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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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小関地区の陣跡 薩摩池と史料をめぐって2

豊久が陣取ったと現在考えられている地に、神明神社 (しんめいじんじゃ)があります。
神社の由来は、
「合戦時には現在地でなく字西甲斐墓1950番地の丘陵に祀られていたが西軍の将(、)島津惟新(義弘)は陣地として好適地につき(、)この(神社の)境内を本陣とし(、)戦勝を祈願したと言われている。

嘉永六年(1853年)火災にあい都合により隣地の現在地に移転し(、)元の礎石は薩摩軍の使った井戸の側に残っている。

惜しいことに慶長以後の棟札が残っていたが、嘉永六年(1853年)の火災で焼失してしまった(神明神社の案内板より引用)」
とあります。
なお()は読みやすくするため、後から加えました。

上で合戦時には「字西甲斐墓1950番地の丘陵に祀られていた」とありますが、同じ関ケ原町が作った「慶長五年関ケ原(小和田哲男監修)」によれば、神明神社は無かったとあります。
どちらが正しいかはわかりませんが、島津側の史料にも神社の記述が一切無いことから無かったと考えるのが自然ではないでしょうか。

岐阜県神社庁のホームページには、
「その前出している清水を軍用水として使ったので、今でもこれを薩摩井戸と称している」
とあります。
井戸は現在私有地にあるため、見ることはできません。


島津義弘の陣跡(豊久が陣取ったと言われる)に、「小池島津義弘陣所跡」と書かれている石碑があります。
関ケ原合戦 小池 島津豊久 島津義弘
雪と義弘陣所跡


もともと神明神社があった字名は神田(じんでん)、道を挟み、隣地に神社が移った先の字名は西甲斐墓と言います。

この付近は小池とも呼ばれ、地名の由来は、島津が合戦の時に使ったと言われる、上記では「井戸」と言っていますが、実際は池が地名の元となっていると聞きました。


神社の御神徳は、「天照大御神 国土平安 国家隆昌 五穀豊穣 火之迦具士命 火災消除 家内安全 厄除開運」であります。


下図は現在の神明神社の場所。
神社はかつて、今の場所の隣地にあったと由来にあります。
昭和15年発行の古地図、「関ヶ原町土地宝典」によると、1950という地番は今の土地の北側にあたります。


大きな地図で見る

関ケ原合戦 小池 島津豊久 島津義弘
雪が降った時の神明神社。

関ケ原合戦 小池 島津豊久 島津義弘
神明神社の裏の林。神明神社が林の向こうに見えます。

この写真の左方に岡があり、島津はその岡の上の方に陣取ったと言われています。




小関の方の話で、薩摩池付近に、写真中央部に見える島のような所に、「しょうごん寺(漢字は不明)」と呼ばれていた寺がありました。
関ケ原合戦時にあったかどうかは不明で、関ケ原町史には寺について記述がありません。


関ケ原歴史を語る回の曽根次太郎に、「不破の地名」(著者;不破破郡地名研究会/編、出版;不破郡教育振興会・出版1987年)という本のコピーを見せていただき、そこには「池寺」という自治会の由来に、「むかし、大池の東に、天台三〇か寺(じ)あり、池寺と」とあります。
「天台三〇か寺」というと、かなり大きなお寺であったのでしょうか。


曽根氏によると、池寺池という名前の由来にもなった池寺という寺は天台宗のお寺です。
1568年頃、織田信長により焼かれたと言われているそうです。
1571年には信長の比叡山焼きうちがあり、その3年ぐらい前で、信長は天台宗を敵視していたからだと言われています。

1568年頃というと、足利義昭を迎え入れて、義昭と共に信長は京都に上がっています。
この当時は信長は、小関の西、近江の小谷城主(滋賀県湖北町、現在は長浜市)、浅井長政と同盟関係にありました。

後の1970年、突然、長政は信長を裏切り、近江と美濃の間の国境を守るため、松尾山に家臣、樋口直房を入れて、長亭軒(ちょうていけん、松尾山城のこと)を守らせています。
しかし信長が近江に進攻すると、長亭軒(松尾山城のこと)の兵は投降・開城します。
松尾山には、信長方の城として不破光治がその後に入ります。



松尾山が対信長のために防備体制になっていたとすれば、北国街道沿いにある小関も、近江に抜ける街道として緊張関係に置かれたように思われます。
長政の兵が、多少なりともこの周辺に張り付いて守っていて、進攻の時に寺が焼かれたとも考えられます。

なお小関には現在、もともとは天台宗であった願誓寺、後の1716年に真宗大谷派に改宗したお寺があります。
(「町史 別巻」P92参照)
願誓寺と、池寺の関係は不明です。
小関には「天台三〇か寺あり」と伝わっているので、その一つが残ったものなのでしょうか。
およそ30年後の関ヶ原合戦当時は、池寺はなかったと思われます。


関ケ原合戦 小関 島津豊久 島津義弘
この写真の真ん中あたりの小さい島状になっている付近に寺がありました。
この茂みの中に、当時の寺跡をしのぶ石碑のようなものが今もあると聞きました。




地元の方は、たくさんあった五輪塔はここにあった寺の関係で、置かれるようになったのでないかと言っていました。
時系列で言うと、合戦後にはすでに寺は無いので、五輪塔が寺の関係であったするなら、合戦の前からすでにたくさん置かれていたのでしょうか。
または、すでに寺はなかったが、寺があったという由来が地元にあって、この地で亡くなった兵士を弔うために、五輪塔を置いていったのでしょうか。


地元の伝承で一本伸びている木は、触ると「腹が痛くなったりする」ので、切らないようにしているそうです。
今は冬なので枯れ木にように見えますが、今年の夏に見たとき、葉はありました。

その方はご自分の畑に入る時、塩をまいているそうです。
今さらながらですが、この地で亡くなった戦死者を弔う気持ちが大切です。


五輪塔や木が、21世紀に生きる私達にも、いろいろなことを語りかけてきます。
五輪塔 薩摩池 島津義弘

薩摩池 島津義弘

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