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関ケ原笹尾山交流館スタッフブログ

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小関地区の陣跡 薩摩池と史料をめぐって9

前回のブログの続きです。
義弘が居たとされる薩摩池から、現在残る道で西方の関ケ原町玉地区に、歩くと700mぐらい離れています。
大垣城から関ケ原に来るのに、藤古川を渡ったというのは、地図を見ると不自然に思われます。わざわざ、遠回りをしているようです。
このことは合戦史の本などであまり知られていないし、初めてこのルートを聞いたとき、地図でこのルートを考え、何かの冗談、誇大妄想でないかと思いましたが、そういう説があるというのでひとまず受け入れて進めていきたいと思います。
どの地点で島津隊、また西軍は藤古川をわたったのでしょうか。またなぜ、この道を通ったのでしょうか。





いくつかの史料で、西軍は三成隊を先頭に、島津、小西、宇喜多の順番で大垣城を出ます。
島津側の史料によると、大雨の中、牧田の抜け道を通り、午前4時ごろに島津隊は関ケ原合戦につきました。
具体的にどのルートを通ったか、可能性として以下、書いてみます。
関ケ原町の公式見解ではもちろんなく、お話の一つとして読んで頂けたら幸いです。

関ケ原町に山中という大字が、近江に抜ける最重要な街道、東山道(中山道)沿いにあります。
西軍の大谷吉継は、山中村の小字、了願寺という所に陣地を作っています。
了願寺とは、地名として寺の名前で残ってますが、現在はありません。
この山中の北嶺、大字で玉村に通じる間に、石原峠というところがあります。

合戦の時、西軍はこの山中に屯留(とんりゅう、「寄り集まって留まった」の意味)し、さらに出でて陣地に就いたといわれています。
(「増補 大日本地名辞書第5巻(明治35年初版、昭和46年増補)」P397の「石原峠」の項目参照)
石原峠を通ったという記述が、「関原合戦図志(神谷道一著)」にもあります。


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地図は吉継の陣跡があった付近。神社の上の方なので吉継の陣地場所を、「宮上」とも言います。


吉継は9月3日より、この山中の地にいました。
吉継は、守りの要衝である中山道を守るため、陣地の構築をしたり、付近の地形など、情報を収集していたと考えられます。

「大日本地名辞書」の記述によると、諸将が合戦の戦いについて事前の打ち合わせをしたあと、各々の陣地に就いたということです。
石原峠にいったん集結して、陣地に行ったとすれば、藤古川を通って義弘は陣地に入る記述と整合性が合います。
なぜこのようなことをしたかと言えば、大谷吉継が事前に入手していた情報を共有するためであったのかもしれません。



さらに島津関係で、島津の退却ルートについてですが、陣取っていた小関から、伊勢街道を目指して退却しました。その伊瀬街道について、関ケ原町に残る字名から、違った可能性について触れます。

伊瀬街道は江戸時代、中山道の関ケ原宿から、大垣市上石津の烏頭坂、二又と、牧田方面に通っていたと言われています。



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この地点は、中山道から伊勢街道へ入る所


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豊久が奮戦したと伝わっている烏頭坂。
大正9年に作られた、豊久を顕彰する碑がある。



関ケ原町には小字名で、伊勢街道という字が、松尾地区(村)の方に残っています。
昭和15年発行の関ケ原町土地宝典にも、字名はあります。
井上神社のすぐ北です。

この地名からも、関ケ原町では江戸時代以前、古くは鎌倉時代(奈良時代とも言われています)にあったとされますが、いつ頃に東方の方に移ったかはわかりませんが、この地に伊勢街道があったと言われています。
江戸時代のルートと比べると、最も離れているところで、1キロほど西方になります。


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伊勢街道の字名が残っている場所

この道は、関ケ原町歴史を語る会の細見昌男様に御案内いただいて教えてもらいました。
細見様には、町の有志の会に所属している方ならではの内容で、壬申の乱の関係の史跡をたくさん教えてもらいました。
大変ありががとうございました。
力不足から、壬申の乱の史跡のご紹介ができなかったことをこのブログを借りてお詫びします。



島津の話に戻ります。

島津が退いた時、一つの可能性として、この昔の伊勢街道ルートを通ったことが考えられます。
このルートは、福島隊が陣取った春日神社のすぐ横を通ります。

島津側の記録「旧記雑録」では、関ケ原宿口付近で豊久の馬を見つけ、また後世の記録「本藩人物誌」では、豊久は13騎で東軍の大軍に討ち入り、戦死したと言われています。

敵は福島正之(正則の養子)で、首級をあげたのは福島の手の、小田原浪人、笠原藤左衛門とあります。
(桐野作人著「関ケ原 島津退き口(学研M文庫)」P156、224参照)
最後は東軍の各隊が加わった大混戦となっているので、豊久が福島方に討ち取られたとしても偶然に思われます。
しかしこのルートは、この史実と照らし合わせても不自然ではありません。


関ケ原合戦 小関 島津豊久 島津義弘 旧伊勢街道
江戸時代以前、伊勢街道があったとされている道。
この道は壬申の乱を契機として作った、不破関(大関)の東限にあたります。
この道の先右側には、不破関鍛冶工房跡が発掘されています。



