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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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三成が戦勝祈願した八幡神社と、小関地区につたわる言い伝え2

三成隊と島津隊は、近江に抜ける北国街道をおさえるために薩摩池付近に布陣しました。

関ケ原合戦 薩摩池 小関 無名兵士の墓
今日の薩摩池付近、雪が降っていました。
林の手前に池があります。



薩摩池には島津義弘が布陣したと言われていますが、池はかつて、今より大きかったそうです。
ゴミが捨てられることがあったので、埋められることになりました。


かつて池は、この写真の手前の所までありました。
埋め立てられて、現在は小さくなっています。

関ケ原合戦 薩摩池 五輪塔 無名兵士の墓

下の写真で見づらいですが、写真右の切り株、小道近くまでありました。
関ケ原合戦 薩摩池 五輪塔 無名兵士の墓


大きな地図で見る
地図のAが薩摩池の場所。


池の水は、付近を流れる伊吹山や相川からの梨ノ木川の伏流水があるためか、水が枯れることはないそうです。
この付近は扇状地で、付近の畑では30㎝ほども掘ると河原石がたくさんでてきます。
この周辺は洪水になると水があふれるぐらい、水は豊富であったと考えられます。


池は昔、神社、町の所有地でした。
町の用地獲得のために、その後池は私有地となり、現在はその所有者のご好意により、私たちは池の近くに寄ることができます。



池から、五輪塔の方を見ることができます。
近所に住まれている方が、気づいたとき草や木を刈っておられると聞きました。
陣跡を見に来られる方を思って手を入れていることに、私は感動をしました。
考えてみると、合戦当時も関ケ原には人家はありましたが、関ヶ原の陣跡はもともと大部分、野原であったようなものでした。

なお五輪塔について他の方に聞いたところ、一つの石で作られているものは関ケ原において多くは、東軍の方を弔うため外から持ってこられたものであるそうです。
その例として、東軍が布陣した野上の方に、かつて大量の五輪塔があったそうです。
その五輪塔は、岡崎の方にたくさん持っていかれたそうです。
賊軍の西軍を弔うのは、徳川幕府政権下では難しかったこともあったでしょう。


関ケ原合戦 薩摩池 小関 無名兵士の墓
この五輪塔が一つの石でできているのは、持ち運びしやすいためで、一石五輪塔と呼ばれ、外から関ケ原に持ってきたものと思われます。

関ケ原合戦 薩摩池 小関 無名兵士の墓
一つの石で作られていないのは、関ケ原でも作られたと考えられます。

関ケ原合戦 薩摩池 五輪塔 無名兵士の墓
写真では確認が難しいですが、林の中、写真の真ん中奥に小さくあります。



関ヶ原町歴史民俗資料館のホームページに、関ケ原合戦300年祭写真帳があり、ダウンロードもできます。
合戦後300年、明治33(1900)年、現在より114年前に撮った写真です。

島津義弘の陣跡、他にも笹尾山や宮の上の大谷吉継の墓、陣場野写真など24枚あります。
関ケ原合戦は比較的当時をしのぶことができる風景が残っていますが、宅地開発や農地造成、河川改修、道路整備、電線柱やケーブルなどにより、景観や地形がかなり変わっていることは否定できません。
当時の景観を想像できる、貴重な写真群です。




陣跡も、日々変わりつつあります。
陣跡を探しに行き、たまたま荒れ放題の陣跡を見ると、寂しいものを感じます。
関ケ原で今、私たちが合戦当時をしのんで差し障りなく見ることができるのは、付近に住んでおられる方の心づかいと思います。
おもてなしの心に、感謝をしたいです。

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