関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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小関地区の陣跡 薩摩池と史料をめぐって6

義弘陣所の石碑の南側に、名前が記してある石が並んでいます。
この石は、これまで毎年行われている、鹿児島県の伊集院(日置市)から来られる「関ケ原戦跡踏破隊」の参加者のお名前です。
この石は並行して並び、石が指し示す方向は、江戸時代に薩摩藩が行った宝暦治水に由来がある、千本松原の方角です。

この石の近くに、膝ぐらいの高さの目立たない石があります。
ここには下記の通り書かれています。

「此の地より堺の港に至る 
島津勢退路200粁突破せんとす
チェスト行け
昭和35年8月17日」

石碑に、「薩摩国 窪田廣治」他6名と人の名前が書いてあります。
踏破隊を実現するため、力を注がれた方と思われます。
昭和の時代に、「薩摩国」と書いたことに誇りに思う気持ちが伝わってきます。
町史(上巻P417)に、踏破隊が生まれた経緯が書かれています。


関ケ原合戦 小関 島津豊久 島津義弘 陣跡
雨に濡れていたので、彫ってある字が読みやすかったです。


昭和35(1960)年の初夏、伊集院町在住の鹿児島県の教育委員長、有馬俊郎氏が文部省(東京都)に行った帰りに関ケ原古戦場に見学に来て、町史編集委員長を後につとめた不破幹雄氏と合戦の話をしました。
それから10日余りたち、伊集院町の窪田広治(廣治)氏から「有馬俊郎先生の御指導で、(略)薩摩勢の退路を徒歩で突破したいから、その行程を地図で指示して欲しい」という手紙がきました。

不破氏はさっそく240キロのコースを作成し、8月18日には窪田隊長以下、十数名がやってきました。
この踏破隊は、コースや行程は変わりましたが今も続いています。

関ケ原合戦 小関 島津豊久 島津義弘 陣跡



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