれにしても軍役から言うとそれほどの数では無いと考えられます。

信高ですが、先般引退したスケート選手の織田信成は、信高の子孫ではないかということで話題になりました。

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