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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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小関地区の陣跡 薩摩池と史料をめぐって5

島津義弘陣所跡は、2回の移動を経て、現在地に来ました。
昭和59(1984)年2月12日に、町指定の指定文化財になっています。
「関ケ原町史 通史編別巻」P10に、場所は大字関ヶ原字神田、「現在の地は南方へ約200m移動している」とあります。
小林様の話を裏付けています。



大きな地図で見る
Googleマップで2番目の場所です。



現在地は、2番目の場所から道を挟んだ向こう側に移されました。
上のGoogleマップで、島津惟新陣跡とある場所です。


現在の義弘陣所跡は、昭和15(1940)年に移設されました。
小林様はその時、22歳(満歴)でした。

立派な自然石が、鹿児島から国鉄東海道線関ヶ原駅まで来ました。
駅からひっぱられ、陣跡地まで運ばれていくのを小林様は見たそうです。
石の文字を刻んだのは関ケ原の方で、刻んだ方の名前までしっかりと小林様は記憶しておられます。
その石が、「小池 島津義弘陣所跡」と書かれているものです。

石碑の字は、島津忠重(ただしげ)氏が書いています。
この年が日本紀元2600年にあたり、奉祝祝賀会が催されたと町史(下巻P430参照)にあります。
氏は侯爵で、長年貴族院議員を勤められています。
昭和天皇の皇后陛下が、島津家のご出身であったことで、大変な歓迎を受け、運ばれてきたと思われます。

碑は、鹿児島の青年が寄付金を集め、運ばれてきたそうです。
この時植樹された楠が、今は素晴らしい大木になっています。

陣跡を新しく作るにあたり、陣跡地一帯の林は、当時一人の地主が持ち主でしたが、町が陣跡の用地を買い取りました。
碑の裏に、町の協力で出来たことが書かれています。

関ケ原合戦 小関 島津豊久 島津義弘
島津義弘の陣跡の石碑


史蹟指定地になると、開発ができなくなるので、開発か保存か、町民やまた行政にとって大変悩ましいです。
決戦地、開戦地付近は私有地の農地がほとんどで、生活も大事です。
日常生活が行われることで、景観が維持されていく部分も多いです。
1年近く関ケ原プロデュース事業にかかわってきて、町や町民の多くの善意で、史蹟観光がなりたってきたことを知ることができました。

関ケ原という名前は全国的に知られ、観光地でなりたっているように見られがちですが、滞在型観光でないので、観光立地に向けて課題も多いようです。




町の史跡保存については、平成22年度に史跡関ケ原古戦場保存管理計画策定報告書が出され、町の図書館にて、保存・閲覧することができます。
報告書は資料的にも充実しています。
合戦後の400年間、どんなことが古戦場をめぐってあったかを知ることもできます。


例えばP82の年表で、明治39(1906)年に関ケ原村(当時は関原村)合戦300年祭を記念して、古戦場の主な陣跡に石碑が建てられました。
同年には陸軍大学校参謀演習旅行が行われ、皇太子(後の大正天皇陛下)様も来られています。
戦争に向かっていた、特に昭和5(1930)年から昭和15(1940)年の間、様々な動きがありました。

追伸;
義弘陣所跡の移動について触れましたが、関ケ原合戦の関係で他に、小西行長の陣跡の東にある開戦地の石碑は、以前は現在地より南へ300m程の所にありました。
耕地整理のためです。
また松平忠吉・井伊直政陣跡も、場所は移動しています。

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