関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

三成が戦勝祈願した八幡神社と、小関地区につたわる言い伝え3

この薩摩池の西方に、土塁が残っています。
伝えによると、以前はもっと高かったが年月が経って、低くなったそうです。

関ケ原合戦 薩摩池 小関 土塁
比較的高く残っている土塁

関ケ原合戦 薩摩池 小関 土塁
なだらかになっている土塁と見られるもの


関ケ原合戦 薩摩池 小関 土塁
畑の向こうに、低くはなっているものの、横一線に土塁が残っているのが見えます。
なおこの道路の先は道幅狭く、急坂あるので「自動車通行困難」の掲示板があります。普通乗用車は通り抜けできませんので注意ください。





関ケ原合戦前、松尾山は三成の命で城として再整備されたことが最近になってわかってきました。
岐阜県教育委員会が調査した、岐阜県中世城館跡総合調査報告書第一集に調査結果、また「岐阜の山城ベスト50を歩く三宅 唯美・中井 均 (編)」にも、松尾山城について書いてあります。

この土塁について、関ケ原合戦の時に構築されたのではないかと書かれている本が何冊かあります。
もし三成がそこまで考えて事前に陣地を作っていたならば、わくわくします。
伝えが地元に残っているかどうかを聞いてみました。



すぐ近くに住む方に聞くと、いつ頃から土塁があるかわからないそうです。
小関の関所の関係で土塁が作られたのでないかと言っておられました。
今の段階では、672年の壬申の乱を契機に作られた、不破関(ふわぜき)と関連して作られたと考えるのが自然と思われます。
史料としても残っていないようなので、学術的な調査が待たれます。


島津が当時残っていた土塁などを、陣地として利用したことは考えられると思われます。
薩摩池付近は、林や土塁が盛ってある所は水はけが良いのですが、もともとは川の扇状地であるような所なので、林の東方はややぬかるんでいます。
合戦前日からかなり雨は降ったようなので、東から西へ攻めた東軍側は、不利になったと思われます。
守る側として、かなり有利な地に陣地を構えたと考えられます。

関ケ原合戦 小関 島津豊久 島津義弘 薩摩池
薩摩池付近より、義弘陣所跡のある林の方を見る。
手前の畑は湿地状で地面はややぬかるんでいる。





壬申の乱の後、戦いに勝利した大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)は、関ケ原に関所を作りました。
当時からすでに道はあったと思われますが、政治的な目的で作られた東山道(後の中山道)というと、意味は異なっています。
関所ができた後に、東山道はできました。

不破関(大関)が作られたと同時ぐらいに、北陸方向に抜けていく要衝を扼するため、北へおよそ1キロ離れたこの地に、関所が作られたと思われます。
関所の目的は、非常事態、天皇の地位にかかわる重大事態が発生した場合に、中央での非常事態が地方に波及するのを事前に防止することにありました。
機能は、警察的機能と軍事的機能があります。
扼するとは、「要所を占める」の意味です。(引用 デジタル大辞泉)
小関(小さい関)という地名は、関所があった名残りです。



「関ケ原町史 通史編別巻」P251には、
「小関には外郭(上宮と下宮をつなぐ線)があり、その内側に約64.8㎡の庁舎があり、庁舎の両端に榎(えのき)が植えてあった。
代々植えつがれてきたが、昭和の時代になってその両端の木は枯れた。
上の木はその下を馬が通ると時々動かなくなるので、里人は神がいると思ってこれを祀った。
下の榎木は釣瓶下しが出るという話が伝わっている。
今は両方ともなくなっている」
とあります。
上に書いてある、上宮と下宮というのは呼び名は、それぞれ小関にある若宮八幡神社と八幡神社ということで間違いないように思われます。

釣瓶下しとは「つるべおとし」と読み、
「京都府、滋賀県、岐阜県、愛知県、和歌山県などに伝わる妖怪。
木の上から落ちて来て、人間を襲う、人間を食べるなどといわれ」
ています。




地元の方が持っておられた、「小関八幡神社・若宮八幡神社由緒」という覚え書きのようなものを見せて頂きました。
地元の方による神社の由緒を後世に伝えていく、小関の大切な覚え書です。
引用させていただくことを、お願いしました。

「大宝元(701)年 当社創建年紀は不詳としながらも、この頃までに不破関(大関)が設置されると同時に、姉妹関である小関が当地に置かれたと推定されている。
勢い小関周辺の集落の誕生が小関村の起源と考えられる。

小関村では、その後北国脇往還を挟んで笹尾山麓に八幡神社、北天満山麓(細田)に若宮神社を祀って、鎮守(ちんじゅ)の宮として崇敬(すうけい)するとともに、街道の安全と繁栄を祈願する」
とあります。
さらに「その後、八幡神社社殿他は兵火のため焼失する」とあるので、何かの戦で焼かれたようです。関ヶ原合戦とは書いてありません。
住民の方がこれまで、大切に神社を守ってきたことを感じさせる内容です。
現在も3月の第2日曜日、10月の第1土曜日に、例祭が行われています。



三成は関ケ原に近い佐和山に居城をかまえていたこともあって地の利に明るく、山や川、池、神社、寺、さらに大関や小関など関所があった場所を巧みに利用しています。

三成自身の陣所について「関原合戦図志(神谷道一著)」には、
「前ハ関ヶ原全体ノ地形ヲ一目ニ下瞰スベク実ニ関ヶ原東西ノ陣所中第一等ノ地形ト称スルモ不可ナカルベシ」
とあります。

西軍の配置を見ると、家康に誘われる形で関ケ原の地で合戦をしたわけでなく、事前に地形や歴史を詳しく調べていたように考えられます。
こうした準備を経て、勝利の確信をもって戦勝祈願をしたのではないでしょうか。



追記です。
2014年3月23日の中井均先生による「関ケ原合戦ツアー 松尾山&南宮山編」で、たくさんのことを教わりました。
中井先生によると、小早川秀秋は松尾山に、三成の命で城を守っていた伊藤盛正を追い出して入りました。
このことから、合戦前日、毛利秀元を入れるつもりで築いた松尾山城を取られたので、かなりの危機感を持って三成は関ケ原に来たように思われます。
また南宮山の縄張図をよく検討すると、三成は大垣城で決戦をすることを考えていたようです。
南宮山を大垣城の後詰め、大垣城との関係で秀元は陣構えを作っていました。
縄張図からは、関ケ原での決戦を想定して、陣地を作っていないという事が実証されています。

さらに松尾山は、南宮山のさらに後、位置的には南南西ですが、総大将である毛利輝元が入るべく整備されていました。
そのことが縄張図を見ると、明確に言えるそうです。
三成は総大将が入るべき城を小早川秀秋にのっとられ、当初想定していなかった関ケ原で決戦せざるを得なかったというのが、松尾山と南宮山の城、陣地を見て、明確に言えることだそうです。
大谷吉継が9月3日から関ケ原の山中にいて陣地整備をしていました。こちらは松尾山との連携で、最終的な防衛ラインを作る想定、また大垣城での戦いのオプション、サブとして想定していたことは十分に可能性としてはあると思われます。
しかし、南宮山および関ケ原周辺に残る陣跡を城郭研究者としてみた場合、あくまでそれはサブ的な想定であったようです。

今後も、陣跡をつぶさに見ることで、また新しい見方が出てくる可能性があります。

関連記事
スポンサーサイト

Leave a reply






管理者にだけ表示を許可する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。