関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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小関地区の陣跡 薩摩池と史料をめぐって1

前回のブログの「小関八幡神社・若宮八幡神社由緒」の中に、「細田」という地名があります。
この小関の小字名は細田です。
先に紹介したように、関所があったので小関と呼ばれていました。



昭和15(1940)年1月発行の帝国市町村地図刊行会発行の「関ヶ原町土地宝典」に、大字名は関ケ原、小字名は細田となっています。
小関の方に、上記の大変貴重な宝典(地図)を見せて頂く機会を得ることができました。

この宝典は地主の方に配られたので、一般にはでまわっていない資料です。
地図に地番が記してあり、大変参考になりましたので紹介します。


序文に、本書の発刊は当時国を挙げての「(日本紀元)二千六百年大典奉祝に相和(調和するの意味)」する、記念事業的なものであると書かれています。
書かれたのは昭和15(1940)年1月、当時の町長の川崎好一氏です。

これは時代的意義についてで、本書は記念事業として作られたものでないと、考えられます。
さらに、「今や我が国は支那事変の第四年を迎へ八紘一宇(「はっこういちう」と読み、世界を一つにし、一つの家のように和合させることを意味)の大旆(「たいはい」と読み、堂々たる旗印の意味)を翳して(「かざして」と読み、手に持って掲げるの意味)挙国一致東亞の新秩序建設に邁進している」
とあります。

この年は、島津義弘陣所跡碑、大谷刑部少輔吉隆(継)碑、平塚因幡守為広碑と、町内で三つの石碑ができた年です。
町内で一番たくさん、石碑が作られた年です。
三つの碑はいずれも9月15日にでき、その当日は町内、祝賀モードでいっぱいになっていたのではないでしょうか。




関ケ原合戦 薩摩池 小関 北国街道
上の写真は北国街道から薩摩池へ入る三差路。
角に祠があります



関ケ原合戦 小関 島津豊久 島津義弘 お地蔵 祠
北国街道沿いにある小関の他の祠


小関に関係する不破関は、昭和47(1972)年~53(1978)年の間、5回に分けて岐阜県が詳細に発掘調査することで、はじめて全貌が浮き上がってきました。
土塁が昔からあることはわかっていても、鉄道工事のために残土を盛ったものだとか、住民にとってはその程度の認識であったそうです。
土塁などは生活に関係ないものなので、無理からぬことと思われます。

発掘調査の結果、たくさんのことがわかってきたということです。

大関(不破関)は詳細な調査がなされましたが、関ケ原町史によれば小関について学問的な検討が何もなされていないとのことです。
費用や付近住民の方の理解が必要ですが、発掘調査がなされれば、様々なことがわかる可能性もあります。

なお薩摩池付近に住んでいる方から、今から数年前、薩摩池西方の土塁を、数人が来られ、いろいろと調べてまわったことがあったが、何も出てこなかったと聞きました。

壬申の乱 不破関 不破の関跡
上の写真は不破の関跡。小関から距離で1キロぐらいです。

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