関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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小関地区の陣跡 薩摩池と史料をめぐって8

有栄ですが、義弘に従うため、合戦の2日前に、ようやく関ケ原に到着します。
この時有栄は23歳、合戦の時、豊久の右隣にいました。
合戦には他にも、若い戦士がずいぶんと参加しています。



有栄は、豊久を見ながら戦っていましたが、途中で豊久を見失いました。
家来が止めるのも聞かず、元居た所にもどろうとすると、赤崎丹後と出会います。
さらに二人は関ケ原宿口付近で、豊久の馬がいるのを見つけます。
馬には豊久はいなく、鞍(くら)つぼに大量の血が付いていました。
二人は、豊久は討ち取られたに違いないと思って、討ち入りました。


その後有栄は生き延び、義弘の退却に最後まで従いました。
合戦後、その功績で200石の加増を受け、関ケ原合戦での体験を、覚書として残しました。


江戸時代には薩摩藩きっての精鋭を育成するなど、多大な貢献をします。
有栄は合戦50年たっても生き続け、生き証人として退き口のことを語り続けていたようです。
合戦後70年近く、1668年まで生きました。
こうした経歴から、覚書は信用がおけると思われます。
((桐野作人著「関ケ原 島津退き口(学研M文庫)」P149、251他参照))





「関原合戦図志」の発刊後、いろいろな史料や見解が発見、発表がなされています。
たとえば薩摩側に残る「旧記雑録」は、薩摩に残っていた史料を年代別に編纂し、特に合戦関係は「旧記雑録 後篇三」(昭和57(1982)年発刊)が参考になります。
神谷道一は、島津側の史料も参考にしていますが、「旧記雑録」のような体系的な資料は見ていないと思われます。



義弘の陣地場所として参考となるのは、「旧記雑録 後篇三」の「新納忠元勲功記」です。

「……暮時分より大垣御進撥、夜中之大雨降に牧田之間道被為通、寅剋計関ケ原二御到着、街道之北二被備居候石田陣所を御尋付、自其右之方壱町半程も可有之所二、未明より夜明迄御備被為配、中書忠豊冨隅衆杯召列、街道之南二當而御先二被相備、其次 松齢様(義弘)壱町計街道より北に当、藤川越し小関之南巽向二被為備、其次 四五町計傭前中納言秀家・小西行長等小高き岡二相備、四方霧深ニて……」
とあります。

以上は、関ケ原歴史を語る会の曽我治太郎氏提供の補足資料を引用にしました。



上記によれば、義弘陣地は三成の右、1町半(163m)、豊久は北国街道の南側、義弘は北国街道の北側一町(109m)、小関の南南東(巽は南東のことで、その前に南がつくので南南東の意味か)、ということになります。

「新納忠元勲功記」では、義弘は北国街道の北側に陣地を設けたとあり、薩摩池は現在北国街道とされる南側にあるので、薩摩池に義弘が陣地をつくったとする今の見解と整合性がありません。



大きな地図で見る
北国街道の場所を元に、「新納忠元勲功記」の記述とあわせて考えると、義弘が実際に居た場所はここらあたりになります。


大きな地図で見る
「新納忠元勲功記」の記述を元に考えられる義弘の陣地は、空撮ではここらあたりになります。

現在の現地の状況を見ると、立地的に納得できないように思われるかもしれません。
現在の国道の道は山を切りひらいて作ったため、ここに陣地を作ることは地の利にかなっています。
この国道は、かつて「関ケ原~長浜」までの国鉄の汽車が走っていたルートです。1900年に廃線になっています。


他に「島津家譜」(引用は「関ケ原合戦史料集(藤井治左衛門編著)」に、
「惟新は藤川を越(え)、小関の南巽に向ひ(かって)、備え(陣地)を立(て)申(し)候(なされた))」
とあります。
この「島津家譜」の記述は内容的に、上の「新納忠元勲功記」を参照していると思われます。



藤川は、現在は藤古川のことです。
藤古川は多くの歌詞で「関の藤川」と呼ばれ、また土俗では今藤子川、とも呼ばれていたとあります。
(「増補 大日本地名辞書第5巻(明治35年初版、昭和46年増補)」P400参照)
玉藤川とも呼ばれていたようです。



義弘が居たとされるところからもっとも近い藤川の場所は、字で玉の方、現在、藤古川ダムがある近くになります。
島津は、三成隊、小西隊、宇喜隊と同じ道を進軍したはずです。
西軍はわざわざ少し遠回りして、小関に入ったのでしょうか。
どのような理由があったのか、また西軍が進軍したルートを、地図の中にどのように落とし込むか、難しいところです。
まだまだ島津、また合戦について、わからないことが多いです。



関ケ原町内の歴史研究の会、関ケ原歴史を語る会では、様々な関ケ原に関する提案を毎月、第三火曜日に関ケ原町役場中央公民会の会場で行っています。
この会は、歴史を楽しく語り、関ケ原に親しむ広場つくりをめざす文化団体です。
事務局を、関ケ原町中央公民館に置いています。

2014年4月15日(火)の例会では、西軍の進軍ルートの関係の提案で、石原峠についてなされる予定です。
毎回、研究熱心な方が集まる、熱い会ですので参加なされればいかがでしょうか。

関ケ原合戦 小関 小池 島津義弘 陣跡
島津義弘陣所跡近くから薩摩池方向を見る。


関ケ原合戦 小関 小池 島津義弘 陣跡
霧の中、石田三成陣地の近くから決戦地方向を見ます。

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