関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

岡山(丸山)烽火(ほうか)場、黒田長政・竹中重門の陣跡

岡山(丸山)烽火場、黒田長政・竹中重門の陣跡
 慶長5(1600)年9月15日(現在の暦では10月21日)午前8時頃。
 福島正則(ふくしままさのり)が宇喜多秀家(うきたひでいえ)と交戦をはじめると、関ケ原の盆地を見下ろす岡山(丸山)という山に、狼煙(のろし)があがりました。
 この小さな山は標高は高くないですが、関が原盆地を見渡すことができ、また盆地内の陣地から見て目立つ場所にあります。



 ここに黒田長政(くろだながまさ)隊と竹中重門(たけなかしげかど)隊が陣を張り、石田三成(いしだみつなり)率いる西軍本隊と戦いました。
 長政は黒田如水(くろだじょすい)の子どもで、重門は竹中重治(たけなかしげはる)の子と、偶然にも戦国時代の名参謀として有名な二人の子が、並び陣を構えます。
 如水は一般には勘兵衛(かんべえ)、重治は半兵衛(はんべえ)と呼ばれています。
黒田長政・竹中重門の陣跡

 長政は「今度こそは三成を」と、石田隊に向いました。
「今度こそ」とは、豊臣秀吉に恩を感じている武将の中で、三成に憎しみを持っていた7人が、慶長(けいちょう)4年(1599年)閏(うるう)3月に討ち取ろうと三成を襲(おそ)った事件のことで、長政もその武将の一人であったからです。
 長政は、鉄砲隊を島隊の左側、小高い丘にのぼらせて撃たせます。不意をつかれた島隊はバタバタと倒れ、左近も撃たれて陣内に退却します。

 合戦が始まってまもなくの左近の負傷で、西軍の士気は大きく下がりました。
 しかし石田隊は奮戦し、午後になっても勝敗はつきませんでした。



 国道21号バイパスより入った岡山の麓(ふもと)に駐車場があり、そこから数分ほど坂を登った所に陣跡があります。

黒田長政・竹中重門の陣跡
立派な石碑があります。両隣の旗は黒田長政の軍旗です。

岡山(丸山)烽火場、黒田長政・竹中重門の陣跡への竹林
陣跡に登る途中、竹林があります。

関連記事
スポンサーサイト

Leave a reply






管理者にだけ表示を許可する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。