関ケ原合戦 不破関 鍛冶工房 伊勢街道
工房跡のある所

もう二つ、義弘や三成の陣所について関ケ原の伝承を書いて、今年度の陣跡ブログは終わりにしたいと思います。

伝承の一つは、小関にあった関の場所を教えて頂きました。
小関の方は、関ヶ原合戦にあまり関係ないと思われるかもしれませんが、小関は北国街道を押さえるための関でありました。
現在私達が北国街道を考えるとき、江戸時代のルートで考えているので、ひょっとして、合戦当時は北国街道、また小関の場所が違っていたという可能性があるという伝承が関ケ原にあるので、紹介してみたいと思います。


小関は、壬申の乱の後に造られた関所、東山道(中山道)をおさえる大関とともに、北国街道をおさえるために作られました。

小関については、以前のこのブログの中で「関ケ原町史 通史編別巻」P251から引用した、小関の関の記述を参考にして下さい。


先のブログで小池地区を案内いただいた小林昻様に聞いた話です。
小関に常夜燈があり、この常夜燈の南に関があったのでないかということでした。
正確な方向で言うと、常夜燈の南南西です。

関ケ原合戦 小関 小池 島津義弘 陣跡 北国街道
旧北国街道沿いにある現在の小関の常夜燈。

関ケ原合戦 小関 小池 島津義弘 陣跡
常夜燈付近の伊勢街道


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常夜燈のある場所


なお関ケ原町では他にもうひとつ、関のあった場所として伝わっている所があります。
伊勢街道沿いに常夜燈の南、およそ100メートルの場所です。


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この場所が、関があるとされている、もう一つの場所です。


関ケ原合戦 小関 小池 島津義弘 陣跡 北国街道
小関の関所があったと伝えられている場所付近の写真。

関がどこにあったのかを推定することは、壬申の乱、また関ヶ原合戦の陣地を考えるのに、とても重要なポイントになると思われます。





二つ目の伝承は、北国街道の小関を抜けるルートについてです。
江戸時代の北国街道のルートは、常夜燈がある前の道です。
北国街道沿いに常夜燈のさらに西北西、100メートルの所には、馬をつないだ場所と言われる、馬頭観音が残っています。


関ケ原合戦 小関 陣跡 北国街道
小関の馬頭観音

関ケ原合戦 小関 陣跡 北国街道
現在の馬頭観音付近。
道は江戸時代の北国街道。
左に少し馬頭観音が見える。



江戸時代のさらに昔、小関の地区で北国街道があったと伝わっているのは、さらに南へ100メートル以上の細い道です。
薩摩池のすぐ北側を通る道です。
江戸時代は馬頭観音の前の道に違いないのですが、ひょっとすると合戦当時、薩摩池の北側の道が北国街道であったのかもしれないということです。

この伝承は、関ケ原歴史を語る会の坂東紀喜様に聞きました。
以前のブログで薩摩池のことについて聞いた、池付近に住んでいる方にこの伝承について聞きました。
そんな話は聞いたことはないと言われました。
江戸時代から北国街道は、馬頭観音の前の道と言われています。

ところが薩摩池のすぐ北側の道を、合戦当時に北国街道だとすると、島津側の史料「旧記雑録 新納忠元勲功記」の義弘の陣所についての記述で、義弘と豊久が北国街道を挟んで陣取ったと書いているので、この説で陣形を考えると説明がつく部分があります。
「旧記雑録 新納忠元勲功記」には、「中書忠豊冨隅衆杯召列、街道之南二當而御先二被相備、其次 松齢様(義弘)壱町計街道より北に当」とあり、「豊久は北国街道の南側、義弘は北国街道の北側一町(109m)」と書いてあるのです。

神谷道一氏が考察した陣所が現在の場所の元となっていますが、薩摩側に残る「旧記雑録」の記録などから、陣所の場所をもう一度確認してみることも必要かもしれません。

何度か島津池付近に通って風景を見ているうちに、薩摩池の西側の林に豊久、豊久から北西100メートル付近に義弘がいたのでないか。そんな姿が頭の中に浮かんできました。


他にも関ケ原歴史を語る会の方などに聞くことが出来た伝承などあるのですが、ここでブログは終わりにしたいと思います。
ブログを書く機会を与えていただいて、誠にありがとうございました。
お話をこれまで聞いてきて感じたことは、さらに詳細な史料踏査、聞き取り調査など行い、小関の関があったとされる場所付近を発掘調査するなら、大関と小関の地理的関係、壬申の乱の928年後の関ケ原合戦の布陣について、様々なことがわかってくる可能性があるのではないしょうか。

関ケ原合戦 小関 陣跡 北国街道 薩摩池
雪が降った後の薩摩池に隣接する道

関ケ原合戦 小関 陣跡 北国街道 
吹雪いている薩摩池付近。

関ケ原合戦 小関 陣跡 北国街道 薩摩池
上の写真とほぼ同じ場所。

関ケ原合戦 小関 陣跡 北国街道 薩摩池
小関から三成らが陣取った方を見る。


関ケ原合戦 小関 島津豊久 島津義弘 今寺池
薩摩池の西方にある、今は平和な池寺池。
宇喜多隊、小西隊が敗退する時、島津の陣所に紛れ込もうとしました。
島津は他の隊が陣に入ってくることを拒んだので、兵が逃れようとして多数池でおぼれ死にました。
この池は、薩摩池の西方にある池寺池です。

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