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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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小関地区の陣跡 薩摩池と史料をめぐって4

現在、義弘陣所跡がある字は、神田(じんでん)でいう所です。

そのすぐ隣の字、西甲斐墓(にしかいはか)在住の小林昻様に、島津の陣跡や、小関の由来について貴重なお話を聞くことができたので紹介します。
小林様は小池の義弘陣跡に歩いてすぐの所に住んでおられます。


神田、西甲斐墓など、周辺は国土地理院2万5千分1の地図で小池と書かれています

なお西甲斐墓という字名の由来となっている甲斐墓という名前ですが、現在、関ケ原製作所のある一帯です。
「ふるさとものがたり不破の地名」(著者;不破破郡地名研究会/編、出版;不破郡教育振興会・出版1988年)によると、合戦で亡くなった「甲斐の国のひと人の墓か」、あるいは「宿場で死去した人の街道墓か」とあります。


甲斐とは現在山梨県で、合戦時は浅野幸長(あさのよしなが)の領地でした。
幸長は合戦時、毛利や吉川の押さえのため、家康の後陣を守っていました。
場所はこの地より、東5キロ弱、合戦時は無かったですが中山道一里塚もある所です。

合戦の時、浅野幸長は長束正家(なつかまさいえ)の隊と、小競り合いもあったと伝えられています。
長束はさらに東に布陣していたので、戦ったのはもっと東の場所と思われます。

この地は兵を弔って作った東首塚に近いので、その関係で墓を作ったのか、あるいは合戦の最後の最後、東軍の全軍攻撃となったとき、手柄をあげるべく浅野隊が西のここまで急ぎ駆けつけ、戦ったのか、あるいは江戸時代になって甲斐の人が宿で亡くなって作ったのでしょうか。
いろいろと、想像力がかきたてられます。




小林様は関ケ原歴史を語る会の会員として発表なされたこともあり、同会の曽我治太郎様に紹介を頂きました。
曽我様も82歳なのですが、小林様はあと4日で96歳(大正7/1918年生)となると聞きました。
その日は暖かい日で、一緒に小関を歩き、誠にありがとうございました。

以下は、小林様が体験したこともありますが、聞き伝えが含まれていますので、史実としてでなく、小関に伝わっている話として読んで頂けたら幸いです。



ご自宅近くにある島津の陣跡ですが、現在地に移るまで、2回移動したそうです。

現在の島津陣跡の敷地、大きく「小池 島津義弘陣所跡碑」と書かれた石の東方に、「小池 島津義弘陣所古跡」と表に書かれ、裏に「明治39(1906)年8月建之 不破郡関原村」と書かれた石碑があります。
当時は関原村でした。
明治39年は日露戦争が終わった翌年で、乃木大将で有名な乃木希典が東京に凱旋した年です。

平成18年3月、関ケ原町によりこの地に移されたと、明治39年の石碑を囲む石に書かれています。



一番最初に作られた、陣地の場所を示す石が、最初はここにありました。
伝えによると、この場所に豊久が布陣し、小高い丘があったようです。

大きな地図で見る
最初に島津義弘陣所跡の石碑があった場所。


最初の場所は町有地でしたが、小学校の用地買収費捻出のため、個人に売却されました。

義弘陣所跡がもともとあった所の東側は丘でした。
どのぐらいの高さかは不明ですが、付近の状況からそれほど高くはなかったと考えられます。


明治26年の地図には神社が記され、人家はなく付近は桑畑か針葉樹、また薩摩池の方は田です。
小林様は合戦当時は、小池という字は無く、小池のあった所は小関と呼ばれるエリアの中に含まれていたのでないかと言っていました。
報告書「慶長五年の関ケ原 -合戦当時の村の様子-(監修 小和田哲男)」を作成した時、慶長2(1597)年の関原村検地帳をもとに町民がどんな状況かを調査しました。
その結果、小池には人家がなく神社もなかったようです。
明治39(1906)に撮った写真でも、付近に人家はまるで無い感じです。



以前のブログに書きましたが、島津が使ったと言われる池があります。
小林様は昔、池に祠があったのを見たことがあるそうです。
現在水はなく、隣りの地との境界で、池の半分が埋められています。
ありがたいことに見せていただくことができましたが、民家の中ですので、写真は割愛させていただきます。

「不破の地名」(著者;不破破郡地名研究会/編、出版;不破郡教育振興会・出版1987年)という本には、「小池」という自治会の由来に、「笹尾山のマンボからひいたり、幻の小池。地名のみ残る」とあります。

小林様によると、小池の由来となった池はわき水であって、マンボで湧いている所は別だと教えていただきました。
下記の写真の所です。
関ケ原合戦 小関 島津豊久 島津義弘 マンボ
神明神社近くの畑にあります。
マンボとは地下水路のことで、水が少ない所に水をひくため、関ケ原ではたくさん作られました。
コンクリートの構造物が、マンボの空気抜きです。



なお神明神社が昔あった所は、今は個人所有で畑になっています。

関ケ原合戦 小関 島津豊久 島津義弘 陣跡
左の写真は昔、神明神社があった所。神社は合戦時には無く、現在は平坦ですが岡であったと思われます。

下は義弘陣所跡の石碑が二番目にあった場所の写真です。
ここから小西行長、宇喜多秀家が陣取った天満山がよく眺望できます。

陣地巡りをする方が休んで頂けるように、現在この土地を所有されておられる方が、石のテーブルと島津の家紋がある灯ろうを、設置しています。
私はそのようなことがあるなんて、教えられて初めて知りました。
町が作ったとばかりに、思っていました。
作られた方の名前が、石に刻まれています。

関ケ原合戦 小関 島津豊久 島津義弘 陣跡

関ケ原合戦 小関 島津豊久 島津義弘 陣跡


関ケ原合戦 小関 島津豊久 島津義弘 陣跡
三月のまだ肌寒いこの日は霧がでていました。合戦の日の朝は、このような風景でなかったでしょうか。
感動して撮りました。関ケ原は山が近いためか、霧、そして雨が多いです。岐阜から来ると、関ケ原は雨、と言うことがよくあります。
いつもの年は雪が多いですが、今年は少なかったです。おそらく東京の方が、たくさん雪が降った年でした。関ケ原は霧が、そして雪が、とても似合います。


関ケ原合戦 小関 島津豊久 島津義弘 陣跡
この写真は天気が良い日に、テーブル付近から撮った写真です。

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