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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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小関地区の陣跡 薩摩池と史料をめぐって3

合戦の時、西軍敗退が決定的になり、島津が最後に残り、東軍が一斉に押し寄せてきました。

島津側に残る資料、重要文化財の「旧記雑録」によると、阿多長寿院盛淳は義弘の陣地付近で義弘の具録、羽織、甲を拝領して奮戦したと記録されています。
羽織は太閤秀吉より拝領したもので、また親交のあった三成から、金磨きの軍配と団扇を拝領していました。
(桐野作人著「関ケ原 島津退き口(学研M文庫)」P245引用、以下参照)



盛淳は、義弘の陣地にとどまり戦いますが、ニ度目に押し寄せてきたときに大乱となり、勇敢な島津隊も後ろの「堀」に逃げる兵が多数続出したので、盛淳は「薩摩者遁国 其国遠し、各面は皆知居候(薩摩の国は遠いぞ。(逃げようとしても)各々の顔はみんな知っておるぞ」と言い、悔しがったとあります。

そして義弘が無事、逃げ去ったことを確かめると「死に狂い也」と大声をあげて討ち入って戦死したとされています。
(「旧記雑録 後篇三 新納忠元勲功記(にいろただもと)」より)


同じような内容の記述が、島津側の史料「旧記雑録」の「井上主膳」に確認できます。

「……我等十九歳ニ而長寿院御供仕、関ケ原江罷登……候、……
一、玉林坊を召寄被仰候者、我者御跡ニ残り打死可致与思ひ定候・・・
一、池御座候、其前ニ御答被成候、長寿院御具足之上より御拝領之・・
一、敵方より馬を七百計両度入来候、二度目之戦ニ大乱に罷成候、
  薩摩衆大方後之堀に遊入候、長寿院馬を乗り廻し・・・脇江御尋
  候ハ、殿様者何程御退可有哉、何れ茂被申候者(は)、敵陣を分け
  御退候、最早程遠く候与皆々被申候へ者、扨(さて)者目出度、跡者
  我等御名代ニ打死只今可仕与被仰候を承候事、
一、後に蒲生衆之噺に承(うけたまわり)候者(は)、三度目之合戦弥相乱、
  其時島津兵庫守死狂也与御名乗候得者、大勢取掛鑓ニ而突立候を、
  余所ながら見申候、余物語承候事、
      明暦三酉年(一六五七)九月十日      井上主膳」

以上は、関ケ原歴史を語る会の曽我治太郎氏提供の補足資料を引用しました。
御厚意に感謝します。



合戦に近い時代に書かれたものであるだけに信ぴょう性は高そうです。
忠元は、合戦には参加しませんが、子孫も代々、家老となっている家柄です。
主膳は、上に書いてある様に、19歳の時、長寿院にお供をして、関ケ原に来て参戦します。

二人が同じように書いているので、盛淳は義弘が討ち出るのを見届け、陣地付近の小関で亡くなったことは違いないようです。

主膳の記述に、「池御座候」とあり、義弘、盛淳が池の前におられたとあります。

薩摩池は今は小さいですが、昔は今より、大きかったようです。
薩摩池付近に布陣していたとの言い伝えがあるので、記述の池は薩摩池と思われますが、他の可能性として、薩摩池のすぐ西にもっと大きな池寺池があるので、この池の可能性もあります。
いずれかわからないので、今後の検討を待ちます。

関ケ原合戦 小関 島津豊久 島津義弘 薩摩池
写真の奥が、薩摩池の林。

林は今は杉の木が生えていますが、かつては竹が生えていました。
上の写真で林の中に、薩摩池のコンクリートが小さく「一」の字のように黒色で見えます。
左側が神社があった場所で、土が盛られています。
土が盛られている所から一段下がった所に、水たまりがあります。
写真ではよくわかりませんが、右側(東方)は現在畑で、今もぬかるみがちで、かつて湿地帯でした。
地元の方から、島津が陣を作った時、林の中で南半分、神社があった側に馬がとめられていて、武将たちは林の中で北半分、池の西側にいたのでないかと聞きました。




上記の井上主膳によると、「薩摩衆大方後之堀に遊入候」とあり、盛淳が最後に奮戦した時、多くの兵が堀に逃げ込んだとあります。
主膳は島津方で、自分達にとって悪いことは積極的には書きたくないという意識があるはずなので、大方の薩摩(島津)の兵が、後ろの堀に遊入(逃げ込んだの意味)したというのは、かなり信ぴょう性があります。

一斉に島津が前に討って出たと言われているのですが、あまりにも東軍側の攻めの人数が多く乱戦になって逃げようとした兵もたくさん出たということなのでしょう。


主膳の記で「堀」とあるのは、合戦にあわせて堀をつくったとは今のところ考えられません。
合戦前からあった、川か水路であったのでないでしょうか。



昭和15年発行の関ヶ原町土地宝典によると、小関(字名は細田)の地の中に、水路がたくさんめぐっているように書かれています。
旧北国街道沿いに、流れている所もあります。
合戦当時にこの水路はあったかもしれませんが、現地を見る限り、逃げ込むほど大きな水路があったようには思えません。

こうしたことを考えると、薩摩池の西側を流れる梨ノ木川は谷底まで数mあり、堀のようになっています。
「堀」とあるのは可能性として、梨ノ木川ではないでしょうか。
川名は、古地図で寺谷川とあり、他に「おけ川」とも呼ばれていました。
当時、川の名前は場所により同じ川が違った名前で呼ばれていました。

梨ノ木川は小関より約3キロ弱の下流で、藤古川に合流しています。


関ケ原合戦 小関 島津豊久 島津義弘 薩摩池 寺谷川
写薩摩池の西側を流れる現在の梨ノ木川。
真上の方に見える林が、薩摩池の裏にある林。


逃げようとしたのは島津ばかりではありません。
むしろ午後2時頃、敗退が大勢となって、おそらく計算上は万を超える兵がばらばらに逃げます。
宇喜田、小西の兵が天満山南の方からこちらの小関まで、北国街道を抜けて西方面に抜けるべく、島津陣地の方に逃げてきました。
宇喜多、小西の兵は後ろの天満山が険しく背後に逃げられないため、小関を通って逃げようとしたと考えられます。
小関に居た島津は、断固として味方であろうと自陣に入ることを拒否しました。
そのため、数十人がおぼれ死んだとありますが、地形から考えると、逃げようとしたが、東軍、島津にふさがれ、逃げ口がなくなって池に追い詰められたと考えられます。(「関ヶ原の役(旧参謀本部編纂)」P226参照)

こちらの方は、薩摩池と梨ノ木川の西にある池寺池です。



追伸
2014年3月23日に滋賀県立大学の中井均先生による、松尾山と南宮山の山城を見るツアーを開催し、関ケ原合戦の陣地についてたくさんのお話を聞くことができました。
中井均氏によると、岐阜県教育委員会の調査委託で、伝えられている山城など、岐阜県下の城館跡をかなり調査しました。
岐阜県教育委員会『岐阜県中世城館跡総合調査報告書(2002年)』という報告書です。

その結果、関ケ原合戦前に陣地を構築したのは、松尾山、南宮山(毛利秀元と安国寺恵瓊)、長宗我部盛親がいた栗原山、大谷吉継がいた山中村の八幡神社上の陣地、他に東軍で岡山(勝山)ぐらいでないかということでした。
あると言われていた所を探したが、他には見当たらなかったので、先にあげた以外は、合戦当日に柵を作るぐらいでなかったか、ということです。

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