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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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小関地区の陣跡 薩摩池と史料をめぐって7

現在の関ケ原合戦の陣跡地の場所は、神谷道一氏著による「関原合戦図志」(明治25(1892)年5月)を参考に、岐阜県の役人たちが参加し、現地事情を様々に考慮しながら決めたそうです。

平成24年9月に発行された「慶長五年の関ケ原 -合戦当時の村の様子-」の調査で、当時の様子がいろいろとわかってきました。
関ケ原は、江戸時代はそれほど田畑は増えていなかったが、明治になると田畑は増えていたこと。
合戦当時、今より人口は少なかったが人も大分住んでいたこと。
合戦のときは、戦いから避難するために近くの山に行っていたこと。
非難はすぐに終わったわけでなく、場合によっては一カ月以上いたこと。
などです。



陣跡地を決める時、多くが私有地であること、かつて陣地があった野原や林に宅地ができたことなど、場所の選定は苦労したと思われます。


「関原合戦図志」から、島津の陣地の考察の部分を引用します。
「御手配留ニ[小池村ニ島津兵庫頭義弘、島津中務小輔右ニ陣ハ(、)辰巳(南東)ニ向テ備フ](。)

山田有栄(「ありしげ」または「ありなが」とも読む)覚書ニ
[義弘ノ陣ハ三成ノ右方一町余(約109m)後ロニアリ(。)
義弘姪豊久之ガ前隊タリ]進退秘訣ニ[山田有栄年二十歳雖(「といえども」の意味)○若年○勇士ノ誉レアリ(。)
故ニ己ガ手勢ヲ一隊ニシ豊久ノ右備ニ相并(「並」の簡体字)ビ(、)共ニ剣先ニ相備フ(。)
富之隅衆福(福の旧字)山衆有栄ニ相従フ(。)
此等ハ公ノ旗本ヲ去ル(離れること)○一町半(約163m)計是ヨリ惟新公御備也
(中略)
御陣ヨリ(、)一町半ヲ隔テ豊久陣也]

トアルニ據(よ)リ(、)陣地ヲ実測スルニ(、)小池ノ内北国街道ヨリ南ヘ入ル○凡ソ三十間(約55m)許小高キ地アリ(。)
字神田ト云フ(。)
林樹業生シ中ニ(、)秋葉神社アリ(。)
此林地一町五段五畝(ほ)六歩(約15,400㎡)アリ(。)
先鋒豊久ノ陣セシ所迄一町三十間(約144.4m)(。)
(有栄が書いた)進退秘訣ニ記スル所ト違ハズ(。)
又天満山北小西ガ陣所迄直徑一町二十四間(約173.3m)(、)岡地十五間(約17.7m)田地及ビ(、)寺谷川迄ヲ加ヘ一町九間(約119.6m)(。)」
※( )は付け加えています。


神谷道一氏が本を書いた当時、参考となる史料も今と比べると格段に少なかったと思われます。
氏の業績はとても大きく、現在もなお、合戦を巡る諸説の元となっています。
本から、氏は島津側など史料に忠実に、実際に現地で距離をはかるなどしながら、場所の特定をしたことがうかがえます。

「御手配留」という文書の内容はよくわからないのですが、この文書には小池村とあります。
「小池村」とありますが、合戦当時は小池は人家がなく、字も、また村もありませんでした。
後に家が立ち、島津義弘陣所跡がある付近一帯の場所を小池というようになりました。

「慶長五年の関ケ原 -合戦当時の村の様子-」では、関原村の慶長5年の様子を慶長2(1598)年の「関原村検地帳」により、分析を進めています。
現在の字、細田の集落の中に「ミやノまへ」という小字の名前があり、「ミやノまへ」の集落に、田畑の他に4軒の家がありました。
慶長2年の検地帳によると、小関と現在言われる地域に、ほかに家はありません。
「ミやノまへ」という当時の字名は、かつて神社(若宮八幡神社)があったために出来た名前と考えられます。宮、つまり神社の前、「宮前(みやまえ)」にある小字、であることを示していることと思われます。

また合戦当時に小池という地名はありません。
合戦後、家が伊瀬街道沿いに何軒か建つようになり、島津が使った池があったとつたわっているので、小池という字名ができたと思われます。
義弘陣所跡の昭和15年にできた石碑に、小池と刻んだのは、池を島津が使ったという伝承を、より強調したいということがあったのかもしれません。

なお義弘自身は、小関の薩摩池付近に居たとしています。
義弘は豊久を率いているので、「御手配留」に小池と書いてあっても間違いではありません。


上記に「林樹業生シ中ニ(、)秋葉神社アリ」とある、秋葉神社のことですが、字名は神田に、秋葉神社があると町史にもあります(「町史 通史編別巻」P48)。
しかし現在、周辺をいくらみても秋葉神社という神社が見あたりません。
あまりに不思議であったので小林様に聞いたところ、現在は神明神社と合祀され、一緒の敷地内に祀られているそうです。



関ケ原合戦 小池 島津義弘 陣跡 秋葉神社
写真で柵の向こう、真ん中やや右に見えるのが秋葉神社。秋葉神社は、関ケ原全村が火事になったあと、幕末に出来ました。関ケ原はかつて、大火がよくあり、その対策が大きな悩みの種でした。

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